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プロローグ

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 天気予報が外れた春の日は、走り去っていく人が多い。
リュックを傘代わりに走り、もしくは諦めてトボトボ歩き。あるいは「AKANEYAMA」の刺繍が施されたウインドブレーカーのフードをかぶり、帰途についている女子生徒もいた。こんなときは、ツイてないと折りたたみ傘を常備していなかった自分を責めながら、手頃な喫茶店で雨が止むまで時間を潰すのがよいと祥太郎は考えたが、思いに反して、喫茶店アシュトルテの店内は空いている。
「お客さん、ちっとも来ませんね」
「雨だからね。雨の日は視界が狭まる。寄り道をしようなんて思わないだろうし、運良く傘を持ち合わせていても『雨が止むまでどこかで休もう』なんてことは考えにくいかな。休日の昼間ならともかく、平日の夕暮れどきは帰巣本能がはたらくものだよ」
 ことりと置いたティーカップの音が、やけに寂しく響いた。駅方向からまたひとり、サラリーマンと思しき男性が透明な合羽を着て、一瞥もくれずに通り過ぎていく。雨は強くなっていた。
 黒川大学前駅は、筑葉市の心臓・筑葉駅から地下鉄で三駅の場所にある。
 名前の通り歩いて五分の距離に私立の黒川大学があり、朝は登校の行列が凄まじい。同じ名を冠した黒川公園ではラーメン万博が開催されるなど、イベントが多く活気のある地域だが、駅から徒歩一〇分・落ち着いた雰囲気・本場仕込みのスイーツと人気要素を取り揃えた洋菓子喫茶・アシュトルテは驚くほどに人気がなかった。
 大通り沿いだがやや奥まった場所にあり、門戸も狭く、何より駅から五分の場所にカフェを併設した人気コーヒーショップが展開された影響をダイレクトに食らっている。住宅地が近いので常連は多いが、帰りしなに立ち寄る人はほとんど見かけない。バイトの仕事が少ないのは悪いことではないが、そのうち潰れてしまうのではないか――と祥太郎は眉を曇らせる。一方で店主の大二郎は能天気にレシピブックを読んでいるものだから、つい注進のひとつでもしたくなった。
「もっとこう、新商品のアピールをしたらどうでしょう。ほら、最近ビクトリア女王みたいなお菓子を作ったって言ってたじゃないですか。あれを売り出しましょう」
「女王? ビクトリア・サンドイッチのことかい? あれはねえ……結構手間がかかるから、たくさん作るとなるとなお難しいんだよ。ハンドミキサーだとビクトリアスポンジ特有の重さが出ないから、木べらで混ぜる必要があってね。そうそう、型も本当はサンドティンっていう専用の型を使うべきなんだけど、イギリスから取り寄せているところだから、量産するのはまだ厳しいんだ」
「……お菓子のことはよくわかりませんが、現実的ではないということはわかりました」
 赤坂大二郎――アシュトルテの店主は、欧州各国で菓子作りの修行に励んできた洋風を名乗るに相応しい腕前の元パティシエだった。
 今でこそこうして隠れ家(になってしまっている)的喫茶店の店長に甘んじているが、若い頃は世界を飛び回る日々だったと聞いている。ならば、なぜパティシエとして独立せず、人気のない喫茶店を経営しているのか、と祥太郎は尋ねたことがあるが、「気ままなのが性に合っているんだよ」とはぐらかされるばかりだった。
「それより祥くん、小腹がすいただろう。お客さんもいないしひと休みするといい」
「はあ……」
 人の気も知らずに――と言いたいところだったが、逆らえる立場でもなく、祥太郎は不承不承ショーケース裏のレジを離れ、店奥のカウンター席に座る。間もなく、大二郎は英国謹製のデザートプレートにケーキをのせて運んできた。薄切りのスポンジケーキで甘酸っぱいラズベリージャムを挟んだシンプルな見栄え。気を利かせたのかはわからないが、先程祥太郎が話題に上げたビクトリア・サンドイッチそのものだった。フォークをすとんと落とし、切り分けた欠片を口に運ぶ。
「どうだい?」
「美味しいですよ。テレビに出演するようなスイーツ評論家じゃないから、言葉を並べ立てて褒めるなんてできないですけど。素直に美味しいです」
「そりゃどうも。甘さ加減は?」
「甘さ? これくらいでいいんじゃないですか。気になることでも?」
 大二郎はふむ、と唸る。
「実はアレンジの一環として、生クリームといちごを使ったショートケーキ風のものを作ってみようと思っていてね。一般ユーザーの祥くんの意見を聞いてみたくて。若い女の子なんか、甘いお菓子が大好きだろう? そういうのを作れば、多少は人気が出るかなって」
「一般ユーザー……。だったら、千晴さんの意見を聞けばいいじゃないですか。なんてったって現役女子大生ですよ」
「千晴ちゃんは、ほら、感性が独特だから」
 何も反論できなかった。
 意見を言うのは難しい。いちバイトの意見で店の方針が決まって、もし頓挫でもしたら後悔してもしきれない。大二郎が多少なりとも店の人気を気にしているのは朗報だ。祥太郎自身も店が潰れては困るから、建設的な意見をしたいのはもっともだ。
「今のままでいいと思います」
 それでも、大二郎の提案には否定的にならざるを得なかった。
「スポンジ生地が既に甘いんだから、そいつで甘さをさらにサンドすることはない。甘すぎるとクドくなります。甘いのが悪いとは言いませんが、なんというか、箸休めは大事でしょう。アレンジするにしても、甘すぎる系統のトッピングは避けたほうがいい……と思います」
「なるほどねえ……それじゃあ、レモンカードでも使ってみようかな」
 ふうと息を吐いて、祥太郎はもう一度ビクトリア・サンドイッチを口に運ぶ。程よく甘いスポンジと、それを引き立てる酸味を持つラズベリージャム。間違いなく美味しい。これでいい。このくらいがいい。キッチンに戻ってぶつぶつ独り言を唱えている大二郎の背中を眺めながら、祥太郎はひっそりと、言い聞かせるような調子で呟いた。
「甘すぎないくらいが、ちょうどいいんだ」
 雨降りのノイズが窓をたたく。平日の昼下がり、穏やかに時間が過ぎる喫茶店のカウンターで、祥太郎の胸を騒がせるのはアシュトルテの行く末と明日の天気ぐらいのものだった。
 彼女が入り口のベルを鳴らすまでは。
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