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 床の抜けた社から霊犬――シロを運び出すことは、三十路を越えた運動不足の男には重労働であった。なんで霊なのに重いんだと八つ当たり気味にぼやいたがシロからは勿論、蛇神からも返答はない。社の外へ引きずり出すのが精一杯で、半壊していた階段の下にシロを寝かせると、鱗道は形の残っている段へ腰を下ろした。深く息を吐く間、今後は運動をしようなどと考えるも、少し経てば忘れてしまうのだろう。
『よく手を退かなかったね』
 今日一日ですっかり慣れたように、蛇神が細く小さな体を鱗道の首に巻き付けて頭をもたげた。食われる前より小さいのは、取り憑いた蛇の個体差だろう。蛇神の言葉に顔を上げ、鱗道は何度目になるかも分からない深い息を吐く。
「俺はアンタを信じてる。床が壊れるほどの大事になるのは想像していなかったし、腰を打った時には少し後悔したが」
 鱗道は言いながら、視線を蛇神からシロに下ろした。鱗道が引きずったからだろう、真っ白であった体の半分は土や苔にまみれているが、時折地面や向こう側の景色が見えるほど透ける事がある。死んではいないと思うが微動だにしない。そもそも、死んだ犬の霊の成れの果てなのだから、これ以上死ぬのかは疑問である。蛇神の言葉を借りれば消えることはあるのだろうが――ああ、最近、似たような話題を耳にしたような気がした。
『わたしは手を貸さぬと言ったのにか』
 思考や観察を邪魔するように、蛇神の金眼が容赦なく鱗道の視界に割り込んでくる。
「アンタがそう言ったからだ」
 鱗道が顔を背ければ、蛇の体を利用して執拗に追ってきた。
「俺はアンタのことを話そうとは決めてたが、食わせると決めたわけじゃない。それでもアンタが出てきたのなら、何か訳があるんだろうと思っただけだ」
 右へ左へと何度か逃れてみようと試したが、蛇神の顔はしつこい。諦めて正面に顔を戻してシロを見下ろすと、今度は視界に入ってこなかった。
『お前は少し、蛙になるべきだな。末代』
 抑揚のある声が、耳元で鱗の擦れる音と共に頭に流れ込んでくる。呆れているかのようでもあり、
「蛇神の代理が蛙じゃ、格好が付かんだろ」
 こんなやり取りを楽しみ、愛おしんでいるようにも聞こえる抑揚だった。
『確かにそうだ。けれど、蛇はつらいと思うがね。何でもかんでも丸呑みで、吐き出すことも出来ずにただただ飲み込んで消化するしか術がない』
「それじゃぁ、アンタも辛いのか?」
 蛇神の、今は小さな体が防寒着の襟元から滑り込んでくる。ひんやりと湿った細い体は鱗道の首にぴったりと巻き付いた。
『いいや。わたしは一柱たる前より蛇であるからね』
「なら、しょうがない。俺は、蛇であるアンタの代理なんだ」
 鱗道は体を強張らせることも、払い除けることもしなかった。蛇神が鱗道に害をなすことなどはあり得ない――と信じている。その上で何か害を与えられれば、それには何か理由があるはずだ、と。
『――嗚呼、度し難いな、人間は』
 頭の中に響く蛇神の声は抑揚豊かで節までつき、まるで歌い上げるようであった。メロディー付きの歌ではなく、短歌だとか詩歌だとか、そういうものを語るようであり、鳥のさえずりに似たところもある。
『結果が変わらずとも過程を重んじ探ろうと咀嚼し、かと思えば信じるなどと無条件に丸呑みにしてみせる。己で飲み込んでおきながら消化できないと泣いたり嘆いたり、懸命に取り込もうと足掻いたり。この世でもっとも悪食なのは、間違いなく人間であろうよ』
 頭を鱗道の頬に擦りつける仕草などは、まるで頬ずりのようであった。細かな鱗では傷もつかず、ひんやりとした感触は悪くない。
「そんな人間は嫌いか?」
『どうしたね、末代。急にやたらと質問をするようになって。受け身主義がどうした』
 蛇神の言葉に、鱗道は自嘲気味に笑った。疲労感が強い体は、防寒着の中で汗に湿っている。だが、気分は悪くなかった。
「アンタに嫉妬されるのは二度とゴメンだと思ってな」
『良い心がけだよ、末代。わたしの執着と嫉妬は酷いものだろう?』
 結局、蛇神から明確な返答はない。が、頬ずりと言うより頭を押し付けられるような勢いは増すばかりだ。痩せた頬に蛇の頭部をめり込ませたまま、鱗道は肩を竦める。問うて答えがなければ、好きに解釈をさせてもらう。今までと違うのは、最初に一つ工程を増やすように努めることだけだ。
「……これからどうなるんだ」
 鱗道の言葉に、蛇神がようやく頬から離れた。金色の目が鱗道の左の視界に入り込む。
 社の下に作られた野犬、シロの墓。あれが霊犬となったシロを社に繋ぎ止めていたものだと蛇神は言ったが、そこから先について何の話も出ていない。
『こごめの察した凶兆、穢れはやはりこの犬っころだ。墓が縁となってこの地を離れられず、持て余した力が時間で腐って穢れを宿した。こごめを追い払ったのは、わたしを食らった時と同じだろうよ。一柱には何かしら清める力があるからね。祓われることを警戒した穢れが反応したのだ』
 右腕に蛇神が降りてきた時の、シロの様子を思い返す。前足は堪えていたものの、眼中の朱色や熱塊の活性化を目の当たりにした今、穢れの攻撃衝動の強さは理解できた。こごめは一柱の存在として直接境内に踏み入ったが故にすぐさま迎撃され、蛇神は蛇に取り憑いていた故に存在の認識が遅れたのだろう。
 シロが待っていたもの――穢れを宿した自分を終わらせることが出来る存在を、穢れは望んではいなかった。それが拗れて、こごめは蛇神に助けを求め、代理として鱗道が此処に来たのである、が。
「――食うのか」
 鱗道は瞼を固く閉じた。この質問は二回目である。だが、一回目とは違い、答えが明白な質問であった。
『食うよ。食うしかない。墓が壊れた故に犬っころとこの地の縁は風前の灯火であるが、犬っころが半端に力を溜めた存在であることは変わらない。自然に消えるまで放置することは出来んよ。荒神に成り果てぬよう穢れの衝動に抗っているようだが限界がある。現に、この犬っころは己の制御も出来ず、彼方此方を壊しているだろう?』
 鱗道は瞼の裏で、一度だけ頷いた。『こわしたくないのに』という、シロの悲痛な言葉を反芻する。崩れた鳥居に刻まれていた爪痕、粉砕された狛犬、他にも探せば境内には多くの傷があるだろう。鱗道の前でも社の縁側や階段を踏み抜き砕いている。その度に、まるで戸惑い惜しむように挙動を変えた。意図せず、望まず、傷つけ壊してしまう――それを少しでも防ごうとして。
 己の力が腐ってしまい、穢れに変わりつつある現状をも対処も知る手段がなかったシロの心象の一つが雨だろう。強さと冷たさと重さを伴う雨は、大事な物を壊してしまう不安や後悔の象徴である。長く冷たい雨の中に打たれながら、シロは自身を終わらせる者を待っていた。重く冷たい雨に打たれ硬く締まった残雪のような我が身が溶かされるのを待ち望んでいるシロは、何十年と続く冬の中に閉じ込められて体に染み入った冷気は冬そのものとなっている。
『この犬っころは、いつか成る。穢れに染まって、全てを蹂躙し、荒神に成って、果てる』
 穢れは、染め上げた者の大事な繋がりも場所も縁も何もかもを破壊させ、どの世界だろうと在る者に死滅を招き、爪牙を剥かせる――蛇神が憂いの響きを持って『荒神に成って果てる』と言い続けている理由が今ならばよく分かる。荒神の行き着く先は、一つしかない。成った後は、果てて、終いなのだ。破壊と死滅を招く力は危険であるが、終わりしかない行く末は哀れでもある。
『結果は変わらぬ。この犬っころは食うほかない』
 蛇神の声は砂紋を刻む風のように淡々としていた。鱗道は蛇神の言葉を拒否も拒絶もしない。シロには戻る道はなく、進む道も閉ざされている。道を外れぬようにと懸命に足掻いているが、八方塞がりの袋小路は変わらない。シロはそれを分かっているのだ。大事なものもこれ以上壊してしまうくらいならば、蛇神に食われてゆっくりと溶かされることを――自身の終わりを、冬の終わりを、春の訪れをシロは望む。望むからこそ、社を守り、待ち続けていたのだ。
『だが、今は食わぬ』
 開いた足の間で、鱗道は手の平を重ねていた。たった今、この腕に降ろそうとしていた相手の言葉に、顔を上げて目を開く。口を開いて赤い舌を揺らす蛇頭は、まるで笑っているかのようであった。
『わたしは鬼ではないのだよ、末代。この手の輩は今まで食って対処してきた。他の術を知らないのは誠である。それで少し足を伸ばして――まぁ、蛇であるわたしに足はないのだが言葉の文だ。ともかく、こごめに会いに行ったのさ。頼まれ事としては調べて欲しいというものであったし……食う以外の術を知らぬかと思ってね』
 なぁ、末代。言葉の意味を飲み込み切れていない鱗道に呼びかける蛇神の声には妙な力が宿っていた。今まで聞いたことのない響きである。一言で表すならば誘惑、勧誘――誑かしの、響きだ。
『お前、この犬っころを飼わないかい?』
 響きに対して些細とも言える内容に、鱗道は眉をひそめた。蛇神の声は酷く軽く、鱗道がひそめた眉を笑うようであり、しかし誑かそう惑わそうという響きは隠されていない。
『この犬っころは神に到れなかった力と意思の塊だ。力が腐り始めている今、自然に消えるのを待つのは到底無理な話である。だがね、神に到れなかった故に取れる方法が一つだけある。
 放っておけば腐ってしまう力を無駄に消費させ続けるのだよ。犬っころを縁が強かったこの場所から引き剥がしてしまえば、誰にも知られない犬っころは新しい力の供給経路を失う。あとはどんどん使わせてしまえば、此奴の力は減っていく一方だ。腐るよりも早く使わせてしまって、そこらの死んだものと同じになるまで成り下げてやれば、力がなくなれば自然と消える、というわけだ』
「……その、無駄に消費させるっていうのと、俺が飼うってのがどう繋がるんだ」
『〝わたし〟達の世界のものが、人間尺度の世界に干渉できる程に顕現するというのは、短い時間でも出来る者が限られるのはお前も知るところだ。この犬っころは顕現していることは出来るようだからね、それを四六時中させ続けるのだ。それだけでも相当な力の消費になるだろう。
 ただ、それで野放しというわけにはいかぬだろう? 穢れを宿しているのは変わらぬのだから。そこでお前が飼い主となって、この犬っころのお目付役となるわけだ。わたしを降ろしていないときのお前が常に触れられるように、という分かりやすい基準にもなろう。穢れを拭うのは容易ではないが、側に置けば反応させぬように少しずつ削り取ってやることは出来る。多少暴れた時には仕置きや躾として一部分を食いちぎってやってもよかろうよ。
 最初にこの犬っころを食わないと言ったのはお前だろう? 食わぬという意志を貫くならばそれぐらいの責任は取ってやるんだね』
 指先まで力が入っていた両手の平を引き剥がした鱗道の溜め息が重く、振った頭の動きすら億劫な有様を蛇神は大層愉快そうに眺めていた。
「俺は犬を飼ったことないぞ」
『その点は良かったじゃないか。この犬っころはただの犬じゃない。お前と意思疎通が出来る、極めて有能で珍しい犬っころさ。飯も要らぬし、病にも――いや、穢れを宿しているのは病の一種と言えるかもしれんが、そこらの犬がかかるような病にはかからんよ。
 それに、これ程の力を持っている犬っころだ。お前がわたしを降ろすようにとは行かないだろうが、体の一部に宿してやるなり貸してやるなりしてやれば、〝わたし〟の代理仕事の役に立つだろう。仕事に力を使わせてやれば、ただの犬っころに成り下がるのも早まり、一石二鳥というものよ』
 蛇神がするりと、鱗道の首を一巡りする。小さな鱗の一つ一つが鱗道の皮膚をくすぐるように掻いて回った。蛇神の鱗が掻いたお陰で、鱗道は持ち上げかけた手を膝の間に再び落とす。
『もっとも、それが何十年後になるかは分からぬが』
 蛇神の言葉からは、軽さも誑かす響きも失われていた。抑揚も少なく、鱗道の頭に立つ波は真摯さに満ちている。
『わたしは勿論、こごめも経験はない。常に顕現させ続け、仕事を手伝わせることで消費を増やしても、ただの犬に成り下がるのにどれ程の時間を要するか想像もつかぬ。
 それでも、お前が寿命で死ぬ頃にはせいぜい程度の知れた犬っころになっているだろう。あとは自然に消えるまで過ごさせてやれば良いし、それが無理となればわたしが食ってやれば良い。なぁに、その頃にはわたしの腹の中に在るのも僅かな時間だろうよ。
 どちらも待てずに荒神に成り果てるようならば、それもわたしが食らってやろう。わたしの領地に連れて来さえすれば、今日のようにお前が拒否をしたところでわたしは此奴を食らえるよ』
 つまるところ結果は変わらないのだよ、と、蛇神は言わなかった。だが、鱗道にはその言葉が聞こえたような気がしたし、その言葉に対して軽く笑ってやりたい気持ちがあった。過程を重んじるのは度し難いと評した蛇神自身の言葉を、何かの機会に思い出して直ぐ反論に使えるように紙に書き留めておきたいくらいだ。
 鱗道の感情は、表情として強く出ることは稀である。夢の中では意思を読み取っている蛇神は、意思を読み取ることが出来ない現在、鱗道の表情や挙動をどう解釈しているのだろうか。常の言葉や態度通りに己の解釈に対して自信満々に構えているのか、蛇頭では表に出にくいだけで不慣れな状況に戸惑っているのだろうか。
 末代、と鱗道に呼びかけて頬を一舐めする蛇神の様子からは、どのようにでも受け取ることが出来る。
『お前に伴侶は与えられぬと言ったが、この犬っころは構わんよ。なぁに、人間と犬は良き伴侶と昔から言うからね。それに、お前は受け身主義を改めたようだから、もうこの程度の犬っころに妬かずともよさそうだ』
 鱗道は蛇神の言葉を、真摯と感じたそのままに受け取ることにした。だからこそ、鱗道もまた真剣に、
「悪いが、決めるのは俺じゃない」
 言って、シロを見下ろした。耳の先がぴくりぴくりと跳ねるように動いている。もうすぐ目を覚ますのだろう。鱗道の首を離れた蛇神が、頬や耳に絡むように小さな体を押し付け、
『お前はそう言うと思っていたよ』
 やはり呆れるように、哀れむように、そして何より愛おしむように呟きを落とす。鱗道は視線だけを蛇神に向けようとしたが、顔の側面に張り付いている姿を見ることは出来なかった。
『さて、わたしがいると話がややこしくなるだろう。わたしはしばらく近くに潜んでいようか』
 ひんやりとした感触を残し、蛇神が顔を離れて肩から滑り降りようとするのを、鱗道は胴体を掴んで止めた。まさか捕まれると思っていなかったのだろう蛇神は、声の抑揚も音の変化も激しいまま『何をする』だの、『穢れが反応して暴れたらどうする』だのと言い、びちびちと体をくねらせた。
「コイツが覚えているかどうかは分からんが、俺の中にアンタがいることは言ってある。それに、コイツが何を選択しようとアンタは顔を合わせなきゃならんだろ。早いほうが良いに越したことがない」
 ぐぬ、と蛇神が言葉に窮して上げた呻き声が聞こえたことは、鱗道にとっては貴重な経験であった。効果のある反論が思いつかなかったのか、それとも反論があっても発言するよりシロの頭部が起き上がったのが早かったのか、蛇神は鱗道に捕まれたまま動きを止めた。
 持ち上がったシロの頭は、後頭部を鱗道達に向けている。視線も耳も、鳥居の方へ――その先へと向けられている。少しの間そのまま動かないでいたかと思えば、分厚い耳から力が抜けて、尻尾がゆるりと地面を擦り、目覚めた時とは対照的に酷く緩慢に鱗道達を振り返る。
 時刻は黄昏を迎えようとしていた。西の空は橙に染まり、東の空は夜を引き連れ迫り来る。山奥で見る夜の色は紺碧であった。濃厚で暗くもあるが漆黒ではない、眼前の霊犬のつぶらな瞳と同じ、紺碧である。
『あ、さっきの人! 大丈夫だった? ごめんね、ごめんね、壊したくないけど壊しちゃうことが多くて、でもあんなに壊れたのは初めてで、僕、今日からどこで寝ようかな、あ、蛇だ! 蛇! 持ってて大丈夫なの?』
 耳には絶え間なく子犬の鳴き声、頭の中では無遠慮な幼い口調。がばりと立ち上がった大型犬並みの体が、うろうろと落ち着きなく鱗道達の目の前を右往左往する。思ったことも感じたことも、鳴き声や言葉に加えて目に耳、口元、尻尾と全身が語り尽くしていた。情報量と勢いに鱗道は思わず頭を仰け反らせ、大した意味も無かろうが左手で耳を塞いだ。
「俺も蛇も大丈夫だ。大丈夫だから、少し落ち着いてくれ」
 鱗道の言葉に、シロは不安げな表情で首を傾けた。反応はそっくりそのまま、見た目通りに受け取って良いのだろう。鱗道は右手に掴んだ蛇神を――勿論、少しは申し訳ないと思いながら――シロの鼻先に差し出した。
「驚かせたが、この蛇は悪い蛇じゃない。俺の中にいる蛇神で……良い奴だ」
 蛇神から抗議、反論、訂正などはなかった。鱗道が耳から離した左手で少し頬を掻いて膝の上に置くまでの間に、蛇神の体が鱗道の右腕に巻き付いたのが見て取れる唯一の変化である。巻き付いた体は鱗道の腕を締め上げることなく、頭をもたげる支えにしているだけだ。
『へびがみ』
 シロの言葉は単なる反復であった。鼻を近付け、蛇神の小さな頭の匂いを嗅いでいる。蛇神が体を引いたり、威嚇をしたりとするようなら腕ごと遠ざけるつもりであったが、蛇神は悠然とシロを自由にさせていた。
『その通りだ、犬っころ。お前よりも強靱な、優れたる一柱の蛇である』
 言葉の最後に、蛇神の二股の舌がシロの鼻先を舐めた。シロは驚いたようにひゃんと一鳴きし、
『小さいのに? すごいねぇ! でも、いっちゅうってなに?』
 シロの第一声で鱗道の手首を強く締め付け、二言目で静かに弛み、三言目で脱力した体が右腕から滑り落ちる。これらの反応は、鱗道に少しばかりの感動を覚えさせるものであった。鱗道が文字通り把握できるサイズにある蛇神は、その感情の動きもこれ程把握できようとは――という、当人に伝われば不敬だと思われそうな感動である。とは言え、脱力した蛇神には悲哀があり、鱗道はそれを振り切り話を進めようと口を開いた。
「その説明は後でしてやる。それで、シロ、お前のことなんだが」
 バネ仕掛けが弾かれたように、紺碧の双眸が鱗道の顔を素早く真っ直ぐに見据え、鱗道は圧倒されるように頭を引いた。恐怖があるわけではない――いや、恐怖はあるのだが、鱗道を圧倒するのは勢いや威力だ。蛇神と違って起点が素早く、瞬発で最速に至る犬の勢いと真っ直ぐに見つめてくる目の威力に体を引かずにいられない。
「お前を此処に放置は出来ない。お前も……なんとなくは分かっているんだろうが、放って置いて良い方向に転ぶことはないからな。それで、お前の今後なんだが」
 一度の瞬き。まさしく、一瞬で目の前が純白と紺碧に染まりきり、鱗道は何が起こったのかすらも分からない。が、
『なまえ』
 眼前の純白から小さな鳴き声が聞こえ、頭の中に幼い口調が響いたことでシロの頭が間近に迫ったことを理解する。鱗道に触れる被毛は滴り続ける雨の気配と、閉ざされ続けた冬の匂いに満ちていた。鱗道が足を広げて座っていたものだから、その足の間に体をねじ込むようにしているらしい。
『なまえ』
 紺碧が瞬きをして言葉を繰り返す。ああ、と、すでに引ける場所がない鱗道はシロの顔を左手で押し返しながら、
「社の下にあった墓に刻んであったからな、シロって。あれはお前の墓だろう? 崩れてたからそれっぽく直しておいたが……まさか違うとか言うなよ?」
 鱗道の声は、終いに近付くにつれどんどんと細くなっていった。自信を失ったわけではない。シロの紺碧の目に、一筋の光を見付けたからだ。
『僕の名前』
 酷く眩しいと思ったのは、それが春の日差しに似ていたからだろう。雨混ざりのぼた雪が止み、黒く分厚い雲の隙間から差し込む光が最も鮮烈であるのが冬の終わりだ。穏やかでも眩しい光の差し込みは、雪解けの知らせ。長く長く続いた冬の中で何十年と冷え固まった残雪が、
『僕の名前、すごくすごく久しぶりに呼んでもらえた』
 己が溶けて消えると分かっていながら、待ち望んでいた春の日差し。
 鱗道に押し退けられるままに離れた顔にある目の奥に、朱色が潜み渦巻いているのは覗き込むまでもなく明らかだ。いくら冬そのものと言わんばかりの冷気を纏う体であっても、熱塊が冷え固まることはない。その熱塊も元を辿れば、一匹の野犬が恩を返そう想いを返そうと溜め込んだ力であり、霊犬となった犬を想って偲んだ人々が注いだ力だ。不運が重なり腐りかけ穢れとなろうと、その熱塊もシロの一部である。
 鱗道は右手の蛇神を社の縁側に下ろし、シロの頭に触れた。最初、シロの頭をすり抜けた右手であったが、もう一度触れようとすればしっとりした感触の豊かな被毛が手の平に当たる。撫でるように頭から首まで下ろすと、シロは鱗道の腹に顎を乗せた。くぅん、と分かりやすい甘えた子犬の鳴き声が鼓膜を、
『ねぇ、もう一回。もう一回呼んで』
 人間ならば泣いているだろう程に震える切なげな声が、鱗道の頭の中に広がっていく。
「シロ」
 鱗道の呼びかけに、尻尾が緩く振られた。紺碧の眼は春の日差しを閉じ込めるように瞼を閉じ、白い被毛を湛える体は雪の塊のようである。
「シロ」
 深雪のような毛を掻き分けて分厚い耳を引っ張り出してやり、爪を立てて力強く首を掻き撫でるように何度も何度も両手で往復した。何度も、何度でもその名を呼んでやりながら。
 犬は忘れない。想われ、偲ばれ、人間が忘れても犬は忘れない。哀れだ、と蛇神は言った。だが、故に人間は犬を想い、偲ぶ。親しみ、愛おしむ。良き伴侶と言われる理由は、想いが一方通行ではないからだ。犬を想い、偲んだ人間も忘れない。忘れられない。去らざるをえなかった集落の人々もそうであったはずだ。天災で一度は弱まった力を社と縁がある故に再び取り戻したことが――「犬の社」の名前が語り継がれ残っているのが、その証拠である。
「――なぁ、シロ。お前が構わんのなら、俺と一緒に来ないか」
『いっしょに?』
 雪を分けて芽吹くように紺碧の目が開き、鱗道を飲み込まんばかりの勢いで迫って真っ正面――しかし、鱗道は揺らがずに視線を受け止めた。
「お前が荒神に成らんように……あー、荒神って分かるか? ……まぁ、あれだ。俺や蛇神と一緒に此処を離れて、お前がもう色々なもんを壊さないようにするんだ」
『ずっといっしょ?』
 かくん、とシロの首が疑問の度に傾くものだから、鱗道もつられて首を傾ぐ。とは言え、犬とは違い愛らしさは皆無であるが。
「それは分からん。お前の力が弱くなるよりも先に俺が死ぬかもしれん。まぁ、その時は蛇神がいる。お前がまだ色々壊すような危なっかしいままだったら、お前を食ってくれる、とよ」
 シロの目には当然、動揺は浮かばない。シロが待っていたのは冬の終わり、春の訪れ、己の「終わり」なのだ。残雪となり冬となったシロに対し、残雪を溶かし春に導く陽光が蛇神であろう。気温を徐々に上げながらの穏やかな氷解となるか、春雷鳴り響く急な冬明けとなるかは今後の経過による事になるが、どのような「終わり」であろうとシロは冬明けを静かに迎え入れる筈だ。
「お前はちゃんと終われる。ただ、終わるまでの間を……お前が構わんのなら、だが」
 紺碧の双眸は真っ直ぐに、一筋の光を宿した目を鱗道に向けている。首も傾かなかった。真っ直ぐの、真っ正面。
『僕、ひとりじゃなくなる?』
 シロにとって「終わり」を与える蛇神が春の陽光であるなら、鱗道はシロにとって何になるのかを、シロの名前を呼びながら鱗道はずっと考えていた。何度か堂々巡りもした思考であったが、半ば放棄にも近く――されど、確実な答えに辿り着いた。鱗道がなれるものなど、いつどんな状況であろうと、たった一つしかない。
「待たせた結果、来たのが俺みたいなので悪いが」
 なにせ昔からの言葉であると、蛇神が言ったのだ。長い歴史が、犬と共にあるべき存在を名指ししている。
「一緒に行こう。シロ」
 鱗道は人間しか持たない皮膚が剥き出しの手で、シロの頭を乱暴に撫で上げた。

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