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25:Mother-01

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しばし、沈黙が三人を支配していた。
静かな待合室に、時折次の患者を呼ぶ声、会計待ちの人を呼ぶ声が響く。
患者や付添の人間がしゃべってはいけないわけではないのに、その静寂は人の雑談を拒んでいた。
雛の体はふらりと傾いて、左隣の沢口に寄り掛かる。
沢口が雛を見遣ると、彼女は泣きはらした目を閉じて、眠りに落ちていた。彼女の頭の感触を右肩に感じながら、沢口もうとうとしかけていた。
今日一日でいろんなことがありすぎた彼らにとって、この静謐な待合室は、眠るにはおあつらえの空間。
蓄積しすぎた疲労のせいか、目を閉じた瞬間、意識が飛んだ。



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―――…… コウ… ……。

誰かが呼んでいる。



『コウ……』

どこかで聞いた声だ。
ごく最近、何度も聞いた、作り物の抑揚と、電子音でできた『声』。
歌をうたうためにつくられた音。
この声は、…………歌花だ。

だが、歌花の姿はどこにもない。
沢口はあたりを見渡すが、四方八方、霞がかった灰色の空間がどこまでも続いているだけだ。

「歌花?」と沢口が呼び返す。
すると、歌花の声は、楽しげにクスクスと笑った。
声は前、後ろ、左、右、上、下、どこからともなく聞こえてくる。

『コウ、ねえ、やっぱりそうだよ。そうだったよ』
「何がだよ」

くすくす、歌花は笑う。
笑い声は沢口の周りをゆらゆらと踊るように揺れている。
姿は見えないが、歌花が沢口の周りをスキップしながら歌っているように沢口には思われた。

「何がだよ、教えろよ歌花」
『―――ウン。あのね、コウは、間違ってないよ。だいじょうぶだよ』

歌花はなにか、確証を得たようだ。だが、彼女のことばは要領を得ない。
沢口には、彼女の確証が何のことか皆目見当がつかない。

「だから、何が」

歌花は、焦れて苛々とした声を出し始めた沢口を宥めるように、同じ言葉を繰り返した。

『コウはね、だいじょうぶだよ。そのままで、そのままでだいじょうぶなんだよ』

怪訝な顔をしたまま硬直している沢口に、だいじょうぶだよ。歌花はもう一度繰り返した。

「……?生きてなくても、だいじょうぶ…って ことか?」

沢口の問いに、ウン、と歌花は応えた。
意味わかんねえ。沢口の呟きに、歌花はまたクスクス、と笑った。

『おい、コウ』

歌花の口調が突然変わった。

「あ?」
『だから、ヒナを、お願いね、コウ』

歌花の口調が、もとの調子に戻る。
そう、歌花のしゃべり方は、こうだ。
―――初めて会ったころより、多少流暢に喋るようにはなった気がするけど…。
安心しかけた沢口の脳みそに、もう一度違う口調の歌花が語りかけてくる。

『おい、コウ。いい加減に』
「何だよ、何なんだよ。変だぞお前」

姿の見えない歌花が、肩を竦めた…ように思われた。
(姿は見えないが)その仕草。
その口調。
違和感は拭い去れない。
歌花ではない。

『変なのはお前の方だ。さっさと目を覚ませ!』



頭にバシンと衝撃が走り―――目が覚めた。



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沢口の目の前にいたのは、歌花と『同じ』金髪。
しかし、歌花のものよりもくすんだ色合いのブロンドアッシュ。
だが、そもそも金髪以外の共通点が見当たらない。
セスだった。

「歌花じゃねーじゃん!」

沢口の開口一番のひとことに、セスはいつものポーズをした。
そう、歌花がしていたと沢口が思ったのは、このセスのポージングだ。

「何を寝ぼけたことを」

セスの言葉のとおり、沢口は寝ぼけていたのだろう。
彼女がここにいるはずがない、と沢口の中の常識はそう言った。ここは現実世界、ドールである歌花が存在するわけがない。
だが、彼はそれをどこかで信じることができず、ぐるりと周囲を見渡していた。
老婆、小さな男の子、そのこの母親、若い女性、サラリーマンと思しき男性……病院の待合室には幾人もの人がいる。
先ほど眠りに落ちたときの静けさがうそのように、待合室は今、ざわめいていた。

「!!」

診察室に続く、壁も床も天井も白い廊下を曲がっていく人影。
長い髪をなびかせ、角に姿を消す少女。
沢口はそれを歌花だと確信し、音を立てて立ち上がった。

「おい、コウ?」

驚くセスの声を背に、沢口は音を立てて走り、消えた少女を追って廊下を曲がる。
そこには―――



腰まである黒く長い髪をした少女が、診察室の前のソファに腰掛け、俯いていた。
彼女は沢口の立てた音を不審に思ったのか、その顔を上げる。地味な顔立ちのその少女は、歌花とは似ても似つかない。
彼と、彼の立てた音が自分に関係ないものと判断した彼女は、沢口から視線を逸らし、またもとのように俯いた。

「―――…………」

―――そうだよな。そんなはずはない。
沢口は、軽く失望していた。
夢の中の歌花は、沢口はそのままで大丈夫だとしきりに繰り返していた。
その言葉も、夢だったのか。
踵を返す沢口。そのすぐ傍まで、セスが来ていた。

「……おう」

ばつの悪い沢口は、適当な言葉をセスに投げる。
訝しげな表情のセスからは、至極当然の疑問が返ってきた。

「どうした、突然走り出したりして」

―――歌花がいた気が、したんだよ。
セスは沢口を異常者扱いはしないだろう。しかし、何となくそれは言えず、沢口はただ頭を振って笑った。

「悪い、相当寝ぼけてたみてーだ」
「……なら、いいが」

案の定、セスは深くは問わなかった。

沢口は先ほどの雛のように、二度頷く。
一度目は現実を受け止めるために。
二度目は自分を納得させるために。


先ほど腰掛けていたソファまで戻る。
そこには、先ほどまでいたはずの雛の姿はなかった。

「……アレ。……ピィは?」
「先ほど雛君の母親が来た。ルミナ君の病室に向かうと言っていた」
「!何で起こさないんだよ!?」

セスを責めた沢口だったが、呼びかけても起きなかったのはお前だ、とセスにやり返された。

「それは…サーセン」

うむ、とセスが鷹揚に頷く。

「……あの男も来ていた。羽田……といったか」
「……何でだ?」
「経緯はわからない。さあ、おれたちもルミナ君の病室へ急ごう。216号室だそうだ」

沢口は、今度は力強く頷いた。



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216号室。
月島 ルミナ様 と名前が掲げられた個室前。沢口は胸がざわつくのを感じていた。
ルミナの左手は、診察・手当てしてもらった結果、以前のように動くようになっている。そう希望を持ちたかった。
しかし、どんなに希望を持とうとしても、沢口の中の現実感は絶望に沈んでいた。
絶望の根底には、ルミナの左手のイメージを吹き飛ばしてしまったのは、自分自身だということ。
―――ルミナに、自分はどう償えばいいのか―――?
正直、合わせる顔がなかった。だが、顔を見せないのはもっといけないことだと、沢口は知っていた。

セスは沢口の後ろに静かに控えている。
沢口のタイミングでドアを開けろと、そう言いたいのだろう。
恐れる右手を奮い立たせ、ノックする―――

「……はい、どうぞ!」

―――いつものように元気な、ルミナの声が中から聞こえてきた。
その声に許された気になった沢口は、ゆっくりと病室の扉を開いていた。
軽いはずの引き戸が、心なしかやや重い。
スローで開く引き戸の向こう、ベッドの上で起き上がっているルミナ、その傍に立っている雛、弓、羽田、4人の姿がそこにあった。
ルミナは沢口の姿を認めた瞬間、表情を綻ばせる。

「あ、コーちゃん!!」
「ルミ……」

沢口の冴えない表情とは対照的に、ルミナはにこにこといつものように微笑んでいた。
居た堪れなくなった沢口は、ルミナから視線をそらし、俯いてしまう。
だいじょうぶだよ、と言いかけたルミナだったが、弓が言葉を被せて止めた。

「月島さんの左手ですが」

弓の声は、決して声量が大きいわけではない。
が、静かな病室によく響く音をしていた。

「…………完全に、動かない、そうです」
「―――………!!!」

一縷の希望を打ち砕く、静かな裁き。

「左手への運動・反射の神経が、脳からの命令を受け付けなくなってしまったそうです」
「そんな…………」

呟いたのはたぶん、雛だ。いや、セスかもしれない。
沢口には判別がつかなかった。誰が、何を、言ったか。そんなこと、今の彼にはどちらでもよかった。
ルミナの左手がこれから先ずっと動かないことに比べれば、自分が『生きていない』ことさえどうでもいいことのように彼には思えた。
生きていなくても、ここにいて、物に触れられて、人と会話ができる沢口。
生きていても、左の手が自由に動かせず、物に触れられないルミナ。

できることなら、ルミナの、左手が動かない現実と、自分の左手が動く現実を取り換えることができればいい。そう思った。

しかし、ここは現実世界。
そんなことは、できない。

「リハビリの援助は、円条からもさせていただきます。
 これからの、どんな支援もいたしましょう。でも……どんなことをしても……あなたには償えません」

申し訳、ありませんでした。
弓が静かに、ルミナに向かって深く頭を垂れるのに、ルミナは本気で慌てていた。

「そ、そんな!だ、だいじょうぶです、わたし…」

ことばは続かなかった。
両手を上げようとしたのだろう。しかし、左手はうまく持ち上がらなかった。
そんなルミナを見つめていた弓は、毅然とした声で背後の男を呼んだ。

「宗樹君」

ソウキ、とは羽田の下の名前らしい。

「は、はいっ」

呼ばれるとは思っていなかったのか、裏返った声で羽田が返事をした。

「あなたは、自分が何をしでかしたのか、理解していますか?」

こちらを向いていない弓の声に、羽田は明らかに気圧されていた。
声量はさきほどから上がっていない。しかし、今までの弓とは、威圧感が違っていた。

「ぼ、僕は、新しい流行を作り出して、グループに貢献しようと……」
「あなたは、プロジェクトマネージャにはなれなかった。
 企画部長にもなれなかった。その意味を、理解していなかった…」

くるり、と体ごと振り向いた弓に気圧されて、次期会長の『愛人』から、ただの優男になり下がった男、羽田宗樹は、数歩後退した。

「どうして私が、秘書という名目であるにもかかわらず、あなたを現場に出さず、秘書としても働いてもらわなかったのかわかりますか?」
「それは、あなたが僕をいつでも傍に置いておきたいから……!」

羽田の言葉に、弓は頭をゆっくりと振っていた。

「あなたは、家にあまり帰らない私の、傍にいるつもりなの?」
「…………」

言葉を捜している羽田に、弓はきっぱりと言い放った。

「あなたには……社会人としての自覚と常識が欠けている」

雛は、目の前で交わされている二人の会話に、違和感を覚えていた。
羽田は、母の愛人なのだと思っていた。
円条家に一室を与えられ、自由気ままに歩き回っていたからだ。
だが、別に母から聞いたわけではなかった。なんとなく、暗黙の了解のようにやり過ごしていただけだった。
それはおそらく、羽田本人が、自身が弓の愛人であるかのようなふるまいを見せていたから―――。
それだけのことで、実際のところは、事実無根の、雛自身にもあった思い込みだったのかもしれない。
いや、そうだったのだろう。
弓の視線は、好きな男を見つめるそれではなかった。
露ほどの媚も、甘さも、感じられなかった。

「私は、あなたの生前のおじい様に、とてもお世話になりました。
 ご逝去の前に、私に、あなたを頼むと―――何度も何度も、そう仰っていた。
 わたしはそのご意向に従いたかった―――でも…」
「もう、もう、やめてください……」

弓の話に、すべてを理解したのだろう。
完全に脱力した羽田は、病室の床に座り込んで号泣していた。
今ごろになって、自分のしたこと、それによって引き起こされた結果の重さを、自身で受け止めたのかもしれない。だが弓は、言葉を止めなかった。

「……あなたには、良識と、想像力が足りていない。身内とはいえ、あなたがしたことはデータの窃盗。グループの名誉を汚すことに繋がるのですよ」

そんな簡単なことさえわかっていただけないのであれば、これ以上円城グループに所属させておくわけにはいきません。

「……あなたのおじい様には大変申し訳ないのだけれど……」

いろいろ教えてきたつもりだったけれど、私には、あなたの矯正はできなかった。
弓はそう言って羽田に背を向け、今度は雛のほうを向いた。



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「雛、あなたがしたことも、正しいことではありません」
「……はい……ごめんなさい……」
「ごめんなさいで済むことじゃないわ」

弓は動かない左腕を右手で庇っているルミナを見遣り、雛をもう一度叱った。

「世の中には、どう頑張っても本当には購えないことが存在するの」

代わりにお金を差し出したり、何かで便宜をはかることはできるかもしれない。

「でも、その人にとってかけがえのないものを奪ってしまったとき、あなたはどうやって償うの?ごめんなさいって頭を下げる?これから稼ぐ財産をその人に分け与える?いっそ命を投げ出す?
そんなこと……」

本当は解決策になっていないのよ。
解決したふりをしたりさせたりするだけ―――
弓の言葉に、雛はうなだれたまま動けない。
一方的に叱りつづけている弓に、ルミナはだんだん腹が立ってきていた。
雛にいつものように理路整然とした理論で言い返して欲しかった。
雛ができないならセスでもいい。
雛が叱られっぱなしだというのは理に適わないはずだ。

雛はただ歌花を作って、それが未完成だっただけだ。
それを持ち出されてしまって、取り戻したいと友人を頼った。
それがいけないのだと雛の母は言っているのだろう。だが―――ルミナは納得できない。
セスが口を挟めないのは、ハッキングした張本人だからかもしれない。
ならば。今雛を庇えるのは、ルミナしかいない。

「ピナちゃんは!悪くありません!」

思わず口をついて出た、雛を擁護する叫び。
弓は思わぬ叫びに驚いて、ルミナを振り返る。その場にいる全員が、ルミナの叫びに息を呑んだ。

「コーちゃんも、セス君も、歌花ちゃんも、誰も悪くないんです!」

それから、床で呆然と座っている羽田を指差す。

「そもそもこの人が悪いんじゃないですか!」
「そもそもの原因はそうだけど、事態をさらに悪化させたのは…」
「ピナちゃんのせいだなんて、わたしは思わない!」

だから!
そこまで強い口調で言ったルミナだったが、勢いはそこで落ちた。

「もうやだよ……」

ルミナの黒目がちな大きな瞳から、涙が零れおち、弓は口をつぐんだ。
正論であろうとなかろうと、これ以上の雛への叱責は、当事者であるルミナを傷つけるだけだ。

ただ、恐らく彼女はまだ考えていないだけだ。
これからの生涯で、左手が使えないことの不自由、不便について。
利き腕が残ったのを不幸中の幸いと彼女は思っているのかもしれない。
だが、これからふと日常で小さな、大きな不自由に出会ったとき、彼女は考えざるを得ないはずだ。
本来であれば使えたものが、理不尽に使えなくなったことに、多少なりとも憤慨するはずだ。普通ならば。

これから彼女が生きていく数十年という時間を、不自由な左手がどれだけ邪魔をするか。左手が自由であれば、どれだけのことが容易にできるのか。
そのことへの対価は、何をもってしても払えない。

弓が向き直り改めて見た、うなだれている雛の目許は赤く、眼窩が窪んでいた。
話の一端すら弓は掴んでいなかったが、一端でおおよそのことはわかった気がした。
沢口コウの不可思議な能力にかんしてはなんとも言い兼ねるが―――

「雛」
「……はい」

掠れた声で、それでも雛は必死に返事をする。

「あなたがわたしを信じられないのはわかる。あなたの傍にいない。あなたと話をしていない。あなたが嫌っているこの人を家に置いていた―――」
「…………」

雛は返事をしない。
弓は続ける。

「―――それでも、わたしは…あなたの味方ですよ」
「…………」

それは忘れないで。
毅然とそう言い放った弓は、努めて母の顔を作っていた。
弓が雛の母として、母らしく過ごした時間は、18年という年月のなか、決して長くはなかった。産後しばらくは休職し、雛が小学校にあがるくらいまでは早く帰宅して共に過ごすようにしていたが、雛が小学生になったころ完全に復職してからは、以前と同様ハードスケジュールをこなして、家に帰らないようになった。
だが、弓は雛の母であることを止めたわけではない。次期円条グループ会長になる弓は、母であるだけではいられなかった。
―――それでも。

「わたしは、あなたの味方をする」

あなたが犯罪をおかしたら、罪は償わせる。でも、あなたを否定することは絶対にしない。
弓はひとつひとつのことばを自分自身咀嚼するようにして生み出す。雛に繰り返して来た、不出来な母なりの教育。

「あなたのしたことは、わたしがさせたことです」

雛の双眸から、今日最後の涙が零れ落ちた。

「コウ君たちの後でもいいから思い出して。……わたしはあなたの味方だから」
「……おかあさん」

雛は彼女を、久しぶりに母と呼んだ気がした。
それでも違和感はなく、母と呼んだ瞬間、彼女は自分の母なのだと雛の中でどこか納得していた。

「ばかね、そんなに泣いて」

そう言った弓の目にも涙が浮かんでいた。
たどたどしく伸ばされた手が雛の髪を撫でる。
抱擁はなく、頭のカーブをなぞる弓の手は冷たい。
それでも、雛はその手を温かいと感じた。



その温度に、嘘はない。
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