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 なぁ、グレイ、と鱗道に呼び掛けた猪狩が床の上に座り直す。膝を少し開いた正座は、剣道家や柔道家がするような座り方だ。警察官はどちらかを必ず習うと言うから、猪狩には姿勢を正すとなれば自然な座り方なのだろう。
「改めて俺の勝手を承知で頼みたい。意思存在に、始末を付けて欲しい」
 猪狩の真剣な表情と真剣な眼差しは、鱗道でもそう何度も見たことのある顔ではなかった。鱗道は猪狩を正面に、特に姿勢も正さずに言葉を聞く。
「意思存在は、人一人を殺してる。俺はそれを……見逃したり、許したりは出来ねぇ。相手が屋敷だとか、お前が言う彼方の世界の連中だとかで、人間の法律で裁けなくてもだ。身内が殺されてる以上、単に俺が屋敷を荒事で壊せばただの復讐になっちまう。復讐なら自分の手でやるが、俺は復讐したいわけじゃねぇし――手段がそれしかないってわけじゃねぇ。グレイ――鱗道灰人、お前がいる」
 鱗道を見据える目には大きな感情が映り込んでも滲んでもいなかった。先ほどまでの強い敵意も哀愁も、強い正義感や豊かな感情も何もない。淡々とした言葉と同様に、どこか冷淡さすら感じるほどの静かな目は、瞼によって閉ざされて、
「お前のカミサマの力なら言い分や動機も分かるかもしれねぇし、知りてぇ気持ちはある。が、それは出来ればでいい。何があろうと、この屋敷は放っておけねぇ。始末をつけなきゃならねぇんだ」
 深く深く下げられた頭から、強い意志と責任感を纏った「頼む」という言葉が発せられ、猪狩の言葉はぴたりと止まった。鱗道は黙ってその頭を見ていたが、
『鱗道』
 と、自分の頭に届く硬質な音にクロへ視線を向ける。クロは掲げた嘴を開いて、
『私からも頼みます。本当に屋敷が昴を――意思を持って殺したのならば、最早、あるべきものではないでしょう』
 静かに、静かに、締め付けられるような切なさに震えている声を鱗道の頭に届けると、クロは頭を垂れるように嘴を下げた。切なさも、震えもあって当然である。クロは、もともと屋敷に染みた意思存在と同じものだったのだから。切り取られ鴉の贋作に入れられた場所が少しでもズレていれば、今、クロに入っている部分は屋敷に染みていたのである。
 鱗道は視線を猪狩へと戻した。猪狩、と呼び掛けても頭が上げられることはない。猪狩に対する明確な返答でなければ、頭は上げられないのだろう。鱗道は意図的に己の髪を掻いて、その手を首裏へと回した。
「……お前の頼みを俺が断ると思うか。俺達、友達だろ」
 ほとんど棒読みでわざとらしい鱗道の言葉に猪狩が顔を上げる。驚いているような表情はどこか間の抜けたものであって、鱗道が右手で首裏に触れているのを見ると目が柔らかく細められた。鱗道は口の端を持ち上げて見せ、
「言ってやったぞ」
「……似合わねぇなぁ」
 鱗道の言葉に破顔し、子ども臭さの抜けない笑みを浮かべた猪狩の身体からようやく緊張感が抜けていった。年齢には不相応の、しかし猪狩にはお似合いの子どもっぽい笑みは、少しでもこの男が身軽になった証拠と受け取って良いのだろう。
「言ったら言ったで文句とは良いご身分で。まぁ……たった今、クロにも頼まれたからな」
「クロが?」
 猪狩が鱗道の言葉に促されるようにクロを見た時、下げられていたクロの嘴は通常の高さに戻っていた。が、顔は猪狩と鉢合わせてすぐに鱗道に向いた。深い意味のある動作ではなく、視線を逸らす仕草のように見える。
「蛇神の代理仕事……整地やらなんやらに入るかは別だが、本当に屋敷が……意図的に人を殺したなら、放ってはおけんだろ。何故かは知らんが、お前も殺そうとしてるみたいだしな。ただ――」
 鱗道もまた、クロを見ながら目を細めた。気になっていることがある。それを、猪狩に伝えるべきかどうかを迷っているのだ。言うことで結論が変わるわけではない。だが――猪狩にとって、動機は知らない方が良いのではないか、という懸念がある。
 彼方の世界の住人は、此方の世界の考えや価値観と一致することが稀だ。猪狩は人間の法律で裁けないことは分かっていても、動機や言い分があると考えて、それを知りたいと言った。だが、そもそもその考えが危険だ。彼方の世界に人間の考えるような善悪は存在しない。破壊も呪いも傷害も、果ての殺人も、場合や状況によっては自らが招いた結果を認識していない存在もいるだろう。
 鱗道が行っている蛇神の代理仕事は領地の整地であって、そこには法律や善悪という基準はない。此方の世界と彼方の世界で干渉し合う影響が過度に傾くことがないようにバランスを取ることだけが鱗道の果たすべき代理仕事である。長く代理仕事に従事して二つの世界の境界を跨げる鱗道は、彼方の世界の尺度は人間の理外にあり、此方の世界の尺度からは完全に切り離して考えるべきだと知っている。
 だが、猪狩は違う。猪狩は彼方の世界の尺度を持っておらず、当然、知る術もない。彼方の世界に関しては鱗道を介しての接触に限られている以上、イメージも知識も限界がある。もし、屋敷の昴を殺した理由が、人間の理外にあった場合――猪狩はそれを今までのように飲み込むことが出来るのだろうか。人間の理外にある可能性を、今の段階で猪狩に伝えておくべきではないか。
 伝えたとして結果は変わらない。猪狩は昴を殺した屋敷を壊すという結論を変えないだろうし、クロにも頼まれた以上、鱗道は屋敷に染みた意思存在に対して蛇神を降ろして始末を付けるだろう。しかし相手が理外にあり、時には理由も動機もなく行動を起こし、結果人を死に至らしめることがあると、猪狩が可能性だけでも知ったら――今回のような彼方の世界絡みで人死にが絡んだ時、今回のように鱗道に声をかけるだろうか。先ほど垣間見た物騒な敵意を、自身で直接向けに行きやしないか。
「おい、妙なところで黙るなよ。気になるだろうが」
「……出来ると言っても、難しいことには変わらんからな」
 鱗道は言葉を続けながら、自分の考えを振り払うように頭を振った。考えすぎだ、と自身に言い聞かせるように。らしくない猪狩を見続けたり、オカルトなどと言う未知の世界にまで片足を突っ込まされたり、ミステリーやサスペンスなど見ないにも関わらず物事を深く考え込んだりし続けたせいで穿った思考や邪推、不要な深読みが混ざっている。
「屋敷に染みた意思存在は、シロや蛇神を降ろした俺が触れる程度で壊れるくらい脆いし、液体金属も細切れにして外に放っておけば固まって駄目になる。問題は、部屋に分散されたり屋敷の中に染みた状態でいられたりしたんじゃイタチごっこになってキリがないってことだ。下手に時間をかけて分断されてみろ。次は向こうもしくじらんだろうな」
 実際、鱗道やシロにとって意思存在そのものは厄介な相手ではない。だが、相手が屋敷に染みているという状況はどうにも出来ない問題である。蛇神を降ろせば意思存在が長くにわたり染み込んでいた部分諸共破壊出来るが、蛇神を降ろす鱗道は一人の人間でしかない。屋敷全てを壊し尽くして追い込むなどという真似は到底出来ないし、屋敷に広がられている状態になれば鱗道では居場所の特定も出来ない。
 考え込む鱗道は視線をシロへと向けた。解体場の扉に身体を挟んで伏せたまま、耳や鼻を小まめに動かして状況把握に努めてくれているようである。とは言え、紺碧の目は少しばかり瞼が重たげであった。
 シロであればある程度は意思存在の動きを把握出来る。が、壁や扉の中に染みている意思存在に直接触れる術はない。シロが力を過分に使えば――社で狛犬の頭を砕いたように――壁や扉も簡単に壊すことは出来るだろう。だが、それは荒神の衝動となる破壊の意思を増長する行動になりかねない。シロが抱えている穢れは、浜辺での遊び程度でも容易にその顔を覗かせるのだ。
「話を聞くにしてもそれなりの量が一ヶ所に集まって貰わんと俺では声が聞こえんだろうな。シロも声を聞いてはいないんだ。だから、話が聞けるとは限らんぞ。そればかりは意思存在がどれだけ話せる状態にあるか次第だ」
「ああ、分かった。口は割らせて欲しいが……それも俺には手が出せねぇ領域だ。お前が聞き出せなきゃ諦める」
 鱗道の言葉を聞きながら姿勢を崩した猪狩は口元に手をやって返事を寄越す。視線は鱗道ではなく、壁や排水口を漫然と見ているようだった。鱗道が挙げた問題点を――屋敷に染みた意思存在を一ヶ所に集める手段を考えているのか。否、
「おい、屋敷。聞いてやがるんだろ?」
 既に思い付いていて、実行するための言葉を選んでいたようだ。
「これから俺がお前の所に行ってやる。出迎えの準備でもしてくれよ」
 ざわり、と鱗道でも分かる程に屋敷が身震いをするような感覚があった。シロが伏せていた顔を上げ、紺碧の目を開いてじっと耳を澄ませている。鱗道にはざわめきだけが伝わっていたが、シロはそれ以上の音や感覚があったのだろう。立ち上がった頭は剥製部屋の外、北側のダイニングへと向いた。
『いっぱい動いた。すごくいっぱい。動いたのはみんな、あっちに行った』
 ピンと立った耳は、ひゃんと小さく鳴き声を上げた顔と同じ方向を向いたまま固定されている。シロの反応を見た猪狩が、口の端を歪めながら立ち上がった。
「シロの様子じゃ反応あり、か。あとは俺が出向けば歓迎してくれるってわけだ」
「猪狩、お前も行く気か?」
 鱗道は胡座のまま猪狩を見上げた。いかにも猪狩らしい、妙な自信に溢れた勝ち気さが溢れている。恐れなどは知らぬと言わんばかりの、しかし、けっして侮らない慎重さを持った笑みだ。
「当たり前だ。これで俺が動かないでいてみろ。せっかく集まってくれてんのに、分散されて分断されて一巻の終わりだぜ」
「お前が危険なのは目に見えてる」
「それは、お前がどうにかしてくれるんだろ?」
 そんな男が子供っぽさの抜けない笑みを浮かべて、座ったままの特に取り柄のない有り触れたただの男である自分に――鱗道に手を伸ばす。最も、猪狩から取り柄がないだの、有り触れているだのと言われたことは一度もなかった。
「……無茶ばっかり言うなぁ。お前は」
 鱗道は猪狩が差し出した手に掴まることなく立ち上がった。立ち上がっても、猪狩の顔を見るには顔を上げる必要がある。見た顔は、わざとらしいまでに不満げで、
「やっぱり俺とズレてやがるな」
 使われなかった手をぶらぶらと振って見せた。
「それを分かっててやってるだろ」
「俺が期待してることは、お前も分かってんだろうが」
「期待には出来る限り応えてやってる」
「ああ、そうだな。グレイ、お前はいつも俺の期待通りか、その上を行ってくれるぜ」
 部屋中に響くような大声で猪狩が笑い、のっそりと歩み出してシロを跨ぐ。大柄な姿が見えなくなった頃に、羽音が鱗道の左肩に止まった。
『あれが、猪狩晃ですか』
 やはり、猪狩の前ではあまり喋らなかったなと思った矢先のクロの声だった。鱗道はクロの妙な言い方に眉をひそめかけたが、クロが猪狩の姿をはっきりと見たのも人となりが分かる程の会話をしたのもこれが初めてであったことを今更ながらに思い出す。
「ああ、あれが猪狩晃だなぁ……幻滅したか? あんまりにも昴に似ていなくて」
 少しばかり揶揄めいた響きが混ざったが、クロが気にする様子はない。それどころか硬質な声は終始真面目に、
『ええ。全く似ていません。昴はあれ程表情が変わることもなく、もの静かで、理知的で、無駄もなく――諦めが良かった』
 機織りが動くように言葉を律動的に紡いでいく。しかし、最後の声には、
『昴も諦めが悪ければ……声がなくともあのようにコミュニケーションをとる手段を見付けて……議論を交わすことが出来たのでしょうか』
 未練や憧れ等と言った複雑な感情で、少しばかり濁っているように聞き取れた。その濁りは悪いものではなく――雑味のように、クロという存在をより深めているものである。
『いえ、それは私も同じですね。昴に語られるばかりではなく、私も行動をすべきだった。悔やまれます』
「……俺は結局、昴ってのがどんな人か分からんままだが……無駄だとか失敗作だとか言いながら、昴はお前に話し続けてたし、字を教えるような真似もしてたんだろ? 普通の人間がお前のようなのを受け入れるのは簡単じゃないが、手紙にはもしかしたらと考え始めてるみたいに書かれていたし……時間があれば、どちらかが手段を見付けてたと思う……運が悪かったんだ」
 深い意味も慰めも込めていない言葉であった。ただ思ったことを思ったままに言っただけである。クロが嘴に配慮しながら鱗道の目を覗き込んでいた。部屋の灯りが反射すると光る赤い目であるが、けっして内側からは光らない。しかし、
『……貴方の方が昴に似ている気がします。鱗道』
 少し、笑っていると感じたのを気のせいだとは思わなかった。
「褒め言葉か?」
『ええ。褒めています。晃より貴方の方が好ましい。静かですし、話も理性的です。だからこそ不思議でもある』
 買い被りすぎだと鱗道が言うより前に、クロの言葉は続けられていた。それは、極めて真剣な問いである。
『何故、あのような人物を友と呼び、危険と分かっていて行動するのか。非合理的ではありませんか』
 真剣な問いであることは伝わっているが、鱗道はクロの声に小さく吹き出した。それが不満であったのか、意外な反応であったのか、鱗道の肩に捕まるクロの足に力が入る。
 本当は分かっているくせに、あるいは、すぐに自力で答えに辿り着くだろうに、と鱗道に湧く感情は、クロに生き物臭さを見付ける度に湧く愉快とも喜びともいえるものであった。
「非合理的云々で言えば、別に義理もないのに俺の手伝いをしてくれてるお前も充分非合理的じゃないか」
 クロが極めて自然に首を傾げたのを見て、鱗道はまた小さく笑う。それから歩を進めて、解体場の扉を潜ろうとすればするりと足下にシロがついてきた。ずっと扉の間にいたからこそ出来た豊かな被毛の不自然なくびれを手で馴らしてやる。身体をかがめても、クロは器用に鱗道の肩を乗り熟していた。
「それと、アイツの友人なのは俺が猪狩昴じゃなく鱗道灰人っていう普通の男だからで、厄介だと分かってても行動するのは猪狩晃が俺の友人だからだよ」
 鱗道の言葉にクロは返事をしなかった。表情がない以上、返事がなければ何を思い何を感じているかは分からない。黙ったクロを肩に乗せ、足下にシロを引き連れて鱗道はエントランスに出た。先に出ていた猪狩は中で拾い上げたサバイバルナイフを鞘に収めて、ベルトに括り付けているところだ。エントランスに差し込むステンドグラスの光はすっかり傾いていて、寒色の光の中に立たなければ眩しがる程でもないのだろう。剥製部屋を出て来た鱗道の姿を見てにやりと笑った猪狩の顔は、サングラスもなくはっきりと見て取れる。
「まるで桃太郎だな、グレイ。キジじゃなくて鴉だが。その内、サルも手懐けたりしてな」
 猪狩の言葉に鱗道ははっきりとした表情を向けなかった。いつも通りの気怠げで愛想もない顔を向け、
「手懐けちゃいないが、心当たりはある」
「マジか! いつの間になんだよ、そんな面白そうな話、俺は聞いてねぇぞ」
 それでも、鱗道は言葉に冗談めいた響きを潜ませたつもりであった。が、猪狩の反応を見るに伝わっていないようである。冗談が冗談として通じなかったことに、鱗道は肩を落としてキジならぬ鴉と犬を連れて数秒だけ猪狩に並んだ。
「そうだな。話してない。なにせ、お前は当事者だからな」
 猪狩の表情が不可解を示す一瞬を見て、鱗道はさっさと追い抜いてエントランスの扉前に立った。鈍い男ではないのだから、真意にはすぐに辿り着くはずだ。

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