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第九話 安らげるもの

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九話 安らげるもの

 鵺と会ったその翌日、案の定熱が出た。
気にしないフリをして昼間は外に出たが、やはり限界が来てすぐに部屋に篭った。
父に心配をかけさせないよう、メイド達には遊び疲れて眠っていると伝えるように言ってしまったため、今日中には快復させなければならない羽目となったのだった。
 夢の中で母に会った。否、会ったと言うよりは、それは過去の記憶の再生に近いものだった。
完全な記憶の再生と呼べなかったのは、話の途中で母が煙の如く消え去ってしまったためである。
その時抱いた感情が何だったか、今はもう忘れてしまった。
 目を覚ますと、女中長が立っていた。寝る前に言付けていたメイドがこちらの体調に気付いたらしく、看病をしてくれていたようだった。
用意してくれていたアプフェルコンポートを頬張り、此処が現実なのだと悟った。
 やはり獏は、目の前には現れない。先程の夢が悪夢と呼べるか分からないし、母が亡くなってから今日まで悪夢を見た事が無い。
しかしこれから先何らかの悪夢を見たとしても、もう獏とは会えないとそんな予感がしてしまっていた。

「外出は結構ですが、あまり人気の無い所へは立ち入らないようにして下さいましね。ここの所、何かと物騒でございますから」

 唐突に女中長がそう言ったため、昨日の事を思い出した。
人食いの化け物の話が出回っているのかと思い詳細を聞いてみたが、返って来たのは人攫いという意外な事件の話だった。
しかし、聞けば聞く程それはこちらが遭遇した事件で間違いなかった。血痕は残っているが死体が上がっていないため、行方不明の二人は人攫いに遭ったとして捜査されているらしい。
つまりは、あの鵺の姿を見たのはアルベルトだけのようだった。
密かに安心してしまったのは、他の者達にあのメイドの正体を見られなかったためか、それとも無関係の人間を巻き込まずに済んだためか、自分でもよく分からなかった。
 ふと視界の端に目をやると、此処にある筈の無いものが置かれていた。父の部屋に置いていた筈の、バロンブルーメである。
あまりに不思議そうな顔をしていた為か、女中長がそれに気付いて苦笑した。

「あぁ、旦那様が殿下のお部屋へ置くよう仰ったのです。その花を置いてから、不思議とよく眠れるようになったのだとか」

その説明を聞いて、納得がいった。
やはりこのバロンブルーメには、何かしら人の心を落ち着ける力があるらしい。
そして父は己の状態を知っておきながら、未だにこの見舞品の送り主を気にかけてそんなことを女中長に命じたのだ。
人が良い所は相変わらずだが、この花に効力があると知った以上は父の傍に置いてもらいたい。
そんな理由で、熱が下がったらまたあの子の所へ行こうと心に決めたのだった――。

「ねぇ、出て来なくて良いから聞いて欲しい」

 ――快復したその日に、早速ミゲルの居る屋敷へと向かった。
人気が無い通りの外柵で自分の影に向かって話しかけると、存外すんなりと影法師がそこから顔を出した。
あの子と話をした後で頼みたい事があると言うと、何も言わず水に潜るように影の中へと引っ込んでいった。
 それからいつも通りの場所から忍び込もうとしたその時、蹄と車輪の音がして咄嗟に木陰に身を隠した。
屋敷の門から、馬車が出てきたのだ。皇族のみが使うものだったため、ミゲルが何処かへ出掛けたのかと思ったが、窓から見えたのは一人の女性だった。
彼女には見覚えがあったような気がしたが、ミゲルを除く皇族とは関わらないようにしているし、会ったとしても年に一度皇帝たる祖父から召集がかかった時ぐらいだったと思うので、気にしない事にした。
 先日と同様に蔦を登ってベランダへ着くと、あの子が沈んだ表情で座っているのが見えたが、窓を小さく叩いてこちらに視線を向けさせると、それが打って変わって嘘の様に明るくなった。
窓を開けてもらった後で先程の女性について聞くと、ミゲルはまた表情を曇らせて俯いた。

「カデンツァ従姉様だよ。いつもはお断りの連絡を入れているのだけれど、今日は此処へ来るから予定を空けろと一方的に言われたんだ」
「そうまでして、ミゲルに話したい事が?」
「……婚約のお話だよ」

思わず聞き返したが、この子の立ち場を考えれば至極当然の話だった。
 皇位継承権の序列第3位でありながら現皇帝から可愛いがられているミゲルは、序列第1位と第2位を飛び抜いて皇位を継ぐ事となるだろうと考える者は多い。
それ故に勝ち馬に乗ろうと、まだ恋愛という感情すらあやふやな幼子に寄って来る皇族の女性も少なくは無いのだろう。
加えてこの子の気弱さもあり、あわよくばそれを利用して政権を執り仕切る事も可能と踏んでいるようだ。やれ女とは恐ろしい。
そんな考えが見え透いてしまっている為に、ミゲルはこうして表情に影を落としてしまっているのだ。
 どうにか話を逸らそうと、部屋の辺りを見回した。するとこの子の部屋にもあるだろうと思っていたものが見当たらないので、思わずそれを口に出してしまった。
ミゲルは丸い目を瞬かせて、首を傾げた。影法師から貰ったものだと言うと、酷くショックを受けたような顔で羨望を口に出した。どうやらこの子は貰った事が無いらしい。
不思議だった。明らかにミゲルの方が交流がある筈である。加えて天使と見紛う程の、優しく純粋な子だ。好感が無いとも思えない。
それなのにこの子を差し置いて、ほぼ初対面の人間に見た事も無い花を差し出すのは何か意味があるのだろうか。
 ミゲルは更に落ち込んでしまったように見えたが、突然葬儀の時と同様に笑い出した。
何かを押し退けようとしている動作からして、また"彼等"がミゲルをくすぐっているようだ。
どうもこの子は、"彼等"にえらく懐かれているようである。彼が暗い顔や泣き顔を見せる度に、無理矢理にでも笑わせているようだった。嬉しい反面、傍迷惑な事だろう。
しかしそんな彼が何故花の一つも貰っていないのか、やはり気になって仕方が無かった。
 此処で悩んでいても仕方が無いので、ミゲルの屋敷を出た後でまた外柵で影法師に声をかけた。
そしてまた影から顔を出したので、この前貰った花をもう一輪貰いたいと言うと、影法師は何も言わないまま影の中へ引っ込んでしまった。
欲張りな発言に怒ったのかはたまた呆れたのか、そんな事を考えている内に影法師は戻ってきて、またもすんなりバロンブルーメを差し出した。
受け取る前に何故ミゲルにやらないのかと訊いてみたが、影法師は表情一つ変えないまま沈黙だけが返って来た。
諦めて手に取ると、影法師はまた水面へ沈むかのように自分の影の中へと消えていった。

「父上、花をもう一輪貰って来ました」

 帰宅後、バロンブルーメをまた花瓶に生けて父の部屋に持って行った。
父は驚いた様な顔をしていたが、すぐにいつもの哀しい表情に戻った。そしてこちらの頭を優しく撫でた。

「ありがとう、優しい子だ。だがそれはカール、お前が持っておきなさい」

そして返って来たのは、予想のついていた言葉だった。気分良く眠りに就いている資格など、自分には無いと思っているのだろうか。
それでも、父には一時でも心を休めて欲しかった。引き下がれずじっと父を見つめていると、父は涙を流して抱き寄せた。

「私は、その花がいつか枯れてしまうのが……とても恐ろしいのだ。お前が持っていておくれ。きっと安らぎを与えてくれるだろうから……」

嗚咽混じりに諭され、自室へと持ち帰らざるを得なかった。
その途中で、メイドが二人分の茶を片付けているのが目に入った。
 今日も来たのだ。奴が、あの男が。
自分ではない赤の他人である、奴の甘言に縋る父の姿を思い浮かべてしまい、バロンブルーメに視線を移した。
荒んでいく心を、どうか和らげてくれるように。
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