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第三話

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 日曜日がやってきた。
 私はいつものカフェの、窓際の席に腰かけていた。
 約束の時間まであと1分。
 やっぱりケンジは来ないかもしれない。そう思うと体中から涙という涙が吹き出そうになる。だけどこの歳になって、しかもいきつけのカフェで、泣くのはみっともない。私は必死に涙をこらえた。


 午後一時になった。ケンジはあらわれなかった。
 ああ、やっぱりだ。駄目だったのだ。
 送ったメッセージに既読がついたかどうかは確認していない。既読の有無を確認しながら約束の日曜までを過ごすのが、何だかとても辛いように思えてならなかったのだ。


 私はスマホに目線を落とした。メッセージアプリに触らないように注意しながら、猫や犬の画像が載っているサイトにアクセスする。
 つぶらな瞳で私を見つめる犬猫をみると、何だかこちらまで顔が緩んでしまいそうになる。
 ――もしケンジが来なかったら、今日はペットショップを見てから帰ろう。そう計画を立てた矢先のことだった。
 ケンジがやってきた。


「ごめん、待った?」
 数分待ったが、別にそんなことは問題ではない。
 ケンジが私にもう一度会いにきてくれたのだ。その事実が他のどんなことよりも嬉しかった。
「なんだよ、にやにやして。良いことでもあったか?」
 ケンジは私の顔をまじまじ見つめながらそう言った。
「良いことね……。うん、あったよ。ケンジとまた会えるなんて、夢のようだよ」
 私は自分でもびっくりするくらいに笑みを浮かべながらそう言った。
「な、なんだよ……。俺と会うなんて、普通だろ? 何か良いことでもあったのか?」
「ううん、違うよ。普通なんかじゃない。ケンジと会えるのは普通じゃなかったんだ。そう気付いたんだ」
 なんだよそれ、という目でケンジは私を見つめた。
 こっ恥ずかしくなるような台詞だったと思う。何の躊躇もなく言えたが、家に帰って冷静になってみれば身悶えすること間違いなしである。
 でも、私はケンジにそう言いたかったのだ。
「ケンジ、また会ってくれてありがとう。嬉しいよ」
 私はケンジにそう言った。
「そ、そうか。こっちも嬉しいよ。ありがとな」
 ケンジは少しだけ笑みを浮かべながらそう言った。仕草からみるに、恐らくケンジは照れ隠しをしていたのだと思う。
 本当は、ケンジも私とまた会えたことがとても嬉しかったのかもしれない。


 それから、ケンジとはいつも通りに他愛のない話をした。
 楽しそうに笑うケンジを見ていると、嬉しくなる反面、聞いてみたいことも出てきた。
 どうしてあの日、ケンジは私に別れを切り出したのか。そして、どうしてケンジは無言で店の外に出ていってしまったのか。
 聞いてみたかったけれど、怖くて聞けなかった。
 ケンジにそれらのことを聞けば、ケンジは私から離れていってしまうかもしれない。だから過ぎた話を蒸し返したくはないのだ。
 それに一度別れを切り出されたのだ。もうケンジとの関係は長くは続かないだろう。
 私とケンジの間に出来た溝は、きっとひどく深い。遅かれ早かれ私はケンジと別れることになるだろう。今まで付き合ってきた人も全部そうだったのだ。一度関係が悪くなるともう二度と修復することはできない。そしてふたりの関係は破局を迎える。私の恋愛はいつもこのような悲しい結末に終わっている。


 ケンジとの関係はもう終わりなのだ。そういう運命にあるのだ。
 たとえ今この瞬間、目の前でケンジがどれだけ優しそうに笑ったとしても、私とケンジの関係はもう終わり。そう思うと途端に涙が溢れそうになった。瞼に少しだけ溜まった涙を隠そうとして、右手の人差し指で目元を拭う。それを見たケンジは、心配そうな顔で私を気遣う。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
 私は首を横に振った。
「何でもないの、大丈夫」
「そうか……。まあ何でもないならいいけどさ。ひとりで抱え込んでないか? 何かあったら俺に相談してくれよ?」
 私は思わずケンジの目を見た。それに気付いたケンジはたまらず目線を逸らした。
「ま、まあ俺なんかじゃあんまり役に立たないかもしれないけどな!」
 ケンジはぎこちなく笑いながらそう言った。きっと照れ隠しなのだろう。
「……大丈夫。うん、大丈夫。……何かちょっと元気出たかも」
 ちょっぴり泣いているのを誤魔化すために、私は少し大袈裟に笑みを浮かべながら言った。


 なんてことのない優しさなのかもしれない。でも私がケンジのことを好きなのは、そういうところなのだ。
 ケンジは私に優しさをくれる。私が落ち込んでいる時には、ほんの少しだけ優しくしてくれる。私が泣いている時は、たとえその理由がわからなかったとしても、そっとしておいてくれる。そしてひとしきり泣いて、疲れて眠ってしまった頃、私を起こさないように物音に気を付けながら、傷心に染まった私の身体に優しく毛布をかけてくれる。それがケンジという男なのだ。ケンジという男なのだ、というのはあまり良くない表現かもしれない。それがケンジという人間なのだ。
 私はケンジのそういうところが大好きなのだ。もしも自分が女ではなく男に生まれていたとしても、ケンジを好きになっていた気がする。そんな気さえするのだ。


 無邪気に笑うケンジの顔を見ながら、私はホットココアをひとくち飲んだ。
 一週間ぶりに飲んだホットココアはとても甘かったが、どこか冷めているような気がした。


 ケンジとの関係は、もう終わりなのかもしれない。
 だけど諦めたくなかった。
 ――ここで終わり、なんてことには、したくない。
 たとえ私とケンジの関係が破局に向かってしまうのだとしても、私はそれに抗いたい。


3

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