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『穏便に、と仰るならば手を下ろされよ。御柱様の代理となれば我が決まりなど妾諸共噛み砕けましょうが、妾も命を賭す決まり事。代理殿もただでは済みますまい』
「命?」
 笑みを滲ませたまま、蔵の主は再び憂鬱そうに語る。鱗道はゆっくりと手を下ろしながら、じっと箱を見つめた。
「蔵と潰れてもいいとか、引導だの命だの……〝此方側〟のクロを捕まえたり、蔵の二階に決まりを強いたりできる程の力を持ってるアンタが、ただ蔵から出る出ないって程度の問題に対して随分と大袈裟じゃないか?」
『誇張はありませぬ。いくら力を持とうと及ばざる事態は幾らでもある。妾如きなれば、尚のこと。目の前に迫り、我が同胞を焼き、木肌を舐める炎に、妾は何も出来なんだ』
 たったそれだけのことを言うだけで、蔵の主は声を震わせている。酷く老成したような、疲れ切ったような、物憂げさと諦観を真に迫らせて。ずっと何らかの病に冒されているような蔵の主であるが、ようやく病の正体が見えた気がした。火事を間近に経験し、その時に植え付けられた不安や強迫観念――四六時中抱えていることとなった恐怖やトラウマが、箱にこびり付いた煤同様に蔵の主に巣くっている。
『妾は、納められれば出られない。己で出ることは出来なんだ。離れるは叶わず、引きずり出されれれば生きていけぬ』
 蔵の主の声は再び、華奢な糸を寄せ集めて自身を絞め上げ固めたような、無理に作る強情を張っている。恐怖やトラウマという病の他にも、蔵の主を蝕む何かがあるかのようだ。蔵から出れば死ぬという――それを絶対の決まりのたらしめるものが、他に。
『そういうものが、妾の――』
 ぎし、と木の軋みが鱗道の背後、階段から上がり、引き出しの上で仁王立ちしていた裁ち鋏が鱗道の横を飛んでいく。鱗道が把握したのはその順であるが、正確な出来事は逆であった。裁ち鋏が飛びかかってきたからこそ、
「うぉ!」
 最上段一つ手前で様子を窺っていた人物――猪狩が、裁ち鋏に体を反らせて軋みを上げざるを得なかったのだ。鱗道が振り返った時は丁度、大きく仰け反った体を踏み留めようとした猪狩が咄嗟に柱を掴んだ瞬間であり、裁ち鋏の二つの先端は蔵の壁に突き立っていた。
「おい、話が違うじゃねぇか! 付喪神って奴らは安全なんじゃねぇのかよ!」
「基本的に、と言っただろ。例外もあるんだ。俺は、下で待ってろと言ったはずだぞ」
 猪狩の悠長さすら感じる言葉に、鱗道はまくし立てるように言い返す。シロの方がまだ待てる、と苛立ちと呆れが混ざった感情だ。鱗道の言葉終わりに重なった華奢な声は、
『鋏、無闇に飛びかかるものではないよ。下手な相手に付喪神だと知れればどうなるか……それに、お前は刺されば危ういということをすぐに忘れるね。大人しくおし』
 ぴしゃりと強く、裁ち鋏をたしなめる。蔵の主に咎められた裁ち鋏は、体を揺すってごとりと床に落ちると承知したと言わんばかりに開いた刃をしゃきりと閉ざした。
『しかし、まさかもう一人いたのかえ。御柱様のにおいはせなんだが……』
 たしなめに続いた声は、純粋な驚きに満ちていた。蔵の主は下階の全てまで力は及ばないと言っていたが本当のようだ。確かに、クロを迎えに階段を上がってくるまで鱗道に――蛇神の代理人が来ていることに気が付いていなかったらしいし、一階に物が少なかったのは、もしかすると付喪神達を自身の力が及ぶ二階に集めた故かもしれない。
『大変申し訳ない。何処ぞの何方の遣いの方は存じませぬが、裁ち鋏の失態は妾が詫びて――』
「触れてねぇのに動くってのは、こういう事かよ……想像よりもアグレッシブじゃねぇか。ポルターガイストとは違ぇのか」
 猪狩は、自ら壁に突き立ち、落下し、刃を閉ざした裁ち鋏を興味深く見下ろしている。その言葉は、完全に蔵の主と重なっていた。不思議そうに蔵の主が、おや、と一声上げて、
『もしや、妾の声が聞こえないのかえ?』
「ああ。コイツはアンタの声は聞こえない。単なる一般人だ」
「いつまで経っても下りてこねぇと思ったら、また一人で喋ってやがって。結局カミサマ沙汰ってわけか」
 顔を上げた猪狩は、鱗道に睨まれていることも気にせずに床板を軋ませて二階に上がる。その大柄な体が歩む度に蔵中にぶら下がっている薄布が揺れ、猪狩の体に纏わり付いていった。止まれ、と鱗道が言わなかったのは、鱗道の横に並ぶよりも前に猪狩の表情から笑みが消えていたからだ。
「ああ、カミサマ沙汰だ。お前にはただのクロが見えてるんだろうが、俺にはミノムシみたいに包まれてるのが見えてる。解放して貰おうと交渉中なんだ」
 猪狩が鱗道を追い抜くことだけは止めようと上げた腕の前で猪狩は歩を止めた。猪狩は低い声で、そうか、と短い返事をする。己を押し留めるためか、最後の一歩は力強く床が大きく軋んだ。どけようとも潜ろうともしないのは、鱗道の説明が間に合ったからだ。事態は猪狩では手の及ばない部分で進行していて、無謀な行動は悪化を招くことを察してくれたのだろう。最も、鱗道の目にはすでに、悪化している事態が見えていた。
 猪狩は空中で逆さまに制止しているクロと、隅で拒絶するように張られた帯は見えている。帯に包まれた箱はどうだろうか。帯が新たな侵入者に警戒して再び箱を包んでしまうと見えないだろうが、帯が動いた様子はない。だが、鱗道には猪狩に言った通り、クロの姿自体は見えず天井から下げられた繭かミノムシのようになっている様が見えているし――クロを包んでいるものと同じ物が、猪狩の右半身が見えにくいほど纏わり付いているのも見えている。そして、猪狩がそれらを払おうとする様子がない、のもだ。
「なぁ……コイツは外に出してやれないか? 声が聞こえんだけじゃなく、見るも感じるも出来ていないのはアンタからも明らかだろう? 本当に、ただの人間なんだ」
 箱からは深く押し黙って考え込んでいるような気配が感じられた。返事には少し時間がかかるかもしれない。鱗道は無事に猪狩が足を止めたので制止させようとしていた腕を上げて帯の一角、奥に包まれた箱に猪狩の視線を誘導した。視線を誘導した先で、猪狩が箱を見付けたかは分からない――何せその右顔半分も、薄布に纏わり付かれて鱗道からははっきりと見えないのだ。
『そうしてやりたいのは山々でありまするが――賭す物が大きければ大きいほど、決まりの強制力は強くなる。それを維持するためには、決まりを強いた者こそ徹底せねば成りませぬ。そやつは領地に足を踏み入れた』
 蔵の主にとっても想定外続きで判断に決めかねているのだろう。侵入者が御柱様と敬う蛇神の代理人であることも、ただの人間がもう一人いたことも。だが、
『決まりを曲げるは容易ではない。代理殿もご存じであろ?』
 心情的にも状況的にも、言葉通りに難しいのだろう。熟慮を重ねた言葉であり、苦渋の判断であったことは想像できる。華奢な声は自ら
の制約に打ちひしがれて、想定外の出来事に驚きと不安を滲ませ、不満と歯痒さに縛られて病が悪化したように呻きを伴っていた。一方で、まだどこかで揺らぎを持っているようにも聞き取れる声の言葉に、鱗道も短く息を吐くしか出来ない。無理強いも強制も、蔵の主には効果が薄かろう。
「……分かった。まずは、コイツに状況の説明をさせてくれ」
『それは……構いませぬが』
 蔵の主の声には疑問が満ちていた。ただの人間と鱗道が紹介した人物に、何をどのように説明するというのか――それを、ただの人間が受け入れられるのか、というのは当然の疑問である。声も聞こえない、何も見えない、ただの一般人はどんな説明を受けたところで現状を信じることはないだろう。誤魔化すか言い換えるかするのだろうと蔵の主は思っているに違いない。鱗道も本当にただの一般人に対してなら、その二択から自身の行動を選ぶ。だが、ただの一般人であっても、相手は猪狩だ――という事を蔵の主が知らないのも、また当然である。
 話し始める前に猪狩に呼び掛けようとして直前で思い留まる。おい、と短く呼び掛けるだけで、猪狩は鱗道に顔を向けてきた。
「状況は入り組んでてな……何から話せば良いか、正直迷ってる」
 鱗道に顔を向けた猪狩の表情が不快そうに歪んでいた。さらに右手が右目を擦ろうと持ち上げられたのだが、お世辞にもスムーズとは言い難い動きである。それも鱗道には理由が見えていた。ああ、やはりクロは、こうやって知らず知らずに動けなくなっていったのだろう。
「なら、俺が今、どうなってるかお前に分かるなら教えてくれ。右腕がやけに重てぇし……右目が開かねぇ」
「分かった。それから話そう」
 鱗道は頷いてから、意識的に一拍呼吸を置いた。猪狩の右半身は薄布が多く絡み付いている。目が開かないというのも薄布が折り重なっているからだろう。右顔半分は殆ど鱗道には見えない。ただ、それだけ絡み付いていても精々目が開かない、腕が重いという程度で済む、というのが率直な感想ではあった。クロほど小さければ包み込むのも抑え込むのも出来るのだろうが、相手が人間となればクロの二の舞にはなりにくそうだ。
「お前の体中に……特に右側に、蜘蛛の巣を重ねたみたいなもんが多く張り付いてる。お前が歩いてくるまでの間に引っ掛けたんだ」
 霞、和紙、障子紙に薄布――と、言い方は他にもあったが、鱗道は自身の印象の中でも良くないものをあえて選んで答えた。待っていろという言いつけを守らなかった猪狩への嫌がらせである。猪狩はうぇ、と不愉快そうに一声漏らしてから、重いという右腕や比較的動くはずの左腕で顔や体を何度も払ったり擦ったりとし始めた。猪狩にとって見えなくとも、薄布は体の動きを制限したりと〝此方の世界〟に強い影響を与えるものだ。影響は一方通行であることは殆どない。向こうが触れられる場合、こちらからも触れられる。猪狩が手で払えば薄布は呆気なく払い落とされていった。ただ、猪狩に見えていない以上、全てを払い落とすことは不可能であるが。クロが粘着性の物ではない、と推測したのは確かなようだ。あくまで絡み付くだけのもの、らしい。
「さっき、俺にはクロがミノムシみたいに見えると言っただろ。クロもそれに包まれてて……お前の言葉ではっきりした。頑丈なもんでもなさそうだが、束になって重なることで強度や影響力が増すんだろう。それが、二階にはそこら中にぶら下がってたり、張られたりしてるんだ」
 猪狩が全身を払い落として、ようやく派手なシャツの色が見えてきた。右腕の違和感が薄れてきたのか、何度か確認するように振っている。だが、まだ顔半分は覆われたままである。
「じゃァ、クロは自分で罠に飛び込んじまったってわけか?」
「結果は……そうなるな。向こうにしてみれば侵入者対策がしっかり機能した、ってわけだが」
「……お前は、平気そうだな」
「相手は蛇神を知ってるらしくてな。知ってるだけじゃなく……少し特別らしい。その代理なもんで、俺もおこぼれを貰ってるんだ」
 猪狩が鱗道の言葉に、少し皮肉っぽく笑った。そのおこぼれを羨む気持ちもあるだろうが、鱗道がそれ自体を喜ばないことを知っているからだろう。
「まぁいいや。で、そもそもなんでアチラさんはそんな罠を張ってんだ。金目のモンがあるって訳じゃねぇだろ? それなら、罠は一階に張るもんな」
「向こうの……箱からする声の主は、蔵から出されたくないそうだ。火事がトラウマみたいでな……それで、蔵から出されたくない。本来は自分を外に出しに来た奴に対しての備えみたいだ。ただ、カラスが嫌いみたいで……それでクロは捕まったらしい」
 クロは斥候として優秀であるが、万能ではない。特に〝彼方の世界〟に対しての感度の低さは、利点でもあるが欠点でもある。クロの特徴が今回の場合、悪い方向に働いて――かつ、相手が幾つも上手であったのだ。クロに落ち度はない、と鱗道は噛み締めるように呟く。
「成る程。せっかく安全なとこに逃げたのに、また危ねぇ外に引きずり出されるのはゴメンだ、ってか」
 猪狩の言葉は普段からするとらしくない程キツく雰囲気も刺々しいが、相手を侮り嘲るような言い方はしていない。むしろ、行き過ぎた警戒心や臆病さに、苦い共感すら抱いているような響きだった。猪狩も臆病と慎重さが表裏一体の性分をしているから、少なくとも理解は出来るのだろう。
「で、あちらさんは入ってきた奴をとっ捕まえてどうするんだ? ここにずぅっと閉じ込めとくってわけじゃねぇだろ?」
「ああ。相手の言い方からするに、クロはただの鴉じゃないんで今の所はミノムシで済んでるみたいだ。実際にどうするのかは……分からんな」
 分からない、という鱗道の声に、猪狩の声が低く唸った。
「なら、さっさとカミサマで片付けりゃいいじゃねぇか。クロがとっ捕まってどうなるか分からねぇってのに、穏便に済まそうなんざ言ってられる状況か?」
 猪狩の左手が、顔に張り付いていた薄布の塊を剥ぎ取った瞬間と言葉が重なる。十年程前から変わらず、墨を一滴垂らしたように濁った右目が露わになって、不満と不可解に満ちて鱗道を睨み付けていた。鱗道が蔵の主に手段を主張した時には既に、猪狩は階段でその声を聞いていたのだろう。
「最悪はそうする。ただ、手段があるんだ。相手が出す問い掛けに正しく答えられればクロも俺達も何事もなく出られる」
「そんな保証、誰がしてくれるって? お前のカミサマか?」
 猪狩は釈然としないことも苛立ちも隠さず、鱗道を見下ろして腕を強く組んだ。猪狩は、自分では感知できないところで動いている事態に強く警戒をしているのだ。その棘は鱗道にも向けられている。が、鱗道は自らの態度を一切変えないように意識した。猪狩にとっては非日常すぎる現状を納得させることや、その心情を言いくるめることが目的ではない。鱗道がしているのは――出来るのは、ただ現状の説明なのだ、と言い聞かせながら。
「相手は、そういう決まりを蔵に強いてる。〝彼方の世界〟で自分の力に強制力を持たせるには決まりや制約は欠かせないもんで……無理に破ろうとすれば、タダじゃ済まない。向こうは、命を賭けてるそうだからな」
 猪狩の目がさらに細く鋭くなった。苛立ちと呼ぶだけでは足らない、厭悪めいた感情が瞳から溢れている。だが、
「そうかよ」
 と、だけ返された声は、目と似た感情を発したぶっきらぼうな物言いに反して、それならば仕方がないと言わんばかりに酷く静かだった。感情が行き過ぎて無になっているのではなく、共感や理解が出来ても認めがたいと辛酸に満ちているのだ。反発を予想していた鱗道には、余りに予想外の反応である。
「で? その問い掛けってのは、どんな内容なんだ」
 瞬きの二つ三つ、それと言葉を挟んでいる間に猪狩の目から厭悪の感情は薄れつつあった。語調もまた、刺々しい警戒心はそのままだが普段通りに近付いている。状況を飲み込み始めたのだろう。そんな猪狩の問いを受けて、鱗道は――
「……いや、それは……まだ、聞いてない」
 と、言うことに気が付いて、自分でも驚くほど間の抜けた声で返事をする。
「はァ?」
 が、猪狩の驚きはその比ではなかったようである。ぎょっと見開かれた目が、
「聞いてねぇ!? なのに悠長に構えてやがったのか!? クロがどんな目に遭うか分からねぇってのに、内容も知らねぇ質問に答えることを無事に出るための手段に数えてんのか!」
 鱗道の目を覗き込んで、その正気を本気で疑ってくる。可能な限り情報を集めてから判断してから動く猪狩にとっては鱗道の言動は全く理解できないだろう。流石の鱗道自身も己の軽率さを痛感しているのだから。鱗道は反省もあり、強い猪狩の視線に気圧されながらも――
「それを聞く前にお前が上がってきたんだ。確かに内容を聞いちゃいないが、この手の決まり事で回答不可能って事は――」
『折り本。悪いが、音を鳴らしてやっておくれ』
 声の直後、スパン! と気持ちよく澄んだ音に鱗道も、言葉を重ねようとしていた猪狩もまた口をつぐんだ。音の元に視線を向ければ、行李から飛び出した長方形の折り本が体を叩き付けて鳴らしたらしい。
『なかなか面白き御朋友でありますなぁ、代理殿。状況説明、という段階は済んだものとお見受けした』
 華奢な声は気怠げに、しかし妙に機嫌が良さそうに言う。時に混ざる嫌味ったらしい言い方は、蔵の主の手段なのか性格か、未だに判断はつかないが、
『一対の人間相手というのは初の事態。不測にして不利なれど、これも仕方なし。妾も腹を括り申した』
 蔵の主は、口があるならば薄く微笑んでいるだろう。それは十中八九取り繕いの、形式だけの微笑みに違いない。だが二か一か、本当の笑みもありそうだ、と鱗道が感じるのは、蔵の主の声には常に一定の温度があるからかもしれない。真に攻撃的、排他的な物は声の感覚が鋭く、硬く、冷たい。クロの声とはまた違う、刃物のような触れがたいものである。だが、蔵の主の声にはそれらはない。華奢でか細く、糸のよう。金属的な冷たさではなく、雨や雫に濡れたような――社にいた頃のシロから感じたような、悲しみや辛さの冷たさなのである。
「不利?」
 だが、確実な嫌悪、忌避、拒絶があるのも事実だ。鱗や砂利のように細かなものを、逆撫でしていくようなザラつきが苛烈さが覗く時や嫌味な言い方の時によく混ざる。
『妾の問いは一つ。そちらは一対。考える脳味噌が二つある、というのは妾にとって不利であろ? 最も、悪いことばかりではないのだが』
 鱗道の視界が一瞬にして霞む。猪狩との間を分断するように、葦簀のように薄布が唐突にだらりと垂れたのだ。猪狩の目は、当然それを追うことがない。鱗道が一人で喋り出したので蔵の主と話していると判断しているのだろう。鱗道は自分が蔵の主を甘く見ていた、と気が付いた。能力を、ではない。その、性格を、である。
『何方の代理でも遣いでもないただの人間となれば、気兼ねなどは微塵も不要――』
 垂れた薄布は蔵にあるなによりも大きく広く、大柄な人一人包み込めよう。気が付いた鱗道が素早く手を伸ばす。蛇神も降ろしていないただの手だ。猪狩も、ただの人間の手で自分に纏わり付く薄布を剥がしていたのだから、何も降ろしていない鱗道の手にも当然触れられる筈だ。掴んで剥がすことが、出来るはずだ。だが、叶わなかった。薄布は鱗道の手から逃げるように、はらりと揺れて床へと落ち、溶けるように消えていった。残されたのは何も掴んでいない鱗道の手と、唐突に伸ばされた手に遅れて反応する猪狩だけだ。瞬きにしては強く閉ざされた目を鱗道の手に驚いたように見開いて、猪狩は体ごと頭を引いて鱗道の手から距離を取る。
「な、なんだよ! また、なんか有ったのか?」
 猪狩の声を鱗道はまっとうに聞かなかった。頭の中には華奢で冷たく傲慢な声が、
『――妙な鴉より、悪戯はしやすいというもの。そうで御座いましょう? 代理殿』
 鱗道の挙動を愉快そうに笑っているのである。鱗道は何も掴まなかった左手を強く握ってから、猪狩に何事もなかったという代わりに手を振って下ろした。深く、深く息を吐いたのは、
「さっきも言ったが俺は穏便に済ませたい。が、手出しされて黙っていられる程、寛容じゃない。蔵の外には犬がいて俺が呼んだらすぐに来る。当然、ただの犬じゃない。後先を考えなきゃ……そいつに、アンタの決まりを壊して貰うことだって出来る」
 冷静や平静を取り戻そうとする足掻きである。何かしらの挑発を受ける、と思って構えていたが意外なことに――
『イヌ? なんと、お犬様までお連れかえ? それは困った。お犬様にも頭が上がらぬ』
 蛇神と同等、とは言えない。だが、蔵の主の声は真摯なものであった。冷や水を浴びせられたかのように嫌味や機嫌を取り払われた蔵の主は、再びただ憂鬱そうに言葉を並べる。
『やれやれ……奇妙な鴉に、お犬様。加え、ただの人間連れとは、まったく不思議な代理殿よ。されど、まさしく、あの御柱様の代理に相応しいのも間違いない。悩ましいことこの上ないお人よな。御柱様にも代理殿にもお犬様にも、爪先一つかけとうないが、妾が引きずり出されることと同義となれば――嗚呼、悩ましい。この不測の事態、ただの不運かそれとも定めか――妾に量る術はやはり、一つしか持っておらなんだ』
 鴉に嫌悪、蛇神と犬には素直な敬服、鱗道に対しては多少の無礼、猪狩に対しては傲慢――と、蔵の主の感情はまるで振り子のように大きく揺れ動く。不安や恐怖、覚悟と抵抗、中心に諦観を据え置いて――一つとして明るい感情は、到達点にも直下にもない。揺れている最中であれば振り子の照り返しのように垣間見えはするのだが。
『御朋友との話にも出ておりましたな。問いをこれから申し上げまする。問いが遅れたのは闖入者があった故というのを妾の言葉としてもお伝えくだされ。少々、準備をさせて頂きましょう』
 準備? と鱗道が片眉を上げたのを、猪狩が見とがめて訳せ、と責っ付いてくる。
「質問が遅れたのは、お前が上がってくるっていう不測の事態の所為だ、と。あと、何か、準備をするとか」
 望まれたので訳したが、鱗道の言葉に猪狩は不満げに表情を歪めた。それから、準備という言葉に引っかかりを覚えたようで、鱗道を睨むのもそこそこに帯に囲まれた箱を見る。
『さて――カルタ。いろはのカルタは何処にいたかえ? 絵札の方が良かろうさ。出ておいで』
 蔵の主の声に呼応して、和箪笥の小さな引き出しがかたかたと揺れ出した。中の物が引き出しを揺すって飛び出そうとしているのだ。ごとりと引き出しが落ちれば、鱗道と猪狩の視線はそちらに向く。猪狩は裁ち鋏に襲われた経験もあって身構えた気配があったが、引き出しから散乱した物を見付けた結果、気の抜けた短い声と共にその警戒も霧散する。
 飛び散ったのは、古い子どもの玩具ばかり。ビー玉やおはじきは不本意であったのか、元の引き出しに戻ろうとして高い音を立てながら慌てふためいて跳ね回っている。五つあるお手玉はトーテムポールのように積み上がって、反り返るように二人の人間を見上げ、二人に向かおうとする玉と糸で繋がったけん玉は足下をベーゴマに石垣のように固めて貰い必死で引き留めているようだ。花札やメンコなどは花弁のようにふわふわと落下と浮上を繰り返し――蔵の主に呼ばれたいろはカルタは、一枚一枚が規則正しく列を成してずらりと猪狩の足下に並ぶ。
『お待たせいたしましたな。全てが全て、代理殿の通訳頼りというのも酷であろうと、かようなものを揃えさせて頂いた。それでは問いを申し上げる。なぁに、妾の問いは至極単純――さぁ、カルタよ、妾の言葉を並べておやり』
 呆気にとられている二人の前で、絵札がパタパタと並びを変える。直接聞こえる声に遅れはしたものの、箱の言葉を表すために絵札を晒したカルタは計九枚。
 わかおもてなんそや

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