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-09.5-

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 クロは机上にぽつんと、心身共に取り残された心地であった。何かあったら呼んでくれと言われたものの、〝蛸壺〟はクロには見えず、声も壺の傍らにいてようやく聞こえる程度のものである。〝蛸壺〟とのやり取りは可能であると思われるが、〝蛸壺〟とシロは交換条件を締結したらしいので結果を待たねばならない。下手に話しかけて折角の条件を無碍にするわけにもいかないだろう。
 それに、
「随分と賑やかなこった。一応、解決に向かってるってことで間違いはねぇんだよな、クロ」
 完全に飛び立つタイミングを逃している。クロは猪狩の言葉に顔を向け、嘴を一度鳴らした。ひとしきり笑い終えた男は随分と穏やかな表情で頬杖を突き、クロの返事を受けて、
「なら、いい」
 と、短く言って目を瞑る。鱗道とシロがいなくなった店の一角は、すっかり静まりかえっていた。
 店で見掛ける猪狩はいつも大きな声で語って、笑って、大きく動く。急で粗野な挙動がクロは苦手である。つい十年程前まではクロを作った猪狩昴――猪狩晃の祖父兄弟である人物――の屋敷に閉じ込められ一切の外部接触を受けていない。それ以前も、外部接触は殆ど昴当人に限られていた。鱗道の協力者として「鱗道堂」の屋根を借りることになって以降、人間観察や社会見学として狭い範囲ながらも様々な出来事や人物、存在を見聞し学んだが、クロは静かな――一般的な人間には静かすぎるぐらいの環境を好んだ。昴はクロを作ったときで既に病に冒されいたし、山奥に隠居しているような人物で親しい友人もいなかった。その環境がクロにとって、当たり前として定着しているのだ。
 そんなクロにとって当初の鱗道は好ましい協力者であった。急に動くことはなく、シロの力を借りねば素早い動きもしない。寡黙で不要なことは語らず、冷静に物事を考えて感情的に動くことは滅多にない。シロもまた、出会った当初から非常に良く喋る犬であったが、クロでは知り得ない様々な感覚を惜しみなく伝えてくれるのが有り難かった。昴の生前、稀に付けられるラジオのように一方的であるが情報に満ち、クロの知的好奇心を満足させたのである。
 で、あるがクロが交流を持ち続けたこの十年以上の間、鱗道とシロには大きな変化があった。人間である鱗道の加齢による表情や性格の変化は当然であるが、クロが下した寡黙という判断は誤りで実際の所は話下手なのである。古い親友だという猪狩を除き、相手が客や子供などの人間相手になると会話を好まない傾向は顕著であるが、シロやクロだけならばむしろ――特にシロには色々と話しかけている。また冷静な思考や非感情的であることも、かなりの例外が存在していた。鱗道に親しい存在に害意が向けられると、突発的に感情的な言動をすることがある。実際に暴力を振るうところを見たことはないが、無礼な言動の客に対して辛辣な言葉や態度を示すこともあった。〝彼方の世界〟相手にも、普段ならば対話による解決を優先するのだが、害意を押し付けてくるばかりの相手には蛇神の力を誇示して見せたり、諦めや容赦を捨てた選択をしたりすることもある。身内に向けられる害意に対する閾値が、それ以外とあまりに違うのだ。
 シロの場合は、変化と言うよりもクロによる「イヌ」に対する無知が矯正されたと考えるべきだ。シロの場合は鳴き声が子犬のように響かないだけで、非常に良く鳴き、素早く動き、惜しみなく感情を発露する。ボリュームが大きい方に変動しやすいラジオのようで、スイッチを切ることは出来ない。一方でクロの主義に反するが毛を毟る、先端を引っ張る、口を塞ぐなどの強硬手段を用いることで初速を抑え制御は可能であった。それでも、クロよりも体格が大きく力の強いシロは感情が高ぶれば容易く振りほどいてしまう。が、蛇神の代理仕事に置いてシロは欠かせない存在であるし、今でもなお、シロの語る感覚的な世界はクロの知識欲を満たし続けている。利点と欠点が相殺されている、と言える相手であった。
 人間もイヌも、そして己さえも変化する。で、あるが――と、クロは頭を動かし目を閉じたままの猪狩晃を見上げた。この男は変わらない。出会った時からずっと賑やかで、うるさく、粗野なままだ。何度となくクロが逃げようと突こうと翼で打ち返そうと、鱗道に窘められようとも期間を空けて機会を与えれば急に触れようとしてくる。猪狩曰く、生存確認であるそうだ。ときとして僅かな身じろぎもしないクロが死んでいるのではないかと気になる――と、鱗道に弁明しているのを聞いたことがある。それも余計な世話であるとクロは思わざるを得なかったが、とにかく、猪狩晃はずっと変化がない。
 それでいて、今のようにふっと、静かに黙りこくることがある。大きな目を細めて、何処か遠くを見る顔を初めて見たのは数年前のこと。その横顔があまりに――あまりにも昴に似ていたので、言い知れぬ不安や焦燥に駆られるようにクロはその場を離れた。以降、本当に最近まで、猪狩と直接顔を合わせるのを避け続けていた。
 血族であるのだから似ていることは可笑しな話ではない。実年齢がクロが見てきた昴に近付けば近付くほど必然というものであろう。しかし、あの時は似ている等と言う言葉では温かった。
「そういや、クロ、お前、俺の指輪が狙われるのを待ってただろ」
 低い声は、こうも静かに語れるのか、と思う。滑舌を少し悪くすれば、昴に似通った低い声。勿論、言葉の選択、発露する感情の差異は全く違う。だから、クロが猪狩晃の声を昴と混同することはない。だが、しかし。
「構わねぇと言った通りだ。責めちゃいねぇさ。囮を使うのは悪かねぇ。適法がどうかは別だがよ――実際、見事に釣れたんだ。気にすんな。してるかは知らねぇが」
 古い卓上灯が普段とは異なる光源で表情を浮かばせる。茶を帯びた鋭い目が、クロを見下ろして細められ、軽くウェーブのかかった髪が乱れて顔にかかり、口元は僅かに笑っているように見えた。
 ――この表情は、昴と同一と言っても差し支えない。それが異質であることはクロも気付いている。あれから数年、今は焦燥に駆られることはない。ここに居るのは昴ではないことなど分かっている。全くの別人だ。血族とは言え親等は離れている。育ってきた環境も、体格も、健康状態も何もかもが違う。そんな人物がこれ程まで、クロも判断に迷うほど同じ顔をするという異質さが――もたらされる不安が、ただただ増していく。
「お前、俺が嫌いだろ?」
 聞き覚えのある声が、けっして言わない言葉を紡ぐ。その落差が承服出来ない。飲み込めない。消化出来ない。
「シロはどんな奴にも尻尾を振るからなァ。グレイもあれで、甘ちゃんだからよ。お前みたいなのがいねぇとな」
 ふっと大きな瞳が揺れる。鱗道と共にいる時は感情も行動も分かりやすいというのに、今の猪狩晃は、
「お前は、絶対にグレイの味方でいてくれよ、クロ」
 クロがずっと敬愛し続けるだろう、作り手である昴と同じ顔で、似た声で、
「何があっても躊躇わないように、お前は俺を嫌っててくれ」
 感情や真意を一切読み取らせなかった。
『クロ! ねぇ! こっち来て! 猪狩も来て!』
 居間から顔を覗かせたシロが、急き立てるように吠えかかっている。ぱっと顔を上げた猪狩晃の表情は、すでに普段と変わらない――鱗道曰く、子供っぽさの消えないものになっていた。
「なんだ、随分とやかましいじゃねぇか」
 猪狩晃には、シロの言葉は聞こえていない。クロは猪狩晃に返答となる合図をしないまま、机上から飛び立って居間へと向かった。シロの頭上を一回りして、言葉では届かないことを指摘する。少し乱暴な行動を取るように示唆すれば、シロは真理を見出したと言わんばかりに飛び出していった。
 クロの翼はそのままシンクで作業中の、鱗道の肩に向かった。嘴の機構が軋む。あの時、シロの鳴き声がなければ、何度嘴を鳴らしただろうか。何故、その回数で迷うのだろうか。鱗道の肩に着地した後も答えは出ない。ああ、あの男とは、本当に気が合わないのだと、ただただ深く深く確信を強めるばかりであった。

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