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 鱗道は視線を階段下の宝物庫に向けた。声は聞こえなかったが、人影が宝物庫の扉を指差していたのは間違いない。見えた人物が昴本人であっても昴の形を借りた何かであっても、宝物庫に何かあると言うことだ。
『ねぇ、ねぇ、鱗道』
「……なんだ? シロ」
 手摺りの隙間から鼻先を出したシロの耳が小刻みに動いていた。顔を出すには狭い隙間から、耳や鼻は懸命に下を覗き込もうとしているようだ。
『音がする。猪狩が居る部屋の扉。バキバキって、すごい音』
「なんだって……? まさか、アイツ……!」
 鱗道はシロの言葉に表情を曇らせ、書斎前を離れて廊下を走り出した。鱗道が走り始めると同時に肩からクロが離れ、円を描きながら天井近くを飛び始める。シロはぴったりと鱗道の足下についてきた。階段を駆け下りれば、あの分厚く頑丈な扉がたわんでいることが見て取れる。部屋の中から何かが扉に強い衝撃を与えているのは一目瞭然であり、それを見付けてから鱗道はスピードを緩めた。
 鱗道が剥製部屋の扉の前に立つ直前、錆び付いた鉛色の塊が目の高さになる扉の一部分を叩き割って飛び出した。驚いたシロが扉の前に飛び出さないように手で制し座らせると、天井近くから下りてきたクロがシロの頭を止まり木にする。シロは目線でクロを見上げたものの、振り落とそうとはせずに真っ直ぐに首を立てた姿勢を保った。
 三人の前で、扉から飛び出した塊、おそらく手斧は切り開いた亀裂を押し広げるように暴れながら抜かれ、
「……大丈夫そうだな、猪狩」
 それがもう一度振り下ろされる前に、鱗道が声を発した。呆れと共に安堵の滲む声は、はっきりと扉に出来た亀裂を潜って届いたようである。結局、扉はもう一度大きくたわみ、手斧の端を覗かせはしたのだが、
「その声はグレイか! 大丈夫じゃねぇよ、全く……まぁ、その口ぶりからすると、お前は無事そうだがよ」
 随分と長く聞いていなかった気がするような猪狩の快活な声が中から響いた。が、言葉の合間に呼吸の乱れや強い疲労感を聞き取ることも出来る。中で相当、暴れていたのだろうことが窺えた。
「扉は全然開かねぇわ、壁も扉も分厚いせいか声も聞こえねぇわ、壁や棚に近付くと色々倒れてくるわで溜まったもんじゃねぇ」
「――シカの剥製みたいに、だな? 怪我はないか?」
「シロはお前の側にいるよな。いなくても言っといてくれ、アイツのせいでぶつけた頭が一番痛ぇってよ」
 手斧が開いた扉の亀裂は、指が三本ほど引っ掛けられそうな大きさには広がっている。鱗道が扉の前に立って亀裂の中を覗こうとすれば、同じようにしている猪狩の顔の一部が見えた。
「妙な言い回しはしないでくれ。シロが真に受けるだろ。つまり、大した怪我はしてないってことか」
 実際、猪狩の言葉が聞こえているシロの耳が力なく倒れていていたたまれない。亀裂を覗き込んでいる猪狩の左目が鱗道の言葉に笑う。そんな猪狩とは裏腹に、鱗道は大きく肩を落とした。
「……大人しく過ごしてる奴だとは思ってなかったが……まさか、扉を壊そうとするとはなぁ」
「この部屋には色々と道具があったからな。まぁ……力任せじゃここらが限界だな。しかし、お前がいいタイミングでそこにいてくれて助かったぜ。グレイ、俺の鞄、まだそこらにあるか?」
 鞄? と鱗道は剥製部屋に入る前、腰を下ろした円テーブルを見た。テーブルの上には黒く四角い鞄がぽつんと取り残されている。猪狩が車から降りる時から持っていた、懐中電灯を取り出したあの鞄だ。
「ああ、ある。だが、鞄ごとは通らんだろ? 潰れるようには出来てなさそうだ」
「中にナイフが入ってる。取ってくれ」
 まるで文房具でも頼むような言い方に、鞄に歩み寄っていた鱗道がナイフ? と思わず聞き返した。鞄を開けると非常用だと見せてきた頑丈そうな懐中電灯の他、手帳や筆記用具、財布や小さな小箱などに紛れて――確かに、黒っぽい鞘に収まった大型のサバイバルナイフが一本、素知らぬ顔で沈んでいる。
「こんなもんまで持ってきてたのか」
 鱗道は非常に重たいナイフを手に扉の前まで戻った。猪狩からは返事が無いまま、催促するように亀裂から伸ばされている指に鞘を触れさせた。亀裂はナイフを充分に通す広さがあるが、猪狩や鱗道が腕を入れるには到底足らない。猪狩の指が引っ込んだので柄の方を向けて差し込むと、ナイフは滑るように中へと引き込まれていった。
「……猪狩、お前、一体何を隠してるんだ」
 鱗道が扉から離れると、亀裂より鞘から抜かれたサバイバルナイフの刀身が覗いた。手斧を使って開かれた亀裂の端に、ノコギリのように加工された峰が当てられて前後に動かされる。木片を削る鈍い音が立つ中で、
「どうしてそう思う?」
 飄々とし、軽妙な声で返事が戻ってきた。あまりに常と変わらない言い方に、鱗道は短く息を吐いた。
「否定は、せんのだな」
 ぎしぎしと扉の亀裂を広げるか壊せるかと足掻くナイフの音も止まず、言葉は返ってこなかった。だが、聞いてはいるはずだ。それも、非常に慎重に。
「そんなもんまで用意していて、まるで危ない目に遭うと分かってて備えてたみたいだしな。屋敷を歩くだけにしてはやたら頑丈な靴も、ガラスが散乱した実験室を歩くためだろ?」
 鱗道の言葉にナイフが動きを止めた。一向に刃が入らなかったからという可能性はあるが、動きを止めたナイフは部屋の中に引っ込んでいき、
「グレイ、お前、今、実験室って言ったな?」
 扉に強い衝撃がぶつけられた。拳を打ち付けたか、ナイフの柄を叩き付けたか、そんな衝撃の音だ。鱗道が返す前に、猪狩は口早に言葉を続けた。
「二階からそこにいけたのか。書斎の扉は、お前には開いたんだな?」
 鱗道が猪狩の言葉を――正確には声を、意外だと思ったのには理由がある。猪狩の声は驚きから上げられたものだった。だが、その驚きの中には確かに喜びが含まれ、
「――やっぱり、そうか」
 コーヒーに垂らしたミルクのような、全体に滲むような安堵の色まで含まれていたのだ。猪狩の声にあった安堵に疑問を覚えている間に、扉が再び大きく軋んだ。何かを叩き付けたのではなく、猪狩が座ってか立ったままか、どちらかの状態で扉に体重をかけた故の軋みであるようだ。
「なぁ、猪狩。何故、色々黙ってた? まるで、俺が何も知らん状態で、屋敷を調べさせたかったみたいじゃないか」
「当たらずといえども遠からず、ってとこだな……先に言っておくが、悪意があってお前に黙ってたわけじゃねぇ。俺が下見に来た時、書斎と聞いてた部屋の扉がやけに固くてな、無理矢理押し開いたんだが勢いよく扉が閉じて、もう二度と開かなかった。古い屋敷だし、建て付けが悪くなってるんだろうとも思ったが、それにしちゃ不自然な閉じ方だったからな」
 それは、クロが言っていた数ヶ月前に来た書斎の来訪者のことに違いない。クロを見返すと、クロは扉に頭を向けたままシロの頭上で動く様子がなかった。猪狩の声は聞こえているだろうと思うが、何を思い、何を感じているかは分からない。
「書斎の奥にはもう一部屋あるってことも、捜索の時に作られた図面から下の剥製部屋からいける収納ハシゴがあるってことも聞いてたんで、下見ン時はそれで二階に上がった」
「それで、実験室にガラスが散乱していることを知って、今日のお前はそんな頑丈な靴で来たってわけか……猪狩、お前……どうして、そんなに書斎に行こうとしたんだ」
 扉がぎしぎしと、僅かに揺れた。声までは聞こえなかったが、猪狩は笑ったようである。
「探しモンさ」
 ――お前には分かるだろ? と、言いたげな言葉に鱗道は口をつぐんだ。猪狩は少なくとも、昴のオカルト趣味については確証を得ているようである。ならば、この男が探すだろうものはただ一つ――猪狩が探して見付けようとした物は、昴のオカルト趣味の産物だ。
「……そうか。その事は、お前はずっと言っていたな。この屋敷が妙なことになっている原因って奴が書斎にあると思って、俺に探させようとしたんだな?」
「俺がある程度見当を付けて探しているのを知られてる可能性があった。だから拒否するように扉を閉めたんじゃねぇのか、って思うくらいには扉の動きは不自然だったからな――そうだとしたら、屋敷を調べて貰うには何も知らねぇでいて貰わなきゃ困る」
 だから言わなかった。言えなかった。猪狩の言葉は少しばかり沈んでいた。実際、猪狩に悪意はなかったのだろう。だが、頼んでおいて細かな事情を話さずにいることに罪悪感が皆無だった、というわけでもなさそうだ。
 だが――猪狩はまだ、話していないことがある。
 昴のオカルト趣味が何かを作り出したということを猪狩は、いつ、どこで知ったのか。それを探していると、知られているかもしれないと考えるような状況は――下見に来た時であり、書斎へ上がる前であろう。その間に猪狩は、「オカルト趣味の産物」を探すべきだという情報を手に入れたのだ。
 猪狩はその事を口にする気配を感じさせなかった。語らないというより、語れないと状況的には考えるべきなのだろう。情報を先に知った猪狩が書斎に入ることを屋敷が拒絶し、何も知らなかった鱗道が書斎に入れたならば、そんな結論に到るのも当然である。不用意に話せば鱗道も屋敷に行動を制限される可能性があることを、あるいは攻撃的な行動を向けられる可能性があることを考えているからだ。
「……そんな靴まで準備しておいて、どうして二階に上がってこなかったんだ」
 故に、鱗道は猪狩を深く追求できずに、別の疑問へと話を変えた。実際、収納ハシゴがあるとクロから聞き、猪狩が下見の時に実験室までは上がってきた可能性があることに気が付いた時からの疑問である。ああ、と猪狩はそれまでの自白よりも軽い口調で声を発し、
「ハシゴを下ろすための道具が見つからねぇんだよ。前に来た時にはわかりやすいとこに置いといたはずなんだが」
 本当に困惑しているように返事を寄越す。猪狩はオカルト趣味の産物が屋敷の妙な現象の原因であることまでは見当を付けていても、それがどのような形状のものでどのようなものか――ましてや、液体金属に意思が作り出されたものが屋敷に染み込んでいる等と言うことまでは分かっていないのだ。それも当然か、と鱗道は頬を掻いた。クロから話を聞いた今でも、屋敷に染みた意思存在というものを理解出来ていない。ただ、在ることに間違いがないから、受け入れているだけだ。
「多分、屋敷が隠したんだろうな」
「……あ? 屋敷が?」
 扉が軋んで、亀裂に猪狩の指がかけられた。薄らと茶色がかっている切れ上がった左目が覗く。
「ああ。多分、だがな……クロ、ちょっと来てくれ」
 鱗道の言葉を理解できていない、というように猪狩の目は細い。鱗道が首を右に傾けて左肩を二回ほど叩くと、数度の羽ばたきでクロが鱗道の肩に飛び乗った。猪狩の目が開かれて、亀裂にかけられた指に力が入る。
「――グレイ、そいつは」
「書斎にいたカラスの剥製……じゃなく……昴が作った作り物、だそうだ。今はクロと呼ばせて貰ってるが、コイツに色々教えて貰った」
 猪狩の目にあるのは驚きではなく、警戒のように見えた。クロが鱗道の肩に乗った直後は開かれた目も、今は鋭い眼差しに変わっている。亀裂から見える範囲が目元周辺に限られているので、表情を把握することは出来ないのだが――きっと、写真の昴を思わせるような、能面めいた顔になっているのだろう。
「お前が俺に探させた、昴の産物の一つが、このクロだ」
 クロに向いていた視線が鱗道を射貫いた。一瞬たじろぐほどの鋭い視線は、警戒という言葉では温いと感じる。もっと強い感情がくすぶっているような視線であり、
「一つ? ……教えて貰ったってぇと、お前はそいつと話が出来たのか」
 同様の低い声であった。腹の底に留まるような、ドスの利かされた声である。猪狩の言葉に鱗道が短く肯定すると、ようやく猪狩の目元が弛んだ。と言っても、元々鋭い目だ。剣呑さは大きく変わらない。
「なぁ、グレイ――俺に理解できるかどうかは別として、屋敷が妙なことになってる原因を知ったなら教えてくれ」
 先程まで力任せに扉を破ろうとしていた人物の物とは思えないほど、猪狩の声は静かで落ち着いていた。猪狩は確かに感情豊かな男であるが、激情家ではない。むしろ、感情が高ぶれば昂ぶるほど静かに押し黙って、表に出さなくなるような性格だった。つまり、静かであればある程――今も、強い感情を抱いているということだ。
「原因は、意思存在って奴だ。意思を持って動く液体金属っていう……水銀みたいなもんだ。で、その意思存在がクロにも入ってる。昴は生き物を作ろうとして、その意思存在って奴や、その一部を入れたクロを作った……らしい。クロは随分と頭がいいし、意思もしっかりしてる。ただ、一応、彼方の世界の存在になるみたいで……普通の人間とは意思疎通は出来なかった」
 クロに確認する為に問うような視線を向けても、クロから反応はなかった。どうも一階に下りてきてから、先程まで雄弁であったのが嘘であったように黙りこくってしまっている。
「で、昴は思ったとおりに行かなかったもんで、作った意思存在を屋敷にぶちまけた。それで意思存在は屋敷に染み込んじまって、屋敷を動かしてる。金属っていっても液体みたいなもんで、木には染み込めてガラスや金属には無理みたいだ。それで扉や窓を動かしたり、開かなくしてる――ってので、あってる、よな?」
『一部、訂正させてください。鱗道』
 硬質な声に、鱗道が顔を上げた。クロの頭は亀裂から、僅かであるが鱗道に向けられる。動きが少しなのは、肩に乗った状態で頭を大きく動かせば嘴が鱗道の顔を打ち付けるからだ。
『昴は思ったとおりに行かなかったから廃棄したのではありません。意思存在が生き物として失敗作だったからです』
「その話だが俺は納得出来ん。意思疎通云々だが、お前やそのカラスを作れるくらいの奴なら、手段なんていくらでも作れた筈だ。お前が失敗作なんじゃない。昴のミスだ」
『昴が、ミスなど』
「生き物なんだからするに決まってる」
 呼吸をしないクロには不似合いな、息を飲むような間があった。僅かな静けさを破ったのは、猪狩の細かく区切られる笑い声であり、
「そのカラスは本当に意思を持って喋れるらしいな。俺には全く聞こえねぇけどよ」
 剣呑さも警戒も薄れつつある声であった。大きくわざとらしい溜め息に、鱗道はクロに向けていた視線を戻す。
「グレイ。お前はそいつを信じるのか」
「俺はクロの手を借りると決めた時からクロを信用してる」
 言った途端に急に振り向いた、硬く重たいクロの嘴が鱗道の左頬にぶつかった。思わず呻いて左頬を抑える。バサバサと慌てるようなクロの羽ばたきが耳に、『ああ、その、すみません』等と言う少し早口の言葉が鱗道の頭に響いてきた。クロには気にするなと言葉をかけながら、鱗道は扉の向こうを睨み付ける。先ほどまで見えていた猪狩の目は見えなくなり、隠されもしない豪快な笑い声が亀裂の向こうから聞こえているのだ。
「大事な話じゃなく、そういう失礼な笑みこそ隠しておけよ」
 隠されも殺されもしない笑い声の隙間から謝罪の言葉が聞こえてきても、気分は悪いままである。亀裂の隙間から笑みに揺れる指が出され、近寄れというように人差し指が動かされた。一歩進もうとした鱗道であるが、
「クロ、か。随分と分かりやすい名前を貰ったんだな」
 猪狩が呼んだのはクロの方らしい。鱗道は右腕を伸ばし、左手で手首の少し手前を指差した。数拍の間を置いて、クロが鱗道の前腕に飛び移る。鱗道はその右腕を――クロを亀裂の前に近付けた。
「そうか。グレイはお前を信じたか……なぁ、クロ」
 猪狩は大きな手が通れるはずもない亀裂から指を伸ばしている。故に、ずっと目はおろか顔の一部も見えておらず、猪狩からクロの姿が見えることもないはずだ。だから、指はずっとクロを呼んでいる。それが分からないとは思えなかったがクロは亀裂の中をじっと見るように顔を向けたまま、猪狩の指先から数センチの距離を保っていた。
「その男を頼むぜ」
 静かで穏やかな声による、請願じみた言葉。どこか猪狩らしくないような声もあって、鱗道もクロの後ろから亀裂の向こうを覗き込んだ。俯いているのか、見えるのは頭の一部分だけであった。茶色く染められた緩いウェーブの髪は多くの剥製の下敷きになったり扉を破ろうと暴れたりしたせいで埃にまみれてくすんで見える。
 クロは猪狩の言葉から、やはり数拍の間を置いた。考える為でもあり、躊躇いでもある。クロが鱗道の腕を歩き出したので、鱗道は左手で右腕を支えてやった。片手の先に乗せ続けるには、なかなかの重量があるからだ。
 るる、とシロが幼い唸り声を上げなければ、そのまま嘴と指先は触れるはず、だった。
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