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33:Electro Summer-03

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夏。外は茹だるような暑さが続いている。蝉の鳴き声がうるさく、それが殊更暑さを助長する。
部屋の中はエアコンが効いていて、暑くはない。
だが、室内にいるはずのルミナは今、『暑い』と思っていた。

「ルミナちゃん、腕上げて」
「あ、はい」

腰回りをするりと腕が通り、紐がきつく胴を締める。

「ここちゃんと締めておかないと崩れちゃうから」

ルミナのやや苦しげな表情をちらりと見た沢口の母は、手は緩めずにそう言った。

「はい」

紐を結び、型を正す。帯を結び、また直す。胸の下あたりの紐が一番きつかったが、やがて慣れてきた。
かたちを整え終えた沢口の母は、ルミナの型紙を入れたお腹の帯あたりをトンと叩いた。

「はい、おわり。べっぴんさんのできあがり」
「わ、ありがとうございます」

姿見の前には浴衣を着たルミナがいる。生まれて初めて着た浴衣に、ルミナは鏡に映る自分が自分でないような錯覚を覚えていた。
沢口の母は満足げに頷くと、髪も結ったほうがいいねと呟きながら、和室の襖を開き、沢口の妹を呼んだ。

「茜ー!ちょっと来て!」

よく響くその声は、無事に相手に届いたらしい。遠くでくぐもった返事がした……気がした。
やがてそれが正しかったと証明するようにパタパタと階段を下りてくる音が聞こえ、沢口の妹、茜が姿を見せた。
茜はルミナに一瞥を寄越してから、母に視線を向ける。

「なーに?」
「茜、ルミナちゃんの髪の毛結ってあげて」

母の提案に、茜は半ば予想していたのか驚きはしない。しかし、やや不服そうな表情を浮かべて聞き返す。

「……あたしが?」
「あんた美容師になりたいんでしょ。練習練習」
「美容師じゃなくてスタイリスト!」

母は茜が言い返すのなどどこ吹く風で、片付けの作業に入ってしまう。茜は母とルミナを交互に見比べてしばし逡巡していたが、やがて肩を落としつつ頷いた。

「じゃ、こっちきて、ルミナさん」
「あ、はい」

ここに座ってて、とダイニングの椅子にルミナを座らせた茜は、再びパタパタと足音を立てて自分の部屋へと戻っていった。
茜とは何度か沢口宅で食事を共にしていたルミナだったが、正直なところ、彼女と打ち解けた感じがしていなかった。
茜が沢口に対して思い入れがある――いわゆるブラコンという気質を持っている――ようには見えなかったが、茜からやや敵意に似たような感情が向けられているのを、ルミナは感じていた。
あまりいい感情を抱かれてはいない。原因はわからないが、現象としてはわかる。
ルミナはやや落ち着かなくなり、今着せられたばかりの浴衣に目を落とした。白地に桜色と、ラメのようなきらきらとした色が華やかに散っている。

昨日、祭りと言えば浴衣だよなと沢口に言われたルミナは、持ってないし着たこともないよと正直に答えた。
夏祭りに行ったことがないのだから、それも当たり前のことかもしれない。沢口はやや納得し、それから何かを思い出したかのように指先をパチンと鳴らした。
――浴衣ならうちにいっぱいあるから、母さんに着せてもらえ。
そして今日。遠慮するルミナを引きずってきた沢口は、母に彼女を引き渡すと、自分はさっさとどこかに行ってしまった。
自分が邪魔になることを知っていての行動だったのだろうが、やや慣れてきたとはいえチームメイトの家にひとりきりにされてしまうことに、ルミナは若干心細さを覚えていた。
沢口の母はルミナの緊張など意に介さず、何着かあった浴衣を持ってきて、ルミナちゃんどれがいい?とにこにこと笑っていた。
その中で、ぱっと目についたのが、今着ている白地の浴衣だった。
期待は緊張に打ち勝ち、緊張はいつの間にか解けていた――はずだった。

茜に髪を結ってもらうことになり、忘れていた緊張が吹き返す。
不意に、外ではしゃぐ子どもの声が聞こえてくる。
夏祭り当日。約束が叶うことに、ルミナは安堵し、そしてうれしくてたまらなかった。
雛の行方はまだわからない。そんなときにこんなに喜んではいけないと思うものの、溢れる感情は止めようがなかった。

天候は晴れ時々曇り。もっとも、気温は高いまま下がらない。日差しを隠す雲がでると過ごしやすくなる気もするが、基本的には湿度が高いため、本当は気休め程度なのだろう。
時刻は夕方に差し掛かっている。だいぶ日が下がってきた。だが、まだまだ暑い。
エアコンが効いた部屋にいるものの、浴衣や緊張でルミナはやはり暑いとしか思えなかった。

生まれて初めて着た浴衣の感想は、「暑い」と「苦しい」。
ぎゅうと締め付けられているおなか周りは、座るとやはりきつい。座っているうちにまた慣れてきたものの、帯周りは蒸してきて暑い。
しかし、初めて着た浴衣はきれいで目新しく、「暑い」、「苦しい」以上に「楽しい」、「嬉しい」ものだった。

嬉しくなって袖をパタパタとさせてルミナが遊んでいると、茜が道具を携えて階下へとやってきた。
見られた、とルミナが一瞬ばつの悪い表情を見せたが、茜は無反応だった。

「……アップでいい?」
「うん、お任せします。よろしくね、茜ちゃん」

ルミナがそう言うと、茜は複雑な表情で頷いた。

櫛で髪を梳かれる。誰かに髪を触られるのは意外と心地よい。
基本的に自分で髪を結うことしかなかったルミナは、他人に髪を結われるのが初めてだった。
記憶がないだけで、幼い頃母親に結ってもらったのかもしれなかったが――。

茜はルミナの髪を解す。その手つきは相当慣れていて、『練習』など要らないように思えた。
友達などを相手に、練習をしてきたのかもしれない。ルミナはそう思った。
髪の房を分け、また梳かす。やがて、茜はポツリと口を開いた。

「……髪、すごくきれいだね」
「そう?ありがとう」

艶やかで傷んでいないルミナの黒髪は、櫛も指もするりと受け入れた。

「巻いてもいい?」
「うん、どうぞ」

ヘアアイロンを取り出した茜は、コンセントを入れ、電源を入れる。茜との会話が途切れる、と思ったルミナは、自分から言葉を繋いでみた。

「スタイリスト、目指してるの?すごく手慣れてるよね」
「……」

返事はない。目の前に置かれたスタンドミラー越しに茜の表情を覗うと、沈んだ表情をしていた。

「……どうか、した?」
「ううん……」

――何でも、ないです。そう言う茜の表情は、何でもないというものではなかった。
この表情の原因は自分かもしれない。そう思ったルミナは意を決して踏み込んでみることにした。

「わたし、何かしちゃったかな」
「……」

茜は少し戸惑った後、ゆるゆると頭を振る。鏡越しに見えるその目には涙が浮かびつつあり、ルミナは思わず茜を振り返った。

「茜ちゃん」

ルミナが振り向くと、茜はふいと横を向いてしまう。
何度も瞬いて涙をごまかそうとするものの、ルミナは彼女の涙を見てしまった。なかったことにはできない。

「……話して?」
「……」

堪えきれず一粒だけ涙をこぼした茜は、返事はしなかったがルミナに鏡の方へ向けとジェスチャーした。
ルミナが方向を転換する一瞬で茜は涙を拭ったのか、頬を伝ったはずの涙は消えていた。
ヘアアイロンが十分に熱されたのか、小さいオレンジのランプの光が消えた。
ルミナの髪をゆるく巻きながら、茜はまたぽつりとつぶやいた。

「……その浴衣」

ルミナは、自分が返事をしないほうが茜は喋りやすいのかもしれないと思い、黙っていることにする。
アイロンで髪を巻き、数秒置く。アイロンから髪を解放すると、ふわりと緩やかなウェーブを描く。
それからもう一房をとり、繰り返す。
茜はゆっくりと喋った。

「雛ちゃんの、お下がりなんだ、それ」
「……」

白地に桜が散る浴衣。これに、雛が袖を通した。

「あたし、雛ちゃんのお下がり、よくもらってて」

雛ちゃんて、ほんとに小さい頃はもっとお嬢様っぽいスカートとか穿いてたんだよ。でも、あたしが同じものを着たときに似合わないからって、自分の服装を変えたの。
茜はルミナの返事など気にせずに一人で話している。
長かった髪も切って、あんまり高い服着ないようになって。
服を買いに行くときはだいたい一緒に行って、あたしに見立てさせてくれた。

「あたし、雛ちゃんが着たい服、着れなくなっちゃうよって言ったの。そしたら」

――わたしはセンスないから。茜ちゃんに選んでもらいたいんだ。

「雛ちゃんは、あたしのセンス好きだからって」

虚像の茜をルミナは見遣る。髪の長さ、着ている衣服等、確かに雛に全体的なイメージが似ている気がする。
否、今の話からすると、雛のほうが茜に似ているのだろう。
ひとつの解答がパチンとはまったルミナは、茜に訊ねる。

「……それで、スタイリスト?」

茜は頷いた。
泣きそうになっていたのは、ルミナが雛の浴衣を着ているのを見て、雛の不在を思い出したのかもしれない。

「……ごめんね。ピ、雛ちゃんが大変なときに、浮かれちゃって」
「……」

四六時中心配していれば雛が帰ってくるわけではない。
茜もそれはわかっているのだろう。小さく頭を振る。

「……ルミナさんは別に悪くないってわかってる。だけど……雛ちゃんがいないときに、雛ちゃんの居場所を、取らないでほしかった」

沢口宅で囲む食卓。ルミナが座っていた場所は、雛の定位置だった。
雛の存在がすっぽりと抜け落ちて、代わりにルミナが居座った。そんな風に茜は感じたのだろう。

「……茜ちゃん」

ルミナの呼びかけに、茜は鏡越しの視線を寄越す。ルミナも鏡越しに視線を合わせる。

「わたしは、コーちゃんや茜ちゃんたちにとっての雛ちゃんの代わりには絶対なれない」
「……」

――でも。
続けられるルミナの言葉に、茜が動かしかけた手を止める。

「わたしの分の居場所も、少しだけ作ってくれると、嬉しい、かな」

茜は返事をしなかったが、ルミナと鏡越しに合わせた視線は逸らさなかった。
髪を巻き終えた茜はヘアアイロンのコンセントを抜き、少し離れたところに置く。
櫛とピンとで器用に仕上げたヘアスタイルを、スプレーでセットした後、桃色の花の髪飾りとフェイクの真珠のピンでさらに飾る。
髪を無造作に下ろしているよりも、ずっと華やかになった。巻いてふわりとした髪は白地の浴衣と合わさると可憐な印象を与える。
鏡に映る自分がますます普段の自分から遠ざかり、ルミナは思わず声を上げた。

「すごいね、別人みたい!……自分で言うのもなんだけど」

ルミナが素直に驚いていると、茜はようやく少しだけ笑った。

「これだけ気合い入れたら、あの鈍感な兄ちゃんも、意識しちゃうね、きっと」

ルミナが返す言葉に迷っていると、茜は背を向けて言葉を繋げる。

「兄ちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「……」

見てればわかるよ、と茜は肩を竦めた。
線が細い茜の背は、小さく肩を窄めているせいでさらに小さくなる。
拒否はない。ただ感じるのは、戸惑い。

「……がんばってもいいよ。でも、あたしは雛ちゃんの味方だから」

――雛ちゃんが本気出すなら、あたしは全力で雛ちゃんの応援するから。
ルミナは薄く笑み、「覚えておくね」と頷いた。



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日が傾き、沈んでいく。普通の人間であれば、夕焼けは足を止めてその美しさを眺めたりするものなのかもしれない。
足を止めなくても、そもそも気を止めていなくても、夕焼けは積極的に嫌がられるものではないのではないだろうか。
彼女にとっては違った。
夕焼けとは帰宅を促し、暗闇への警鐘を鳴らすものだった。
まだまだ明るいようではあるが、気を抜くとすぐに世界は暗くなってしまう。
確かに街灯はあるものの、世界には暗闇のほうが多い。
一体暗闇のなにが怖いのか、説明することは難しい。

暗闇から、何かが這いでてきそうな――そんな気がするのだ。黒い、のっぺりとした、人ではない何か。幼い頃の想像力が生み出した、現実にはいない怪物。

だが、本当はわかっている。そんなものは存在しない。
こわいと思っていた気持ちが強すぎて、ただ、『こわい』という気持ちだけが残った。
原因は、暗闇。それさえ、そう思いこんでいるだけなのかもしれない。それでも。
恐怖を覚えているから震えるし、周囲を何度も確認したくなる。背後を見るのが嫌で、小さな物音にも敏感に反応する――。

「きゃっ!」
「あー、わり、ポケットにゴミ入ってた」

突然ガサッと音がして、ルミナは小さく飛び跳ねた。
音の正体は、沢口の尻ポケットに入っていたパンの袋だった。コンビニで買い食いをして、空いた袋をそのままポケットにつっこんでいたらしい。
わかってしまえば何も怖くない、はずなのに、一度早まった鼓動はなかなか落ち着いてくれない。

「ごめんな、ルミ」
「だ、だいじょうぶ」

スニーカーですたすたと歩く沢口の斜め後ろを、カラン、カランと下駄の音を鳴らしてルミナが歩く。
最初は隣にいたのだが、やや後方にいたほうが落ち着くのか、ルミナは沢口が歩みを緩めても、隣に追いつこうとはしなかった。
そのため沢口も無用にルミナを待とうとせず、ルミナの歩みに合わせて斜め前を歩いていた。

ルミナの後方には、父親に手を引かれ、沢口たちと同じ方向へ歩いている男の子が、楽しげに笑っている。
目的地は沢口たちと同じなのだろう。親子連れはルミナが慣れない下駄で歩く速度と同じくらいの速度で歩いているので、男の子の話をずっと聞きながら二人は歩いていた。
幼稚園の友達の話、昨日見たアニメの話、お気に入りの特撮ヒーローの話――。話についていけていない父親をよそに、上機嫌の男の子は喋り続ける。話したいことがたくさんあるのだろう。沢口とルミナは何度か顔を見合わせて笑った。

「あたしも、そうだったな。『おとーさん』、あんまり家にいなかったから」

あたしは『おとーさん』と話せることがうれしくって、矢継ぎ早にいろんなことを喋って、それでも『おとーさん』は一つ一つ頷いて聞いてくれた。
――懐かしいな。ルミナはそう言って笑った。

「今もそうなんじゃねーの?」

沢口の何気ない問いに、ルミナはゆるゆると頭を振る。

「最近は……あんまり。忙しくて家にも帰ってきてないから。しばらく顔も見てないの」
「そっか、大変だな」

慣れてるからね。ルミナは笑う。
寂しいという感情を多少は含んでいるものの、その表情を作る主な感情は、『諦念』であるように思えた。
沢口が自分自身に期待することを諦めているように、ルミナは他人からの行動をあまり期待していないのかもしれない。――否、沢口から、を除いてだが。

祭の明かりが近づいてきた。笛の音、太鼓の音、人の笑い声。
あの場所は確かに明るい。

「いこうぜ、ルミ!」

そう言って差し出された沢口の手にルミナが首を傾げていると、沢口はやや顔を紅潮させつつ、ルミナの右手をつかんで歩き出した。

「!」

背を向けてぼそりと沢口が何かをつぶやく。
風に乗り、微かにルミナの耳に届いた音は不明瞭だった。

なんて言ったの?ルミナはそう訊ねた。

沢口は答えなかった。
沢口の耳が赤いのが、ルミナにも見えた。
つられて、ルミナも赤面した。







ドンッ。

大きな音が炸裂する。
花火――ではない。

暗くなりかけていた世界に、目映く光る白。
その中に立っている、カラフルなボーダーシャツを着た、少年とも少女ともつかない『人間』――


――――――月虹だった。



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