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「天使」(2020/10/17)

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 福岡空港へ着陸する飛行機は手術用メスのような形の海の中道を縦に割って、市街地へと高度を落としていた。
 真下を通るのは決まって僕の住む箱崎の街だ。一駅前の千早ほど綺麗な街ではないし、一駅先の吉塚ほど活気があるわけでもない、ぽっかりと穴の空いたくすむ色彩の街に飛行機はいつも大きな声を投げかけている。それなのに公共交通機関を使って空港へ行こうとすると博多駅を迂回して遠回りしなければならないから、あまり利便性もよくない。
  そこに住むものにとって良いことがひとつあるとすれば、飛行機からすれすれに自分の住む街を俯瞰できるということぐらいなもので――、現に今そうやって勝手に振り分けられた格安航空機の窓側に体をもたれて、昔通っていた学校と、公園と、海に注ぐドブ川の宇美川と、そういったものを無感情に眺めていた。
 振り返ってみれば一瞬で過ぎ去っていくような時と空間の中で、ふと、きらきらと南の方角の建物から光るものを目が捉えた。
 『高度数百メートルでそんなもの見えるわけ無いだろ。どれだけ眼がいいんだよ』
 隣の席の湯之楚が言っていたのを思い出す。
 見えたものはしょうがないわけで、それが心の中で淡い疑問になっていた。
 そんなことを考えながら、兄の運転免許証を勝手に拝借して登録した宅配サービス「ユーバーイーツ」で今日も自転車に乗って福岡の街を駆けていく。スマホとアプリと大きめのリュックと自転車さえあれば肉体以外の資本は必要ない今風の仕事だ。日曜の昼間ということだけあって小気味よく注文の依頼が舞い込んでくる。これで五件目。場所は「元祖博多カツ丼屋の老舗 どんたく」。最初はおぼつかなかったが、今では店名さえ見さえすればだいたいのお店がどこにあるのかはっきり分かる。アプリが示す到着予定時刻よりも三分早く受け渡しのお店に到着した。いかにも、という感じの店構えだ。ハンバーガー屋のように店舗があるわけではなく、ましてカウンターがあるわけでもない。トタン外壁の小さな街工場という外観だ。外には数台のキャノピーが並んでいる。アルミの引き戸を小さく引いて、「ユーバーです」と伝える。中は厨房のようになっていて、料理人というにはかっちりしていないラフな服装の男達がせわしなく働いていて、その中の一人が応対してくれた。番号を告げて、商品を貰う。それだけのやり取りだ。
 手渡された四つのカツ丼はずっしりと重く、食事を作るのが手間だとして仕事を振ってくる単身者が多い中で、特殊な注文だった。現に配達先が大学病院となっている。
 果たして注文した側はこうした実情が分かっていて、それでいて注文しているのだろうか? 自転車を走らせながら考える禅問答が尽きないうちに、自転車は大学病院の敷地内へと踏み込んでいった。敷地内は広く、医師の独身寮もある。注文はお医者さんだという線をかぐっていたが、アプリに「夜間外来のエントランスでの受け渡しを希望します」という通知が届いたので、どうやらそうではないらしい。構内を一直線に走り抜け、入口の植え込みの側にオンボロの自転車を立てかける。
 薄暗い入口にさしかかり、キョロキョロと、あたりを見渡していると、ひとりの車椅子の――小学校高学年ぐらいの女の子が、廊下の途中で手を上げている。
 歩み寄ると、「ユーバーさん」と言った。
 どうやら、家族の昼食として饗されるものだったのだろう。こっちに来てと言わんばかりにするする車椅子を回しながら走る彼女の後をついていく。エレベーターの前で車輪は止まり、こちらに顔を向けた。長い髪と無表情でいて整った顔が印象的だった。
 「お兄さん、そのカツ丼は福岡で有名なお店なんですか?」
 頭の中でなにかのゴングが鳴った。いや、爆弾と芯線に繋がれた時計のチチチチと鳴る秒針の音かもしれない。それだけ素早く、そして、丁寧に対処していかなければならない事案であった。
 「そこそこの……評判ですね」
 苦しかった。もう少し何かひねる要素はあっただろ! だけれど、これが人間の限界。いや、自分か。
 「そこそこかぁ」
 と少女は雲を掴むような口調で諳んじていた。
 そこに母親らしき女性がやってきて、「ユーバーさん、すみません。ここで大丈夫ですよ」と言う。
 「えー、703号室に持ってきて貰おうよ」と、ぷりぷりしてたが、結局ここでお別れとなった。
 そうこうしているうちに、ユーバーは羅針となりて次のお店とお客を刹那的にマッチングする。一度会って一生会わない人間かもしれないし、そもそも玄関先に置いてくれという指令であれば、対面すらも発生し得ない淡白な関係だ。
 それでも、胸の奥でどんより濁ったような、ずっと残りそうな罪悪感の残ったのは初めてだった。
(続く)
4, 3

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