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「Supersonic Generation」布袋寅泰

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https://youtu.be/VWGKWAxmHzU



 戦国時代に生きた美濃の武将、斎藤義龍と斎藤道三の不仲の理由は諸説あるが、最新の資料から判明した事実では、義龍は「布袋寅泰派」、道三は「氷室京介派」だったという事である。その説に則りこれを記す。

 斎藤道三といえば司馬遼太郎「国盗り物語」で書かれたように、一介の浪人から油商人、取り入った武家での下剋上の繰り返しからついには一国の大名まで成り上がった人物として有名である。しかし近年の研究では道三一代での成り上がりではなく、道三の父、松波庄五郎の代からの出世物語が、一つの人物に統合されたというのが定説となりつつある。かように真実はいともたやすく書き換えられる。
 ちなみに日本人の平均身長が157cmだったこの時代に、義龍は195cmの長身だったという。布袋寅泰が187cmの長身なので、それもまた義龍が布袋寅泰派だった一因でもあるだろう。


 義龍は怒りにその巨体を震わせていた。怒りの矛先は父・道三である。稀代の大うつけと呼ばれる、隣国織田家の信長という男について、「我が家臣はやがてあの男の家来となるだろう」とぬかしたというのだ。父・織田信秀の葬儀の際に、位牌に向けてドラムスティックの束を投げつけるという、正にバチあたりな所業を犯した男に対してである。
 庶子とはいえ長男である義龍を道三は蔑ろにし続けてきた。正室の子である孫四郎と喜平次ばかりを寵愛し、家督を孫四郎に譲ろうとしている。義龍の文武の鍛錬も、民を治める為の政治的活動も何もかも見えない事にして、他の者ばかりを見ているのである。
 妹、帰蝶が信長に輿入れした際に、義龍は信長と僅かながら話す機会があった。
「貴殿は音楽は何を好まれる?」
 義龍は暗に「布袋か氷室か」と問うたのである。斎藤家では義龍・道三の仲違いの原因は周知の事実であるからだ。しかし信長は涼しい顔で「最近は洋楽ばかり聴いておる」と答えた。
「メタリカとシステムオブアダウンを交互に聴くと、読書が捗るのだ」と。
 帰蝶は子を成せず、美濃へと戻った。憎んでも仕方ない相手のはずなのに、帰蝶の口からは、信長やその取り巻き連中の可笑しなエピソードが溢れ出るのだ。
 義龍は愛を憎んだ。肉親の愛情、恋慕の情を許せなかった。滅ぼそうと思った。愛を。父を。全てを。


中途半端な自由はいらない
すべてが欲しい


 各地に突出した強者が現れた。大名となった彼らはそれぞれの方法で天下取りへと動いた。この時代を後の世の人々はこう呼んだ。

 群雄割拠の戦国時代(スーパーソニック・ジェネレーション)。

 1555年、自身の廃嫡の気配を色濃く感じていた義龍は、「出家して政界から退こうと思う。ついては配下の者共の振り分けの相談を行いたい。癖の多い者共ゆえ、各々の意見を交えたい」と虚言を弄して弟の孫四郎、喜平次を呼び出し、配下の日根野弘就の手で斬り殺させた。
 憎いとはいえ共に長年過ごした兄弟である。首と胴の離れた弟達の姿を見て、義龍は憐憫の情を感じはしたが、想いはすぐに次の標的へと移った。美丈夫である父の面影を濃く残した孫四郎の物言わぬ首を、何もかも知らなかった幼い頃のように撫でてやりながら、父・道三を同じ姿形にする事を誓った。自らを奮い立たせる為に、布袋寅泰の曲の様々なフレーズが脳裏をよぎった。
「愛とは、毒なのだ。さよならアンディ、さよなら父上。さらば我が青春の光」
 この手で父を打ち倒す。道三が手に入れたこの国を我が手にする。そのめくるめくスリルに義龍は思わずバンビーナした。

(了)
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