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(一)



 二〇二一年、六月十四日。岐阜県中津川市。市の中心部から木曽川を遡上して十キロほど進むと、瓦葺きの横に長い駅舎が見える。坂下駅。予報は当たらず、雲の切れ間からは光も差し込んでいる。国道二五六号は水を欲するように道の端からひび割れている。少し開いた車の窓から、湿った土のにおいが入る。さらに行くと、椛の湖のほとりに簡易な白テントがひと張り、かすかに見えた。ちびてきた煙草を親指と人差し指でつまみ、灰皿に押し付けたその手で次の煙草をくわえて火をつけた。それもちびた頃、車は停まった。
 センターハウスの向こうに二十脚くらいのパイプ椅子が並び、さらにそれを大小の額縁を立てたイーゼルたちが囲んでいる。マスクと白髪で真白けな人たちが立ったり座ったりしている。私は煙草とライターだけが入ったハンドバッグを肩から外す。そこそこ重い。これでも十分だろう。

「サン、ニ、イチ」
陰気な掛け声のあとに紅白の紐が引っ張られると、白い布が割れて石碑が出てきた。【全日本フォークジャンボリー開催の地】と彫られているのをこの目で確かめながら、もう一度煙草に火をつけて私は集団に近づいていった。
「あ、ちょっと、なんだなんだ」「誰?」などと騒ぐ者と、まったく騒がない者とがいた。石碑の除幕をしていた連中は、ほとんど私を見て黙った。あっけにとられる連中に、私はハンドバックをぶつけた。肩紐を持ち、ハンマー投げのように遠心力をつけて帽子の老人をぶん殴った。ご丁寧に石碑なんて。白髪に一撃くれてやった。石碑なんぞ建てるな。後世になんて残すな。石碑をヒールで蹴り上げたが、さすがに動じなかった。それでも、真新しいつるりとした石碑を踏みつけることには少しばかり快感があった。立っている者と座っている者と、新聞記者の持っていたカメラとパイプ椅子をひととおり荒らし終えた私は、石碑の上にゆらゆら立ち、煙草を吸いながら「バイバイブラックバード」を歌い始めた。

 Pack up all my cares and woe, here I go, winging low
 Bye, bye, bye…bye, bye, bye, blackbird
 Where somebody waits for me
 Sugar’s sweet, so is she
 Bye, bye, bye blackbird

一足ぶんあるかないかという狭い石の上で、さらにヒールを履いているから、つま先立ちのようになっている。私はしゃがみ込み、こんどは石碑に座るようにしてヒールを片方ずつ脱ぎ、ぐったりしている老人連中に向かって投げ捨てた。誰かには当たったような気がする。左足も投げる。身体ごと投げ捨てているような気がして、とても軽くなった。ふわりと浮いた。

 Yes…the good life
 Full of fun, seems to be the ideal
 Yes…the good life
 To be free, and explore the unknown
 Like the heartaches

歌詞がうまく思い出せない。「Yes…the good life」のフレーズを何度か繰り返しながら石碑を降りて裸足で周りを歩いていく。芝生、細かな砂利、土、芝生と足もとがつぎつぎ変わる。優しかったり、痛かったりする足の裏の感触を脳まで送り込んで、記憶を引きずり出すきっかけにしてみる。

 Well, just wake up

あれ、ラストに飛んじゃった。でも、まあ、いいか。バックもついていないから、手前勝手に歌い終えてしまえばいいんだ。

 Kiss the good life goodbye…

まさに前後不覚。かつて私が愛された男の作品のように、アレ、ブレ、ボケ。ぐるんぐるん回りながら歩く。歩きながら回る。そんでもってそうこうしているうちに、椛の湖に、わたし、落ちちゃった。それ以来、わたし、上がってこれないよ。
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