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-03-

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 蛇神の代理仕事の殆どを店の奥で行うため、店先から奥は簡単に覗くことが出来ないように店内は――鱗道の性分もあるが――煩雑としている。目的は達成されているが、奥にいる限りは店先を見ることが出来ないのも事実だ。既に梁にいて店先が見えているはずのクロからは何の言葉もない。鱗道はあまり気乗りせず、店先へ顔を出すために棚や商品の隙間を歩んだ。なにせ、人懐っこさが取り柄のシロがたった一鳴きしかしていない。
「……いらっしゃい」
 それでも広い店舗ではないから、居間の前からは十歩も歩かずに店先に顔を出すことは出来る。開店中は常に開けっぱなしの、店名が貼られたガラス戸から店内に入っていたのは一人の女であった。おそらく流行りの柄物のワンピースを着た女は、見た目には三十前後だと思える。だが、鍔の広い帽子をかぶっているためにはっきりと顔を見ることは出来なかった。
「こちらが、「鱗道堂」さんでよろしいでしょうか」
 女は鱗道に顔を傾け、赤い口紅を塗った口を開いた。鱗道は心中では大きく、表に出すのは僅かに気を滅入らせて目を細めた。こういう切り出し方をする客は、ただの質屋の客ではない。「鱗道堂」に用件がある、奇っ怪なものを持ち込んできた、あるいは持ち込むつもりの客だからだ。
「そうですが」
 女に返事をしながら鱗道はシロの姿を探した。普段ならば探すまでもなく視界に入ってくる犬であるが、今は姿を探さねば視界にすら入らない。理由は、尾を腹の方へ巻いて耳も倒しきり、大きな体を縮めるようにして壁にくっついていたからだ。まるで、女から距離を取ろうとしているように。
「引き取って頂きたいものがあって来たんです」
 唸り声を上げてはいないものの、こまめに鼻をひくつかせて匂いを嗅いで警戒し、落ち着きがないシロの姿は異常であった。とは言え、女が初対面の犬の異変に気が付くはずもない。女はシロの様子など気にもとめずに、肩に提げた鞄から細長い箱を取り出した。紫色のビロードが貼られた箱は宝飾店で見掛けるアクセサリーケースのようだ。ケースが鞄から出される時に、キャン、とシロが悲鳴めいた鳴き声を上げた。
『それだ。やだ。それ、すごくいやだ』
 か細くも嫌悪や抵抗感が滲む言葉は鱗道の頭に届いている。が、言われずとも俺も嫌だ、というのが鱗道の感想であった。流石にシロよりは遅れるが、今、女が手にしているケースからは十円玉とは比較にならない、底なし沼から取り出された泥のような湿度と重さと匂いが纏わり付いているのを感じるからだ。
「少し待ってくれ。シロ、来い」
 女に近付かないまま、鱗道はシロを呼んだ。すっと立ち上がったシロは、女の足下を駆け抜けて鱗道の側に寄る。足に寄りかかるシロの宿す熱塊の如き穢れが、溶けた鉄のように動くのを感じ取ることが出来た。苦痛を耐えるような態度を見せる原因は、それを抑え込もうとしているが故であろう。
「あっちに行ってろ。二階に上がってもいい」
 一度、手を伸ばしてシロの頭を撫でてやる。言い方はぞんざいであるが、シロを思いやる鱗道の気持ちは伝わっていた。シロは二、三歩不安げに鱗道の足下をうろつきはしたものの、素直に居間の方へと向かっていく。足を拭き忘れてもこの際やむを得まい。使い古したタオルケットにくるまるなり、二階に上がって距離を取るなりして落ち着くならばそれが最優先されるべきだ。
 シロが居間に上がるまでを見送った鱗道は、女に視線を戻した。ケースの中身までは分からない。だが、シロの反応と鱗道の経験則からおおよその目安は付いている。偶然には宿らない溜まらない、人間の意思と執着と執念が瘴気を集めて束ねた強力な呪物だ。
「引き取るかどうかは、まだ答えられんが」
 鱗道は短く硬い髪を掻き混ぜた。厄介事は確定している。鱗道の選択肢は二つだ。適当な言葉を並べてこのまま女を追い返すか、話を聞き呪物の性質だけでも判断して持っていくべき場所を教えてやるか――質草、あるいは中古品として買い取るという選択肢は無い。
 蛇神の代理仕事は、蛇神の領地の整地である。問題が生じれば解決して取り除き、乱れがあれば清めて整える。外部から問題を持ち込ませない、というのも仕事の一つだ。彼方の世界での諸問題や領地を越えて影響が届きかねない場合、会話や少しの労力で解決する問題であれば鱗道の生活費のために買い取ることも引き受けることもある。だが、やたらに持ち込ませて、清め整えるべき領地に厄介事を増やしては本末転倒だ。線引きをしなければキリがない。
 特に、呪いを宿した呪物となれば尚のことだ。人間の執着、未練、憎悪や欲望などの意思が起点となって彼方の世界から瘴気を持ち込んだ結果が呪いに至り、それを宿した物が呪物である。発端からしても人間側の問題だ。それに「鱗道堂」に辿り着いたからと言って、此処でなければ処理や処分が出来ないわけではない。人間側の問題や呪い、呪物に関しては性質にもよるが神社や寺などの方が総合的な解決に向いていることが殆どだ。とはいえ、「鱗道堂」に辿り着いているということは深刻な事態に陥っていることに間違いはない。鱗道は二つある選択肢のうち、可能ならば後者を――此処よりも行くべき場所を教えてやろう、と思っていた。
「まずは見て頂けませんか」
 女の手がケースの蓋にかけられるまでは。
 ぞうっと背筋に氷柱を押し付けられたような感覚に、鱗道は小さくも呻き声を上げていた。このまま中身を見ずに言いくるめて女を帰した方が良い、と今までの経験が訴える。鱗道本人も先程までの考えを捨て、経験の訴えに従うつもりだった。所詮は一見の客だ。割り切って押し通してしまうこともこの際構うまい。後味が悪かろうと夢見が悪かろうと、此処でケースを開けさせてはならない。
 逡巡は僅かであった。それでも、鱗道が「帰れ」と言うよりも女がケースを開ける方が早かったのは、女は最初から此処で、店主の前で、ケースを開けるつもりであったからだ。
 外からの陽光をケースの中身が反射して見えたのは一瞬であった。すぐにケースの浅い底は黒く濃厚な霧――瘴気で満たされ垂れ流し始めた。それが、見えた。明らかに此方の世界のものではないものが、「見る」ことが不得手の鱗道の目にはっきりと見えたのだ。
「閉じろ!」
 厄介、などという言葉では収まらない。女に強く言い放つと、鱗道は思い当たった箱を探して棚の上に視線を向けた。確か、それほど奥には置いていなかったはずだ。背後では蝶番によって勢いよく蓋が閉ざされた音がする。しかし、泥が纏わり付くような湿度も、背中に当てられた氷柱の冷たさも消えてはいない。淀んだ沼の底から取り出したヘドロのような匂いが鼻につく。感覚は様々な物を拾い上げるが、声や言葉は頭に届いていない。
 言葉が聞こえてこなかった理由や感覚を精査することよりも、目的の箱を見付けることを優先したのは心情的な理由も大きい。女に完全に背を向け、店の奥へ曲がる角に設置した棚の上に目的の箱を見付けた。踏み台を持ち出す手間を惜しんで手を伸ばした結果、腰が悲鳴を上げたが構ってやれなかった。あと少しで届くというところで羽音が梁を渡った音を聞いたのである。姿が見えたわけではないが、鱗道が目的の箱を指差すと、ずるっと擦れる音が立つ。反対側から押し出されるように落ちてきた箱を受け取った頃にようやくクロの頭が見えたが、鱗道は礼を伝える数秒すら惜しんだ。
 掛け軸をしまうような細長い桐箱だ。酷く軽いのは中身が入っていないからである。女に近付きながら蓋を開けると、ほこり臭くはあるがやはり中は空っぽであった。
「入れろ!」
 桐箱を女に突き付けながら、有無を言わさずに鱗道は低くはっきりと言った。女の手からケースが離れ、桐箱の中に落ちればすぐさま蓋を閉じる。密閉率の高い桐箱だ――見えるほどの強い瘴気だがアクセサリーケースから溢れていなかったならば、この箱でもある程度遮断できるはずだ。
「……なんてもんを持ち込んでくれるんだ、アンタは」
 鱗道の剣幕に押されたか、鱗道の反応で己が持ち込んだ物に関して確信を得たからか、女は空いた両手で目元を覆った。嗚咽じみた声を発する、赤い口紅の塗られた唇が弧を描いている。
 咄嗟に箱に入れさせはしたものの、これからどうすべきかを鱗道は深く考え込んだ。店としても蛇神の代理仕事としても、このまま女に返す他に選択肢はない。呪いの性質についても分かっていないが有名どころに持って行かせ、洗いざらい相談させて処理を頼むのが女にとっても最善手だ。頼んだところで安全に処理が出来るかどうかは不明であるが、鱗道が引き取っても同じである。
「これは」
「受け取られましたね」
 女の声が鱗道の言葉に覆い被さって塞ぐ。手が離れて女の顔が露わになった。黒々とした隈に囲まれて血走った眼球。化粧はしているのだろうが、血の気が薄く青白い顔色。赤い口紅だけがやたらと色濃く生々しい。
「貴方は受け取りました。受け取りました!」
 赤い唇の描いた弧は笑みであった。突風に吹かれて揺れるように、女は店の引き戸に体を寄せる。つばの広い帽子を両手が引き寄せて顔を覆い隠す。それでも、女の笑い声は店中に響いた。
「もう私のものじゃない! 私の、ものじゃない!」
 女の叫びは桐箱の中、ケースの中にある呪物への宣言だろう。店外に身を躍らせた女の足取りは素早く、ガラス越しに揺れた柄物スカートの裾は、すぐに角を曲がって見えなくなった。
「……追わなくていい」
 鱗道は苦く歯を噛みながらも、足下を抜けようとしたシロと梁から既に羽ばたいていたクロに向かって言った。シロはぴたりと足を止めて鱗道を見上げてから情けなく一鳴きし、クロは低い天井を回ってから手近な棚に足を着いた。
「あの顔じゃどうせ長くない」
『だから』
「シロ。お前がそんな状態で追っかけて何が出来る」
 鱗道からの言葉を受けて、シロが苦しげに呻く。ケースと桐箱が中身を抑えているようだ。少なくとも鱗道には、泥のような感覚は残っていても背筋の冷たさはただの冷や汗に変わっている。シロにも剥き出しのケースよりはマシなはずだ。だが、マシである、というだけである。
「あの女は無関係じゃない筈だ。ああなったのはコレのせいだろうが、俺にもあの女はどうにも出来んし、お前にも出来ることはない」
 鱗道は桐箱を脇に抱え、店の札を閉店側にひっくり返して引き戸を閉じた。カーテンも全て閉じる。店の中は一気に薄暗くなったが、耳を伏せて尾を丸めたシロだけが、ぼんやりと雪明かりのように光っていた。
「あの女がコレを手放した以上、然るべき場所で一緒に祓ってもらうことも出来なくなった。しょうがないんだ」
 暗がりで灯りに手を伸ばすように、鱗道はシロの頭に自然と手を伸ばしていた。が、脇に抱えている箱を考えれば、不用意に触れるのは憚られてためらう。すると、止まった手にシロから擦り寄ってきて、頭を押し付けながら悲しげな声を上げた。
 シロの持っている力は強力であるが、神に到っていない力では穢れを清め、呪いを祓うことは出来ない。ましてやシロは自分の中に穢れを宿している状態である。鱗道の言葉は理解していようが、人好きな性格では人間を見捨てるという選択を簡単に飲み込むことも出来ない。シロが擦り寄ってきて上げた鳴き声の分だけ、鱗道は指先でシロの口吻を撫でるように掻いてやった。
『解せないのは私も止めたことです。鱗道』
 クロの金属質な声の冷たさが、シロの哀愁に付き添う鱗道の顔を上げさせた。無感情とも言えるほど淡々とした声を発しながら、クロは鱗道と視線の高さが合う棚へ移動する。
『呪いに関して重要なのは性質を見極めることである、と貴方は仰っていました。あの人間を追えば少なくとも首飾りの由来が分かる可能性があったはずです』
「何処まで追わされるかわかったもんじゃない。そんな可能性にすがるくらいならどうにか処理方法を探した方が――待て、クロ、なんて言った? 首飾りだって?」
 シロの目とは違い、クロの目は中から光を放つことはない。僅かな光を赤い鉱石や内部の機構で幾重にも反射させるだけである。
『ええ』
 キリリ、とクロが嘴を開いた。語っているという主張でしかない嘴の動きだ。クロの身体には様々な感覚や動きを担う機構が作られているが、声帯に該当する機構は作られていない。クロは此方の世界に訴える声を発することは出来ず、彼方の世界の声が聞こえる鱗道や住人達にしか聞こえない音でのみ語っているのだ。
『首飾りでした。白い粒状物をつなげたチェーンとヘッドには透過の少ない赤い石がありました。パーツの詳細を観察する時間はありませんでしたが外観の特徴は間違いありません』
 クロの語る音は金属や鉱石をぶつけ、擦らせ、響き合わせるような凜とした涼やかな音である。それが機械的に、ワイヤーや金属糸で織物を編むように淡々と乱れることなく言葉を紡いでいく。クロ独特の音声であり、彼方の世界を含めても非常に稀な――唯一の可能性すらある音声だ。
「見えていたのか?」
『見えていなかったのですか?』
 クロが首を傾いで見せたのは、その動きが問いを強調する仕草だと知っているからだ。傾いだ首を真っ直ぐに戻したクロは滑らかに、しかしわざとらしく頷く。
『成る程。私には見えないものがあった故に首飾りが認識でき、貴方には見えるものがあった故に首飾りが認識できなかったのですね』
「……そういうことだ。今回の件も、クロは影響を受けにくい可能性がある」
 鱗道は口元に手を当てて考え込んだ。鱗道やシロに比べて、クロは彼方の世界について感知出来ないものが多い。それは裏を返せば彼方の世界からの影響を受けにくいことでもある。十円玉の選別作業をクロに手伝ってもらっているのも、クロの影響を受けにくい特性が呪物の扱いに向いているからだ。
「色々分かればどうにか出来るかもしれん……が」
 そこで、鱗道の言葉は止まってしまう。全ては可能性の話だ。しかも、希望的な可能性の話である。人の手に収まるほどの大きさで、あれだけの瘴気を纏った呪物は鱗道個人で扱ったことはない。呪物は扱いを間違えれば痛い目に遭うのも確定事項だ。不安な要素を上げ出せばキリがない。
 カツン、とクロが嘴を鳴らした。硬質な嘴を大きく開けて閉じることで上がる高い音は鋭いが長くは響かない。一度きりの音に、鱗道がクロの顔を再び見据える。
『鱗道。有名な戯曲の一節は翻訳にいくつかパターンがあるようですが、今の貴方にはこの訳で投げかけた方が良さそうです。「成すべきか、成さざるべきか、それが問題だ」と』
 高く嘴を掲げるようにクロは天を仰いだ。時に嘆きであり、時に追悼であり、時に回想であり、殆どの場合では己を誇示するクロの癖とも言える仕草だ。十年程前、クロと初めて出会った時から見せる仕草であるからクロという意思が確立された時から会得していた癖なのだろう。
「……分かった。今回も手を貸してくれ、クロ」
『ええ、喜んで。ただ、鴉の贋作に収まる私に手はありませんが』
 このやり取りも、やはり変わらないクロとの鉄板の言葉遊びだ。鱗道は一度息を吐いて、店の奥へと歩み出した。
「まず、店を閉めちまうから間違ってもこの箱が開かないように抑えててくれ。それからシロ、お前は出来るだけ離れてろ。さっきも言ったが、二階に上がってもいい」
 古い机に桐箱を置くと、クロが颯爽と箱の上に着地した。桐箱は机の中央近くに置かれているし、大きく揺れたところで滅多に落下もしないだろう。軽くはないクロの身体が乗れば重しとしても充分であるし、クロに任せればバランスを崩して揺らすなどと言うこともあり得ない。
 鱗道が点けた電気スタンドの灯りを受けて、クロは当然のように静かに、乱れもなく真っ直ぐに立ち、
『イエス・サー』
 感情の読みにくい、常に一定で、凜と冴え渡る声を鱗道に響かせる。場を和ませる冗談のつもりか、それとも真剣故に導かれた言葉か分からなかったが、鱗道の身体からは無駄な緊張が抜けていった。インターネットで妙な話を読んでいると思っていたが、その範囲は鱗道の想定よりも広そうである。もっとも、詳細を追及するのは今ではないし、追及する必要もない。任せた、と言い残して鱗道はシャッターを下ろす準備に取りかかった。
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