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第4話『初戦衝動』

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「肩外れてるじゃねぇか」
「トシの仕業だ。ハメりゃ元通りだろ」 
「そりゃトシならキレイに外すだろうがよぉ、痛くて使いもんにゃなんねぇぞ」
「問題ねぇよ、けじめだ」
「はぁ? まだ、ガキじゃねぇか。一体何やったんだよ」
 試合前の俺が連れて来られたのは医務室だった。ベットに横たわっていると、リングドクターという呼び方が適切かどうかは分からないが、おそらくそれに近い仕事をしているであろう白衣の太った中年男と金髪の会話が聞こえてきた。非合法の地下闘技場を仕切るヤクザといえど、中学生のガキを肩が外れっぱなしの状態で試合に出すほど非情ではないようだった。
 ふかふかのベッドに寝ころんだ俺はできるだけリラックスして体力を温存していた。ジムのチビと二回、偽警官と一回で、次も含めれば四連戦になる。受けたダメージはもちろんのこと、体力的にも余裕があるとは言い難い。俺はすでに試合のシュミレーションを重ねていた。普段はほとんど考えて戦うことはなかったが、一日でこれだけコテンパンにされれば考えを改めざるを得ない。
「坊主、肩ハメてやっから、こっちに来い」
 白衣のデブはそう言って、えらくぞんざいな手つきで俺の肩関節をハメなおした。外れていたときよりも痛みが増したような気さえした。ヤブだった。
「外れやすくなってっからなぁ、あんまり乱暴に使うんじゃねぇぞ」
 死ぬほどの痛みに耐えれば、右腕は何とか動かせた。食いしばった奥歯がギシギシとうるさい。右腕の痛みは隠さなければいけなかった。弱点を知れば、相手はそこを狙って戦いを有利に進めようとするだろう。 
「根性あるなぁ、ガキのくせに」
 鼻くそをほじりながら、ヤブ医者が言った。俺は右の拳でその顔面を殴りつけた。「あげぇ」という呻き声。手加減はしたが、痛みが邪魔して思った以上に力が入らない。肩の痛みはますます酷くなった。まともに人を殴れるのは一発ぐらいの薄い期待だ。ヤブ医者は顔を押さえて鼻血まみれで床をのたうちまわっている。
「なぁ、これに勝ったら、俺はどうなんだ」
 俺はヤブ医者に目もくれずタバコを吸っている金髪にそう聞いた。むこうは心底面倒そうに答える。
「誰もお前みてぇなガキが勝てるなんて思ってねぇよ。お前は余興でブチのめされんだ」
「勝ったら飯食わせろよ。腹ペコなんだ」
「話聞けよ、舐めてんのか」
「あの警官もここでやってんのか? 勝ったらやらせてくれよ」
「勝てねぇっつてんだろうが、やっぱ喧嘩売ってんのか」
「じゃあ勝ったら焼肉おごってくれよな。逃げんなよ」
「ぶっ殺すぞ、てめぇ」 
 金髪はみぞおちを蹴ってきたが、俺は笑って受けた。それから十分後ぐらいに下っ端が医務室にやって来て、俺の出番だと告げた。
「やべぇパンチだぜ、このクソ餓鬼。俺、こいつに賭けるぜ」
 ようやく鼻血の止まったヤブ医者がそう言った。

 
 血に飢えたギラギラの目玉がいっぱいあって、ケージはその中央だった。
 リングの上に被さる檻は、吊り下げ式で昇降する仕組みだった。一旦それが降りてくれば、戦いが終わるまでは誰も邪魔はできない。ビビった腰抜けが登って逃げないよう、金網にはトゲだらけの有刺鉄線が張り巡らされていた。これは十分な武器になる。それよりも強力な武器は床の素材で、マットではなくコンクリート製だった。人間の頭蓋骨をカチ割れる硬さだ。
 ここで行われるのは殺し合いだ。
 ずっと持て余していた衝動がついに満たされるかもしれないという期待で、俺の心は高揚していた。同時に自分が死の危険に直面していることを正確に認識した俺の本能はちょっとしたパニック状態で、がたがたと震えながらビビッて武者震いしていた。俺は闘犬だった。闘犬というのはビビッてるから、それを隠すために猛って相手の喉笛に噛みつくのだ。
 シャツを脱いでリングに上がると天井からケージのクレーンが降りてきた。キリキリというチェーンの音が、より一層大きくなった熱狂にかき消される。冷静に一人の人間を完膚なきまでにぶっ壊すことを考えているのは、その空間でたった二人だけだった。
 相手はボクサーパンツをはいて、手足の先をテーピングでグルグル巻きにしたスキンヘッドだった。全身入れ墨だらけで、背丈は俺の頭一つ半分ぐらい高かった。痩せ型だったので絶望的なウェイト差ではないが、リーチはだいぶ違っていた。
 アナウンサーが何かを言っていたが、それよりけたたましい観客どもに掻き消される。やがて誰かがテンカウントを始め、六を過ぎるころにはそれは観客全員に広がっていた。否応なしの始まりの合図だ。熱狂は制御不能の域に達していた。
 お前ら、そんなに俺が死ぬのが見たいのか。
 俺は極限まで卑屈になることによって極限まで攻撃的になっていた。
 カウントスリーのころには、精神統一は完了していた。もはや俺の頭には一つの雑音も入らない。その集中力で、自分に額を伝う汗の動きの一つすら把握できた。相手が少しニヤっと笑った気がした。
 カウントゼロ。
 先に動いたのは相手だった。
 ケージの中央を飛び越して、軽やかなステップで距離をつめたそいつは、超高速のコンビネーションを披露する。
 右ジャブ、左ストレート、左ハイ。
 精密な連撃は、全て俺のガードをすり抜けていた。
 そいつはキックボクサーだった。バチバチのストライカーだ。しかもサウスポー。初めから仕留めるコンビネーションだった。速すぎる。
 俺の反応速度は何とか左のハイキックには追いつく。
 痛めた右腕のガードは間に合わない。偽警官にやられたことを俺は真似していた。打撃のポイントをずらしたのだ。もっとも、俺の場合は相手の動きの起点に近づいたのではなく、向かってくる足先そのものに向かっていった。受けるのは頭蓋骨の一番硬い部分。
 いい音がした。
 俺が少しふらついたとき、相手はすでに距離をとっていた。スピードとテクニックは向こうが上だったが、骨がバキッと鳴るのは確かに聞こえた。こっちの頭蓋骨が砕けたのでなければ、相手の足の骨の音だ。俺の頭は死ぬほど硬い。部位鍛錬で散々鍛えたのだ。中にある脳ミソも冴えていた。相手の動きがいつもより見えている。
 相手はサウスポーからオーソドックスにスイッチしていた。痛みを意に介さないのは、むこうも同じ。間髪入れずにコンビネーションが来る。今度は左右逆。
 左ジャブ、右ストレート、それからキック。
 軸足の骨を痛めているなんて思えないスピードだ。左右が逆転していたせいもあって、やはり俺は最後のキックに反応するのがやっとだった。ただし素直すぎる攻撃だ。スイッチしたってことは、今度は右の蹴りが来るのは分かる。
 ハイ、ミドル、ロー。
 三択だ。
 俺はハイに賭けた。こいつは気が強い単純バカ。足を折られてもすぐさま攻撃に転じた。それが根拠だ。
 あえてガードはしない。もろに喰らってやる。来ると分かっている打撃なら耐える自信はあった。それも賭けだった。首の筋肉に全神経を集中させる。そこだって散々鍛えてきた。
 賭けは両方俺の勝ち。 
 左側頭部で、肉と肉が衝突して爆ぜる音。
 寝るな。意識を保て。
 そうだ、相手にとっての右は俺にとっての左。左腕は自由に動く。
 俺は喰らった蹴り脚をがっちりとホールドした。
 即座にやつは俺の頭髪を掴み返す。もう片方の拳は俺の顔面へ。不安定な体勢で打つパンチには大した威力はなかったが、足元にふらついた。蹴りを受け止めたダメージだった。いや、今日一日の蓄積か。脳が揺れ、肉が痺れる感覚。考えている暇はなかった。二発目のパンチが来る。
 俺は右腕を上げるが、相手の拳は間を抜けた。防御にはならない。
 鼻血が止まらなかった。左右のワンツーを二連続でまともに喰らったせいだ。痛みはともかく、ダメージが蓄積するのはまずい。呼吸が乱れ体力も削られる。だが冷静さは失わない。混乱するな。俺は今どこにいる。
 ステージの床がコンクリートでできていたことを俺は見ていた。 
 環境を利用しろ。
 顔面に喰らった瞬間に合わせ、俺は相手に向かって片足を一歩踏み込む。バランスをとるために、相手の反応が一瞬だけ遅れた。
 コンクリの上なら、立ち技のやつが一番警戒するのは投げ技だ。俺は投げ技なんて使えやしない。だがその恐怖心は利用できる。隙を作り出すには、単純なフェイントで十分。
 その隙で、俺は掴んでいた足先に思い切り噛みつく。
 相手の拳が再び飛んでくる。必死の抵抗だ。噛みつかれるのは予想外だったか。俺は顎の付け根に拳を喰らう。いや、違う。じたばたしているのはフェイクだ。むこうも考えて攻撃し始めている。関節に衝撃を加えて顎を外すつもりだ。
 俺は掴んでいた脚を離した。
 戦果は小指の付け根の肉がひとかけら。最低限のダメージは与えたから、同じ体勢に固執する意味はない。冷静に考えろ。テイクダウンしたとしても、俺にはその先はない。寝技なんて知らないし、右肩もこのざまだ。決着はスタンドでつける。
 足先を負傷したが、相手のピョンピョンと軽いフットワークは健在だった。
 すぐさま鋭いワンツーが決まる。
 床には血の足跡。俺はほぼ防御できていない。休ませないつもりだ。
 それでいい。
 むこうにとっても大好きなスタンドの状態だ。セオリー通り、基本に忠実な戦い方に戻っている。お前はそのほうがいい。そのほうが読みやすい。もう一点、キャッチに警戒して蹴りも使わなくなっていた。
 頻繁にスイッチするので、床はすぐ血だらけになる。いくらか滑りやすくなっているはずだ。そのせいで、スピードはあるが打撃にあまり威力は乗っていない。それも含めて、足に噛みついたのは咄嗟の機転だった。我ながら冴えてる。
 こいつはしばらくワンツーで距離を取りつつ、体力を削ろうとしてくるだろう。そこが俺にとっては正念場だった。死んでも耐えきる。そのうち、ワンツーにローが混じる。ただし、威力はそれほど乗っていない。それも削る攻撃だった。左は骨を折ってやったから、右脚オンリー。遠くからは観客のブーイングが聞こえる。膠着状態だった。気は抜けないが、頭を巡らす余裕はできた。状況を分析し、自分の考えと合致しているかを確認する。
 こいつは俺の組技に警戒している。
 俺はグラップラー(組技系)だ。相手は今、そう思いこんでいる。ポイントは二つ。脚をキャッチしたことと、打撃をほとんどガードできていないことだ。やつからは被弾覚悟で組みつくチャンスを狙っているように見えるはず。右肩が不自由なことをいかに隠すかがこの戦いのテーマだった。俺は自分のタフネスを信じ、偽りの格闘スタイルを隠れ蓑に選んだ。それは攻撃のための布石でもある。
 俺はまだこいつに対して空手を見せてはいない。
 俺はリーチで負けている。懐に入り込む必要があったが、むこうに警戒されれば無理だ。距離の取り方は、俺の古流の空手よりも現代的なキックボクシングのほうが優れている。だからギリギリまで隠し、誘い込む。忌々しいが凶暴性だけでは足りないのだ。小賢しく、頭を使え。
 俺は頃合いを見計らって、相手から距離をとろうとする素振りを見せてやる。後退から、サークリング。いかにも弱ってそうな動きだ。もちろん演技だった。調子に乗った相手は小気味よくワンツーを入れ続ける。
 俺は当てる気のない大振りなフックを放ったりして、闘争心だけのグロッキーの姿をより印象付けた。鼻血で呼吸は苦しいが、まだまだ効いたうちには入らない。俺は来ると分かっているならこの程度の打撃は耐えられる。ペイバックの瞬間が来ると分かっている。寝るのは勿体ない。目を開いていろ。
 熱狂が聞こえる。ぶっ殺せ。誰かがそう言った。
 相手の拳に威力が乗ってきた。血で滑りやすい足場に慣れ、削る攻撃から倒す攻撃にシフトし始めている。だがそんなのは本物じゃあない。本物の一撃ではない。殺す気で殴ってこい。
 俺はローキックを喰らい、ふらついた演技をする。それが最後の仕掛けだった。
 やつはそれに食いつく。
 ニヤっと笑う顔が見える。憎たらしい顔だ。相手の足元。スイッチする。構えはオーソドックス。狙いは分かっている。 
 左ジャブ、右ストレート。
 そして右ハイ。
 読み通り、やつは焦れて止めを刺しに来た。パンチじゃ俺を倒せないのは分かり切っている。だから確実に仕留められるハイを、チャンスに備えて温存していたのだ。ワンツーに体重が乗ってきてからも、ローの威力は変わらなかった。負傷した足先をかばいながら、目的は意識を下に向けてハイキックを活かすことだ。やはり基本に忠実で、だからこそ読める。
 俺はハイを左腕でガードした。
 捌く動きは踏み込みと連動する。
 くっついたばかりの俺の右肩は、一撃だけなら相手に生まれてきたことを後悔させる突きが打てる。負傷を隠すため右腕でガードをするふりをしたが、一発でも事故っていたら終わりだっただろう。相手の打撃の精密さを逆に利用した。おかげで十分に温存することができた。
 脚から腰、腰から背骨を通って肩へ。
 全身の関節が駆動し、踏み込みの勢いを拳へと乗せる。
 激痛が走る。
 衝撃。骨の砕ける音。
 拳は肋骨を破壊して、一瞬肺にめり込み、跳ねる。
 殺す気で打ったが、足りないのは手ごたえで理解した。土壇場で痛みが邪魔をして、鋭さを奪っていた。衝突の勢いでぶっ飛んだそいつは、フェンスにぶつかる。有刺鉄線の棘が体に引っかかって、倒れることはできない。
 俺の肩は案の定外れていた。指先に力を入れることすらできず、用をなさない。
 俺は残った左腕を上げて、ファイティングポーズをとった。止めを刺さなければ。
 矛盾した感情があった。ここまでやって、俺はまだ相手に立ち上がってほしいと望んでいた。
 まだ終わっていない。
 俺ならまだ終わりにはしない。
 こんなところで止めになんかするな。殺す気が失せてしまう。
 祈るような気持ちで相手を見つめる。いつの間にか、ケージの外の観客たちは声一つ上げていなかった。呻き声一つない。誰もが固唾を飲んで見守っている。お前が立ち上がることを望んでいるのだ。俺は自分が殺し損ねた男にそう言った。口には出さず、心の中でだ。しかし、それは伝わらなかった。
 有刺鉄線を握る腕の力が、ガクッと抜ける。心が折れたのは一目で分かった。続行は不可能だ。なんて期待外れだ。
 俺はそいつの折れた肋骨に前蹴りを喰らわした。
 その勢いで、刺さった有刺鉄線がより深く食い込む。痛みの叫びが聞こえたとき、観客たちは爆雷のような歓声を上げた。有刺鉄線で傷がつくのをかまわずに、外からフェンスを揺らすやつもいる。ヤブ医者が何かを叫んでいて、興奮で止まった鼻血がまた出ていた。全て俺の生み出した熱狂だ。
 しかし、当の俺自身は消化不良だった。
 止めを刺す前に俺の気持ちは萎えていた。いつもと同じだ。俺は中途半端な位置にいて、弱いやつとやるには強すぎて、強いやつとやるには弱すぎる。だから勝っても半端な気分にしかならないのだ。
 もっと強くなる必要があった。殺したくて仕方のない相手は何人かいるのだ。そいつらとやれば、きっとこんな気持ちを味わうことなんてないだろう。現状に落胆はするが、展望は前向きだった。俺には次がある。
 ケージを出ると、金髪が何か変なものでも食べたような顔で俺を見つめていた。
「驕ってくれるんだよな」
 俺がそう聞くと、やつは黙って首を縦に振った。
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