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第三十三話 一階

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【8日目:昼 北第一校舎一階 廊下】

 東城要との戦いは、時間としてはそう長いものではなかった。
 しかし、これまでの生徒葬会における戦いがそうであったように、その体験はあまりにも濃密で、そして過酷なものであり。
 それをどうにか切り抜けることができた今、一度緩んだ気持ちを引き締め直すのには難儀した。
 ――暁陽日輝は、今、四葉クロエおよび星川芽衣たちと一旦別れ、一階へと続く階段の途中に立っている。
 当初の手筈通り、根岸藍実が巡回してくるのを待つためだ。
 藍実の『通行禁止(ノー・ゴー)』によって展開された見えない壁を解除してもらわない限り、一階に足を踏み入れることはできない。
 東城戦の途中でそうしたように、大声で呼ぶこともできるが、今は少しでも休む時間が欲しい。
 陽日輝は左半身を壁にもたれかからせた状態で、肩で息をしながら藍実が来るのを待った。
 左腕は相変わらず感覚が無いが、渾身の力を込めれば持ち上げることができるということを、先ほど確認してきた。右脇腹は恐らく肋骨が折れているので、あまり激しく動くと内臓に刺さりかねず危険だが、かといってまったく動かないわけにはいかない。
 自分の勝利条件は二つ。
 一つは、安藤凜々花を若駒ツボミから解放し、取り戻すこと。
 そしてもう一つは、この傷の治療を行ってもらうこと。
 前者の条件を満たすためにはツボミに唯々諾々と従うわけにはいかない。そんなことをしていては、これからも凜々花を人質として体よく利用されるだけだ。
 しかし後者の条件を満たすためには、ツボミと決定的な対立はできない。
 ツボミを倒してしまえば、根岸藍実と最上環奈は自分に付くしかなくなる――という非情な手も浮かびはしたが、現実的ではない。
 凜々花と守り守られ、二人で生き抜いていくのに精一杯な自分が、藍実と環奈の命にも責任を持てるかというと、正直自信がない。
 東城から一旦逃れて治療を受けた後で、藍実を誘いもしたが、今にして思うと、とても無責任な誘いだった。
 藍実も、『残酷な誘いですね』と肩をすくめていたが、内心そう思っていたことだろう。
 それに、この深手を負った状態で、ツボミを倒すこと自体が困難だ。
 保健室に足を踏み入れたとき、剣を突き付けてきたツボミのその動作や、彼女が持つ研ぎ澄まされた刀のような隙の無さ。
 自分が五体満足だったとしても、真っ向勝負では苦戦する相手に違いなかった。
 だから自分は、ツボミと完全に敵対するわけにはいかないが、かといって言いなりになるわけにもいかない。
 つまり――ツボミと、『交渉』をする必要がある。
 この北第一校舎に踏み込んだそのときから始まった一連の戦いの大一番が、これから始まるのだ。
 クロエには芽衣たちの応急手当と、どこかに仕舞われているだろう衣服の捜索を任せてある。つまり、ツボミとは自分一人で相対することになる。
 ――正直、一秒でも早く休んでしまいたい気持ちはある。
 ツボミに大人しく従えば、すぐにこの傷も治療してもらえるだろう。
 保健室のベッドとまではいかずとも、ソファーか何かに横になって休ませてもらえるかもしれない。その間の身の安全は保障され、食料にだってありつけるだろう。
 先のことは考えず、ツボミの軍門に下ることで楽になりたいと思ってしまうほど、東城との戦いによるダメージと疲労は大きい。
 しかし――あいにく、そういうわけにはいかないのだ。
 自分は凜々花を守り、生きて帰すと決めた。
 そのためには、ツボミの駒で在り続けるわけにはいかない。
「――暁さん――」
 やがて、巡回にやって来た藍実が、立ち止まって見開かれた目でこちらを見上げてきた。
 驚愕一色だったその目に、少しずつ期待の色が滲んでくる。
 それに応えるように、陽日輝はニヤリと笑ってみせた。
「約束通り――東城は、倒したぜ」
「――ああ――こういうとき、なんて言ったら、いいんですかね――その――本当に、お疲れ様でした」
 藍実は、唇を噛んで頭を下げた。
 その声は、感極まっているのか震えている。
「私、暁さんが殺されてしまうんじゃないかと――正直、半分覚悟してました。ごめんなさい――でも、戻ってきてくれて、嬉しいです。暁さんは――良い人ですから――」
「……良い人、か」
 そんなことはない、と言いたくなる。
 今の自分にとって一番大事なのは、自分の命。
 次点が凜々花で、それ以外は余裕があれば助けているだけに過ぎない。
 そんな自分が、『良い人』なはずがない。
 しかし陽日輝は、その思いを胸に仕舞い、藍実に言った。
「『通行禁止』を解いてくれ。服の下は結構ボロボロなんだよ――だから、早く治療してもらいたいんだ」
「あ、ごめんなさい――そうですよね。分かりました」
 藍実は頷き、一秒ほどの間の後で、「解除しました」と言ってもう一度頷いた。
「ありがとう」
 陽日輝も頷き返してから、壁にもたれかかっていた体を起こし、階段を下り始めた。
 一歩ごとの微かな振動でさえ、右脇腹がひどく疼いたが、ぐっと堪える。
 なんとか階段を踏み外さずに一階に降り立った陽日輝に、藍実が駆け寄った。
「大丈夫ですか? だいぶ苦しそうですけど――」
「ああ――大丈夫。それより」
 陽日輝は。
 その瞬間、藍実に半ばもたれかかるようにして、彼女を抱きしめていた。
「えっ、あっ、え――あの」
 予想外の事態にうろたえる藍実の背中に腕を回し、その際に込み上げてきた苦い罪悪感を噛み締めながら、陽日輝は藍実の耳元で囁いた。
「ゴメン、藍実ちゃん。――ちょっとだけ、俺の『人質』になってくれ」
「何を言って――、――……!?」
 藍実は、自分の首筋に触れるか触れないかの位置に、陽日輝が掌を添えていることに気付き、絶句した。
 『夜明光(サンライズ)』を宿すことができる、掌。
 それを突き付けられているということは、すなわち、陽日輝がその気になれば、一瞬で致命傷を負わされるということを意味する。
 悲鳴を上げかけた藍実の口を封じるように、陽日輝は「待ってくれ!」と囁いた。
 そして、藍実の目を、誠意が伝わることを信じて、まっすぐ見つめる。
 藍実の睫毛の一本一本までもがハッキリと見えるくらいの至近距離、もっと俗な表現をすれば、キスする直前の距離だ。
 藍実は、開きかけた口を少しだけ閉じた。
 どうやら、話を聞いてくれるらしい。
 そう判断し、陽日輝は保健室の方向に視線を向けて異状が無いことを確認してから、早口で続けた。
「ちょっとだけ、俺の話を聞いてくれ。その上で判断してほしい。俺に協力してくれるかどうかを」
「協、力――?」
「ああ。――若駒さんが来る前に手短に説明するから、よく聞いてくれ。俺は、凜々花ちゃんと一緒にここを出て行く。そのために、若駒さんと対等に『取引』がしたいんだよ。藍実ちゃんには、それに協力してほしい」
 ――さあ、ここからが正念場だ。
 陽日輝は腹を括っていた。
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