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魔女

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 ゼルは朝目が覚めると、見慣れない天井に驚きます。

「あ、そうか…」

 昨日から、この小さな部屋にいることを思い出して、
すっかり朝陽で明るくなった部屋の中を見回します。
 
 自室なら聞こえてくるであろう兵士たちの訓練する声や、
メイドたちが廊下を歩く音が全くしません。
 昨日の大騒ぎの後、カヨが身体を見て問題なさそうだから、と
点滴を外してくれていたので、身体をゆっくり起こして、ベッドをおります。
 やっと自分が真っ白な病棟の患者用のガウンを来ていることに気づいて、
このまま廊下に出るわけにもいかないと、着替えがないか探します。

 部屋にあるのは、テーブルとベッド、棚、そしてベッド横の丸椅子。
丸椅子に向かい合うように自分の靴が置いてあることには気づきましたが、
本当にそれしかないので、あきらめてそのまま部屋を出ようとドアに近づくと、
こんこんこんこん、と細かくノックする音が聞こえます。
ゼルがドアを開けると、ぐしゃぐしゃの服を持ったキシェが立っていました。

「あ、キシェ様」
「ゼルゼル、具合、ど?」
「すっかり良くなりました。ありがとうございます。」
「ぼくの前の部屋、ちゃんと寝られた?」
「あ、キシェ様の部屋だったんですか…おかげさまで、静かでよく眠れました。」

 このラボにある一室は、キシェが円卓となったときに与えられていたのですが、
夜にてんかんを起こしてから隣の広いカヨの部屋で寝るようになったので、
ほとんど使われなくなっていました。
 急病で病棟に運んでいられない、かといって円卓であるゼルを
研究室においておくわけにもいかないと、ここに連れてこられたのでしょう。

「うん!これオルガが持ってきたやつあげるね」

ニコニコと笑顔を向けて、持っている服を手渡してきます。
ゼルが受け取ってみてみると、シャツとスラックス、ベストにサスペンダー、
そして、靴下が片方。

「…あれ?右がないね?左かな?」
「どこいっちゃったんでしょうね…」
「キシェ、靴下を落としているわよ。」

 優しい声が聞こえて、ドアを大きく開けてキシェと一緒に廊下を見てみると、
靴下を持ったシーシアがこちらにやってくるところが見えます。

「シーシア、それぼくの?」
「ええ、キシェが落としたものよ。はいどうぞ。」

 靴下はゼルにわたります。これで一通りの着替えができそうです。

「ありがとうございますシーシア様。」
「いいのよ。ゼル、怪我をした手を見せてもらってもいいかしら?」
「手ですか?」

 包帯が巻かれた左手を差し出すと、シーシアは優しく手をとって、
青と緑のインクで書かれた模様を確認しています。
「シーシア、それ魔女のおまじない?」
「ふふ、そんなところね。
 ゼル、嫌な夢を見たでしょう。」
「…はい。昔の出来事を。」
「…そう、それはつらかったわね。
 部屋に入ってもいい?」
「もちろんです。」

 シーシアはゼルをベッドに座らせて、向かい合って丸椅子に座り、
キシェはゼルの隣に座って、ワクワクした顔で2人を見ています。

「ここ数日、貴方の周りで何かが起きているでしょう?
 だから、何が起きているのか占おうと思ってきたの。」
「占い?」
「ええ、私の家系は魔女でね、占いやおまじないはお手のものなのよ。」
「魔女って、森の奥から出てこないと思ってました」
「そうね、妖精や精霊の力を借りる仕事だから、
 たくさんの人間たちがいるイースのような街は
 借りれる力が足りなくて商売にならないのよ。
 だから本当の魔女は森の奥や人里離れたところにいるのだけど、
 私は魔女なんかなりたくない!って言って家を出てきて
 こうしてここで外交をしているの。」

 また包帯の巻かれた手をとって、模様の書かれた部分に手をかざすと、
真っ直ぐと目を合わせます。

「この模様の青は私が書いたところ。
 緑の部分は妖精たちが書き足したものよ。
 占いとは、妖精や精霊、宇宙からのメッセージを読み解くこと。
 フィ、フィ、ビテ、エッツィミルワズ、パッシエテスツ」

 おまじないをかけると、緑のインクの部分がするりと黒くなって消えていきます。
キシェはそれを見て、声を上げて大喜びしています。
 きっと、なんでも解体し、分解し、分析し、理解をしてしまうキシェには、
説明できない現象が楽しくてたまらないのでしょう。
 シーシアは目を閉じて、じっと何かに耳をすませているようです。

「ゼル、あなたを強く想う人がいるのね。
 でも、その想いはゆがんでしまっている。」
「…自分を想う人?」
「それ以上はわからないわ。
 もう一つ、ゼルの周りにいる妖精たちは、
 自分たちに気づいてほしいってちょっと怒ってる。」
「妖精が?」

 ゼルは、夢の中で髪を引っ張ったり、ズボンのポケットで休憩したりしていた、
妖精たちを思い出します。
 キシェは、包帯の巻かれた左手をとって、消えた文字を不思議そうに見ながら、
”手の汗による反応?いや、体温?”だとか、
”インクが時間経過により変化した?でも消えたのは?”だとか、
なんだか楽しそうにブツブツつぶやいています。
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「…彼らはまだ自分の側に?」
「ええ。
 ほら、なくしものをした時って、”ない、ない”って探すとないけれど、
 ”絶対にあるはず!”って信じたら見つかったりするでしょう。
 それと似たようなもので、妖精も精霊も信じてもらわなければ存在できない。
 そばにいるって信じてあげることでいずれ姿を見れるようになってくるわ。
 お城は過ごしずらいでしょうに、ゼルがここにきてからも、ずっとそばにいたのね。」
「…そうでしたか。」

 村にいたときの妖精がそばにいると思うと、なんだか温かい気持ちになりました。
ゼルが村の入り口で絶望したとき、自分は一人になったと思ったとき、
妖精たちはそばにいることを気づいてもらえなくなって、
そこにいるのに、見てもらえなくなってしまっただけだったのです。
 嬉しそうな表情のゼルをみて、暖かいまなざしを送るシーシアに、
キシェがわくわくした顔でドレスを引っ張ります。

「ね、ね、シーシア、火出せたり、ドラゴンを召喚したりできないの?
 魔女ってできるんでしょ?」
「本当の魔女ならできるかもしれないわね。
 …私はちゃんとした修行をしていないから、残念だけどできないわ。」
「そっかあ。」

 残念そうに肩を落とすキシェの頭をなでて、優しい笑顔を向ける魔女に
ゼルは身体を寄せます。

「ま、魔女ってそんなことできるんですか?おとぎ話のように?」
「ふふ、どうかしら。
 きちんと魔女を受け継いだ、私の妹ならできるかもしれないわね。
 あ、でも、”魔女の一撃”っていう必殺技があってね、
 時々働きすぎのディルトレイに使っているの。
 相手を動けなくさせる強力な魔法よ。」
「お、王に?すごい…」

 シーシアはいたずらっぽく笑ってウインクをします。
ゼルは本当かどうかわからずとも、夢のある話だと思いつつ、
キシェと同じように、少し信じているようでした。

「さあ、占いはこれでおしまい。朝食へ向かいましょう。
 ああそうだわ、朝食を食べたら、明日の帝国行きに向けて、ゼルに色々と伝えるわね。」
「はい、わざわざありがとうございます。」
「ディルトレイよりも曲者の皇帝と会うのは気が重いと思うけれど大丈夫よ。」

 シーシアはゆっくりと立ち上がると、キシェと一緒に部屋を出ていきます。
ゼルは一人になった部屋で、いつもの癖で窓から外を見上げると、
大きな薄い雲はあるものの青くてさわやかな空が見えます。

 持ってきてもらった服に着替えて、まだ見ぬ自分を想う相手のことを考えます。

自分を知っている
自分のことを探している
自分を知っている風だったというラファエルとは?
きれいな顔で、貴族と一緒に?

 ゼルは、色々な情報を思い出して過去の記憶をさかのぼったとき、
一人、心当たりがありました。
もしかして、でも、あり得るとしたら”彼”しかいない、
突然不安が襲って、早急に王や王子に話しておかなければならないと思いました。
一連の流れが彼の仕業だとしたら、なぜ自分を求めるのか?

心を落ち着かせて、話すべき内容を整理します。
さっきのシーシアとの会話を思い出していると、
突然、雷が走ったようにひらめきました。

「魔女の一撃って、ぎっくり腰のことか…!」





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 くもり空の帝国の、真っ黒なお城のすぐそばには教会があります。
教会はとても広く、孤児院も併設していて、毎日元気に遊びまわる子供たちの声がしていました。
たくさんのシスターが右往左往して、静かで荘厳というよりは活発で明るい教会でした。

 真っ白な修道服を着た、オレンジ色でお下げ髪の若いシスターは、
大きなかごを腕に掛け、小さなお盆にお水を乗せて、
教会の奥、中庭の見える渡り廊下を歩いて突き当りを曲がり、
塔の上の木のドアに着くと、数回ノックをして、中からの声を待ちます。
 1~2分待っても中の反応がないので、そっとドアを押してみると、
きい、と小さな音を立てて開きます。

 ドアが開いて目に入ってきたのは、すぐそばであちこちを向いて倒れている靴と
ひっくり返った靴下、それから、開けっ放しのシャワールームの前には、
身体を拭いたであろうバスタオルとぐしゃぐしゃのYシャツと行き倒れたスラックス、
さらに洗面台に引っかかったリボン。
 クローゼットからは色々な服が飛び出ていますし、
プレゼントでもらったであろう箱は開けられないままに積んであります。

 そして最後に目に入ってきたのは、
こちらに背を向けてすやすやと眠っている部屋の主。
 シスターは、ひどい部屋のありさまにため息をついて、
ベッド横の引き出し付きサイドテーブルのランプの隣にお盆を置き、
勢いよくカーテンと窓を開けて、

「ラファエル、起きてください、お昼になってしまいますよ!」

と、はきはきとした声で丸まって眠る青年に声を掛けます。
 風が部屋を駆け抜けて、ぼんやりとした朝の光が当たると、
ぎゅっと身体を丸めながら、唸り声を上げています。

「やだ…あと10分後に起こして、リエル」
「いいえ、ここ数日、司教様の朝のお話にも姿が見えないと、
 子供たち心配しているんですから!お水も持ってきましたからね。」

 まるで子供の世話を焼く母親のように大きな声で呼びかけながら、
入り口のほうから脱ぎ捨てられた洋服を拾い集めて、
持ってきたカゴの中に入れて、サイドテーブルの隣に靴を並べます。
 まだタオルケットにくるまっている青年をみて、
やさしく肩をたたいて起きるよう促します。
 ラファエルは目をこすりながら重たそうに上半身を持ち上げると、
それを見た”リエル”と呼ばれたシスターは、嫌な予感がします。

「ま、待ってくださいラファエル、もしかして何も着てない?」
「え?うん」
「本当に何も?」
「んん、そろそろ見慣れてよ」

だるそうにベッドから降りようとします。

「ま、待って!立ち上がってはいけません!」
「じゃあ寝て良い?」
「それもいけません!」
「んん」

 ラファエルはそのままリエルの腰を抱き寄せて立ち上がり、
腰は左手に回したまま、顎を指で上にあげて自分の方を向かせると、
キスをしてしまいそうなほどに顔を近づけます。

「じゃあ、見慣れさせてあげようか?」

 妖しい笑みを浮かべて顔をさらに近づけようとするラファエルに、
リエルはそばかすの顔を真っ赤にしながら、
これ以上開かないくらいに目を見開いて肩を力強く押して身体を離すと、
背中を向けてしまいます。

「み、見慣れる必要などありません!はやく何か着てください!」
「んふふ、つまんないの。
 …ね、そこに僕の下着あるから。」
「え?」

 リエルがちょっとだけ振り返って見てみると、
ちゃんとタオルケットで下半身を隠してベッドの上に片膝を立てて座って、
クローゼットを指さしています。
さっきとは全く違う、子供のようないたずらっぽい笑顔で指をぴょこぴょこ動かして、

「とって」

と一言言ってのけます。
 言われたほうはというと、信じられない、という顔をします。

「ラファエル、わたくしは従者では…」
「わかってるよ、シスターは愛を説く隣人だっけ?
 僕、いつもリエルの愛を感じてるよ、
 でも服取ってくれたらもおっと感じられるんだけどなあ…」

 リエルはあきれ顔でため息をつきながら、それでもしぶしぶクローゼットを開きます。
一部の服はちゃんとハンガーにかかっていますが、
ほとんどは下のほうで山のように積まれているので、
掘り起こさなければ目的のものは見つかりそうにありません。
 仕方ないので、たためそうな服はたたんで開いている所に重ねていって、と
整理しながら少しずつ布の山を小さくしていきます。

 ラファエルは、ぐっと伸びをすると、ベッドから降りずに
サイドテーブルから錠剤の入った薬瓶を取り出して3錠手に取りだすと、
そのまま口に入れて、お盆の上のお水で流し込みました。
 ぽってりとした唇から、ふう、と息が漏れると、薬瓶をまた引き出しに戻して、
さらにお水を飲み干し、こちらに背を向けてクローゼットを整理するシスターを見ます。

「ね、リエル、子供たちは、僕のこと好き?」
「ええ、もちろんですラファエル。
 子供たちはみんな貴方を愛していますよ。」
「そ。」
「こないだ、イースにお出かけされていたでしょう、
 その時だって朝のお祈りでも会えなかったって、
 みんな寂しがっていたんですから。」
「…そ。」
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自分よりも小さな手がちょこまか動いて、
クローゼットの中がどんどん整っていくのをぼんやりと見つめたまま、

「…ね、リエルは僕のこと好き?」

と、さっきよりも小さな声で、唇に微笑みを含ませて問うと、
リエルは綺麗にたたまれた服をもってこちらに歩いてきて、
おとなしくベッドに座るラファエルに向かい合って跪き、
薄いグレーの瞳を見て微笑み、下着や洋服を差し出してくれます。
 
「もちろんわたくしも、子供たちと同じように貴方を愛していますよ。」
「ふうん、そ。」

 ラファエルは自嘲するように笑って、服を受け取ります。

「…部屋の前で待ってて、ちゃんと準備するから。」
「ええ、わかりました。では。」

 シスターが洗濯ものの入ったカゴとお盆をもって部屋を出ていくのを見届けると、
妖精がいたはずのランプをぼんやり見つめてふっと鼻で笑い、
ようやく立ち上がって下着を着始めます。
くもり空の光が肌に当たって、真っ白な肌が痛々しいほどに光ってみえます。

 歯を磨いたら顔を洗って、適当に掛けてあるタオルで顔を拭いたら、
クローゼットの扉の内側についている鏡の前で自身の身体を見つめます。
 華奢ながらもしなやかな筋肉の身体や首筋に点々と付いた赤い跡を見て
不快そうに顔をゆがめると、Yシャツに袖を通して、
それらを隠すように襟を立てたらボタンを留めて、リボンを結んで、ベストを着て…
どんどん麗しい青年の姿ができあがりました。

 最後に髪を手櫛でくしゃくしゃと整えて、クローゼットを閉めて部屋から出ます。
カーテンが部屋に入ってくる風でひらひらとゆれて、
外からは教会堂へ向かう子供たちの明るい声が入ってきます。

 部屋から服を着て出てきたラファエルに、
リエルは待ちわびていたように笑顔を見せます。

「さあ、いきましょう!」

 足取り軽く歩き始めるシスターに、青年はけだるそうに歩きます。

「また司教様の長い話を聞かなきゃいけないんでしょ?」
「いつも子供たちにもわかりやすい、素晴らしいお話ではありませんか」
「よくわかんない、僕は聞く意味なくない?」
「ラファエルにも聞いてほしいのですよ。」
「そ。」

 渡り廊下を進んで、建物の中に入り、石造りの廊下を並んで歩きます。
ラファエルは、いつの間にか自分の歩みが早く、
リエルが早歩きで一生懸命ついてきているのに気づいて、少しだけ歩みを遅めると、
隣に追いついて嬉しそうしているのが見えます。
 途中、食堂にお盆を返したら、今度はランドリーに立ち寄って、
リエルはかごから部屋で脱ぎ捨てられていた服たちを手際よく大きな桶の中に入れて、
お水を満たして洗剤を入れると漬け置いてランドリーを出ます。
 ラファエルが窓から外を見ながら壁に寄りかかって待っていたので、
行きましょう!と元気よく声をかけてまた目的地へ向かいます。
 教会堂に近くなると、子供たちがどんどんこちらに集まってきました。

「ラファエル!」
「なあに」
「最近病気だったの?ずっといなかった!」
「もう大丈夫なの?」
「うん。んふふ、心配だった?」
「心配だった!」
「ねえねえ!」

 一斉に話しかけてくる子供たちの声を、静かな猫なで声で受け流しつつ、
微笑みながら教会堂に向かうラファエルにリエルはなんだかまた嬉しくなります。

「ほらほら、みんなで話しかけたらラファエルが困ってしまうわ。」
「だっていっぱい話したいことあるんだもん」
「まずは、早く司教様のところへ向かいましょうね。
 お待たせしてはいけないわ。」
「はあい」

 たくさんの子供たちに囲まれたまま、真っ白な建物に到着すると、
大きな木の扉を押して、中に入ります。
 高い天井に真っ白な壁、深いブラウンの柱と椅子が並び、
まっすぐ前方にはオルガンと講壇が見えて、自然光がたくさん入る室内は
淡く光を放っているようです。
 もうすでに子供たちが何人も座って待っているのが見え、
壁には数名のシスターたちが並んでいて、リエルはそれに加わります。
 ラファエルはすぐに後ろのほうに座ろうとしますが、
子供たちにぐいぐいと押されて、前から二列目に座らされてしまいました。
 ステンドグラスから入ってくる光がまぶしくて、
目を細めて明るさから逃げるように手をかざすと、
5歳ほどの子供が、甘えるようににこにこしながら、膝の上によじ登ってきました。

「あっ…」
「ずるい!」
「ねえ次わたしね!」

 子供たちがまた騒がしくなると、どこからか老齢のシスターが
司教様がいらっしゃいましたよ、と叱る声が聞こえてきます。
 入り口からとことこと歩いてくる音が聞こえてきたと思うと、
真っ白なひげを蓄えて、銀色の丸眼鏡をかけた老齢の男性がちょうど歩いてきて、
礼拝堂の両壁にずらりと並んで立っているシスターたちは、
ぺこりと頭を下げています。
 真っ白で金の刺繍の入ったケープを着た司教は、
講壇に到着するまえにこちらに気づいて目をまん丸くすると、
すぐに嬉しそうな笑顔を向けます。

「おや、ひさしぶりですね。朝起きられたようでなによりです。」
「…リエルのおかげで。」
「ははは、ガブリエルもたくましくなりましたね。
 来てくれて嬉しく思いますよ、ラファエル。」

 視界の端では、ほめられてちょっと照れた顔でへらへらしているリエルが見えて、
ラファエルはすこし馬鹿にしたように本当に小さく鼻で笑います。
 司教は、持っていた分厚い本を講壇に優しく置いて、咳払いしながらページをめくります。

「では、今日のお話を始めましょう。
 みんな、神の愛は不変で、無限で、無償である、と昨日お話ししましたね。
 私やシスターも、そんな神を素晴らしいと思って、
 頑張って近づけるよう努力をしているということもお話ししましたね?」
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 膝に乗った子供は嬉しそうに自分にキラキラとした目を向けてきて、
ラファエルは微笑むと、やさしく柔らかいほほを触って、

「ほら、司教様のほうを向いて…」

と顔を近づけて耳元でささやき、長い指で頭をなでて前を向かせました。
 暖かい体温が伝わってきて、それをもっと近くで感じたいかのように、
少し強めに抱き寄せます。
 やがて、ぽかぽかと暖かい子供の身体と、どうでもいいありがたい話、
そして司教の静かで抑揚のない落ち着いた声で睡魔がゆっくり襲ってきます。
まぶたが重たくなって、ほんの数秒だけ、と閉じてからすっかり眠ってしまったようで、
自分を呼びかける声にふと気付きます。

「ラファエル寝てる!」
「司教様のお話で寝ちゃダメなんだよ!」

 子供たちがわいわいと自分を諫める声がいくつも聞こえてきます。
講話はもうすでに終わって、膝の上にいた子供はいつの間にか居なくなっていて、
そばには高齢のシスターがしかめっ面でそばに立ち、
こちらを見ているのに気が付きます。

「あまりにもどうでもよくてつい…ふあ」

 文句のおまけに大きなあくびまで出てきて、
シスターの眉間のしわがさらに深くなります。

「ラファエル、司教様に失礼でしょう。」
「ん…」

 ぼんやりとした顔で口も開かずに返事をすると、
焦った様子でリエルがそばに寄ってきます。

「シスターパトリシア、あの、わたくしが無理やりに起こしたので
 きっと目が覚め切っていなかったのだと思います。」
「まあ、それでは明日から、もう少し早く起きてもらわなければいけませんね?
 シスターガブリエル。」
「は、はい、そうですね!
 もっと早く起こせるよう、努力いたします!」
「まあまあ、私の話も少し単調だったかな。
 明日はもっとスリリングに話をするとしましょう。」

 まったく気にせずにほろほろと笑う司教に、高齢のシスターはあきれた様子です。
子供たちは、”司教のするスリリングな話”に興味津々な様子で、
わいわいと盛り上がっています。

「さて、子供たちはもうすぐお勉強の時間だろう、教室へ向かいなさい。
 シスターたち、子供たちを連れて行ってくださいね。
 そしてラファエルとリエルはここに少し残ってください。」
「はい、司教様。」
「はあい」

 間延びした返事にまた高齢のシスターはまたムッとした顔をします。
その間に他のシスターたちが、子供たちを連れて外に出ていくと、
 騒がしさが去って行って、しかめっ面のシスターと、困った顔のシスター、
ぼんやりと座る青年と、真っ白なひげの司教が残ります。

「さて、ゲオルギウス将軍が兵の詰所に来てほしいと言っていました。
 リエル、君も。」
「わ、わたくしもですか?」

 リエルは驚いて手を胸の前で組んで、前のめりになります。
ラファエルはというと、眠たそうな目のまま、キョトンとしています。

「僕だけじゃなくて?」
「そう、ラファエルと一番仲の良いシスターにも来てほしいと言っていましたよ。」
「しょ、将軍様がお呼びなんて、わ、わわわ、わたくしもご一緒してよいのでしょうか?
 しし、司教様じゃなくてよろしいのでしょうか?」

 一介のシスターが将軍に呼ばれることなどありえない事ですから、
リエルは背筋をピンと伸ばして、一気に緊張の面持ちです。
わたわたと焦りはじめる姿が見ていてかわいらしくて、
司教は思わずにこにことしています。

「ええ、よいのです。胸を張ってラファエルの友として行ってきなさい。」
「あ、ああ、こ、光栄です!」
「リエル、いつも通りにしていれば問題ありませんよ。」
「は、はい!お、う、おまかせください!」

 アドバイスにすら緊張して返事をするので、
高齢のシスターはその間抜けな声に思わず破顔します。
隣のラファエルは無表情で、唇に手をあてて不思議そうにしています。

「どうしてリエルも?」
「明日、イースから来客があるから、
 それについて皇帝陛下から何かお話があるとのことでしたよ。」
「こ、こ、皇帝陛下?」

 司教がそういったとたんに、リエルはさらに飛び跳ねて驚いて、
目をぱちぱちさせて高齢のシスターの腕を掴んでしまいます。
そのまま、何か言おうとラファエルの方を見た時、息をのみました。

 ラファエルは恍惚とした笑顔で司教を見ていました。
その表情があまりにも美しくて、得体が知れない狂気があって、
思わず身をすくませて黙ります。

「…そ。わかった。」
「ラファエル、言葉を正しなさい。」
「んふふ、はあい。」

 注意をするシスターも、その表情に恐怖を感じたのか、
険しい顔で胸の前で手を組んでいます。
 突然、ラファエルが身体が軽くなったかのように立ち上がります。

「…行こ?リエル。」
「は、はい」

先ほどとは打って変わって無邪気な笑顔で、教会堂の入口へと歩き始めます。
 リエルは戸惑った表情で司教とシスターに一礼して、
小走りで背中を追いかけていきます。
 残った司教とシスターは、不安そうな顔で2人の背中を見送りました。

「司教様、今の顔、見ましたか?」
「何が、あるのでしょうね。」

シスターは司教に詰め寄ります。
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「あの男は悪魔です!
 一緒にいるシスター・ガブリエルが心配です。」
「リエルには”他のシスターに任せてもいい”と声をかけているのですが…
 ”ラファエルがやっと自分に心を開いてくれたのです、
 もう少しだけ側に居させてください”と。」

 目を伏せて、神妙な面持ちでそう言った司教に、
シスターは険しい顔で首を振ります。

「いけません司教様、何かがあってからでは遅いのです。
 あの男は彼女に依存しすぎています。まだリエルは18歳なのです」
「しかし、我々がリエルを取り上げた時、彼はどうなってしまうと思いますか?」

シスターは、悲痛な顔で口をあけて続く言葉を探して、
やがて大きく息を吐きました。

「…どうして皇帝陛下は彼を教会に預けたのでしょうか、
 何をしでかすかわからない火のついた爆弾のような男を!」
「シスター・パトリシア、落ち着いて。愛を忘れてはいけません。
 我々には彼らを救う手段を探すべきです。
 そして神に祈りましょう、彼が救われること、
 そして、シスター・ガブリエルが幸せになることを」
「ああ…」

 2人はステンドグラスの前の神の彫刻に祈ります。
組んだ指は、強く強く握られていました。





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