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 数分も経たずに鱗道は寝入っていた。浮き沈みを繰り返す眠りの中で夢を見る。蛇神の代理仕事をしたときには必ず見る夢だ。白い鱗に緑や青を散らした蛇が、その時喰らったものを――今回は、あの眼球を――赤い口の中で転がしている。モノによっては忌ま忌ましげに噛み砕いて捨てることもあり、モノによってはどうやってか口の中で蝶や虫に変えて飛び立たせたりする。そうやって鱗道が蛇神に飲み込ませたモノをどう処理――あるいは処断したのかを伝えているのだろう。今回はあまり大きくはない眼球を飴玉のように口の中で転がして見せた後、噛むことなくごくりと一飲みしてみせた。それがどういう意味を持っているのか、鱗道は知ろうとしない。蛇神とのやり取りは基本的に夢で行われる。聞けば答えがあるのだろうが、聞いたことはない。
 大きく裂けた口元が弓のようにしなって笑う。恐ろしい、と思ったことはない。一方で綺麗だとか、荘厳だとか、そう思ったこともない。蛇神だろうと彼方の世界の存在だ。シロやクロ、あのカミソリと――格の違いがあろうとそれだけで、人間である鱗道には何も変わらない。
 眼球を飲み込み弓のように笑った蛇の巨体が夜空のような闇を這いずって沈んでいく。何か要件があればまた夢で言ってくるのだろうし、代わりを果たせばこうして姿を見せてくる。ただ、それだけの蛇の夢だ。白い鱗が砂を混ぜるような音を立てて、月か太陽のように唐突にぽっかりと開いた穴へ入っていく。それが蛇神の巣穴なのだろう。長い長い体が入りきるまでには少し時間がかかり、細く細くなっていく尻尾の先まで収まった頃――
『ご苦労様、またいずれ』
 鐘のような、風のような、音を伴う震動が全身を揺らし、鱗道は現実へと目覚める。

 階段の下では腹を空かせたらしいシロが子犬のような情けない声を上げていた。その声はやがて、相変わらず子犬のようなままだが悲鳴に変わった。さては、クロに突かれだしたのだろう。
 寝起きの胸や背中を掻きながら、鱗道は下へと降りた。想像通り、クロに追い回されていたシロが味方発見と言わんばかりに足下に飛び込んできた。クロが翼を畳んで素早くシロの頭部を足で掴み、硬く尖った声で『そこは負傷している場所です』と叱りつけ始めた。鱗道もした懸念であるため、特に止めずに洗面台に向かい顔を洗う。耳に届くのは子犬のような鳴き声だけであるが、頭の中はずいぶんと喧しい。寝起きはいつもこうなのだ。慣れてしまえば苦にもならない。
 顔を洗って歯を磨き、寝癖で倒れた硬い髪を濡らして少しでもマシな形に整えようとし始めた頃、不意に居間の方が静かになった。そういう時は大抵ろくなことが起きていない。濡らしてしまった髪を適当なタオルで拭きながら戻ると、一匹と一羽は店の方に降りているようだ。ガラスの引き戸に両前足をつけ、シロがひゃんひゃんと鳴いている。珍しく、クロは鳴き喚くシロの頭に留まったままだ。
『開けて! ねぇ! 早く開けて! 鱗道!』
「なんだよ……着替えもしてないんだぞ、俺は」
 寝間着代わりのTシャツにスウェットの姿だ。が、恥じらうには歳を食っている。クロが状況を説明しないのを珍しく思いながらシャッターの鍵を取り、引き戸を開けた。錆び付いた鍵を開け、端を持ち上げ出すと二本の影がある。人間の子供の足だ。軽くも鈍い音を立ててシャッターを鱗道の頭がくぐるほどまで開ければ、子供の顔は充分に見えている。
 昨日の少年だった。ランドセルは背負っていない。本当ならば学校に行っている筈だろうが――
「学校はどうした」
「昨日、足を怪我しちゃって、お休みしろって母さんが」
 知っている、とはさすがに言えない。クロ曰く、歩行機能に問題は無かったそうだが――現に、此処までは歩いてきているし――親が心配したのだろう。
「それじゃぁ、家にいないと駄目だろ」
「本当はそうなんだけど、ちょっとだけ抜け出してきた。おじさん、おじいちゃんの車、どうだった?」
 子供思いの親だ、と思う。同時に、男子小学生を怪我程度で家に居させるのは無理があるよな、とも思う。少年の言葉に鱗道は小さく笑った。もっとも、笑顔としては表に出ていないだろうが。
「直った。金、持ってきたか」
「本当!? うん! ちゃんと持ってきたよ!」
「そうか。持ってきてやるから、ちょっと待ってろ」
 鱗道はのっそりとシロを押し退けて店の中に戻る。普段、余程のことが無い限り店を出るなと言い聞かせているシロが敷居ぎりぎりに前足を揃えてひゃんひゃんくんくんと鳴いていた。少年はシロに気が付いているのだろうが、待っていろと言われた手前、シャッターをくぐっていいのか迷っているのだろう。一人と一匹の間を一羽がわざとらしく舞った。少年は昨日、鱗道の肩に乗っているクロを見ていたはずだが、急に飛んだ鴉に驚いたようである。シロはクロが店の境を超えたのを見て後ろ足を店の中に残し、少年に鼻先を近付けた。大きな体だ。後ろ足を残していても充分鼻先は少年に届くし、その顔をぐちゃぐちゃに混ぜて貰うことは出来るだろう。
 古びた机に近付くとブリキの車がネジを巻いていたところであった。どうにも動きが昨日ほど滑らかではないのは、車なりに緊張しているのだろうか。
「迎えがきたぞ」
『そのようですな……おお、ゼンマイの板がどうにも軋む』
「坊主に伝えることはあるかい?」
 少年にブリキの車の声が聞こえることはない。それはブリキの車が本当に壊れて動かなくなり、意思もなくなり彼方の世界から消える時まで変わらない。本来はそのようなものなのだ。一部の人間を除き、大多数にとって彼方の世界は存在しないも同じ。だが、鱗道はその一部の人間だ。人間の世界である此方と、彼方の世界を鱗の道で繋がれた男だ。望んで得た道ではない。だが、道は繋がってしまったし、取り消すことは出来ない。知ってしまったものを無かったことには出来ないから、必要以上に知ろうとはしない。だが、知って良いこともあるはずだ。例えば、ブリキの車が動かなかったのは単純に拗ねていただけであることなどは。
『いえ、いえ。なにも御座いません』
 ブリキの車はボンネット部分のブリキをゆがめて、己の形を整えているようだ。声は老いて軋んでいる。放っておけば朽ちるのは遠くない未来だ。だが、人間の作り出した道具というモノは手入れ次第でどうにでもなる。
『わたくしの、坊への新たにした思いはきっと伝わりましょう』
「そうかい」
 鱗道は粗暴にはならないようにブリキの車を摘まみ上げた。店の入り口へ顔を出せば少年に顔を掻き混ぜられてご満悦のシロと、シロの顔をなで回してご満悦の少年と、シャッターの狭い縁に器用に足をかけてそれらを見下ろすクロが見える。
「おじさん!」
「ほら、手、出せ」
 少年が出した両手の平にブリキの車を乗せてやる。その車が懸命に巻いたゼンマイがキリキリと解けだし、少年の手の平に車輪の回るくすぐったさを伝えるだろう。
「動いてる! ありがとう!」
 鱗道は少年の言葉に肩を竦めた。ブリキの車を乗せてやった手をそのまま裏返す。
「じゃあ、金、出せ」
 シロがドン、と肩にぶつかってきたのが少しばかり不意打ちで、鱗道は引き戸の縁に肩をぶつけた。睨めば、
『もっと! 言い方!』
 ひゃん! と鳴かれて肩を竦める。子供や老人への贔屓が過ぎる、と思っても少年の前で反論は出来ない。ちぃ、と舌打ちを口の中で漏らすだけだ。当の少年は気分を害した様子もなく、
「うん! はい! 百円!」
 ブリキの車を大事そうに左手に握り、右手がポケットを漁って鱗道の手の平に百円玉を一枚落とす。朝の――ほとんど昼に近い日の光を受けて、喋りもしない銀色の硬貨が存在を主張する。
「――おう、毎度あり」
 さぁ、早く帰れ。母ちゃんにばれると後が怖いぞ、と少年を追い立てるように家路につかせると、シャッターも半開きの侭で鱗道は店の中に戻った。シロとクロもそれに続く。受け取った百円を古びた机の上に立てて抑え、脇を指で弾けば勢いよく回り出した。シロとクロがそれを珍しげに見ている。
 サンダルを脱いで居間に上がり、鱗道は洗面台へと向かった。髪を整えている途中なのだ。世捨て人のような諦観を持っているとはいえ、一般常識や最低限の節度までかなぐり捨ててはいないつもりだ。店を開ける以上、最低限の身繕いはしておきたい。が、洗面台の前に立つ前に硬貨が回るのを止めてしまったようだ。
『鱗道! お金! 止まっちゃった!』
「また回せばいい。金は天下の回りものって言うだろう」
『洒落たことを言うのですね。シロ、少し鼻をどかしなさい。やり方は見ていましたから、私が回して見せましょう』
 店からは子犬のような鳴き声が歓声として絶えず上がっている。頭の中では子供のような舌足らずな口調の声と、女を思わせながら無機質で無感情気味な硬質な声がやいのやいのと響き続けている。
 人間の世界だけであれば、この店は静かだろう。静かすぎるくらいだろうか。だが、彼方の世界が混ざると今度は喧しい。だが喧しいと感じるのは鱗道の尺度の問題であって、彼方の世界ではこれくらいが通常運営の可能性もある。
 此方の世界と彼方の世界を蛇神がその鱗で繋いで見せても結局のところ、鱗道が歩くことが出来るのは境界の近くだけである。此方の世界の尺度を手放せず、彼方の世界の尺度を手に入れることは出来ない。だが、跨いでしまっているが故に厄介事がこの店には集まってくる。境界を跨いでしまえる男がいるからだ。
 厄介なことだ、と思う。先祖がこの地を治める蛇神を裏切った故に、その仕事を代わる羽目となった。先祖には使命感を持って臨んだ人物も、正義感を燃やして挑んだ人物もいるだろうが、鱗道灰人は違う。使命感も正義感も持ってはいない。しなければならないだけだ。ただ――それだけだ。
 鏡の前に立って、以前に夢の中で蛇神に言われた言葉を思い出した。鱗道が事故に遭ったという不運がなければ、鱗道が今この仕事を代替せずに済んだことを――生きるか死ぬか、という二択で迫らざるを得なかったことを、蛇神はあの長い体のどこかで気負っているらしい。『後悔はないのかね』と時折、鱗道に問うてくるのである。『後悔があれば終わっても良いのだよ』と。鱗道はその言葉に大した意味も無く首を横に振って答えてきた。恐らく、癖で――全ての問いに、右手で首を掻きながら。
 鏡の中の鱗道は左手で首を掻いている。鏡は左右反転して写しているのではなく裏表反転して写しているのだとクロが以前言っていた。その時は全く意味不明であったが、今はよく、分かる。
「後悔なんか――」
 鏡から視線を落とした。言葉を発する自分の顔を見たくはなかったのだ。年相応に笑っていても、あるいは年相応に影を落としていても見たくはなかった。見たら明確に知ってしまう。持ち主思いであるブリキの車の思いとは違って、カミソリが通り魔に至った理由のように此方の世界では知らなければいいことの方が多い。
「意味がない」
 だが、やはりブリキの車が持ち主思いであることのように、カミソリが通り魔になったように、知らなくとも結果は変わらない。在ると認めることと、それを知ることは別問題だ。知らずとも在るものは在るし、在ると認めてしまえば詳しく知らずとも消えることはない。
「もうこの歳じゃ、今更だ」
 顔の筋肉が――特に頬の筋肉が、不格好につり上がっている感覚。そして現実で首を掻くのは、右手。此方と彼方のどっち付かずの境界を歩み、日々をただただこれからも死ぬまで繰り返すにはその二つを認めるだけで充分である。
 加え、賑やかな一匹と一羽がいれば丁度、十二分を過ぎるのだ。
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