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第四十一話 遺言

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【8日目:夕方 東第二校舎一階 廊下】

 柔道の投げ技は、普段は畳の上でのみ使われている。
 しかし、もし仮に硬い床や地面で使われたらどうなるか。
 その場合は、文字通りの『必殺技』になり得ると、久遠吐和子は何かの漫画で読んだことがあった。
 そしてそれは決して誇張ではなかったことを、彼女は身を以って知る。
 ただし――吐和子は、必ず訪れるはずだった死を免れていた。
 とはいえそれは、吐和子が意図した行動によるものではない。
 岡部丈泰に投げ落とされているさなか、闇雲に振るった手が『糸々累々(ワンダーネット)』によって展開された無数の糸を動かし、自分の体を吊るすような形で、頭から床に落ちることを回避できたのだ。
 いわば偶然、本来ならなすすべもなく投げ殺されていた場面。
 それに、頭や首こそ打たなかったものの、肩や腰は床に叩き落されている。
 吐和子は、思わず顔を歪めてしまう激痛の中、それでも、今度は意図して腕を動かした。
 丈泰に絡みついていた糸を、再び掴んで引いたのだ。
「ぐっ」
 丈泰が本気を出せば、動けてしまう程度の拘束。
 しかしそれは裏を返せば、本気を出さなければ動けないということだ。
 自分を投げ落とした直後のその姿勢は、力が一旦抜けた状態。
 吐和子は、丈泰の動きを再び止めることに成功していた。
「ハア、ハア、ハア――……!」
 とはいえ、それは一瞬の時間稼ぎにしかならない。
 自分が拘束した丈泰を仕留めにかかるよりも先に、丈泰は再び全身に力を込めて拘束を振り切り、今度こそ自分を投げ殺すだろう。
 なので吐和子が起き上がってしたことは、近くにあった教室に半ば扉を突き破るような勢いで飛び込むことだった。
 辛うじて滑り込んだ、といったほうが表現としては近いだろう。
 床に転がり、乱れた呼吸を整えながら、無理に動いたことによる反動に顔をしかめる。
 それでも、近くにあった椅子を引っ掴み、自分が滑り込んだ際に開け放たれたままになっている扉のほうに視線を向けた。
 丈泰は、扉の前にまで歩いてきている。
 すでに、丈泰に一際強固に絡みついていたメインの糸束は引きちぎられていた。
 『糸々累々』の糸は、ロープやワイヤーのような一本でも強固なものではない――それぞれの糸は、あくまでも蜘蛛の糸のような柔らかなものだ。
 とはいえ、あれだけ絡み付いた糸をまとめて千切れるのは、丈泰の怪力あってのことだろう。
 柔道はほとんどすべての仕掛けが掴み合いから始まる武術――丈泰の握力、そして腕力は、自分の想像を遥かに超えていた。
 その丈泰は、なかなか教室に踏み込んで来ない。
 その間に吐和子は立ち上がり、椅子を構え直したが、そんな吐和子を丈泰はただ静かに見据えていた。
「動けば動くほど糸が絡み付いて、お前が有利になるってわけか」
「……そういうコト。ウチはこの糸をあちこちに仕掛けてるんよ――ハア、ハア――ウチに距離を取らせたのは、間違いだったんじゃない?」
「いいや、そうでもないな」
 丈泰は、糸に引っ張られたことで着衣が乱れたブレザーを直しつつ言う。
「お前がどれだけの範囲に糸を張っていたかは分からない。でも、それなりの距離歩かないとさっきほどの糸の量にはならないのは分かる。だからお前はきっと、俺から逃げ続けようとするはずだ。違うか?」
「……さあ、どうだろ」
 吐和子は、ジリジリと後ずさりをしながら逡巡する。
 丈泰の言う通り、今から再びあの巨体と怪力を一時的にでも抑え込むほどの糸を絡ませるには、それなりの距離を逃げて自分を追いかけさせる必要がある。
 しかし、丈泰の身のこなしからして、足は遅くないだろう。
 自分は校内の女子の中ではトップクラスに足が速いし体力もあるという自負はあるが、先ほどの投げのダメージが残っている状態で丈泰から逃げ続けることができるかは、正直なところ分からなかった。
 ――ああ、これはもう、諦めるしかない。
 ここで意地を張って、無駄死にするわけにはいかない。
 だから――自分一人の力でこの男を倒そうとすることは、諦める。
「そりゃっ!」
 吐和子は、掴んでいた椅子を丈泰めがけてぶん投げた。
 丈泰がその椅子を受け止めたのか、かわしたのか、無いとは思うがモロに食らったのか――それらを見届けることなく、吐和子は駆け出していた。
 教室の奥、中庭へと続く窓を開け、そこから外へと飛び出す。
 チラリと振り返ると、丈泰が同じように窓から飛び出してきていた。
 夕陽がその巨体を赤く染め上げ、一際ハッキリとした影ができている。
それを確認してから、吐和子は顔を上げて叫んだ。
 東第二校舎の三階にいる、仲間の耳に届くように。
「ミリアァァァァ! 助けてーーーーっっ!!」
「!?」
 追いかけてきている丈泰が動揺したのが、気配で分かった。
 無理もない、丈泰からしたら自分と同じ単独行動だと思っていた相手が、突然いるはずのない仲間の名前を叫んだのだから。
 そしてその叫びにあらかじめ備えていたように――彼女の声が返ってくる。
「任せて――吐和子」
 声の方向に視線を向ける。
 その際に丈泰の姿も視界に入ったが、彼もまた足を止め、そちらに視線を向けていた。
 ――そこは、三階の渡り廊下だった。
 渡り廊下の中央で窓を開け、ミリアがこちらを見下ろしている。
 いつもは見ていて不安になるような不健康そうな顔が、今はとても頼もしく見えた。
「――御陵か。仲間と一緒だったのか、久遠」
「……まあね。ホントはウチだけの力でアンタを倒したかったんだけど、やっぱムリ。認める、アンタは強い。東城より強いって噂もあながち的外れじゃないかもしれない――でも、勝つのはウチ『ら』だ」
 丈泰の投げから生還できたのは奇跡に近い。
 実力としては完全に負けていた。単独での逆転の目は皆無だった。
 しかし、自分は一人じゃない。
 来海の『偏執鏡(ストーキングミラー)』によって、ミリアはこの戦いをウォッチングしていたはずだ、だからこそ、あらかじめ好位置に移動していて、助けを求める声にすぐに応えることができたのだろう。
 そして、そのミリアの能力は、『影遊び(シャドーロール)』。
 発動に条件こそあるものの、嵌れば『糸々累々』なんかよりずっと強く、そして恐ろしい能力だ。
 自分は一人じゃない、来海がいて、ミリアがいる。
 三人一緒なら――この男にだって、勝てる。
「大層な自信だな、久遠。御陵の能力は、この距離でも使えるってことだな」
「まあ普通にそう考えるよね。でも、分かったところでどうにもならないよ――ミリアの能力は」
 吐和子がそう言ったとき、ミリアはすでに『それ』を取り出していた。
 警備員室から調達した、黒い筒のような『それ』は、懐中電灯だ。
 ミリアは懐中電灯の明かりを、丈泰――の背後、地面に伸びた影へと向けていた。
 丈泰は、ミリアが何かを投げたり飛ばしたりすることには警戒していただろうが、さすがに懐中電灯の明かりをかわすことはできなかった。
 なんせ相手は光だ、いかに丈泰が俊敏であろうと、スイッチを入れた瞬間には中庭まで届いている光に対して回避など不可。
 そしてその直後――丈泰の肉体に異変が起きた。
「なっ……! 熱ッ……!」
 丈泰の首の下から腹にかけて、あちこちから煙が上がり始めたのだ。
 風に乗り、肉が焦げる不快な臭いが漂ってくる。
 丈泰が焼かれているのは、ちょうど、ミリアの懐中電灯によって照らされている箇所。
「そ、その明かりが――『能力』か……!」
「『影遊び』。影がハッキリしていればしているほど本体へのダメージも大きくなる、らしいよ? 暗い場所だと使えないのがネックかな」
「ぐ……うおおおおおおおおお!!」
 丈泰は獣のような咆哮を上げながら、吐和子めがけて掴みかかろうとし――しかし、そのときにはついに肉体が発火していた。
 首から腹にかけてを焼かれた丈泰は、バランスを崩して倒れ込む。
 それでもなお起き上がろうとしたが、ミリアは懐中電灯を上下左右に動かすことによって丈泰の影全体を入念に照らしていき、その結果として彼の肉体は見る見るうちに焼き焦がされていった。
 丈泰が完全に動きを止めたとき、そこに残っていたのは制服を着た黒い塊だ。
「うえっ……」
 吐和子は思わず口元を押さえる。
 焼死体というのはえげつないものだとよく話には聞いていたが、予想以上だ。
 綺麗に黒コゲになっていたらまだいいが、所々赤やピンクの肉が露出している。
 『影遊び』は人間に対してしか作用しない能力であるため、彼が着ていた制服は綺麗なまま残っているのもまた、その死体を不気味に見せていた。
「……ハア」
 しかし、自分にはやらなければならないことがある。
 今なお煙を上げている焼死体に恐る恐る近付き、ブレザーの胸ポケットから手帳を抜き取った。
 このまま待っていればミリアが駆けつけて、きっと彼女なら自分ほどは抵抗なくやってのけたのだろうが、そう甘えてもいられない。
 自分一人で戦うと大見得切っておきながら助けを求めることになったのだから、これくらいはしておくべきだと吐和子は考えていた。
 ハラパラとページをめくり、最後尾にある能力説明ページを見て、丈泰が能力を使ってこなかった理由を知る。
 そもそも、殺し合いにおいて直接有効な能力ではなかったのだ。
 もし丈泰が戦い向きの能力を与えられていたらと思うとぞっとする。
 しかし、これでようやく自分たちも、他の生徒の手帳を手に入れることができたということか――
「あっ……」
 そのとき、不意に一際強い風が吹き、手帳のページが勝手にめくれた。
 吐和子が先ほどは見落としていたメモが、そこに残されていることに気付く。
 恐らく丈泰が書いたものだろう。
 両親への謝罪と感謝の言葉が、そこには簡潔に残されていた。
 反射的に手帳をパタンと閉じる。
 その文字をずっと見ていたら、何かが崩れてしまいそうで。
「…………」
 生きて帰りたいのはみんな一緒だ。
 このメモを見る前から、そんなことは分かっていた。
 今さら感傷的になるつもりはないし、そんな余裕もない。
 ただ。
「……なんだ。あるんじゃん、言い残したい言葉」
 吐和子は、丈泰の遺体の傍らにしゃがみ、そう呟いてから、彼の炭化した額にためらうことなく触り、見開かれたその瞼を閉じた。
 ――さあ、ミリアたちが迎えに来る前に、こちらから帰ろう。
 ミリアたちに対して、しんみりとした顔を見せるわけにはいかない。
 今は生徒葬会の真っ只中で、生きて帰るためには殺しは避けられなくて、自分はもっと、強く在らなければならないのだから。
 吐和子はそう決意し、立ち上がった。
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