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プロローグ

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 少年は城の窓から滅びを眺めていた。
 王都クルセーユ。人々がこの街を讃える時の決まり文句は、こうだ。
 広場では焼きたてのパンと上物のワインが香り、通りでは夜通し光が灯る。千年分の夕日が石畳に染み込み、街の景観はまるで、世界中の黄昏を集めて閉じ込めた箱庭のよう。

 ――それが今、戦火によって崩れ落ちようとしている。

 少年は王都の出ではないが、ある種の物寂しさを感じないではなかった。景色が炎と煙で染め上がり、空は暗く赤ずんでいる。長く待たずとも王宮は陥落し、帝国の〈世界政策〉はまた一つ前に進むだろう。

 だが、実際のところ。
 彼が案じているのは、崩れ落ちる街でもなければ変わりゆく時代でも無かった。

「うっ……ごほっ、ごほっ……」

 後ろで赤髪の貴婦人が身体を興そうとして酷く咳き込んだので、少年は彼女の背中を擦って、そのまま支えてやった。すぐそこで兵士たちの怒号が聞こえる。もはやこの部屋も安全ではないが、どうせ女王はこの調子だ。安全かどうかなんて一体どれほど重要だろうか?

「指示はこれで終わりよ。行きなさい――アーセン」
「陛下」アーセンは震えた声で聞いた。「正気でございますか?」
「もう正気なんてどこにもないわ、おちびちゃん」若き女王はアーセンの顎に手をやった。冗談っぽく笑顔を作ってはいるが、声は弱々しくかすれている。「この五千年間、私たちが正気だったことなんて一度もないのよ」

 東ヴァロワ王国、“処女王”マヌエラ。
 その美貌は大陸全土で知られたが、長い病魔で顔はすっかりやつれきっていた。とはいえこの病気こそが、ある意味では王位の証でもある。女の身でこれに七年も耐えたのは後にも先にも彼女だけだ。処女王という称号は、この妙齢の女性が自分を捨てて国と世界に尽くしてきたことの証左だった。

「しかし、もし俺がしくじれば――」
「あんたはしくじらない。でももしそうなれば全部おしまいよ。国も、文明も、歴史も、全てが」

 どう考えたってバカだ、とアーセンは思った。確かに女王の密命を受けるのは今回が初めてではない。今までにも密書を盗み、偽情報を流し、影で殺めてきた。

 しかし、この最後の任務は――そんなのがちっぽけに思えるくらい途方もなかった。
 たかだか十六歳ぼっちの子供が、世界を相手に何が出来る? いや、自分は辺境貴族の子息に過ぎない。人質として王宮に仕えていたところを、たまたま女王の密偵として拾ってもらっただけの身であり、信頼できる人物なら他にも居たはずだ。

 アーセンは逡巡していた。
 全うするにせよ反故にするにせよ、この途方もない命令をどうこうできるのは世界でも自分一人だけだ。
 女王は少年の不安を見て取ったのか、力のない手で彼の髪をかきむしった。

「ふふっ……そんな顔しないの。こればっかりはアーセンに頼むって決めてたんだから。貴方なら大丈夫って気がするの。親バカ…………かな?」
「……買いかぶり過ぎと存じます」
「最後なんだから母親面くらいさせてよ。こんな小っちゃい頃から見てるんだから」

 あんた、まだ母親って歳でもないだろ。
 少年には最後の命令などどうでも良かった。マヌエラが即位すると知ってからこの瞬間が来ることは分かっていた。準備は出来ていたつもりだったし、その時になって悲しんだりしないとも決めていた。決めていたはずだった……

 アーセンは目を背けた。
 かける言葉なんて見つかるはずもない。いつもみたいに皮肉を言おうが、らしくない優しいことを言おうが、どれも最後の言葉には相応しくないように思えた。ならいっそ「最後なんかじゃない」とでも粋がって、今からおぶって城から連れ出してみようか? そんなの気休めにもなりはしない。
 もうじき、マヌエラの命の灯はかき消えるだろうから。

「何か言ってよ。声、もうちょっと聞いてたいよ……」

 昔からマヌエラはよく笑う。今だって強がって明るい顔をみせているが、死ぬには辛い日だろう。愛した自分の王国は落ち、身体は〈契約〉によって蝕まれ、やり残した大切な仕事も頼りない配下に残して行くのだから。だが辛いときほどそれを認めようとしないで笑うのは、この人にはありがちなことだった。

「泣いたりは、しませんからね」アーセンは無理にでも顔を緩ませた。「陛下にそう育てられましたので。男の子だろって、いつもうるさいから」
「何よそれ……実は泣きそうなんでしょ?」マヌエラは言った。か細い声だ。
「違います」
「認めなさいよ」
「だとしても、陛下には見せませんから」

 ふふっ――とマヌエラが笑みをこぼしたので、アーセンも微笑み返した。仕事に忙殺された日々の中で、こんなやり取りは久々だ。お互い今日までに色々やり尽くした。だが、マヌエラにはまだやり残した仕事が沢山あるらしかった。

「私……十分よくやったよね。十分」彼女はささやいた。「アーセン、貴方が世界を掌握するのよ。本当の滅びが来る前に、善き心を持った貴方が。人はもう憎しみを抑えておけない。急がないと、また夜がやってくる。全てを包む〈灰の凍る夜〉が……」

 そうして、東ヴァロワ女王マヌエラはついに目を閉じた。彼女の背から力が抜けると、少年が支える手は重みを感じた。
 しばらくずっとそうしていた。
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