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第二話『Who is Fujii?』

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 藤井聡太VSメイウェザー。


 将棋、ボクシングの両史を見渡しても前例のない(あってたまるか)このビッグカードの成立は、2020年7月9日、Twitterの国内トレンドに両者の名前が並んだという些細な偶然に端を発する。
 
『メイウェザー、次は藤井七段と戦うってマジ?』
『藤井くんもついにメイウェザーと戦うところまできたか……』
『メイウェザーがいろいろ条件つけて、藤井サイドは歩しか使わせてもらえなさそう』

 突拍子もない二人の名前の組み合わせを発見したTwitter民の反応はそのようなものであった。つかまつるところ、純度120パーセントのネタである。
 このような内輪ネタは、Twitter界隈では日常茶飯事。誰もが一週間もすれば忘れる、小さな小さな笑いの種の一つにすぎない――はずだった。
 3日後の7月12日、ある一つのツイートによって事態は思わぬ方向へと転がり出す。

『Who is Fujii ?』

 そのツイートは、他でもないメイウェザー本人の公式アカウントによって投稿されたものだった。
 もちろん、この時点でメイウェザーがそのFujiiなる人物と戦うなどとは一言も言っていない。単なる疑問、単なる興味。それが対戦相手としてなのか、何か別の種類の関心なのかも不明だ。
 だが、そんなことは重要ではない。
 重要なのは、史上最強のボクサーであると同時に、その問題行動やトラッシュトークで世間の耳目を集め、今や787万人のフォロワー数を誇るモンスタークラスのインフルエンサー、フロイド・メイウェザー・ジュニアの公式アカウントがその名前を出した、という事実なのだ。
 強者の言葉は地を動かす。
 謎の人物Fujiiの名前は世界を駆け巡った。そして、当然のように日本におけるTwitterのトレンド上にはメイウェザーとFujii――藤井聡太の名前が再浮上する。
 ただし、今回は別々ではなく『藤井聡太VSメイウェザー』という強烈なワンフレーズ、空前絶後のパワーワードという形でだった。
 ほどなくして、ネット上の有志の調査によって『将棋でメイウェザーとやれば藤井七段の圧勝』という、ある一般人のツイートが拡散され、それを面白がった別の人物によって英訳、英語圏で拡散を繰り返されるうちに伝言ゲーム的に誤解が発生し、『将棋で』という部分が消えた状態でメイウェザー本人の目にとまった、というのが事の真相であると解明された。
 しかしながら、この高度に発達した情報過多社会において、もはや真実が何かということはたいした意味を持っていない。一度着火された『期待感』という名の炎は、たとえそれがフェイクだったとしても消えることはないのだ。この珍事件により『藤井聡太VSメイウェザー』というカードを現実的に切望するファン層が一定数生まれたということは紛れもない事実だ。

 そして、『どのリングで両者の対戦が実現するか?』という疑問に対して、2018年『那須川天心VSメイウェザー』を実現させた『RIZIN』の名が挙がるのは当然の流れだった。


 一連の情報は、『RIZIN』を統括する榊原信行の耳にも入っていた。
 当然ながら、この時点で『藤井聡太VSメイウェザー』実現の可能性は、榊原の中では万に一つもない(あってたまるか)。
 先の那須川との対戦で『RIZIN』がメイウェザーに支払ったファイトマネーは1000万ドル(およそ11億)を越えていたが、今や国民的スターとなった現役棋士を格闘技のリングに上げるという難易度は、おそらく単純な金額には換算できないだろう。
 そもそも榊原には別のプランがあった。
 2020年大晦日の『RIZIN』大会における『フロイド・メイウェザーVS朝倉未来』のエキシビションマッチだ。
 朝倉未来は『RIZIN』のトップファイターの一人であり、古巣の『THE OUTSIDER』では二階級を制覇するなど実力は折り紙付きの選手である。戦績はプロ15試合13勝1敗1ノーコンテスト。那須川天心のプロ40試合全勝(メイウェザー戦はエキシビションのため両者ともに戦績には反映されない)という戦績に比べれば数値上では見劣りするが、榊原が買っているのは朝倉の持つスター性だった。
 路上の伝説。
 その異名を持つ朝倉は、十代のころ暴走族に所属し傷害事件で少年院に入所、その後に格闘家を志すという不良上がりのファイターだ。ストリートファイト出身者ゆえのハングリー精神、ハートの強さ。朝倉の強みは、そのタフなメンタリティによって支えられたクレバーなファイトスタイルにある。
 那須川の敗因の一つはメンタル面だ、と榊原は考えていた。
 キックボクサーにとっては不慣れなボクシングルール、およそ4.6キロの体重差ということを差し引いても、あの日の那須川が冷静に己の実力を発揮できたとは言い難い。本人も『当初はじっくり試合を組み立てるつもりが、ペース配分無視でがむしゃらに攻めてしまった』と後に反省している。
 無理もないだろう。
 国内無敗を誇っていた弱冠二十歳の若き那須川にとって、メイウェザーはすでに現役を退いていたとはいえ名実ともに世界の頂点に君臨する、プロ初めての完全なる格上の敵だ。天才児ゆえの脆さがもろに出た形だった。
 だからこそ、気持ちの強さと冷静さを持ち合わせた朝倉には期待感があった。
 彼なら、対メイウェザーという大一番でも普段の実力を発揮できるのではないか。那須川とは違い階級的にも釣り合う選手だ。
 一矢報い、ともすれば一発逆転――。
 メイウェザーとも対戦したUFC二階級制覇の世界的スター、コナー・マクレガーの連勝街道に泥をつけたのも、『悪童』のイメージとメンタルの強さで知られるネイト・ディアスというファイターだった。また、兄弟で総合格闘技をやっているという点でも、ディアスと朝倉には共通点がある。それを切り口にファンに期待感を持たせるという演出は、発想の根本がプロレスに近い位置にいる榊原にとっては朝飯前だった。
 ただし、一つ問題がある。
 金だ。
 金、金、金。
「――クソっ」
 髪を掻きながら、榊原は呟く。
 新型コロナウイルスによる自粛要請を受け、三大会を中止。損失7億の補填の目途も立たぬまま、クラウドファンディングで8月の大会の資金調達を試みているが、7月15日時点、支援金額は目標の三分の一にも達していなかった。ここ2、3日の支援額の伸び悩みを見れば、大口の寄付をしてくれるコアなファン層はすでに出つくしていると見て間違いない。
 これではメイウェザーを呼ぶどろこか、年末に大会を開くことすら――。
 そこまで考えたところで、榊原は自分の顔を強く叩いた。
 衝撃で眼鏡がブッ飛ぶ。気とめることなく、榊原は己に問いかけた。
 お前は誰だ。
 株式会社ドリームファクトリーワールドワイド代表取締役社長、榊原信行。
 すでに多くの関係者、ファイター、そして有志のファンの皆さんが『RIZIN』存続のために動いてくれている。そんな中、音頭を取るお前が弱気でどうするのだ。
 榊原は深呼吸をし、Yahoo!ニュースの『まさかの激突!?藤井七段VSメイウェザーがTwitterのトレンド上位に』という記事に目を通した。
 もちろん、こんなものはただのジョークに過ぎない。
 だが、例えばこのニュースを利用して『RIZIN』の解説席に藤井聡太を呼ぶことができれば、それをきっかけに格闘技に興味を持つ新規のファンを増やすことができるかもしれない。何と言っても、日本中が注目する若手棋士なのだ。話題作りには十分なる。
 姑息だということは分かっていた。
 だが、すでになりふり構っていられるような状況ではない。
 男榊原、『RIZIN』存続のためなら何でもやる。喜んで泥水もすすろう。
 しかし、その覚悟を決めた直後、日本格闘技界にさらなる逆風が襲い掛った。
 突如鳴り響くスマートフォンの着信音。通話ボタンを押した榊原は愕然とした。


「……何だって!? 朝倉未来選手が交通事故に!?」

 
 幸いなことに、朝倉の命に別状はなかった。
 聞けば、ブレーキとアクセルの踏み間違いによって制御を失った後期高齢者の駆るプリウスが園児の列に突っ込もうとしたところを、たまたまYouTubeの撮影していた朝倉が通りかかり、身を呈して子供たちを守ったということだった。
 その勇気ある行動によって、死者はゼロ。
 引き換えに朝倉は右の大腿骨を骨折していた。
「子供を助けるためとは言え、走行中の車のフロントガラスにドロップキックをして進行方向を変えるなんて、さすが路上の伝説は違うな、はっはっはっ」
 つとめて明るく振る舞ったのは榊原だった。
「……榊原さん、俺は」
 何か言いかけた朝倉を榊原は手で制した。
 朝倉の右足には包帯とギブスが取り付けられている。年内復帰が絶望的だということはすでに医師から聞いていた。
 朝倉なら脚を引きずってでもやると言いかねないが、それこそ論外。たとえ『RIZIN』が消滅したとしても、朝倉の強さと知名度があれば他団体でやっていくことは可能だ。だが、もし不完全な状態で彼をリングに上げ、怪我が悪化し後遺症が残れば選手生命を断つことになる。団体のためにファイターの未来を犠牲にするということはあってはならない。
「朝倉くん……『RIZIN』はあなたの復帰を待っています――必ず、待っています」
「……!」 
 やつれた顔で榊原は言った。
 果たせぬことになる約束かもしれない。だが、今の自分には後ろを振り返る時間はないのだ。
 榊原が黙って病室を出ていく瞬間、己の無力さに打ちのめされたひとりのファイターの嗚咽が背後から聞こえた。
 2018年のメイウェザー戦、敗北直後の那須川が人目もはばからずリング上で涙を浮かべていたことを榊原は思い出す。人生初めての決定的な、手も足も出ない敗北を味わった悔しさ、己の無力に打ちのめされた者の涙だった。
 しかし、復帰戦の翌年3月のキックボクシング『RIZE』の大会にて那須川はムエタイのWKA58kg級王者フェデリコ・ローマに見事なKO勝利を収めた。それ以後も、連勝記録は伸び続けている。
 挫折はときにファイターを強くする。
 那須川とは形が違うが、きっと朝倉もこの逆境を糧により強くなって帰ってくる。むしろ彼こそそういうタイプのファイターだ。榊原には確信があった。
 だからこそ、選手が帰る場所、『RIZIN』という舞台を守る責任がより重く胃袋にしかかってくるのを、自覚しないわけにはいかなかった。



(さて、本格的にどうしたものか……)
 病院の屋外、軒下に設けられた喫煙スペースでひとりタバコを吸いながら、榊原は 戦略の立て直しに頭を悩ませていた。
 朝倉未来が不可能となると、考えられる有効なスジは那須川天心のリベンジマッチか、未来の弟である朝倉海による代打だ。
 しかし、那須川は十分な実力を発揮できたとしても体重差を覆すのはやはり難しい。朝倉海にしても、メイウェザー・未来によりも一回り軽い階級を主戦場にしている上、天性の当てカンで一発を狙う兄に対し、アグレッシブに攻め手数で試合のペースを握るスタイルだ。圧倒的なディフェンステクを持つメイウェザーとは相性が悪いだろう。
 というか、そもそもメイウェザーを呼ぶ金がないのだ。
(何か……何かまったく別の策はないか)
 コロナ禍の影響により、社会ではそれまで潜在的に存在していた多くの問題が表面化したという。たとえば昔から続く比効率的な業務形態の変更を必要に迫られただとか、実際にはほとんど出社しているだけで給料を貰っていた無能社員の存在が成果主義のリモートワークで可視化された、というのがその例である。
 同様に、『RIZIN』においても二つの問題が明るみになった。
 資金力の弱さと、選手層の薄さである。
 前身となった『PRIDE』の消滅が2007年。以後、総合格闘技の本場はアメリカUFC(Ultimate Fighting Championship:世界最大級の総合格闘技団体)に移り、2015年の『RIZIN』を立ち上げたころには日本人の格闘技熱はすっかり冷めてしまっていた。大晦日には格闘技の地上波放送が行われるが、それはテレビ局側の数字を取れる番組が他に用意できないという苦境あってのことというのが、正直なところだろう。
 誰もが金を払ってでも格闘技を観たがる。
 日本はすでにそういう市場ではなくなったのだ。集められる人も、金も限られている。そして金がなければ、UFCという巨大資本には勝てない。強いファイターがより儲かる団体で戦いたいと思うのは当然だ。
 今の『RIZIN』には、いや、今の日本の格闘技界には、スター選手『しか』いないのだ。スターを輝かせる強力なライバルが存在しないのだ。
 榊原が巨費を投じてメイウェザーを呼んだ背景には、彼こそが新時代の『グレイシー』になりえるのでは、という一か八かの期待があった。
 だが、あの男は駄目だ。あまりに金がかかりすぎる。
 結局のところ、一番現実的な線は規模を縮小し、コアなファンに向け日本人選手同士の試合を提供するというものだ。だが、榊原にとってその選択は、かつてグレイシー一族、そして『60億分の1の男』と呼ばれた氷帝エメリアーエンコ・ヒョードルを擁し、世界の格闘シーンを牽引した日本格闘技界の事実上の敗北を意味していた。
 いや、敗北はすでにしている。
 かつての高田延彦と同じように、那須川天心と同じように。
 だが、それを認めるということは、立ち上がるという意思を捨て、逆境に屈するのと同義だ。
 榊原は大きな溜息をついた。
(俺も、『RIZIN』も、ここが引き際なのか――?)
 自分が再び弱気になっていることに気づく。
 日に何度目だ。年甲斐もなく、自分が嫌になる。
 だが、このタイミングでの朝倉未来というスター選手の長期離脱は、飛車落ちでタイトル戦に挑むようなものだ。事態はまた一手、一手と詰みの状況に追い込まれている。
 スマホに新たな着信があったのは、そのときだった。画面を見ると、秘書からの連絡だった。
「もしもし、私だ。朝倉くんの様子は――何?」
 電話越しの相手から発せられた馴染みのない単語に、榊原は思わず耳を疑った。
 いや、馴染みがないだけで、最近その単語を耳にする機会は多い。
「……日本将棋連盟が一体うちになんの用がある?」
 自分で『将棋』という言葉を口にした瞬間、榊原はたとえるならば都市伝説の『不幸の手紙』が自分の元に届いたかのような、奇妙な悪寒を背筋に感じ取っていた。
 そうだ。
『飛車落ちでタイトル戦に挑む』
『一手、一手と詰みの状況に追い込まれている』
 俺自身が、自分でもそうとは気づかぬ無意識で、サブリミナル的に将棋感バリバリな比喩表現を自然と使ってしまっている。
 何かがおかしい。
 何かが決定的に、おかしい。
 一秒後、その『決定的におかしい何か』の正体は秘書の言葉で判明した。




「藤井聡太七段本人が、フロイドメイウェザー戦に興味があると――」
  
 
 




 同月26日。 
 長いと思っていた梅雨もようやく明け、関東圏ではうだるような猛暑日が連日続いていた。
 その日は、昨日にAbemaTVの将棋チャンネルでので配信されるトーナメント戦『AbemaTVトーナメント』の収録を終えた藤井聡太にって、29日の順位戦までのしばしの小休止だった。
 7月中旬からは二、三日の短い休みを挟んでの対局が連続していた。東大合格よりも難関とされるプロ棋士の世界は過酷である。一局一局が、今後の棋士としての進退を左右しうる負けられぬ勝負、それが年中絶え間なく続くのだ。特に、藤井のような周囲から『勝って当然』と思われる注目選手が受けるプレッシャーは筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。どんな強者であろうとも気力、体力の消耗は必至。
 棋士の戦いは短い休憩期間にいかに休み、コンディションを整えるかという勝負でもあるのだ。
 にもかかわらず、その日の藤井はある用事のために貴重な休暇を割いていた。
 よく冷房の効いた車内で、藤井はリラックスした様子で窓の外を流れる風景を眺める。
 彼の乗る車はある目的地に向かっていた。先方にはすでに連絡を入れてある。会うのが楽しみだった。
 隣の座席では、握りしめたスマホを凝視してる榊原信行の姿。
 その手が震えているのは、冷え性のためではない。
 5千万を目標に設定された『RIZIN』クラウドファンディングの金額メーターが99999999を振り切ったのは、先週7月18日、緊急記者会見にて『藤井聡太VSフロイド・メイウェザー』の可能性を公式にアナウンスした直後のことだった。
 もちろん、メイウェザーへのファイトマネーを準備する目途は立っていなかったため、『もし実現するならメイウェザー、そうでなくとも年末の『RIZIN』で藤井聡太が選手としてリングに上がる』という断りを入れた上での発表だった。
 しかし日本国民の『期待感』というニトログリセリンに火を点けるにはそれで十分。
 サイトメンテナンス後に復旧したクラウドファンディングの金額は、今やゆうに5億を超えていた。このペースで行けば、8月中に7億の損失を補填し、お釣りが来る――いや、年末までにメイウェザーのファイトマネーを調達することすら現実的だ。『藤井フィーバー』という単語が流行語大賞にノミネートされたのは2017年のことだったが、その旋風が3年遅れで日本格闘技界に吹き荒れた形だ。
 俺は夢を見てるのか。
 榊原は、己を疑わざるを得なかった。
「今日はわざわざありがとうございます。社長さんに自ら同行していただけるなんて」
 対局後の取材を受けるときの、年齢に似つかわしくない『例のあの物腰』で藤井は榊原に感謝を述べる。混乱の極致に達した榊原は、それが『生物的絶対強者』が己の爪を隠すために用いる高度な擬態であることをすでに確信しきっていた。
(……この狭い車内、油断をすれば俺の命も危ういかもしれない)
 実際には、連日の過労とストレスにより胃潰瘍で救急搬送されるまで残り一週間のカウントダウンを切った、という意味において榊原は生命の危機に陥っているのだが、それはまた別の話である。
「……いえ、すでに藤井さんの試合には『RIZIN』の、いや、日本格闘技界の命運が懸っていますから」 
 やっとの思いで榊原がそう答えたとき、ちょうど車は目的地に到着した。   
 現地はすでに先回りした各誌各局の記者、フリーライターの集団でごったがえしていた。将棋と格闘技、ジャンル違いの二種のマスコミ関係者が一同に会するという前代未聞の珍事態。コロナ第二派への懸念からソーシャルディスタンスの必要性が叫ばれる昨今において、その極度の三密状態はあまりに不謹慎。
 しかし、すでに精神を狂気の世界に半歩踏み入れた榊原は、この場においてクラスターが発生する可能性は絶無であると断じていた。
 
 なぜならこの場には、天の加護を受けし二人の『神の子』が存在するのだから。

 天才、藤井聡太は考えていた。
 格闘技と将棋、肉体と知能という双極。しかし、戦いという点で両者は同じだ。
 孫子曰く、彼を知り己を知れば百戦殆うからず。
 この場合の彼とはフロイド・メイウェザーのことである。藤井はメイウェザーの公式50戦全試合の映像をすでに観戦し『学習』を終えていた。
 だが、百聞に一見は如かずとも言う。
 実戦に臨むには、まだ足りない。映像ではなく、もっとリアルに近い『生きた情報』が必要だった。
(案外、面倒だなぁ……) 
 棋譜さえ読めば、相手の戦術、思考、性格、生い立ちからへそくりの隠し場所に至るまでを把握できる藤井にとって、やはり格闘技は初めて接する未開の分野だった。ゆえに結論は単純明快だ。
 蛇の道は蛇。
 日本国内で、もっともメイウェザーのことを知っているプロ格闘家に彼のことを訊けばいい。
 そして、それは日本人で唯一、メイウェザーとリング上で拳を交わした『彼』を置いて他にはいない。

 神童・那須川天心。

 将棋と格闘技、二人の若き天才の邂逅。
 しかし、それは穏やかなものではない。否、穏やかで済むはずがない。

「榊原さん――俺、認めてませんから」

 東京都豊島区巣鴨、ガーベラ巣鴨。
 その入口で那須川天心、そしてそのトレーナーを務める父・那須川弘幸の二人が、藤井たちを出迎えた。那須川の所属するキックボクシングジム『TARGET』本部はこのビルの五階にある。
「本日は、僕なんかのような若輩のために貴重な時間を割いていただき、ありがとうございます。ご指導よろしくお願いいたします――」 
 藤井の一礼を那須川親子は無視した。トゲのある視線は榊原に向けられている。  
 那須川サイドにすれば当然の話だ。オフィシャルの戦績にカウントされないとは言え、メイウェザーは全日本国民の前で己を負かした因縁の相手なのだ。加えて、那須川は朝倉未来と個人的な親交があった。弟、朝倉海が戦うというのなら、自分は身を引くという選択もある。だが、どこの馬の骨とも知れぬ――いや、どこの馬の骨かは十分すぎるほどに分かっている。将棋の駒の動きすら怪しい那須川親子ですら藤井の名前は知っていた。
 だからこそ、こんな格闘技素人にメイウェザーへの挑戦権を譲るということは、彼らのプライドの許さなかったのだ。
 マスコミ各社には、格闘技界に電撃デビューを果たした藤井聡太と、神童・那須川天心による公開スパーリングという通達がなされていた。だが、それが練習などという生易しいものではないことは、その場にいる誰の目にも明らかだった。
 無言の天心が、ボクシンググローブを藤井の胸元に投げつける。

 ぶっ殺す。

 口には出さなかったが、やっと視線を合わせてくれた天心の眼光がそう告げているのを藤井は感じ取った。
 それでいい。
 そうでなくては、わざわざ休みを潰して来た甲斐がない。
 電撃参戦発表の前日、7月19日に藤井は18歳の誕生日を迎えていた。
 人生初の格闘技体験。穏やかな笑みを崩すことなく、現代将棋界の麒麟児は悠然とその一歩を踏み出す。
 藤井の中で、すでに『対局』は始まっていた。
 これは那須川天心と、そしてその先にいるメイウェザーとの対局。 
 先手はこちら。初手2六歩。序盤は定石を踏みつつ、相手の出方を伺う。
 先が読めるのは、相手の打ち筋のクセが見える中盤以降だ。全てを読み切り、紙一重の差で相手を上回る。
 それが勝負というものだ。

「榊原さん――あとでバンテージ、どうやって巻くのか教えていただけますか?」
 
 初めて手にするグローブをオモチャのように手で弄びながら、藤井はそう呟いた。
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