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 鱗道は我が耳を疑った。肩や首に巻き付く白い蛇の顔を伺う。小さな二股の舌を覗かせた蛇も驚いているようであった。金眼の瞳孔が丸々と太っている。
「……つまり、コイツが?」
『そういうことになるようだ』
 蛇の声は鱗道の頭の中に響いているものであった。当然、この蛇は単なる動物ではない。瞳孔を細めて弓形に歪めた蛇の、人間ではけっして正しく読み取ることが出来ず、推測で感じ取れる感情は不愉快、あるいは警戒であった。
『これは、これは。お前が帰ってきて最初の大仕事は、誠に厄介極まりそうだね、末代』
 舌はしまわれ、大きく開かれた朱塗りの口からは二本の細く小さな牙が覗いている。鱗道は視線を至近の顎から正面へと戻した。
 白い犬は首を傾いだまま、舌を垂らして尻尾を振っている。


 大学生活を経て都会に就職し、H市を離れると決めた鱗道を蛇神は全く咎めなかった。それどころか、人間の近代化は外界と通じ見聞を広めることにある、と朗々と述べて見せ、土産話を待っているよと機嫌よろしく尾を揺らしてみせたのだ。新たな生活に慣れるまでは緊急を要しなければ代理仕事を休んでいても構わないとも付け加え、火急の事態では今までと同じく夢にて呼び出すだろうが、交通機関を用いてせいぜい一時間ほどであるならば大した負担にならぬだろうね、と口の端をつり上げて明確に笑った。
 あまりに呆気なくH市から――蛇神の代理として清め整えねばならぬ領地から離れることを認められたものだから、多少の問答を覚悟していた鱗道は拍子抜けしながら都会生活を始めることとなる。二十代半ばから三十代に届くまでの、たった数年間の都会暮らしは順風満帆とは言えない結果に終わったのだが。
 数年間で都会暮らしに別れを告げた一番の理由は、都会生活が鱗道の性格に全く合わなかったからである。が、二番目の理由が占める割合もなかなか大きい。蛇神の代理仕事は休業して良い、と言われたものの看板を下ろせるわけではなかったことだ。
 人間が多い場所は、人間以外も非常に多い。様々な要素における密度がH市とは比較にならないほど濃すぎたのだ。内外問わず出入りの激しい都会では日々新しいものが加わり、混ざって消えて、古く弱いものは様々な形で更新され、強いものが残り、されどまた新しいものが加わって時に下剋上を成し遂げ、と見るや雌伏していた古きものが――と、忙しなく目まぐるしい。それが、狭苦しい都会という一部地域でひしめき合い、毎日毎日行われているのだ。終始何かに追われるような此方の世界の新生活にも、終始変化が絶え間なく繰り広げられる彼方の世界の新生活にも馴染めないまま、それでも数年は渦中に身を置いていた。
 完全に生活を都会から引き上げると決めたのは、晩年、病がちであった母親の死が切っ掛けである。見舞いや看病でH市に戻ることが増えていた鱗道に帰郷するという選択肢が浮上し、時同じくして母親が死去、親子三人で暮らした家が遺された。片付けねばならないことが多いとかこつけて退職し、独りで住むには大きすぎる家は不動産業の友人を頼って売りに出すことと決め、鱗道はH市S町に根を下ろすことを決めたのである。
 母親の葬儀、関連する役所回りの諸々が一通り片付き、家を売るための話や手続きも目処が立ってきた。新しい仕事や住居を探さねばならないが、慣れない都会暮らしの間に貯まった貯金に余裕はある。まずは、ゆっくりと時が過ぎるままに身を任せてしまいたい――という所で、夢に蛇神が現れた。
 都会より舞い戻った鱗道に、蛇神は真っ先にただあっさりとした労いの言葉と、『彼処は密度が此処とあまりに違うだろう?』と同情めいた言葉をかけた。かつては広大な湿地帯であったが、少し昔に人間が手を加えて入植を果たし、以降は狭い区画に随分な数の人間がひしめくようになった。入植を果たしたのは人間だけではなく、〝わたし〟達の世界でも新天地だ開拓地だ誰の領地でもなければ何もない場所だ、と数多の存在が流れ込み、類が呼ばれて誘い合い、類が引っ張り込まれて争い合いと酷い有様だ――と、語るだけでも疲れるとぼやきながら苦い抑揚で蛇神が語る。前半の「少し昔」というのが彼方側の尺度であることはさておき、後半に関しては全く同意見であった鱗道は特に反発も感謝も抱かぬまま、夜の如き藍色の空間で無力に漂っていた。
 蛇神は鱗道を送り出した時の言葉を違えず、鱗道の夢に現れることは数えるほどしかなかった。それも短く用件のみということであるのが大半である。上下のない夢の中で漂いながら、穏やかとも無感情とも言える蛇神の声を聞くのは久方ぶりのことだ。
『申し訳ないがね、再びお前が忙しなくなる前に頼み事があるのだよ、末代』
 蛇神と話す夢の中では相変わらず体は殆ど動かず、思考だけが働いている。隠し事は一切出来ない。疲労感も隠せはしないが、取り繕わなくて良いという気楽さも明らかだ。
 頼み事とは珍しい、という鱗道の思考に、蛇神の代理仕事という日常が戻ってきたことに対する安堵は滲んでいただろう。長い前置きはその安堵を見付けるために必要だったらしい。蛇神は長い首――あるいは短い首と長い胴体をくねらせた。
『お前達が勤める償いは〝わたし〟の領地の整地である。それとは別の、わたしの代理役を務めて貰うこととなれば、頭を垂れて頼むのが筋というものだろう?』
 整地とは別の、蛇神の代理役?
 鱗道は傾げられぬ首の代わりに、思考を疑問の形で終わらせた。鱗道家が長くに渡り償いとして務めてきた代理仕事である「蛇神の領地の整地」というのは、H市内全域と少し膨らんだ地域を含んだ蛇神の領地で発生する、彼方の世界に関連したトラブルの解決や双方の世界に影響が及ぶ危険因子の排除等のことだ。内容に関しては一々指示されるわけではなく、鱗道が出歩いた先や聞き及んだ先で遭遇する出来事に対処をすることで果たされているようで、解決後に蛇神の夢を見ることで仕事を果たしたと知ることが大半である。先んじて予見できる場合や、危険の想定や確定がなされている場合、あるいは解決までに日数を要する場合や火急の事態である場合が蛇神から夢で直接指示されるくらいで、そもそもそんな事態は滅多にない。
 故に、整地以外の代理役と言われても何もすれば良いのか想像すら出来なかった。無論、蛇神は鱗道の疑問など想定済みであるのだろう。淀んだ夜色の空間を悠然と泳ぎながら、さて、どう話そうか――と、わざとらしく本題への口火を切った。
『わたしのような一柱の蛇にも交友関係がある。そんなわたしの友人からの頼まれ事に出向いて欲しいのだよ。その友人は――わたしが言うのもなんだがね、わたしと違って非常に穏健であり、穏健すぎて滅多な事態を抱えると処理に困って膨らませてしまうのだ』
 それは俺が言うのもなんだが、優柔不断というのではないか。
 不敬を理解しながらも隠せず浮かぶ鱗道の思考を、蛇神は苦く笑って受け止めた。緩く泳ぐ蛇神は床も地もない中空に己の体を蜷局として纏めつつある。
『同意見だ、末代。だが、それが奴の美点でもある。そんな奴だからこそ、眉間を刺されて弱ったわたしなんぞを匿いながら世話を尽くして傷を癒やしてくれたのだ。わたしは奴に恩がある。奴からの頼み事は極力拒みたくない』
 それは、鱗道家の祖先の一人が蛇神を裏切った時の話だろう。荒神だ邪神だと討伐を願い出て、引き受けた武士の一人が蛇神の眉間を貫いた。傷を負い力の大半を失った蛇神はこの地を追われたのである。蛇神は命を失うことはなく、なんとか戻ってきたものの、実質的な守護神として整地し続けてきた主を無くした領地の荒れ方は悲惨であった。蛇神は元凶たる鱗道家の祖先を生きたまま丸呑みにし、子々孫々に己の代理仕事を務めるように命じた――というのが、蛇神と鱗道家の償いの縁である。
 蛇神の言葉を聞いて、その手の話には少し弱い、と鱗道が思ったのは祖先の失態にまつわる箇所に関してではない。神にもいる、友人であり恩人であるという存在に関しての話だ。鱗道にも恩人――と呼ぶには大袈裟であるが、相当する友人が一人いる。鱗道が町に戻ってきたのと前後して、その友人である猪狩晃は警察官を退職していた。身籠もっている妻を不安にさせないようにと早々に情報業に就き、すでに日本中の彼方此方を駆け回っているらしい。鱗道が帰ってきてから二度程顔を合わせたが、まさしく顔合わせと呼ぶべき程の短い時間しか話をしていない。この夢から目覚めたその日は、その猪狩から飲む約束を取り付けられた日であった。鱗道は酒を嗜む程度にしか飲まないし、他人との飲食を楽しむ性格ではない。だが、猪狩からの誘いは既に用件が入っていない限り断りにくかった。もっとも、友人が多くない鱗道では殆どの日に用件など入っていないものだから、結果として誘いを断った例しなどほぼ皆無である。
 鱗道の追想を蛇神がどこまで読んだかは分からない。が、短くない時間を蛇神は語らずに黙って己の蜷局を整えることに費やしていた。蛇神も傷を癒やされた恩というものを思い返していたのかもしれない。金色の目は珍しく、瞼代わりに虹彩を絞って瞳孔を糸のように細めていた。
 それで、俺は何をするんだ。
 追想から戻った鱗道が話を促すように意思を寄せる。断るつもりがないことを、思考の中から悟ったらしい蛇神が上げた感嘆の抑揚は高かった。
『奴の領地内に、風変わりな存在が棲み着いていた。広い領地に別の何かが棲み着くことは珍しいことではないし、それ自体には問題がなかったようだ。されど、その存在が確認できなくなってから暫く経ったここ最近――と言っても、〝わたし〟達の尺度だ。数十年は想定してくれて構わないが、どうも凶兆が見られるそうでね』
 少し長い話になるよ、と前置きをしながら蛇神は頭の先で鱗道の体を整えた己の蜷局の上へと据えた。
 どうせ夢であるから構いはしない。長い話に疲れて眠ることなど夢の中ではないだろう――そんな鱗道の思考を読んだ蛇神は、それもそうだねと軽く言い放ち、笑うかのように風や砂を撫でるような鱗の擦れを鳴らしてみせた。

 こごめ――それが蛇神の恩人の名である――の領地は、東北のとある山岳部に広がっている。領地へはH市から電車を使って二時間強もあれば行けそうな場所だ。が、一風変わった存在が棲み着いた場所というのは人間の生活圏より奥になり、向かうには労力を要する。
 こごめの領地である山岳地は長期的な人口減少もあり、神の尺度で言えば少しばかりの昔、人間の尺度で言えばかなり昔から集落の吸収合併が盛んな地域であった。分散していた集落はもとより寺社仏閣も対象とされ、百と数十年以上前に山中の小さな神社も、既に中心として膨らみ始めていた都市圏の大きな神社に移された。この時に移動したのは山中の神社にあったご神体だけである。山の麓にあった集落は、集会場を兼ねていた神社に残された社を――昔の話に是非はともかく――手入れをしながら活用し続けた。
 いつしか、そこに一匹の犬が住み着いた。小さな野犬である。神社に住み着いた偶然性か、野犬があまりに幼く痩せ細っていたのが見るに堪えなかったのか、集落の人々は何かと犬の世話をするようになった。余り物があれば持ち寄るようにして犬の腹を満たしてやったのだ。すると、まるで礼でもするかのように犬は、境内で子供達が遊ぶ時には一緒になって遊びながら、山中を集落の者が歩けばいつの間にか側をついて歩き、熊やイノシシ、他の野犬から守るようになった。十年程を神社で過ごして死んだ犬だが、あまりに人懐っこかった犬を偲んだ人々は相談の結果、社の中に犬の墓を作ったようだ。
 犬は人々に偲ばれ思われ、集落の人々と社に縁が出来上がり、死後もそこに留まって一風変わった存在――霊犬となった。さすがに、時折供えられるものを実際に食べたり、子供等と引っ張り合いをして遊んだりという真似は出来なくなったが、恩義と縁を抱えた霊犬は社と社を訪れる人々を可能な限り守り続けた。社に人がいる時には危険な野生動物は境内にけっして侵入させず、天災を前にすると犬の遠吠えが社から麓の集落まで響いた。山で迷った子供が見知らぬ犬の案内で境内に辿り着いて保護されたこともあるし、やはり見知らぬ犬の先導によって山中で動けなくなった者を発見したということもあった。社に中型以上の動物が住み着くことは野犬が死んで以降なかった筈だが、犬の姿を語る者は後を絶たない。集落の長達は――さてはかつて住み着いた野犬であろう。聞き及ぶ野犬の性格は人懐っこく、人々を守ろうとしたとのことであるし、現在も害を被った者はいない。礼を返すのは当然のことである、と結論を出して神社同等とまでは及ばずとも、社を含めた境内を「犬の社」と呼び、こまめに手入れをするようになった。
 それが数十年と積み重なったある時、麓の集落は災害に見舞われた。大雨が続いた故の土砂崩れにより集落の大半が押し流されたのだ。その日も雨に負けぬ犬の遠吠えが響いたことで人的被害は最小限で済んだもの、集落のあった場所は再び住むのは到底叶わぬ状態となり、人々は移住を余儀なくされた。一つの災害を境に「犬の社」は山奥にひっそりと取り残されたのである。正式な神社と違い、ご神体もなければ神主や管理人がいたわけでもない。「犬の社」に棲んだ霊犬に話が出来る者もいなかった。仕方のない話である。
 こごめは集落が移動してすぐ――これも神の尺度であるため、数年は経過していよう――「犬の社」を見回ったそうだが、霊犬の姿を見付けることはできなかった。長く棲んでも、単なる犬の霊であったのだ。もうしばらくの間、人々に尽くして縁を濃くし、思われ偲ばれ奉られれば一柱の存在――神へと到っただろうが、時間と思いの両方が足りていなかった。ここに棲んだ霊犬は山の災害で力を削られ、思われ偲ばれ知る相手も失って縁を強くすることも、意思と力を新たに得ることも保つ事も出来ずに留まっていられなくなったのだろう、とこごめは結論付けた。人々に慕われた霊の行く末としては寂しいものがあるが、神に到れなかった存在なれば当然の結果である。
 しかしここ最近――集落が移動してから数十年後、「犬の社」に凶兆が見られた。穢れと呼ばれる、破壊や死滅を招く危険な意思が淀んでいると感じたのだ。「犬の社」に淀む穢れの正体を見極めんとこごめは幾度となく「犬の社」に踏み入ろうとしたが、一匹の獣がこごめの侵入をことごとく阻んだ。
 獣、であるには間違いない。が、無論、ただの獣であるはずがない。なにせ、争いに不向きであるとはいえ領地を治める一柱のこごめを追いやる力を有しているのだ。時にその爪、その牙を振るうことすらあるが、獣は境内より外までは出られぬらしい。
 穢れの原因が獣であるのか、獣は穢れの原因に従属しているのか――それすらもこごめには知る術がない。故に、こごめは友たる蛇神に「犬の社」に現れた穢れと獣について調べて欲しいと願い出たのである。

 穢れの原因かどうかはさておき、その獣の正体は霊犬なのではないか。
 二時間のミステリードラマだろうと推理小説だろうと、犯人を当てたことも当てようとしたこともない鱗道ですら行き着いた結論に、話を終えた蛇神はゆっくりと頷いた。
『まず間違いがないだろう。そして、穢れの原因もその犬だ。ただの犬であった動物は死んで霊になり、神に到る途中で人間の世界と繋がりが切れてしまった。こごめの思うとおり、神に到れなかった霊はいずれ消えてしまう。けれど、今回は犬であるからね。荒神に成り果てる程の執着を持ってもおかしくはない』
 蛇神の声は、何かを憂いているように抑揚に乏しい。蜷局の上に置いた鱗道の側に寄り添うかのように置かれた蛇神の頭は、人一人をすっぽりと口内に収めることが出来る程の大きさがある。瞼で閉じられぬ目の代わりとでも言うように、縦目の瞳孔は無に等しいまでに細められ、口先から出ている細く長い二股の舌が話すに合わせて揺れた。
 鱗道の体感としては蛇神の体に置かれていても漂っている時と大差があるわけではない。重力も感じず、体は殆ど動かせず、思考と感覚だけが働いている。しかし、蛇神の体に触れていれば、蛇神の挙動の一々がかなり細かく伝わってきた。手の平や体に触れる細かな鱗の滑らかさ。一つの挙動が波のように伝わる体の振動。蛇神の語る内容に合わせて伝わるそれらと、頭に響く声の抑揚、舌や目の動きから蛇神の感情は常よりも推測しやすいとは思えよう。
 あらがみ、と鱗道は思考で紡ぐ。聞いたことはある言葉だが、それは此方の世界での話や区分だ。彼方の世界とは意味が異なる言葉はいくつかある。確認と問いを伴う思考を読んだ蛇神は、舌先をなにか掬うように揺らした。
『同じ字面で竈の神も言うが、此処で言うのは祟り神などを意味する荒神だ。力を腐らせ穢し、己も穢れにまみれた者を言う。穢れは破壊と死滅を求め招く流れや意思とでも、あるいは大まかに良くないものと思っても構わんよ。力が腐り出し、穢れを生む切っ掛けは多種多様だ。時間が腐らせる時もあれば、意思が腐らせる時もある。
 穢れを宿したり染まったりをして破壊や死滅を周囲にもたらす有害を荒神と呼ぶ。腐らせる程の力を蓄え、それを破壊と死滅を撒き散らすのに使う輩だ。荒れ狂う神、と書いて字の如くの危険因子だ。それに、穢れは染みてしまえば簡単には落とせぬものよ』
 足を踏み外せば終いなのさ――と、蛇神の言葉は内容に反して悠長であった。が、蛇神の体に走った細波は忙しなく鱗を震わせている。口がかぱりと開いて隙間を作り、そこから漏れる息は勢いがあった。まるで、溜め息のようである。
『犬は、非常に厄介だ。動物であるというのに情に対して忠実で、純粋すぎるが間違いなく獣であるからね。人間に入れ込む割にと称すべきか、人間に入れ込む故にと称すべきかは分からぬが――人間に忘れられても犬は忘れない。偲ばれなくなろうと、知る者がいなくなろうと、犬からは忘れることは出来なんだ。哀れな動物なのだよ』
 事実、酷く憂いているようだ。瞳孔は耳を澄ませれば収縮する音すら拾えそうなほどに、ゆっくりであるが力強く動き続けている。恩のあるこごめからの頼みでなければ関わることも避けたがっているような気配すらあった。
『こごめが見回っていた時に見付けられなかったのは天災の影響であろう。山の災害で「犬の社」とまで呼ばれた縁のある場が乱れ荒らされ、結果、姿が見えなくなった。こごめの考えは正しかったはずだ。新たな縁を結べず、新たな力を得ることも出来ず、留まる力も意思もなければ消えるのが道理――元が、犬でなければね。
 元が犬でなければ、そのまま消えられただろうに。あるいは「ここにはもう誰も来ない」と告げる人間がいれば良かったのだろうが、死んでいる犬に告げられる者はいない。故に、忘れることが出来ない犬は「犬の社」と縁が繋がったまま、留まる意思を失うことなく、「犬の社」に残り続けた』
 冷たい風が吹き付けるような感覚に、鱗道はのろりと視線を蛇神の眼球に向けた。金色の皿に広がる墨汁のように、黒々とした瞳孔が開いていく。
『しかし、来もしない人間を待ち、誰も訪れぬ社を守ったところで、信心も思いも集まらない。誰も訪れない時間も、誰も訪れずすり切れる意思も、力を腐らせる動機には充分だ。そうして力が腐って穢れになり、行動も手段も見境も失って力を振るうようになる。神に到れぬ霊犬など、所詮は獣だ。けれど神に到れずとも近付くほどの力だ。振るえば強大で――強大な力を振るうというのは、気分も心地もよいものだ。歯止めがなければ穢れが染め上げるのはあっという間よ。
 今はまだ「犬の社」から出てこないというのであれば、霊犬と「犬の社」の縁が残っているのだろう。それが僅かな歯止めになっている。だが、時間の問題だ。穢れの侵食は絶え間ない。大事な縁だろうとなんだろうと何時かは切断せしめ暴虐無惨に蹂躙し、飛び出せばあらゆるものに爪牙立てて食い荒らす。破壊と死滅を撒き散らす荒神に成り果てる』
 憂いは瞳孔の奥にしまわれている。金色に広がる黒は排斥を決意した色であった。舌も引っ込み、口は固く閉ざされている。
『犬神、というものを聞いたことがあるだろう? 多くは呪詛や邪気を撒き散らす邪悪な存在であるが、奉れば繁栄をもたらすと言われている奇妙な存在だ。だが、どちらも犬という性質を謳っているのだよ。人間の思いに染まるほど純粋であるが故、邪悪に染まれば躊躇なく牙を剥く獣。人間に思われることを忘れぬが故、心底全てを費やし尽くす忠実な動物。どちらも犬だ。犬は、これほど容易にどちらにも転ぶ』
 食うのか。
 鱗道の思考を受け取った蛇神は、瞳孔を縦に戻し鱗道に向けた。
『恐らくね。こごめが穏健であることを差し引いても、一柱に楯突いて追い立てる程の力を有している。もはや荒神と言って差し支えはないだろう。放っておける存在ではないよ。領地を持たぬ荒神は飛び出せば何処に現れ、荒らすか分かったものじゃない』
 犬好きなんだが。
 黒々とした蛇神の瞳孔を覗き込みながら、鱗道は首の後ろに痒みを覚えていた。叶うならば掻き毟っただろうが、蛇神と会う夢の中では体が動くことこそ稀であって、首を掻くなどといった動作が叶うことはない。
『わたしも犬は好むよ――いや、お前の好み方とは方向が違うね。忘れてくれ』
 冗談を述べている語調ではない。時折あるこんなやり取りが、人間と人間以外であるという大きな隔たりを感じさせた。蛇神はゆっくりと頭をもたげると、長い体を従えて蜷局を解いていく。
『こごめは火急と告げているが、神の尺度で火急なんぞ、お前達にとって猶予は充分。まぁ、近日中に向かって欲しいが、人間が足を踏み入れていない山を行くことになる。準備が必要だろうし、それほど急がずとも構わぬよ』
 鱗道の体は置かれていた蜷局を失ってもその場に留まったままであった。いつもの夢と変わらず漂っているばかりである。
『わたしからの頼みであるし、わたしも可能な限り協力するつもりでいるよ。準備が出来たならば向かってくれ。特にわたしに知らせる必要はない。お前はわたしの代理なのだからね』
 星一つ、月一つとして無い夜空のような闇の中を、白く巨大な蛇神は泳ぐように離れていく。闇の中に唐突に、ぽっかりと口を開けている巣穴に滑り込んでいくのを鱗道はぼんやりと見送っていた。話は終わったのだ。
『それでは、こごめの領地にてまた――』
 蛇神の尻尾の終いまでが穴の中に収まると同時に鱗道は目を開けた。雀の鳴き声が窓の外から聞こえている。朝だ。夢の終わりであり、蛇神の話の終わりであり、人間生活の始まりである。
「……領地にてまた、ってのはどういう意味なんだ」
 蛇神の残した最後の言葉が引っかかり、鱗道は頭を掻いた。今まで言われたことのない言葉であり、聞き慣れない響きで発せられたように思う。こごめの領地に何かある、というのだろうか。まさか蛇神が向こうで待ち受けていて背に乗せて運んでくれるはずもないだろう。それが出来るのであれば、代理として鱗道が向かう必要はない。
 少しばかり考えてみたものの、鱗道は立ち上がることで思考を中断した。考えても答えが分かるものではない。向こうに行くことは決まっているし、行けば分かることだ。それよりも山を行く準備の方が重要である。幸いなことに今日は猪狩に約束を取り付けられた日だ。アウトドア趣味である猪狩ならば山登りに必要な道具について詳しいだろう。子供の頃はH市にある山という山に入って遊び尽くした男であるし、何時ぞやは有名な山に登ったのだという記念写真を見せてきたこともある。
 ――いや、前者だけを考えれば「山に登るには体一つあれば良い」と言い出しそうだ。後者の写真に写る猪狩はかなりの重装備であり、鱗道の登山という概念を打ち壊したほどであるから、「その辺りの山なぞピクニックみたいなもんだ」と言い捨て、体を鍛えればなんとかなる等と言い出す可能性もある。
「……まぁ、他に、思い当たる奴はいないしな」
 不安を抱えようと、結局はそこに帰結する。快活で頑丈な男であるが、非常識ではないはずだ。なかったはずだ。確か。いや、どうだったか。考えれば考えるほど自信が無くなっていくのは何故であろうか。

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