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第一話 疾風

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天啓五年(西暦千六百二十五年)、八月。

延安府には夏の湿った風に乗って、濡れた土の香りが南から吹いていた。

数千年の間、変わる事なく続く大地の薫香である。

南には黄河と呼ばれる大運河があり、古来より多くの人々が此処に住んだ。

この一帯は黄河の支流延河の中流部、黄土高原に形成された土地に置かれた行政区画である。古くは北宋時代に定められ、明代は三州十六県を管轄している。

その中でも綏徳(すいとく)州は交通の要所とされている。

都市の周りを長大な城壁が囲い、外には四方八方に向けて道が整備され、人も通り、物も通る。

南門より十里ほど向かった先に、男が二人、並んで馬を駆っていた。

大柄な一人はそれに似合う大柄な馬に跨り、小柄な一人はやや細い馬に跨っている。

両者とも、決して道を譲らんとばかりに、猛スピードで駆けていた。

暫く並んで走っていたが、城まで八里というところで、大柄な馬が唾を吐き、脚が絡まり出した。

小柄な男はそれを見ると、鞭で馬の尻を思い切り打った。

細い馬は瞬く間に速さを増し、いつの間にか百歩の間ほど差がついていた。

そうした中で、大柄な馬がついに倒れた。

大柄の男は投げ出され、地面へ転がり落ちた。

「やあ! 負けた! 俺の負けだ!」

 男は何事もなく立ち上がると、先を走る男に向かって叫んだ。

 小柄な男は白い歯を見せながら、引き返して来た。

 痩せた馬は汗一つかいておらず、足取りもしっかりしている。

「どうした、豪傑。俺の馬は、あと百里は走れるぞ。」

「いやあ、俺の負けだ。この劉宗敏、感服致した。」

 二人共、二十歳前後の頃合いだった。

ただ、劉宗敏と名乗った大柄な男は、顎に虎の様な髭が生え、やや年が増して見える。太い眉に、厚みのある身体、まるでいにしえの豪傑が絵巻物から出てきた出てきたかの様な、身の丈六尺の偉丈夫だった。

 小柄な男は馬から降りると、劉宗敏と共に道の端へ腰を下ろした。

「劉宗敏、張翼徳の再来が聞いて呆れるぞ。このざまでは、盗賊百人すら討ち払えまい。」

「いや、あんたがただの駅卒ではないだけだ。俺が蛇矛を握れば、千人を相手に出来る。」

 小柄な男は、かはっと笑った。

「千人か、大きく出たな。」

「俺の夢は、北方の兵部尚書になる事だ。後金の蛮族共を蹴散らし、救国の英雄になるんだ。」

 この時代、明王朝は北方の女真族の国家である後金の圧力に押されていた。

 万歴四十七年(西暦千六百十九年)、その勢いを恐れた明は、傘下の国である朝鮮と共に、総勢十六万の兵を以て後金を攻めた。しかし、サルフ(現代の遼寧省撫順市)の戦いで、半数以下であった後金に完敗していた。

 後金軍を率いたのはヌルハチという男だった。

 一代で女真族を統一させ、戦においては無敗を誇る傑物である。

 女真族はかつて、建州女真、海西女真、野人女真の三部族に分かれていた。

 明王朝は金銭や武力を用いて、部族間を反目させ合い、それらを弱体化させる方法をとった。祖父と父を民族間の内紛で亡くしていたヌルハチは、初めは明への恭順の意思を示した。
 
 しかし明の注意が逸れた隙を狙って、ヌルハチは動いた。僅か六年余で民族の統一を成し遂げると、明へ七大恨という宣戦布告を突き付けた。

 第一、明朝は、理由もなく父と祖父を殺害した。
 第二、明朝は、お互いに国境を越えないという誓いを破った。
 第三、明朝は、越境者を処刑したことの報復として、使者を殺して威嚇した。
 第四、明朝は、イェヘ(満州氏族の一つ)の婚姻を妨げ、女をモンゴルに与えた。
 第五、明朝は、耕した土地の収穫を認めずに、軍をもって追いやった。
 第六、明朝は、イェヘを信じて、われらを侮った。
 第七、明朝は、天の意に従わず、イェヘを助けた。


 決別を意味するこの檄文。

 翌年の、サルフの戦いでの勝利。

 その勢いに押された明は、救国の英雄を求めていた。

 そして、志ある若者が都市へ目指した。

 劉宗敏もまた、村を出て官軍に志願する一人であった。

 村では手がつけられない暴れ者であったため、困り果てた老父が焚きつけたのだ。

 劉宗敏を駆り立てたのは若さか、高い自尊心か。

 その日のうちに、得物の蛇矛とわずかな食糧を持って村を出た。

 武で身を立てるのは、農作業より簡単だと思っていた。

 何より、生まれてから自分より強い者と会った事がない。

 力は大人十人に勝るし、蛇矛の技は三十ほど身に着けた。そして
 兄弟同然に育った愛馬、「黒戴(こくたい)」に乗れば向かうところ敵はいない。

 ところが、綏徳城に向かう道中、小柄な駅卒の男からこう声をかけられた。

「おい豪傑、戦に出向くようだが、そんな駄馬じゃ無駄死にするぞ。」
 意気荒くしていた所に、急に冷や水をかけられた格好となった。

 劉宗敏はすぐ頭に血が昇った。

 駅卒から馬鹿にされたとあっては、豪傑劉宗敏の名がすたる。

「やい駅卒、俺を馬鹿にしたな? 競争だ。俺が勝ち、その肉を食ってやる。」

「受けてたとう。負けた者は、勝った者の言うことを聞く。それでいいな?」

「無論だ。俺の名は劉宗敏。張翼徳の生まれ変わりだ。」

 駅卒の男は自分より幾分も小柄であった。髭もなく目も切れ長で、女性的な顔立ちをしていた。しかし声色は鋭くよく響く。街中で流行りの曲などを歌わせれば、女性達はみな振り向くであろう。

 こんな優男の駅卒に負けてなるものか。

 劉宗敏はそう自身を鼓舞しながら、丹田に力を込めた。

 そして、互いに呼吸を合わせて馬の腹を蹴った。

 城へ向かう一本道を、二頭が並んで駆けた。

 暫くは並んだままであったが、二里ほど駆けたところで、黒戴が根を上げ始めた。劉宗敏は目一杯鞭を打ったが、遂に黒戴は倒れて自身は投げ出されてしまった。

 只の駅卒ではない。

 鞭を入れる手合いも、馬に呼吸を合わせる技術も尋常ではない。

 人馬一体とはこういう男の事を言うのであろう。

 劉宗敏は男と向き合いながら、その様相をじっと観察していた。

 涼しげな顔をしているが、放つ気は緩めず、静かに身中で収めている。

 駅卒というより、武芸者に近いと感じた。

 しかし男は劉宗敏と向かい合いながらも、どこか遠くを見ている様だった。

「駅卒仲間から聞いた話だが、今は袁崇煥という文官が軍勢を率いて女真と相対しているそうだ。」

「けっ、科挙上がりが。そんな奴より、俺と蛇矛の方が幾倍も約に立つぜ。」

 劉宗敏はむすっとした表情で、地面を何度も拳で叩いた。

 男はその様子を見て、可笑しそうに笑い出した。

「お前、官僚が嫌いか。」

「大嫌いだ。」

 劉宗敏は益々不機嫌になって、男を睨みつけた。

「さっきから俺を馬鹿にしているな? なあ、あんたに夢はないのか?」

「俺か。俺の夢はな、黄袍を身に纏(まと)う事だ。」

 劉宗敏はかっと目を見開くと、慌てて男の口を手で覆った。

「軽々しくそんな冗談を言っちゃいけねぇ。東廠の連中に聞かれたら、生皮を剝がされるぞ!」

 東廠とは、明の宦官内閣が持つ諜報機関である。

 政治的な陰謀の摘発を目的とし、現在は明王朝を牛耳る大宦官、魏忠賢の意に従わない者を次々と摘発し、酷刑に処していた。

 こういう話がある。

 都の北京から遠く離れた遼寧の酒場で、男二人が言い争いになった。

 一人の男は酷く酔って魏忠賢を侮辱し、もう一人の男が慌てて止めていた。翌日、侮辱した男は身体中の皮を剥がされて殺され、もう一人の男は金を与えられたという。

 当時、魏忠賢の意を受けた大量のスパイが大陸全土に放たれ、人民を厳しく監視していたのである。

「なあに、東廠など、すぐに見分けがつく。」

「おお、それは気になるぞ。どんな奴なんだい?」

「小柄で、目が細い男だ。」

 劉宗敏はぎょっとした様子で、栗の様に大きい目を見開いた。

「冗談だ、劉宗敏。張翼徳の再来なら、それくらいで怖気づくな。」

 男はまた遠くを眺めて、からからと笑いだした。

 劉宗敏は益々、この男が分からなくなった。そして、もっと知りたいと思った。

 この男はやはり、只の駅卒ではない。

 村に出入りしていた駅卒は、もっと弱々しい、息を吹きかけたら飛んでしまいそうな印象だった。しかし、目の前の男は小柄な見た目に反して、強い。その上、男を観察しているつもりが、その煙に巻く様な話しぶりに、いつの間にか自分が値踏みをされている気分になってきた。

「さっきから冗談を言うのは止めてくれ。俺は本当のお前と話したいんだ。」

「本当の俺は、俺にも分らんさ。ただ、駅卒を続けていると、お前の様な男とよく出会う。いずれも力自慢で、己こそが天下一の豪傑であると自負していた。」

「その男達は、それからどうしたんだ?」

「北へ行って、二度と戻らなかった。」

「死んだのか。」

「国に尽くすとは、そういう事かもしれんな。」

「俺は、そうはならん。」

 男は深くため息をつくと、腰を上げた。

「劉宗敏。俺はお前と出会う数刻前、廟に祈りを捧げる貧しい娘を見かけた。」

「こんな時世、廟に祈る奴なんて、珍しくないじゃないか。」

「魏忠賢の廟だ。奴は今、己が神にでもならんとしている。」

「あんな奴に祈ったって、ご利益なんてないだろう。」

「そうだ。そして、娘は祈りながら、こう言った。」

『魏忠賢様! 九千九百歳!』

 劉宗敏は眉間に皺を寄せると、哀しそうに肩を落とした。

「劉宗敏。お前でもこの意味は分かるだろう。皇帝を喝采する時には万歳。そして魏忠賢に対しては。」

「よく分かった。目が覚めたよ。国に尽くしても命を無駄に落とすだけだ。俺は大人しく村へ帰って、親父を助けるよ。」

「それはいかん。お前の様な豪傑を遊ばせておくほど、世は甘くない。」

「ならどうするんだ? 国に仕えても無駄だと言ったのはあんただぞ。」

「負けたら何でも言うことをきく、先程の約束を忘れたわけではあるまいな?」

 劉宗敏は、はっとした顔で立ち上がった。

「駅卒の家来なんざ、お断りだぜ!」

「お前は張翼徳の再来だろう?」

「駅卒に仕えたと言ったら、それこそ世の笑い者だ!」

「俺はいずれ駅卒を止める。その時がくるまで、お前は村で父親を助けるのだ。」

「その時ってのはいつだ。五年か、十年か。そんなもの信用できるか!」

 劉宗敏の文句を背に受けながら、男は痩せた馬に跨った。そして、人差し指を空高く上げた。

「お袋は言った。俺を身籠る寸前、天駆ける龍が腹に入った、と。」

「また冗談を言って、俺を惑わせる気だな?」

「聞け、劉宗敏。いや、義弟(おとうと)よ。俺はやがて明と後金を討ち平らげ、より大きな国を創る。」

 北より雷が鳴った。そして、南より風が吹いた。

「大した法螺吹きだな。」

「俺を信じろ、劉宗敏。北で死ぬはずだったお前の命を、俺が使ってやるのだ。」

「冗談を言っているのではないのか?」

「それが、お前の天命だ。」

 天命。男の言葉に劉宗敏は噴き出すと、やがて腹を抱えて笑い出した。

 なぜ可笑しく感じたのか、初めは自分でもよく分からなかった。

 段々と、手を腹の中まで突き入れられて、中からくすぐられている感覚がする。

 天命。天命か。

 その馬鹿々々しい言葉が、己の全身を駆け巡っていく。

 劉宗敏は一頻(しき)り笑い終えると、その場に膝を付き、男に拱手した。

「面白い。どうせ命を捨てる機会なんてないと思っていた。兄者、俺はその大法螺に乗ってみたいと思ったぜ。」

「ようし。お前はやがて村を捨てて俺と天下を暴れるのだ。それまで、父によく孝を尽くせ。」

「分かった。ただ、困った事がある。俺は、兄者の名を知らん。」

「俺の名は、李自成だ。李自成が兵を上げた、と聞いたら、お前は綏徳の城まで来い。黒戴に跨り、蛇矛を掲げ、俺の道を切り開け。」

「李自成! それが天下人の名か! 覚えたぞ!」

 李自成は劉宗敏に目で合図すると、城の方角へ駆けて行った。

 その後ろ姿を見つめながら、劉宗敏は全身を熱い高揚感に包まれていた。

 もしかしたら、大法螺吹きの駅卒が自分を馬鹿にしただけなのかもしれない。

 しかし、李自成と出会っていなければ、歴史の濁流の中で、自分は消えていた。

 知った風に天を語る駅卒に、そこを救われた。

 劉宗敏は黒戴に跨ると、村の方へ駆けた。

 天下を相手に戦うのだ。黒戴も自分も、もっと強くあらねばならない。

 天命。これまでなんとなく聞いていた言葉が、魂の奥底へ吹き込まれた様な気がしていた。

 劉宗敏は黒戴に揺られながら、遠い遥か彼方を見た。

 どこまでも広がる天と地の間に、新たな道が一本創られていた。

 天啓六年(西暦千六百二十六年)、二月。

 寧遠(現在の遼寧省葫芦島市)の城内は熱かった。

 極寒の大地が囲み、北からは肌を刺す風が吹く中、袁崇煥率いる明軍の士気は高く、その熱気は城内の雪を溶かした。

『必死則生、幸生則死』

 死を必すれば則ち生き、生を幸(こいねが)えば則ち死す、という呉子にある格言を、袁崇煥は二万の兵に説いた。

 袁崇煥は饅頭をかじりながら、北門の城壁の上にいた。

 その視線の向こう一里余り先に、ヌルハチ率いる十万の後金軍が、城の北と東を囲む様に陣を立てている。

 後金八旗と呼ばれる軍団が、それぞれに色分けされた旗を棚引かせ、いつ銅鑼を鳴らして攻めてくるか分からない。

 寧遠は山海関の外郭で辺境守備の大事な拠点であり、此処を失えば再奪取に十年以上を要する上、後金に反撃する大きな一手を失う。

 城はそれほど大きくはない。それでも、他と比べると堅牢な造りをしている。

 一辺一里半の城壁が四方を囲い、四十尺の高さがある城壁の上に、敵楼という櫓が七十二か所築かれ、城壁の突き出した所には、墩台(とんだい)という防御施設が五十近くも設けられている。

 城外には、北西に高い丘があり、南は川が流れている。

 北東より来襲した後金軍は、北面と東面より攻めるのが常道であり、袁崇煥はその二方面に大きく兵を割いた。

 明にとって、決して負けてはいけない戦いである。

 しかし一カ月前、明の後方では大きなトラブルがあった。

 無実の罪から総司令官の孫承宗が更迭され、宦官の高第がその跡を継いだ。

 高第は大戦の経験もなく臆病者であった。

 軍議の場で、高第は遼西を放棄して守りを山海関に絞るように主張した。

 それに対して、袁崇煥を初め明将は尽く反対の意を示した。

 サルフの戦いに敗れて以後、前任の孫承宗は屯田策を用いて後金に抵抗し、七年余り頑強に守り抜いた。

 明将達にとってみれば、いずれ反攻する上で、此処が最重要戦線であり、放棄するなど以ての外であった。

 袁崇煥は鋭い目つきで、八旗の動きを確かめていた。

 中央の軍から伝令がしきりに行き来し、後方には、昨日は見えなかった攻城兵器が並んでいる。

「仕掛けてくるなら、もうまもなくでしょうな。」

 不意に、後ろから声をかけられた。

 振り向くと、孫承宗がいた。

 孫承宗は数日前、兵卒として加わりたいと袁崇煥へ申し出てきた。

 総司令官を解任されてから、退役を自ら請うて故郷へ帰ったのかと思いきや、兵卒と同じ格好をして袁崇煥を訪ねてきたのだ。

 大人しく解任を受け入れたものの、遼西一帯を七年余り守り続けた意地と誇りがある。孫承宗とは、そういう男だった。

「承宗殿、急ごしらえの兵で申し訳ない。五百の歩兵を整えるのが精一杯だった。」

「いやいや。わしの様な兵卒に、鎧を与え、兵まで預けてくださった。ご期待には、必ず応えてみせましょう。」

 袁崇煥としても、文武両道で知られた孫承宗の助太刀は、非常に有難いものであった。

 兵数であれば既に負け戦である。しかし、籠城戦とは各将の采配に大きく左右されるものであり、こちらに優秀な指揮官が一人でも多ければ、苛烈な攻撃であっても十分防ぎきれる。

「手筈通り、承宗殿は満桂の旗下で動いていただきます。」

「満桂、あと祖太寿、あれらはいい将軍になりましたな。袁崇煥将軍の指導の賜物でしょう。」

「彼らは飲み込みが早いのです。しかし、まだ若い。承宗殿の御力が必要です。」

 城内の指揮は、袁崇煥配下の満桂が行っている。副官に祖太寿。さらに東門から一里離れた所には黒雲龍が二千の騎兵を率いて、布陣している。

 誰もが後金との戦をよく知る者達であり、誰もがこの戦の勝利を信じている。

「しかし、将軍。城内の布陣では、西門がやや手薄に思えます。其処の守りには、わしを用いていただけませんか。」

「いや、あれは敢えてあの様にしているのだ。承宗殿は北門で、満桂を助けていただきたい。」

「備えの薄さを見過ごすほど、ヌルハチは甘くはありませぬぞ。強引に丘を越えて、西へ向かう事も考えられます。」

「守らずとも良い。ヌルハチを引っ張り出せば、こちらの勝ちだ。」

「城を守る戦ではないのですか?」

「違う。これは、ヌルハチの首を取る戦だ。」

「この一戦で、あのヌルハチを討ち取ると?」

 孫承宗は目を見開いた。

 冗談を言うな、と言わんばかりに、袁崇煥を見つめた。

「承宗殿、私を含め、貴方達もみな、ヌルハチを恐れすぎている。」

「わしは百万の兵は恐れません。しかし、ヌルハチは恐れます。」

「そうだ。サルフでの敗戦から続く、その恐れを、此処で絶つ。」

 孫承宗の顔は、段々と紅くなっていた。

 袁崇煥は背を向けると、再び後金軍へ目をやった。

 実は、己が最もヌルハチを恐れているのかもしれない。

 女真族の統一、明との五十近い戦、全てに勝利してきた無敗の英雄を、一戦で討ち取る。

 無謀、と誰もが言うであろう。

 サルフの戦い以後、明の兵士たちの誰もが、恐怖を植え付けられていた。

 ヌルハチを恐れるあまり、負けない戦をすればいい、と何処かで全軍が退いた腰になっている。

 しかし、それではいけない。明がこの国難を抜け出すには、必ず通らなければならない戦である、と袁崇煥は城に籠る前から考えていた。

 後金軍を見回していたとき、その中央から、太鼓を持った部隊が出てきた。

「来るぞ! 承宗殿、銅鑼を!」

 孫承宗が手を上げた。城内に銅鑼の音が響き渡る。

 同時に、後金軍の太鼓が鳴らされる。

 やがて、地響きと共に八旗に率いられた軍勢が進みだした。

 隊の中央には破城槌や、木製の塔に車輪を装備した攻城塔が置かれ、そしてそれを守る様に騎馬隊が両脇を固めている。

 城の外は土煙が舞い上がり、十万の後金軍が雪崩をうつ様に押しかけてくる。

 袁崇煥は剣を抜くと、北門へ向かってくる後金軍へ目線を移した。

 攻城兵器を伴っているとは思えないほどの、凄まじい速度である。

 後金軍との距離が半ばまで差し掛かった頃、満桂と手筈通りに備えていた弩弓部隊が、城壁の上に並んだ。そして銅鑼の合図と共に、一気に矢玉が後金軍へ向けて放たれた。

 ただの弩弓部隊ではない。大砲などの大型火器を混ぜた、袁崇煥が実戦の中で調練を重ねた部隊である。

 轟音と共に放たれた砲弾は後金軍の攻城兵器へ集中し、その周りを固めていた騎兵は矢を受けて次々に落ちていく。

 すると、後金軍中央から少数の騎馬隊が出てきた。

 まるで細い糸の様に繋がった騎馬隊は、さながら蛇の様にうねり進んでくる。

 それまで一点に集中させていた明軍の矢玉が、一斉にばらけ始めた。

「あれは目くらましだ! 敵の車を狙い打て!」

 袁崇煥が叫んだ。しかし後金軍は、犠牲を出しながらも速度を増して迫ってくる。やがて、後金軍の迫る地響きのほかに、城壁を更なる振動が襲った。

 東の方だ!

 袁崇煥の額から汗が流れ落ちた。

 下から兵士が一人やって来た。

「報告致します! 敵の槌が、東門近くの城壁へ飛び込みました!」

「破られたか!」

「いえ、孫承宗将軍らが矢を射かけ、崩れる寸前で持ちこたえております!」

 流石だ!

 袁崇煥は己を奮い立たせる様に、剣を力一杯握った。

「ようし! 祖太寿に伝えよ。狼煙をあげ、城外の黒雲龍と連携して後金軍に当たれ。死を恐れるな、必ず打ち払え、と。」

「承知しました。」

 使者は拱手して駆け去って行った。

 北面を攻めたのは、ヌルハチにとっては小手調べに過ぎない。

 騎兵を囮に攻城兵器を突撃させたのは、斥侯の様なもので、本気の攻撃といえる二波は、これから東面へ集中するに違いない。

 しかし、これらは初めから想定していた。

 無敗の将、ヌルハチを破るには、百手を用意して計を用いなければならない。

 北からの速度が緩んできた。だが、尚も付け入る隙を与えてはいけない。

「騎兵に構うな。車に絞って狙い打て!」

 言い終えて間もなく、城内より狼煙が上がった。

 袁崇煥が味方へ檄を飛ばしていた頃、黒雲龍は東門から一里離れた所にいた。

「狼煙が上がったぞ。進発!」

 黒雲龍は槍を上げ、自ら先頭に立って東門へ駆けた。

 袁崇煥から騎兵隊長に抜擢されたのは二年前、二十三の頃である。

 父は駅卒上がりの軍人で、無口な男だったが、騎射の腕は一級品だった。

 父親らしくない人物で、騎射の技術以外は何も教えてはくれなかった。

 しかし誰よりも速く、退かず、敵の真ん中を駆けられる様になった。

「戦には決して退いてはいけない場面がある。お前の度胸を買いたい。」

 袁崇煥からそう言われ、四千の騎兵を預かった。

 黒雲龍は騎射の腕よりも度胸に優れた者を選び抜き、やがて二千に搾り上げた。乗る者の恐怖は、乗られた馬にも伝播する。そうなれば、速度も、与える衝撃も、ガクンと落ちてしまうのだ。

 そして敵を威圧する為に、部下達の鎧は黒一色に染め、黒い馬で統一している。

 黒雲龍の騎馬隊は、やがて東門へ殺到する後金軍の横面を捉えた。

「無駄に追うな! 駆けあがれ!」

 黒雲龍は後金軍の横から突き行った。

 意表を突かれた後金軍は四散した。だが暫くすると、また大きな塊へと集まっていく。

 後金軍の強みは、優れた統率と、その速さだ。

 重い攻城兵器を伴いながら、あるときはひと月に五百里を駆けたこともある。

 黒雲龍の騎馬隊は反転すると、また違う敵軍へと突入した。

 再び敵は四散する。しかし、これで良いのだ。

 少しずつの攻撃でも、後金軍の速度は落ちる。

 そして、動きの鈍った敵を、城壁からの砲撃で確実に仕留める。

 そうしていると、四散していた敵の騎兵が再び大きな塊となった。

 塊は、まるで鏃の様に黒雲龍の騎馬隊へ追いすがる。

 敵が焦れて、黒雲龍へ狙いを向けたのだ。

 だが、それでいい。

 黒雲龍は再び反転した。

「退くな! 俺の背中を追って来い!」

 黒雲龍はまたもや先頭を切って、敵の先頭目掛けて駆けた。

 敵軍の先頭目掛けて槍を突き入れる。

 そのとき、二つの塊が衝突した。

 馬同士が激しくぶつかり合い、凄まじい衝撃が、肌を伝って全身を駆けめくる。

 黒雲龍は退かない。

「俺を追って来い!」

 黒雲龍は馬上で叫ぶと、一騎、また一騎と敵を突き落とした。

 やがてそれは裂傷となって、敵軍の一角が綻んでいく。

 黒雲龍は其処へ突き進んだ。

 背後を追う部下達も、一本の黒い矢となって、それに着いていく。

 そして、遂に敵の中を抜けた。

 一瞬の激突で敵は潰走した。しかし、態勢を立て直した者達は、もっと大きな塊へと合流していく。

 黒雲龍は再び、敵の一部隊目掛けて突貫した。

 敵は四散と集合を繰り返す。

 東面を守る祖太寿は城内の櫓から、その様子を見ていた。

 黒雲龍の攻撃で動きの鈍った敵の車を狙い打つ。

 それでも、東の城壁の一角には、一本太い槌が突き刺さっていた。孫承宗の隊が一早く駆けつけ、更なる攻撃を防いでいる。しかし、二本目、三本目が直撃すれば、いとも容易く崩壊するのは明らかだった。

 驚くべき第二派の強さ。これがヌルハチの軍である。

 黒雲龍、孫承宗、いずれも後金軍と戦い慣れている優れた将だが、攻撃を防ぐ事に精一杯である。

 速度が落ちたところを、城壁上の大砲と、城内からの投石器で仕留める。

 手筈通りに進めているはずが、じりじりと追い詰められていく。

 目の前で、城壁の兵士が射られ、城外へ落ちていくのが見えた。

 既に敵弓隊の射程内に入ろうとしている。

 ここが正念場だ。

 祖太寿は汗を拭った。

 副官たる自分が怖気づいてはいけない。

 東を守り切れねば、袁崇煥の策は破れるのだ。

 やがて、櫓の下へ大柄な兵士達が百名ほど集合した。

「祖太寿将軍! 満桂将軍より、東を必ず死守せよ、との事です!」

 下の兵士達はみな、抱えの大筒を持っている。

 満桂が恐らく、西門の備えを全て東へ回したのだろう。

 兵士達が持つ抱えの大筒は、かつて豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、捕虜にした日本兵が持っていたものである。剛力の兵士しか扱えないほどの重量で、かつ命中精度は悪いが、破壊力と射程は目を見張るものがある。日本兵は小銃と併用する事で、明の騎兵を散々に打ち破っていた。

「みな、狙いは絞らずともよい。撃ちまくれ! 後金軍を近付けるな!」

 兵士達は拱手すると、城壁の上へ駆け上がっていった。

 今は、少しでも弾幕を厚くせねばならない。

 祖太寿は高櫓を下りた。

 今こそ、兵達を鼓舞する時だ。

 祖太寿もまた、兵士達を追って城壁の上へ駆け上った。

 城壁の上では、孫承宗自ら矢を射っている。

 城外では、黒雲龍率いる騎馬隊が激しく動いている。

 北面の城壁の上に、袁崇煥と満桂らしき影が見える。

 祖太寿の全身に、熱い血がふつふつと沸いてきた。

「弩を寄こせ。」

 祖太寿は兵士から弩を奪い取ると、城壁から遥か遠く、中軍で指揮を取っている後金軍の将へ向けた。

 たとえ将を失っても、後金の勢いは変わるまいが。

「みな見よ! 俺があの将を射落とす! 天命は我らに在り!」

 味方の兵士達はみな、困惑した様に見つめてくる。

 あの距離では、矢が届くかどうかすら怪しい。

 だが、今の俺ならやれる。

 陽はやや真上に差し掛かっている。

 北からの寒風は既に、兵士達の熱風に変わっている。

 風は止まない。

 しかし、祖太寿の目には、あの敵将と繋がる一筋の線が見えた。

 風と風の隙間。

 一瞬の間に見えた天命。

 俺なら、やれる!

 祖太寿はやや上に向けて、引き金をひいた。

 弩から一本の矢が放たれた。矢はまるで吸い込まれる様に、その間を飛んだ。

 矢はやがて、見えなくなった。

 兵士達が息をのむ。

 祖太寿が一呼吸した間(ま)、遥か遠くの敵将が、馬上から崩れるように落ちた。

 味方の兵士達が一斉に歓声を上げる。

 祖太寿は二呼吸目、頭の中で、戦いに勝利した自分達の姿が浮かんだ。

 この戦、勝てる。

 祖太寿は右腕を大きくあげると、吼えた。

 兵士達もまた吼える。

 間もなく、後金軍の中で、銅鑼が鳴った。

 東の敵が、水が引いた様に、北へ集まって行く。

 そして、後金軍全体が西へ向きを変えた。

 まるで眠りから覚めた猛獣の様に、地響きを立てながら西へ進んで行く。

 後金軍の先頭が、丘を登り出した。

 北門の城壁の上から、袁崇煥と満桂はその様子を見ていた。

「尾を踏まれ、眠れる虎が、動きましたな。」

「奴らは漸く、重い腰をあげた。勝負は今だ。」

「手筈は整っております。いつでも撃てます。」

 袁崇煥は剣を高々と上げた。

 城壁の上に、三十門の大砲が並べられた。

 紅夷砲。十七世紀初期、明朝に導入されたポルトガル式大砲である。

 強力な破壊力と長い射程距離、高い命中精度を誇る点で従来の火器よりも飛躍的に優れた性能を有している。

 ポルトガル人技師約百名を招聘し、三年をかけて砲手を育成してきた。

 ヌルハチという怪物を打ち倒す、最後の切り札。

 袁崇煥は目の前で動く巨大な生き物を、じっと見つめた。

 サルフの戦いから七年余り、明の誰もがヌルハチを恐れた。

 もしかすると、自分こそが最も恐れてきたのかもしれない。

 その恐怖は、眠る暇も与えてはくれなかった。

 しかし今、遂にそれを断ち切るときがきた。

「満桂、どうして我らは、こうして戦っているのだろうな。」

 袁崇煥は、自分の口から自然と出た言葉の意味が理解できなかった。

 満桂も、訝しんでいる。

 なぜ、問うた。

 誰に、問うた。

 己は国を護る為に、志願したのではなかったのか。

 明王朝は今、魏忠賢という姦賊によって腐り果てている。

 あと十年もすれば、大きな内乱がきっと起こるだろう。

 漢族と漢族が殺し合い、女真はそれに付け込むだろう。

 そのとき、自分が生きていれば、どうするだろうか。

 戦いの果てに国に殉じるか、新たな世に生きるか。

 もしくは、それすら見ずに死んだ方が良いのかもしれない。

 ヌルハチを討った男として記されるのみが、実はよいのかもしれない。

 袁崇煥は目の前の巨大な生き物をじっと見つめていた。

 その生き物を形作るひとつひとつの中に、袁崇煥の眼は吸い込まれていった。

 蒼い鎧を着た老人が、微かに見えた。

 ギラギラと光る眼、尖った顎、白い髭。

 ヌルハチが、いた。

 俺は、ヌルハチを、とらえた。

 その瞬間、袁崇煥の剣は振り下ろされた。

「ヌルハチを、撃て!」

 耳を破り、地が崩れ落ちんばかりの衝撃。

 三十門の紅夷砲が、一斉に火を噴いた。

 撃ち出された砲弾が、次々に生き物の全身を食い破っていく。

 やがて断末魔と共に、大きな生き物はひとつひとつの点へ還っていった。

 大破した兵器が転がり、兵は逃げ惑う。

 八つの旗は地に堕ち、霧散し、消えていく。

 「ヌルハチを撃て! 討て!」

 爆音の中、袁崇煥は絶叫した。

 そして、眼の中央には、はっきりとヌルハチの姿が映っていた。

 側近に付き添われながら、後方へ一目散に逃げている。

 そのとき、ヌルハチが振り向いた。

 その表情に、焦りはない。

 むしろ、笑みまで浮かべている。

 やがてヌルハチの眼はギラリと光り、その閃光は袁崇煥の目を矢のように貫いた。

 刹那、一発の砲弾がすぐ傍らへ落ちた。

 その衝撃で、蒼い鎧を着た老人は、まるで人形の様に宙を舞って、地に堕ちた。

「ヌルハチを殺した! 俺はやった! やったぞ!」

 袁崇煥は天を見上げた。

 気付いたとき、己は城壁の端、一歩で踏み外す位置にいた。

 満桂が、必死の表情で掴み止めていた。

「袁崇煥将軍! 貴方は生きねばなりません。生きて、国を救うのです!」

 陽は、袁崇煥の眼の中へ入っていった。

 天命。袁崇煥はその向こうに、標された光を感じ取ろうとしていた。
2, 1

  


 ホンタイジ。世にそう呼ばれた者は何人もいる。

 漢語では皇太子、皇太極と書かれ、皇太子や副王を意味する言葉であり、遊牧民の間で用いられた君主号である。

 モンゴルにおいては、オイラート族ジュンガル部のホンタイジや、アルタン・ハンの長男ホンタイジがいる。

 遊牧民には、儒教文化である長子相続の制度はない。最も実力のある者が先代の跡を継ぎ、部族を率いるのである。

 女真族を一代で統一した大英雄、アイシンギョロ・ヌルハチの第八子、アイシンギョロ・ヘカンもまた、当時、後世においてもホンタイジと呼ばれている男だった。

 ホンタイジは、ヌルハチのいるゲルの前に来ていた。

 女真族にとって、久しぶりの大敗北だった。

 寧遠城の北面、西面からの攻略を諦め、西へ軍本体を動かしたときに、従来の大砲では決して届かない距離から撃たれた。

 着弾と同時に凄まじい衝撃波が後金軍を襲った。

 自慢の騎馬隊は次々と吹き飛ばされ、数年かけて建造した攻城兵器類は全滅した。

 ヌルハチもまた重症を負い、這う這うの体で五里ほど後退した。

 今は落ち延びてきた兵を再編し、明軍の来襲に備えている。

 しかし、もはや軍とはいえぬ有様だった。

 陣営を守る兵士達の多くは四肢の何処かしらを失い、恐怖に怯え切った兵はうずくまったまま震えている。今、袁崇煥が全軍を率いて襲い掛かれば、呆気なく全滅するに違いなかった。

 ホンタイジがゲルの中へ入ろうとしたとき、男が二人出てきた。

 一人は漢民族の医者だった。腕が良いので、ヌルハチは昔から自らの侍医にしている。

「父上の容態は?」

「鉄の塊が脇腹へ食い込んでおりました。臓が傷つき骨は折れ、あと数日、お命があるかどうか。」
「ご苦労だった。」

 医者は険しい表情をしながら去って行った。

 父ヌルハチが死ぬ。

 ホンタイジは、あまり実感がわかなかった。

 父は、五体がバラバラになろうと、首だけは笑っていそうな男である。

 鉄が刺さった如きでは死ぬまい。

 ホンタイジに、もう一人の男が近づいた。

「やあ、ヘカン。お前が父上の心配をするなんて、珍しいな。」

「誰だ、お前は。」

 声をかけてきた男を見て、ホンタイジは頭をひねった。

 顔に見覚えはあるが、名を思い出せない。

 ヌルハチを父と呼んでいるから、恐らく兄弟の誰かだろう。

「馬鹿っ、お前の兄貴のマングルタイだ!」

「ああ、そんな兄弟もいたな。」

 忘れても仕方がなかった。

 ヌルハチはとにかく、女と戦を愛した。正室が三人のほか、側室側女だけでも十人はいて、子はその倍近くいる。なお、己は側室モンゴジェジェの子だ。

 しかし、ヌルハチは女を愛しても、子は滅多に可愛がらなかった。

 恐らくはヌルハチ自らも、子らを判別できていない。

 どれも凡庸な息子達ばかりで、見るのも嫌なのだろう。

「父上の傍には、誰かいるのか?」

「ドルゴンがいる。相変わらず大層な可愛がりようだ。」

「そうか。一目だけでも会ってくるとしよう。」

 ホンタイジはカーテンをめくって、ゲルの中へ入った。

 奥には虎皮の敷き布団の上に父ヌルハチ、その傍らには第十四子ドルゴンがいた。

 ヌルハチは今年十五になる息子ドルゴンを大変可愛がった。

 色白い肌に、切れ長の目、まるで女と見紛う容姿で、その上幼少より物覚えがよい。

 ヌルハチは、顔色は悪くなかった。

 皮膚にほんのり血が戻り、やや赤みがかっている。

 やがてヌルハチはホンタイジに気づくと、暫くじっとその顔を見つめた。

 命が危うい人間とは思えないほど、その眼はギラギラと輝いている。

 やはり死なないではないか。やぶ医者め。

 ホンタイジは憎らしく感じつつも、ほっとしていた。

 後継者は、ホンタイジと呼ばれている自分に間違いない。

 しかし半壊した軍を、一方的に押し付けたまま死なれては困るのだ。

 今回の戦いで、女真族の若者が多く死んだ。

 まだ広大な土地、数百万の民が残っているとはいえ、指導者たる自分たちはどんな顔をして、兵の父兄に会えばよいのか。

 再び明王朝と対する為には、一連の敗戦の始末をヌルハチ自身が付けねばならないのが道理だ。

 今、死なれては困るのだ。

 ヌルハチの壮健そうな様子を見て、ホンタイジは嘆息しつつも、胸をなでおろした。

「お前は、いつの息子だ。アバタイか、それともバブタイか。」

「父上。私の八番目の兄上、ヘカン様です。」

「ヘカンか。そんな息子もいたな。」

 ヌルハチはさして興味もなさそうに髪をかくと、傍らのドルゴンへ顔を向けた。

「ドルゴン。父はヘカンと二人きりで話がしたい。外で待っていなさい。」

「はい、父上。」

 ドルゴンは立ち上がると二人に一礼ずつして、ゲルを出て行った。

 兄弟は粗暴で凡庸な者が多いが、ドルゴンは違う。

 無表情に見えて、その場の振る舞いを心得ているし、人をよく見ている。

 父ヌルハチの寵愛を受けながらも、周囲へ傲慢にならない。

 生まれた順が逆であったならば、ヌルハチは間違いなくドルゴンを後継者に指名したであろう。

 ヌルハチはホンタイジへ、座れ、という手振りをした後、大きくため息をついた。

「ガツン、とやられたわい。誤算だったのは、わしとお前が死ななかった事だ。」

「我らが死んでも、ドルゴンが跡を継ぐには少し若すぎるかと。」

「みな、お前をホンタイジ、などと呼ぶそうだな。残念だ、お前など生まれなければよかったのに。」

「私をベイレへと引き上げたのは父上でしょう。」

「お前が一番、出来が良かったからだ。城を六つ落としたからといって、正八旗の旗手にもしてしまった。それが、良くなかった。」

 ベイレとは王の事である。この頃は合議制で政治を担った四人のベイレがおり、ホンタイジはその筆頭格であった。

 正直、ホンタイジは、ドルゴンを除けば兄弟はみな愚か者と見ている。

 そして、父ヌルハチを不幸とも思っていた。

 子は沢山出来たが、どれも一軍すらまともに率いれず、特技は酒を飲み、肉を沢山食べることだけ。一代で女真族を統一した大英雄にとって、まともな後継者候補が少なかったのは、彼自身の責任でもあり、不幸でもあった。

 反対に、ホンタイジ自身にとってそれは幸福な事であった。

 ホンタイジは、知勇はどの兄弟よりも優れている上、身なりも立派であることを自負している。誰もが自分をホンタイジと呼び、ヌルハチの後継者として異論を唱える者はいない。

 無用な争いをせずに、代替わりを果たす事が最も望ましいのだ。

「みなはお前をホンタイジと呼んでいるが、わしは口をはさまない。その理由は分かるな?」

「私が優秀だからでしょう。」

「愚か者めが。お前にはとっておきの長男、ホーゲがおるからだ。あれはやがて名将となるぞ。」

「父上に名を覚えられて、ホーゲもきっと喜ぶでしょう。」

 ホーゲは、ホンタイジとその妻ウラナラの間で生まれた第一子である。

 若いが虎の様に勇壮で、自分に似て風貌も凛々しい。寧遠城の戦いでは、騎馬隊を率いて果敢に北面を攻めた。幾つもの傷を負いながらも兵士らを鼓舞し、退くときには殿(しんがり)も務めた。

「それに比べて、お前の体たらくはなんだ。流れ矢如きで落馬しおって。」

 痛いところを突かれた。

 ホンタイジは中軍で指揮をとっていたが、城壁から飛んできた不意の一矢を肩に受けて、馬から落ちていた。

 兵士達に聞くところでは、射ったのは敵の副官らしい。

「そもそも、私は寧遠城を攻める事に反対したでしょう。」

「お前には分かるまい。」

 ヌルハチの顔が、どんどん紅くなっていく。

 ヌルハチは激高すると、髪が逆立ち、顔が酔ったように真っ赤になる。

「袁崇煥が呼んでいたのだ! わしと天命をかけて殺し合いたいと!」

 天命。また始まった。

 ホンタイジもまた、大きなため息をついた。

 ヌルハチは今でこそ軍の後方にいるが、もう少し身体が動けた頃は、常に軍の先頭に立っていた。たとえ無謀な戦であろうとも、兵を鼓舞し、神がかりの戦術で一度も負ける事がなかった。

 やがて六十を過ぎた頃、ヌルハチは天命、という言葉を使いだした。

 ホンタイジはそれに幾度も諫言した。

 天命などと危ういものを信じては、やがて決定的な敗北を味わうに違いない。

 そしてそれは、現実のものとなってしまった。

 無敗の将の、唯一の一敗。しかしその敗戦は、やがて長城を越えて、現在の明の首都・北京を落とし、中原を手に入れる女真族の計画を大きく狂わせてしまった。

 父ヌルハチは、強すぎる故に負けたのだ。

「話は変わるが、お前に手伝って貰いたい事がある。」

「はて、何でしょう。軍の再編は、私にお任せ頂ければ。」

「遺書作りだ。今の妻(おんな)たちをどうするか考えなければならん。」

 自分が死んだあとの部族の行く末など、全く考えないのであろう。

 関心があるのは女と戦だけ。ヌルハチは、何処までもヌルハチであった。

 本当に数日以内に死ぬのか?

 ホンタイジは、この老人の壮健ぶりに、信じがたい気持ちでいた。

「父上は不死身でしょう。遺書など要らぬかと。」

「俺はもう、馬にも乗れんし、剣も握れんのだ。」

「弱気な事を仰いますな。」

「俺は最期まで戦場にいた。己の全力を使い果たして死ぬのだ。これほど幸福な天命はあるまい。」

 ホンタイジは、ヌルハチの指先が微かに震えるのを見た。

 ヌルハチを突き動かして来た膨大な気が、身体の端々から漏れ始めている。

「父上は、死ぬのですか。」

「ヘカン、いやホンタイジよ。三日後の夜、空を見よ。俺の天命を、お前の行く道を、その目に刻み付けておけ。」

 そうして、三日経った。

 妻たちへの遺書を書き終えたヌルハチは、その夜、深い眠りについた。

 これからの女真族の行く末、自分の子らの事、残された遺書には、何も記載されていなかった。

 ヌルハチの傍らには、ドルゴンただ一人がいた。

 ドルゴンは眉一つ動かさず、身体が冷めていくヌルハチを見つめていた。

 ホンタイジはヌルハチに言われた通り、ゲルの外にいた。

 吐く息は白いが、不思議と暖かく感じた。

 ホンタイジは天を見上げた。

 そのとき夜空に、巨大な星が一筋の矢となって地の果てへと流れていった。やがてその跡には、幾つもの新たな星が、ぽつりぽつりと瞬いた。

 我の星は、何処(いずこ)。

 ヌルハチや袁崇煥が感じ取った天命に導かれ、星たちはその姿を顕し始めていた。

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