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 隙間に並べていた便箋を回収しながら、鱗道は考えに耽っていた。猪狩がなんとかして書斎に入ろうとし、それが出来ずに鱗道にさせようとしたのは、この手紙が原因であろう。猪狩は下見の時、先にこの手紙を見付けたのだ。そして手紙に書かれていた鴉を探して屋敷を歩いた。手紙にはオカルトの産物として具体的に名前が挙がっているものが「鴉」しかない。まさか、屋敷そのものに染み込んでいようとは想像も出来ないはずだ。
 猪狩が書斎に入れなかったのは、鴉を探していたから。そして鱗道が書斎に入れたのは、鴉の存在を知らなかったから。猪狩が鱗道に何も知らせないまま屋敷を調べさせたのは結果として正しかったのだ。鱗道であれば鴉を見付けるだけではなく意思疎通を果たして屋敷の妙な現象の原因を問いただすことも出来る、と考えていたことだろう。
 クロを見付けて書斎から連れ出し、意思疎通も出来たということで猪狩は鱗道が宝物庫に行くと言った時に手紙を見付けるように仕向けた。ネタバラシという事だろう。これで猪狩の行動には、少しの疑問点が残るだけで大半の納得が出来る。
 問題は、屋敷の行動に関しては何も分かっていないということだ。
 鴉の存在を知った猪狩を、なぜ屋敷は鴉に会わせようとしなかったのだろうか。猪狩が手紙を見付けたことで、屋敷も手紙の内容を知って鴉を外に連れ出させまいとしたからか。ならば何故、会わせることすら拒むように書斎の扉を閉ざしたのだろう。持ち出させないためだけなら、書斎の扉を閉ざさなくとも今まで通りに出入り口を塞げば良かったはずだ。
 そしてもう一つは、
『屋敷は――本当に昴を、殺したのでしょうか』
 ぽつりと落とされたクロの言葉は沈痛を噛み締めているようであった。それもその筈であろう。屋敷に染みた意思存在は、クロが鴉の器に入れられるまでは一つの同じ存在であったのだ。分かれた片割れが敬愛すべき作り手を殺したとなれば痛みを覚えて当然である。
 屋敷は昴を殺したのか、というのも問題の一つだ。昴は、昴に対して敬愛と畏怖のみ抱いているクロにすら恨まれているかもしれないと考えていたようである。屋敷が昴を外に出さなかった事が事実だったとしても、殺されるというのは被害妄想である可能性は否めない。
『元々、昴が外出することは少なかった。屋敷から制限されていたかは、私には分かりません。また、私を含めて多くの人間は昴を行方不明だと思っているのでしょう。行方不明の結果、どこかで死んでしまっているのだと。屋敷が殺したなどというのはこの手紙に書かれているだけで死体は見つかっていませんし、可能性のある話にすぎません』
 クロの言葉は正しい。手紙がここに残されていることが即ち屋敷が昴を殺したという証拠にはならない。なんらかの事情で手紙を処分する前に屋敷もあずかり知らぬところで死亡してしまった可能性もある。主を失った屋敷は、そのまま屋敷を守ろうとして――そして、面影の似た猪狩晃を昴と勘違いして閉じ込めようとした。話としてはその方が自然なのだ。だが、これでは可笑しな点の説明がつかない。クロと会わせなかった理由と、猪狩に攻撃的な行動を向けた理由が浮いてしまう。
 クロほどはっきりとした意思が残っていなくとも、屋敷に染みた意思存在は何らかの指向性を持った考えを持ち、それに準じて行動をしているはずだ。物を持ち出させない、壊された窓を可能な限り修復する――場当たり的な行動だとは思えない。ただ、その動機に皆目見当がつかないのである。
『長い年月が経ち、今更見付けられるはずもありませんが証拠もないのです。断言できる者などいないでしょう』
「――いた」
 クロの言葉に、鱗道は今になってようやく、一つの違和感を思い出した。
「一人だけ、屋敷が殺したと断言した奴が、いる」
 その時の発言はすぐに濁された。濁されたが、撤回されなかった。思い至れば全てが奇妙だ。蛙は何でも飲み込んでみせるが、何時でも吐き出せるように構えている。真に飲み込んで取り込むために確証を必要とする蛙は、逆を言えば確証がなければ断言することはない。
 蛙は――猪狩は、車内で「屋敷の主であった男が、屋敷に殺されてる」と確かに断言した。クロを見付けられなかった猪狩だが、屋敷が昴を殺した証拠になり得るものを見付けたのではなかろうか。そうでもなければ猪狩が断言するはずがない。
 証拠になるものを見付けたばかりに、何も持ち出そうとしていないにも関わらず屋敷に閉じ込められかけ、再来すれば攻撃的な行動を向けられているのだとすれば、クロの件は別として屋敷の行動理由は想像がつく。昴殺害の証拠を知った猪狩の口封じのためか、昴と猪狩を混同して殺したはずの昴が生き返ってきたとでも思ってしまったのか。
 どちらにせよ、昴を殺した屋敷は、同じように猪狩晃を殺そうとしている。

 ひゃん、とエントランスからシロの鳴き声が一度響いた。少しの間を置いて、ひゃんひゃんと続いた鳴き声は止まない。シロには、鱗道を呼ぶならば顔を出すまで鳴き続けるように言ってきた。一度、二度で止まないと言うことは鱗道を呼んでいるのだ。
 手近な場所に封筒を置き、宝物庫の扉へ向かうと鱗道はすぐにドアノブに手を伸ばした。片手でも両手でも動かないドアノブからは乾いた湿度が伝わってくる。屋敷に染みた意思存在が鱗道の邪魔をしているのだ。
『鱗道、手を離してください』
 鱗道が動いた時に肩から離れていたクロの言葉に従ってドアノブから手を離す。直後、天井近くから翼を畳んだクロが、その足に封筒が入っていた金属箱を掴んでドアノブに向かって落下した。金属同士がぶつかる音が響く中で、再びクロが浮上する。単なるカラスとは違う重たい体重を乗せ、クロは何度もドアノブに金属箱を叩き付けた。そして、放置されすぎて強度も弱くなっていたらしいドアノブをたたき落とす。
 金属箱を手放したクロが、ドアノブが外れて出来た穴に嘴を潜り込ませて銀色の塊を引っ張り出した。水銀めいた液体金属――屋敷に染みた意思存在の一部分。この液体金属が鍵やドアノブに絡むことで、扉を開かなくしていたのだろう。
「クロ、そのまま捕まえてられるか?」
「可能と思われます。ですが、鱗道――」
「なら、頼んだ」
 鱗道は人差し指と親指を強く閉じた。屋敷に染みた意思存在が原因と分かり、乾いた湿度が呪いに由来していると分かってから、確かめねばならないと思っていたことの一つを確かめる機会が来たのである。指先に降ろした小さな蛇神の顎が、木の洞から引きずり出された虫のような液体金属に触れた。薄いガラス板が割れるような音が鱗道の頭の中に響き、クロの嘴と扉の洞の間で虫のような液体金属は容易く分断される。
 割れる。壊れる。それも付喪神よりも酷く呆気なく。蛇神を降ろした指に触れられたところから力が波及したのか、クロが咥えている部分も同様に飴細工のように固まり砕けていった。床に散らばる破片は、宝物庫に毛足の長い絨毯が敷き詰められているせいもあって細かく割れてしまえば見付けることも出来ない。
 鱗道は直ぐに両手を合わせて捻った。液体金属に直接触れて感じたことであるが、液体金属に宿った意思を蛇神に食わせることは出来ない。意思だけの存在はあまりに脆すぎて、蛇神を降ろした手が触れるだけで壊れてしまうのだ。だが、意思存在に蛇神の力が通じることはこれで分かった。
 両手に下ろした蛇神の顎を開き、ドアノブが破壊されて平らになった扉部分に押し当てる。顎を閉じていけば、手が進むことに抵抗などないように触れていく場所からぼろぼろと崩れていった。扉は意思存在が長く染みていた故に、長い間呪いを宿した呪物や付喪神が寄せ集めた部品のように彼方の世界に染まっていたのだ。だからこそ蛇神の力で砕くことが出来、意思存在が染みることの出来ない鍵部分だけが鱗道の手の中に残った。
『鱗道、貴方は、今、何をしたのですか? その白い手はなんなのですか?』
 言葉を発しながらクロはホバリングを続け、鱗道の肩に止まることを躊躇っているようだった。鱗道はクロに、扉から離して鍵を床に捨てた手の甲を向けた。白い鱗はすぐに失せていくが、蛇神の力は此方の世界に多大な影響を及ぼせる程強い。それでも一般人には見えない色をクロは見ている。完全に彼方の世界に盲目、というわけではなさそうだ。クロという意思が彼方の世界の存在であり、クロが言うほど感覚全てが機構頼りでもないのだろう。
「色々な奴に縁があって関わってきたと言っただろ。これが俺が関わってきた理由で、俺の仕事……みたいなもんだ」
 ドアノブも鍵も屋敷からの妨害がなくなり、手の平大の破損を受けた扉は鱗道が手をかける必要もなく開いた。ずっと鳴き続けていたシロの声が、鱗道が宝物庫から姿を現したことでようやく止む。
『鱗道!』
「シロ、何があった」
 鱗道はさっさとシロへ走り寄った。安堵に弛んだシロの顔が剥製部屋の扉を見上げる。シロがあれ程鳴いたというのに中はやけに静かだった。変化はそれだけではない。扉の亀裂を塞いでいた液体金属の膜がすっかり消えている。
『あのね、向こう側で何かが動いたの。だから僕、鳴いたんだけど、それまで扉と話してた猪狩の声も聞こえなくなっちゃって、扉からぬるっとしたのもいなくなって、でも僕、扉開けられないし』
 猪狩が扉と話してた?  シロの言葉全ては通じず、それどころか妙な表現までが飛び出して鱗道は一瞬混乱した。が、剥製部屋からの音が鱗道を引き戻す。それは、扉が壁に叩き付けられる音だ。亀裂から見える室内で、隣室に通じる扉が壁に跳ね返って酷くゆっくりであるが閉じようとしていた。
 隣は解体場だ、と猪狩が言っていた言葉を思い出す。亀裂から見える範囲に猪狩の姿はない。が、解体場へ通じる扉が再度、大きく開いて壁に叩き付けられる。扉を蹴り、解体場に引きずられる足は、底の分厚い頑丈そうな靴を履いていた。
 鱗道は剥製部屋の扉に手をかけた。シロが扉からは消えたと言っていたように、鱗道が触れても乾いた湿度は感じず、扉は簡単に開く。剥製部屋は酷い有様であった。殆どの剥製が床に落ちていて、扉近くにはサバイバルナイフと錆びた鉈や手斧など、猪狩が扉を壊そうと用いた道具が置かれている。
 扉が開いてすぐ、シロは鱗道の足下を抜けていた。先ほど蹴り開けられた扉の隙間に体を挟み込む。シロを挟んだ扉の縁からは、樹液のように銀色の液体金属が滲み出てシロの体に垂れたが、白い被毛に触れた途端に砕けてしまった。ただ此方の世界に顕現しているだけのシロに触れるだけでも壊れてしまうらしい。
 シロが作った扉の隙間にクロが滑り込んでいく。クロの身体に降りかかった液体金属は、翼や体に弾かれて取り付くことも出来なかった。液体金属を密封するように作られたクロの身体は、液体金属が染み出すことも染み込むことも出来ない。先ほど、扉の洞で液体金属を嘴で咥えられたのも同じことだ。
 鱗道は右手をすぼめるようにして作った片手分の蛇の頭に、蛇神を降ろして扉の縁に触れた。染み出していた意思存在はもとより、意思存在が染み込んだ扉の縁も蛇神の顎は容易に砕く。シロを大きく跨いで、解体場に足を踏み入れた。タイル張りされている床を走る排水口から伸びた銀色のロープを、魚を捕まえたトンビのようにクロの両足が掴んでいる。
『鱗道、急いでください』
 ロープの先には、床に転がっている猪狩がいた。足をばたつかせ、壁を蹴り、ひたすら排水口から距離を取ろうとしている猪狩の首に銀色のロープが巻き付いている。真っ赤になった顔の下で、両手が必死にロープと首をかきむしっているが指が入る隙間すら作れないようだ。
「猪狩!」
 鱗道はまず、排水口から伸びた部分を右手の蛇神の顎で噛み千切った。千切られた根の部分は排水口の奥へと消えていく。次いでそのまま右手で、撫でるように切り離されて解体場に残った部分を辿った。
「クロ、排水口を塞いでくれ! シロは扉を閉めさせるなよ!」
 シロからはひゃん! という鳴き声と『分かった!』という明快な返事が返された。鱗道の手を避けるように飛び上がったクロはすぐに排水口の上へと着地し、巣で卵を温める鳥のように腹を押し付ける。クロの身体に染み込めないならば、ぴったりと塞いでしまえば易々と侵入されることもない。
 やはり、液体金属は蛇神の力に――シロの体に触れるだけでも砕けたことを考えれば、彼方の世界から与えられる影響全てに対して酷く弱いようだ。此方の世界の物に宿っているのが意思だけであり、精々が宿り先の液体金属を動かせる程度で、抵抗するために振るう力には足りていない。だから、鱗道が蛇神を降ろした手で触れるだけで容易に砕けるし、力が波及してしまえば猪狩の首元まで持っていかなくとも粉々に砕けてしまう。
 猪狩の首を締め上げていた部分は単純に量が多かったか、折れるように割れた部分は他に比べて大きめであった。撥水加工のされたタイルに散らばった大きめの破片は少しの間、綺麗な半球状を形作ったが、
『鱗道、液体金属は安定性のある物質ではないと申し上げましたが――ご覧ください。開放空間に放置されれば、このように流動性を失います』
 クロの嘴が導かずとも、鱗道の目の前に落ちた半球状の液体金属は油膜を纏うような鮮やかな銀色を見る間にくすませていった。蛇神の力で砕けた時とはまた違い、艶やかな表面には皺が寄ってヒビになり、風化するように砕けて硬くくすんだ鉛色の破片となる。
『量が多く、対流し続けて空気中に触れる部分を絶えず入れ替えればこれ程早く流動性を失って硬質化することはないでしょうが』
「彼方でも此方でも、酷く脆いもんだな」
 気道が開放された猪狩が、むせながら呼吸を繰り返す側に片膝を付く。鱗道の表情は苦かった。感情の整理は全くというほどつかない。蛇神の力が通じると分かった安堵や、あまりの脆さに対する同情、目の当たりにした直接的な害に対する怒りや――
「――さすがに、今回は、死ぬかと、思ったぜ」
 猪狩に対する若干の苛立ちや不可解など、など。
 ようやく呼吸が安定した猪狩がゆっくりと身を起こす。払うように触れている首にはくっきりと赤い索条痕と掻き毟った爪痕が残っていた。痛々しいそれらの跡はすぐに消えるようなものではなく、しばらくすれば青紫にでも変わっていくのだろう。
「……おい、猪狩」
 蛇神の力も消えた右手で、鱗道は猪狩の襟首を掴み上げた。ジャケットの革が手の中で軋む。顔色が戻り始めた猪狩の表情は驚いても怯えてもいない。ただ、叱られることが分かっている子どものように、
「勘弁してくれ、グレイ。これ以上絞められるのはゴメンだ」
 バツが悪そう、かつ矛先を逸らそうという意地の悪さが滲む表情で鱗道を見上げている。猪狩に向かって言ってやろうと思っていた言葉候補は幾つもあった。心配、安堵、罵声その他など、など。だが、鱗道は感情を言葉にせずに全て右手に込めてジャケットを掴んでいた。言ってやりたい言葉と、言うべき言葉が違うことは分かっている。
「手紙を読んできた」
 鱗道の声は声変わり以降、同年代よりもよく言えばハスキーであり、悪く言えば掠れていた。年齢を重ねれば相応に近付いていくのは髪色だけではなく声もだろう。目の前の快活な声の持ち主は学生時代に、感情を表に出すことの少ない鱗道には似合いの声だと掠れ声を羨むように言ってきたことがある。
 今日も、今も、鱗道の声に感情は多く滲んでいない。だが、長い付き合いの猪狩は僅かでも複雑で入り組んだ鱗道の感情を読み取ることは出来るはずだ。現に、猪狩は鱗道の言葉に表情を変え、俯くように視線を逸らしてジャケットから手が離されても襟を正そうとしなかった。
「これ以上、何か隠すようなら俺はお前を引きずってでもここから帰る。そして、ここに二度と近付けさせん」
「……それが出来るのか?」
「出来る」
 鱗道は猪狩を睨みながら、目の前に腰を下ろして胡座をかいた。一つ、深く深く息を吐いて――
「お前の言い方に倣えば、この屋敷はカミサマ沙汰で対処が出来る。お前が俺にしてきた依頼はこなせるんだ。だから、腹を括って全部話せ。猪狩、お前はこの屋敷で何を見付けたんだ」

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