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 夕飯も食べ終わり、食器を洗っている最中にシロがひゃん、と一鳴きした。小窓を開けて暫くすると黒い影が滑り込んでくる。二度、三度と天井近くで円を描き、クロはシロの頭の上に足をついた。
『居ました。今はまだ山の近くですが繁華街の方へ向かいかねません』
「そうか。ご苦労さん」
 鱗道は陰鬱な顔の侭皿を洗い終え、コート掛けから薄手のコートを取り出し羽織った。濃い紺色のコートは夜の潮風から身を守る以外にも、他人から見付けづらくする意味合いもある。このご時世、誰もがスマートフォンを持っていて、妙なものは見つけ次第撮影されてしまう世の中だ。少しでも目立たない方がいい。
 ――そんなことを考えながらコートを羽織り、鱗道は少し首を傾いだ。確かに、己の道は分かりやすい。何をすれば良いか、誰の所為か、それが明白なことは幸福だと思う。だが端から見れば盛大な独り言になりかねない物との会話や、こうして人目を忍んで行わなければならない蛇神の代理仕事などは、やはり楽とは言い難いのではなかろうか。
『鱗道?』
 勝手口の扉の前に座っていたシロが首を傾ぐ。当然、クロは落ちるはずもない。クロもまた首を回して鱗道を待っている。
「――いや、なんでもない」
 考えても詮無きことである。在るものを在ると認めるように、今を今のまま認めることは鱗道にとっては諦観である。が、猪狩はそれを覚悟と呼んだ――格好を付けたがる男なのだ。
「行こう。苦労を重ねてすまないが、クロ、案内を頼む」
 勝手口を開けると真っ先にシロが飛び出した。すでに日は沈みきり、町は暗く、家々の明かりと点々とした街灯だけが店の周囲に残された光源だ。
『私には疲労はありません。が、鱗道』
 クロの姿はそんな夜に真っ先に溶けてしまう。鱗道の目ではそれを追うことは出来ない。だが、クロが鱗道を見るために赤い目を向ければそれが分かる。赤い、宝石のような目。
『今の言葉は苦労と鴉の意味を示すクロウを重ねた冗談でしょうか』
「……お前、時々俺よりおっさん臭くなるよなぁ」
 鱗道が大きく落とした肩を、クロがどう受け止めたかは知るよしもない。羽音もわずかに飛び立って、クロの姿は完全に夜に溶けていく。追うのは鱗道ではなくシロの役目だ。
 ひゃん、と一鳴き。シロの大きな体と白い毛皮はどんな夜にも溶けはしない。遠くの街灯すら反射して、雪のようにきらりと光る。駆けて揺らめくその体躯は白い光そのものであった。全力を出されればひとたまりも無いが、シロがどれだけ離れようと角を曲がらない限り見失うことはない。そして角を曲がったならば、必ずシロは足を止めて鱗道を待った。待つことが得意な忠犬なのだ。そして追うことに優れた獣でもある。鱗道は体力が許す限りは駆けてシロを追った。
「クロは」
『まだ飛んでる。大丈夫、ぜんぜん分かる』
 二個目の角を曲がり、道は上り坂となった。このまま進めば山になる。クロは繁華街の方へ向かおうとしている、と報告をした。この辺りから繁華街へ向かうとなればどこかで大きな道とぶつかるはずだ。S町の人口は少なくない。日が暮れたとはいえ人通りは大きな道となればまだあるはずだ。
「シロ。そろそろ上を行きたい」
 坂の途中――車の往来も増える大通りが見えだした頃に、鱗道はシロを呼び止めた。白い体が踵を返して鱗道の足下に絡みつく。
『クロは近いけど、まだ飛んでるよ』
 全くもって文字通り、シロの体は鱗道の足に絡み付いたのだ。犬の形が崩れ、鱗道の足を白い毛皮が覆う。
「お前の目なら追えるだろ? 右目もお前に任せる」
 膝から下、白い毛皮は犬の後足そのものを象った。白い光のような毛皮を揺らし、爪がコンクリートを蹴り上げる。鱗道の体は人家を優に超すほど高く跳ね、平らな屋上を選んで着地した。月は細いが、左目を閉じれば風景は煌々と浮かび上がる。今、鏡を見たならば鱗道の右目は紺碧に染まっているだろう。黒い夜空を一羽の黒い鴉が舞っている。その飛行軌道は直線ではなく円を描いていた。目標を見付けたときのクロの飛び方だ。その円の近くにソレがいるのだろう。鱗道はシロの足を使って屋根の上を駆けていく。風は全て向かってきていた。風の方向が悪いのではない。それ程この足は速く駆けることが出来るのだ。
 道中、人集りが出来ているのが視界に映った。子供と、自転車。そして集まっている人々。子供の足はすっぱりと大きく裂けていた。声が右耳に届いてくる。子供の泣き声、慰める大人の声、救急車に連絡をしている大人の声――
『大丈夫かな』
 シロの声は鱗道の右頭部から響いていた。鱗道はあからさまに顔をしかめ、
「おい。深く混ざるな。右目と足だけだ」
『でも、あの子』
 人集りの声はしっかりと遠のいた。鱗道の右目はクロを捉えている。円の位置が動いていた。ソレは移動し続けているようだ。
『あの子、昼間の子だった』
 シロの声に鱗道は何も返さない。ただ、黙々とクロとの距離を詰めていく。
 屋根を五つは渡り、それ以上を飛び越えてクロの元へ辿り着こうとしたときである。屋上にあったソレがきらりと瞬いた。街灯の明かりか車のライトを反射したのだろう。暗闇を見通すシロの目には眩しすぎて目がくらむ。その隙にソレは鱗道の横を抜けていた。太腿に鋭い熱が走り、濡れていくのを自覚して痛みを認識する。膝から下をシロに任せていたからだろう、落下や滑るということはしなかった。獣の足が屋根瓦の隙間に食い込んでいる。が、せっかく近づいた距離が再び離れるのも仕方がない。クロはまだ、ソレを追っているはずだ。
『――見えなかった』
 傷を負った太腿までシロの毛皮がせり上がってきた故に、血は止まって垂れることはない。が、喉の唸りを鱗道は頭の中で聞く。牙を剥いて唸る、犬の形相。それが腹の中にあり、鱗道の内臓を揺らしていた。鱗道はシロと混ざっている左足の膝から下を強めに叩いた。大した痛みはないはずだが、冷静さを引き戻す切っ掛けぐらいにはなるはずだ。
「お前が俺の腹を食い破ってどうする」
 追うぞ、とは言わなかった。言う前に足が既に駆けている。引き戻す切っ掛けにはなったのだろう。腹の揺れは収まった。だが、所詮は切っ掛けにしかなっていない。シロが向かう勢いは鱗道の反応を優に超えている。先程よりも早く、先程よりも高く、ソレを追う。紺碧の眼は鴉を追ってはいないようだ。完全にソレを捉えている。光を反射させた、歪なハサミ頭。刃はカミソリのように巨大で広い。四肢は釘や針金で繋ぎ合わせたカッターやノコギリの破片。胸部にそそり立つ、両刃カミソリの板きれ一枚――それに、眼球が一つ、滑るように浮いている。
 あのカミソリの刃が本体なのだろう。昼間、少年から預かったブリキの車と同じ、名付けるならば、付喪神。物に意思が宿れば一括りにそう呼ばれるし、鱗道もそう呼んだ。なにせ細かく区分するには誠に仔細が詳細すぎる。
 だが、ブリキの車はせいぜい自身のブリキを歪ませたりゼンマイを捻ったりであったが、このカミソリは成り方が違う。成り方が違うのは、玩具の車だから安全ではなく、カミソリだから危険でもない。
『やっぱりナ! 変な人間! そう思ってたゼ! 屋根まで追っかけてきてんのも!』
 距離が近づいたからか、鱗道の頭の中で金属がこすれ合う不快な音が声を伴って溢れ出した。顔をしかめてもシロの足はカミソリを追い続けている。制しよう、という気にはならなかった。そんな余裕も安全な手段も、今はない。鱗道が追うことでカミソリの向かう方向が繁華街から外れているのも理由だった。このまま追えば、人家が減る山の境まで追い出せるかもしれない。境には建築資材の保管場や手入れのされていない空き地などがあるはずだ。人の目も減れば、被害者が増えることもない。
『あのうぜぇカラス! お前のカ! 邪魔するのカ! 俺ヲ!』
 事実、街の明かりが極端に減りだした。鱗道は改めて左目を閉じる。人間の左目では殆ど暗い風景しか見えなかったからだ。シロに任せた右目が残っていて細い月明かりの中でもしっかりとカミソリを捉え続けている。故にシロの足が遅れることも、危ぶむこともない。
「邪魔ってのは、辻斬りのことかい」
 鱗道はほぼ頭上にきていたクロに左手を振り、一方向を指さした。その方角が果たして本当に正しいか、移動をシロに任せている鱗道には分からない。が、多少の間違いも上空のクロは補正してくれるだろう。片目を閉じている、その鱗道の顔が見えれば意図も伝わるはずだ。
『ツジギリ! いい言葉ダ! そう呼ぼウ! 俺はツジギリしてタ!』
 カミソリの言葉は間違っていないが会話や文章としては破綻している。己の体に眼球を浮かばせ、同じ刃物や金属を寄せ集めて体を作るという付喪神としては上等な手段を用いている割には半端な意思の成長をしていた。経験上、自身と同類を寄せ集めるようになる頃にはもう少し会話が成立したものであるが――
「なんで辻斬りなんぞしてんだ、お前さん」
『切れるからダ!』
 おそらく、時間をかけて成ったものではないのだ。人に愛され、あるいは捨てられ、年月を経て望んで意思を持った付喪神とは異なり、少しの切っ掛け、多少の偶然等が噛み合ってしまった結果、意思を持ててしまった産物なのだろう。
『人間の柔らかいトコ! 俺は切れル!』
 故に、会話が成立しにくい。せっかく生まれた思考は体に引っ張られているだけだ。動機と呼べる意思がない。
「答えになってねぇな……」
 人家からはかなり離れ始めていた。カミソリの目の前をクロが低空で駆け抜ける。ぶつからぬようにすれ違い、わずかであるが方向を変えていく。山に入れば暗すぎる。クロが飛ぶには危うくなり、シロの目だけでは追いきれない。あくまで山と街の境を走らせる。鱗道にとって都合が良い場所を探しながら。
「やめる気はないのか。人が切れるからって、切る必要はないんだぞ」
 クロと鱗道に追われ、カミソリに浮いた眼球はめまぐるしく場所と視線を変え続けていた。平たい体の両側面に現れては滑り消えて、現れて滑るを繰り返している。金属音を伴う声は酷く甲高く、叫びのようであった。
『俺は切れル! 俺ハ!』
 クロが進んだ先で一度、空に円を描いた。カミソリがフェンスを飛び越え、シロの両足もそれを飛び越えようとする。鱗道は半ば勘と神頼みで金属フェンスを両手で掴んだ。止まった鱗道の足から白い光めいた毛皮が勢いそのままに引き剥がされる。それは大型犬ほどの体躯を取り戻し、涎で口元を大いに汚し、紺碧の目を見開いてカミソリに向かって顎を開いた。
『俺ハ! まだ! 切れル!』
 背中をフェンスに思いっ切り打ち付けた鱗道の頭の中で、カミソリの声は途中から獣の咆吼に掻き消されていた。古い公園だった。時々暗転する明かりが三つ四つと立っていて、砂場の中に錆びきった滑り台が、その端には高さが違う鉄棒がある程度の、小さく古い公園だった。それでも人の姿はなく、灯りはあって鱗道でもカミソリの姿ははっきりと見えた。が、鱗道の目だけでカミソリの姿を――その付喪神の生涯で最高の状態にあったカミソリの姿を見たのは僅かな間だけであった。
 頭の中に金属音を伴った悲鳴と獣の咆吼が無遠慮に鳴り響く。公園の一角では白い獣が釘や針金をねじ切って、カッターやノコギリの破片を引き剥がしていった。豊かな毛皮にカミソリの体を成す全ては阻まれ、血の一滴を流させるどころか皮膚の数ミリまでも届いていない。噛み砕く口の中すら、突き刺さることも傷つけることも叶うまい。
 シロは、ぽつりと神社に残されていた犬だった。災害により周囲から人が居なくなり、誰も来なくなった山奥で朽ちるのを待っているだけの神社で、ずっと尻尾を振っていた犬だった。少なくとも百年以上はその神社に棲みつき、しかし奉るどころか知る人もいなくなって、時が経って犬でもなく、時が足らずに神にも成れず、時を経て荒神に成りかけた――人間の世には在らぬモノだ。付喪神とは格が違う。
『お前は』
 吐き出す湿っぽい呼気、涎ごとすすられる吸気、カミソリの手足を構成していた金属を押さえつける四肢。ざわざわと蠢く白き毛皮。地の底より湧くかのごとく低き声。
『もう切れない』
 赤い顎に濡れる犬歯が大きく開かれ、
「シロ! 待て!!」
 カミソリに浮かぶ眼球の、まさしく目前にて止まる。クロの手助けも借りながらフェンスからようやく地面に足をついた鱗道は小走りでカミソリとシロの側へと寄った。街灯の光を受けた紺碧の瞳に赤いものが混ざっている。荒神の破壊衝動だ。それでも牙は止まっている。鱗道が毛皮に触れて耳を探し出し、鼻面を見付けて押し退ければ素直に従った。ほっと息を吐く。カミソリは腕や頭の大部分を失っていた。足と本体のカミソリ部分も僅かな破片で繋がっているだけである。
「よし、よし。よく待てた」
 シロの体は燃えるように蠢く毛皮に反して酷く冷たい。それを足で押さえながら、鱗道はカミソリの眼球を覗き込んだ。
「その様じゃ、シロの言うとおり、もうお前さんは切れんだろう」
 鱗道の頭の中にはシロの唸り声と言葉になっていないカミソリの金属的な音だけが微かに鳴っている。人間で言うところの、怖くて歯を鳴らしている状態だろう。眼球も大きく、かつ細かく振動し続けている。
「――諦めてくれんかね。俺は、穏便に済ませたい」
 クロはまだ鱗道の頭上で円を描いているはずだった。まだ興奮が引かないのか時折歯を鳴らすシロの体を押さえながら、開く鱗道の口は重い。
「お前が諦めてくれるなら、お祓いとかお清めとか、そういうのを担ってくれるところに連れて行って、あとは成るようにしてもらう。別に怖かないと思うぞ。シロに食われかけるよりは」
 少しも計算になかったと言えば嘘になるが、シロがここまで派手に食い散らかすとは思っていなかった。結果として鱗道が今している交渉はシロの恐怖を底に敷いた恐喝じみているようなもので、卑怯なものではないかという自覚が滲む。
「頼むよ」
 自覚もあって重たい口であるが、願いは誠だった。穏便に済めばそれでいい。付喪神を――人間の世界ではないものを裁く法律など人の世には存在しない。少しばかり賑わせた通り魔事件も、カマイタチ現象だったとそのうち話題にも上らなくなるだろう。それを屈辱と受け取る彼方の世界の住人もいるだろうが、カミソリはそこまで到達してもいないはずだ。だから、カミソリが怖れに由来したからだろうと、説得を聞き入れた故だろうと、頷けばそれで終いになるはずであった。
 足を構成する針金がバネのように縮んでいる。寄せ集めの破片が高く飛んだ。鱗道の頭に響くのは金属同士をぶつけ合ったような悲鳴だ。意思らしい意思がない、故に、衝動で行動しているのだ。鱗道はゆっくりカミソリを視線で追った。
「そうかい。駄目かい」
 カミソリが跳ねたのは大した高さでもなく、大した速度でもない。故に、空中でクロの両足はその体を完全に掴んだ。金属的な音が鳴る。それもそうだろう。クロの体に有機物は含まれていない。刃を掴もうと先端を掴もうと、カミソリ程度で切れるものもなく刺さるものもない。
 カミソリの甲高い悲鳴を聞きながら鱗道は両手を合わせたて突き出した。蛇の頭を象るようにその手を捻りながら目を閉じる。
「これ、恥ずかしいんだよなぁ……」
 詮無きことに思いを巡らせる。例えば――きっとこのカミソリはなんら大したことのない理由で捨てられたのだろう、だとか。捨てられて錆び始める前に偶然にも人を傷つけてしまったのだろう、だとか。そして「切れる」と知った衝動そのままに動き出して、強い衝動は意思に似て付喪神の一端に体を突っ込ませたのだろう、だとか。
 クロは、カミソリの体を捕らえたまま公園を大きく一周した。クロなりの餞別である。クロは少なくとも、いかなる時であろうと周囲の状況や場所を知りたいと思っている。故に、望めば見えるように大きく公園を周回したのだ。最終的に、カミソリの身を引き立てるように鱗道の前で止まった。
 開かれた鱗道の両目は金色である。蛇特有の縦目の瞳孔が、蛇あるまじき弓形に軋んだ。目の周りから下、組んだ両腕まで主に白く、緑や青を所々に混ぜた細かな鱗に覆われていた。開いた手の平は漆塗りのように赤い。
 カミソリの声も、クロの声も、シロの声も、鱗道の頭の中には響いていない。この時だけが静寂であった。なんの音も耳に入ってこない。それは蛇神の慈悲であろうか。腕を伸ばす。犬に食いちぎられ、鴉に捕らわれ、成ってしまった付喪神に。漆塗りのような手の平が触れ、閉じていく間に紙を割るかのように呆気なく金属を砕いていく。最後、眼球が手の平に残り、鱗道の手が潰すに合わせて、ありもしない奥へと飲み下された。其処を経て落ちるは、おそらく、蛇神の腹の中である。
「終いだ。帰るぞ。足が痛え」
 手の平も瞼も閉じて開けば、世界は何ら変わらぬ夜の暗闇。鱗道の腕の鱗は消えていて、太腿に傷が一つ口を開けているばかり。
『血、止まってる? 大丈夫?』
 普段の落ち着きを取り戻したシロが心配そうに足にすり寄り、その背にクロが着地する。
「おう、止まってるよ。お前がすぐ傷を覆ってくれただろ」
 傷は残っているが流血はなく血が滲んでいる程度だ。シロと混ざった部分は傷そのものが付かないか、傷付いても治りが早いか今のようにすぐに塞がることが多かった。彼方の世界の住人であるシロと混ざるが故なのか、蛇神の代理を務めるが故の力なのかは分からない。シロが行動を共にする前から傷の治りは早かったように思うが、此処までの即効性はなかったはずだ。つまり、二つの力の効力なのだろう。だが傷の治りが早くとも痛みはある。熱がこもるような感覚が太腿にこびり付いていた。
『危うく駄犬が噛み殺すところでありましたね。相変わらずこの駄犬は頭に血が上りやすすぎて困ります』
『だって! だってだって!』
 ひゃんひゃんとシロの子犬のような鳴き声が酷く慌ただしく喉から零れていく。それを疎うようにクロは羽ばたきを引き連れて夜空に上がっていった。鱗道の目ではクロの姿を追うことは出来ない。
「おい、クロ」
『今回私は目当てを追った程度でしたから、少しばかり散策をしてから戻ります』
 クロの硬質な声は頭に届きながらも素早く遠ざかっていった。聞こえる範囲にも限界がある。それだけの距離を素早く飛び去ってしまったのだ。くぅんと情けない声が上がり、シロを見下ろせば耳から尾まで全体が下がりに下がりきっている。
『クロ、怒ってるのかな。僕、駄目だもんね、駄目だったもんね』
 シロの垂れ下がった耳を捲りあげながら、鱗道は苦く笑った。クロはシロほどわかりやすくはない。そもそも振る尾もなければ瞬く目も、声を発する声帯も存在していない。あの体の中には精密な歯車や異国亡国神秘の技術が詰め込まれていて――逆を言えば、それ以外は入っていない。例えば感情だとか、感覚だとか、それらの表現手法だとかは入っていないのだ。学んで得られるモノはあっても、全てを学びきれるとも学んだことを発揮できるとも限らない。
「――まぁ、お前にも、クロが帰ってきたら分かるよ」
 鱗道も察しは付けている。が、それが必ず当たるとは限らない。付喪神とも違う、生命でも神でもない、物に宿った意思存在との付き合いは、短くはないが長くもないし、クロが初めての相手だ。経験不足は仕方ない。
「とにかく帰ろう。足が痛いのは本当で、消毒も必要だ。そして俺は家の方向が分からん」
 S町のことは大分把握しているつもりではある。が、それは現在地を理解できればの話だ。屋根を異常な速度で駆け回り、さらにはカミソリを追ってシロの脚力に引きずられていれば、山にほど近いどこかの公園ということが分かっても方向も場所も見当が付かない。
「お前が頼りだぞ。シロ」
 耳の中をくすぐるのを止めて、鱗道はシロの口吻を撫で上げた。己の吐いた息には倦怠感がある。酷く重い、質量がある息だ。
「ゆっくりな。足痛えから」
 息に含まれている質量の組成まで、鱗道は考えなかった。

 散歩よりも遅いペースで街を歩く。夜も更けて住宅街に人気は無く、シロのノーリードを咎める通りがかりもいない。店舗兼住宅である「鱗道堂」に帰り着くと早速、救急箱を漁って消毒液を取り出す。代理仕事中に負う細かな怪我は多く、消毒液の減りは早い。振り回すようにして脱脂綿に絞り出し、それをさらに絞り出すようにして傷口を消毒する。ズボンには血が滲んでいて洗って落ちたとしても、すっぱりと切れているのだからまた穿けそうにない。ダメージジーンズとやらが若い連中の間で流行っているようだから、次からジーンズを穿いていこうかと考える。もっとも、破けないことが一番いいのだが。
 鱗道が足を消毒してガーゼと包帯で傷口を巻き終えるのを見届けて、シロは居間の隅に敷かれた使い古しのタオルケットの上に身を丸めた。本来であれば眠る必要は無いのだろうが、シロは彼方の住人にしてはよく眠る。中途半端な立場がそうさせているのだろうか。ただし、寝相は非常に良くない。鱗道は二階に万年床を有しているが、シロを居間に寝かせているのもそのためだ。寝入って暫くするとまず首が動き、次に足が開いて尻尾が揺れ、間もなく腹を出して仰向けになる。時折、息苦しいのではないかという姿勢を取ることもあるが、なかなか目覚めないので問題は無いのだろう。
 傷口を濡らさぬために簡易的にシャワーを済ませて飲み物を取りに一階へ戻ると、奇っ怪な姿勢の侭寝入っているシロの尻尾からクロが毛を毟っているところであった。開けっぱなしにしていた窓から帰ってきたのだろう。少し前から毟り取っていたらしく、いくつかの毛玉に囲まれて金属質の嘴にシロの毛を咥えた様はなぜか堂々としている。
「頭に毛が付いてんぞ」
 鱗道の指摘にクロは頭を大きく振るが、頭頂部にぴったりくっついたシロの毛玉はとれる様子がない。鱗道が吹き出して笑ったからだろう。クロは麦茶をコップに移す鱗道の側、シンクの端に足を引っかけた。特に言葉はないが、麦茶を冷蔵庫にしまう動線の途中だ。つまんで取ってやる。
「……どうだった?」
『出血は多かったようですが、歩行機能に問題は無いみたいです。明日は無事に支払金を持って店に来るでしょう』
 クロの硬質な声が鱗道の肩を揺らす。クロは笑われたのは心外だと言わんばかりに、鱗道に赤い目を向けた。
「俺のためだったか」
『それが社会教育なのでしょう?』
 クロの声はけして変わらぬ表情と同じく、感情表現に乏しい。元々は感情のない、生命でもない存在なのだから当然なのだ――と、初めの頃は思っていた。しかし、
「シロの心配の種を潰してやったんだと思ってたよ」
『無くはありませんが、腹を出して眠る駄犬には要らぬ世話だったようです』
 生命かどうか、というのは彼方の世界では大した問題にはならない。重要なのは意思の有無だ。意思があれば動かぬモノが動き、動物は神に至り、学習や経験を経て変化をする。クロには明確な意思があり、成長がある。故に、不満を晴らすためにシロの毛を毟り散らかしたり、鱗道のにやついた顔から必要も無く視線をそらしたりなどするのだ。
「シロに教えてやろうか?」
『喧しくなるので結構です』
 流行り言葉で言う、ツンデレというやつだろうか。そういう言葉は猪狩の方が詳しいが、猪狩にクロの話をしていることがクロの耳に入れば突き回されて酷い目に遭いそうなので猪狩に聞くのは止めておこう。あるいは、クロに調べて貰ってもいい。インターネットでの宣伝も大事だと店を開けたばかりの頃に押し付けられたパソコンがあるが、鱗道はろくに使っていない。必要がないからだ。代わりにクロが使っている。スマートフォンなどのタッチパネルのものと違い、物理的なボタンがある機械は嘴や足で器用に使いこなすのだ。調べ物などがあればクロがパソコンを用いて調べてくれるのだが――ツンデレを調べさせて意味を知ったときの反応が予想も付かないので、やはり止めておいた方がいいのだろう。
 麦茶を飲み干してコップを洗い、開けっぱなしの小窓を閉める。
「俺は寝る」
『おやすみなさい、鱗道』
 クロはそれを言った後、店舗の梁へと姿を消した。クロは本当に眠らない。必要も無いからだ。泥棒が入ってくるとも思えないが、店の警備をしてくれているらしい。あまりに何もないとパソコンで様々なことを調べて学んでいたりもしているようだ。夜中にひっそりと他の鳥類について調べているのを偶然見かけたときには、なんとも言えない気持ちになったものである。なお、鳥類について調べていた理由については未だに深く追求できていない。
 狭い階段を上り、二階の万年床に身を横たえる。窓は四六時中カーテンが閉められていて、街の明かりも入ってこない。時折、シロやクロが店からではなく二階から街を伺った後にだけカーテンに隙間が出来ている程度だ。それも、眩しくなければ放って置いている。
 そんな窓の隙間できらりと何かが反射したような気がして鱗道は目を開けた。窓に近付いてカーテンの隙間を広げる。先程、蛇神を宿した両手で食らったカミソリのことがどうしてもよぎった。窓のサッシには特に何もなく、遠のいていくバイクのエンジン音が残響をしている。さては、バイクのライトがサッシの金具に反射したのだろう。
 カーテンを隙間無く閉じて、鱗道は再び目を閉じた。目覚ましなどはかけていない。目覚めて準備を適当に整え、店のシャッターを開ければそれが開店時間だ。シャッターを閉じれば閉店時間である。独り身の男には几帳面に時間を区切る習慣などない。無駄にそんなものに縛られて生きていたくなどないのだ。巨大な蛇神に取り憑かれて、その蜷局の中で生涯を終えることが決まっているのだから――その他のものになど、何も。
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