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 猪狩に事の始まりから誘導され、一つ一つ辿っていくと鱗道が想像していた以上に話は芋づる式に続いた。途中で気になった言葉や感覚、順序や感想についての質問が挟まれながらも、感覚的で曖昧な回答を否定されもしないものだから気負わなかったことも大きい。
 二人で振り返っている最中に鱗道の気が散ったのは、付喪神達の振る舞いに対してくらいである。好奇心や暇を持て余した付喪神達がゆっくりならば構わないだろうと言うように距離を縮めて取り巻き始めたり、様子を窺うように遠くから覗き込んだりと、それぞれが思い思いの行動をし始めたからだ。少しでも危険な道具が寄ってきたらと考えていたが、猪狩が神経質に気にする様子は見せなかった。何なら、時折顔を上げては奇妙に動く物達を指して、アレは何をしているんだと息抜き代わりか気分転換か、鱗道に尋ねてくる。相談に横槍を挟まないと言っていた〝藪〟もまた言葉通りに、付喪神達の振る舞いが度を超したと思われた時にたしなめる声を発する程度に徹していた。
「――生き物、だろうな。その要素はあるに違いねぇ」
 鱗道の話が〝藪〟の呼び名が決まった時まで到ると、じっとスマートフォンの画面を見ていた猪狩が呟く。メモ帳機能の画面は鱗道の話を聞きながら入力された多くの単語や付随する感想、感覚などが整然と並んでいた。「カラス 好かない 強く嫌う」「霞 和紙 糸 繭 薄い布 軽そう 急に降ってくることも」「イヌ お犬様呼び 手出ししにくい 好ましそう」――などという具合である。
「生き物?」
「生き物関連の感覚が多いんだよ。話題も、反応もな。例えば――自分を食うのヘビじゃない、なんて言ってる」
 スマートフォンを覗き込んでいる内に丸めた背中を伸ばすことなく、猪狩は瞳だけで前髪の隙間から鱗道を見てきた。依然、裸眼のままである。
「物なら壊れるだ壊されるだのとは言っても、食うだの食われるだのとは言わねぇだろ。カミサマん所は知らねぇが――生き物そのものかは別として、強い関連か要素はあるんじゃねぇか」
 一方、鱗道は猪狩のスマートフォンを覗く必要が出てから老眼鏡をかけていた。自分が話した内容から単語や感想が抜き出された羅列を見ながら、そう言われるとそうか等と振り返っている。異論はない。が、違和感が少々あるのは――質問に対して回答する時の、〝藪〟のざらついた声だろうか。事実として確定しているからこそ、盤石の声で発せられているのか、それとも〝藪〟の何らかの性質によるものなのか。猪狩のメモにもその事は書かれていてクエスチョンマークで締められている。不自然に浮いているのは――根っこに近いからなのか、それともただの気のせいなのか、判断は現時点で付けられない、ということなのだろう。
「そこん所、お前はどう思う? ってぇのを詳しく聞きてぇんだが――」
 スマートフォンに視線を戻した猪狩の目元にぐっと力が籠もったことを、鱗道は意外に思った。老眼鏡も必要としていない同い年の男であるが、右目に傷があって視力が落ちていると言っている。じっと液晶画面を見ているのは猪狩でも辛いのか、この男にも四十路のシワ寄せがいよいよ来たか――等と考えたが、ふと見た猪狩の背中に考えを改めた。
「ああ! もう我慢の限界だ! なんなんだコイツ等は!」
 鱗道が手を伸ばすより早く、猪狩がクマのように身震いをする。すると、背中に張り付いていた花札やおはじき、お手玉などが――鱗道には老眼鏡でもかけなければ見えないほどの小さな目を見開いて、ノミのように飛び散っていった。話の最中も気が付く度に鱗道が払い落としていたのだが、遊びと捉えているのか単に懲りないだけなのか、古い玩具達はまた猪狩の背中に糸くずのような手足でよじ登り出すのである。
「ずっと俺にくっ付いて来やがって! 許容しろと言われたしな、別にくっ付いてくるだけみてぇだから堪えてたが、ずっと張り付かれちゃ気になるんだよ! 邪魔か妨害のつもりか!」
 猪狩の怒鳴り声が蔵中に響いても、玩具達が動じる様子はない。むしろ、文具や書物などと遠巻きに取り巻いている輩の方が小さな手足を引っ込めたり目を閉じたりと慌てている。真横の大音声に耳を塞いでいた鱗道が、頭を振りながら息を吐いた。
「一応、その玩具達も、〝藪〟にたしなめられてたんだが、どうもちゃんと言うことを聞かないというか……辛抱が出来んというか……邪魔をしようっていうんじゃなく、お前が気になって仕方がないらしいんだ」
 事実であった。〝藪〟は何度も玩具をたしなめ、時には他の付喪神に引き離すようにも言っていた。玩具もたしなめられた直後は気にした様子を見せるし、他の付喪神に引き離されもするが、何せ数が数である。気が付けばまた猪狩の周囲に集まりだし、背中や足によじ登ってしまうのだ。
『代理殿の仰るとおり。それらに悪意は皆無であるが、誠に申し訳ない』
 パタパタとカルタが〝藪〟の謝罪を伝えれば、猪狩は心地悪そうに頭を掻いた。一言二言過分に混ざる〝藪〟が端的に告げていることで、謝意が誠の物だと通じたからだろう。
「……邪魔する気がねぇってのは、信じてやってもいい。じゃぁ、なんでグレイにはいかねぇで俺だけなんだよ」
 と、猪狩は鱗道を睨み付けた。実際、玩具は猪狩にしか集まらない。鱗道に取り付く付喪神はなく、あっても古物に片足を突っ込んでいそうな古い和綴じ本や折り本などの紙ものと虫眼鏡や眼鏡などだ。猪狩が不満を口にしている間にも、またその背中は花札やメンコ、おはじきなどが張り付き始めている。返事は、鱗道ではなく、
『猪狩。お前には、愛児がいるのではないかい?』
 カルタを介して、〝藪〟からされた。文面を見た猪狩は口を固く閉ざして〝藪〟に鋭い視線を向ける。前髪越しにも警戒と敵意を隠さない視線であるが、〝藪〟の声に変化はない。憂鬱そうで華奢で、しかし皮肉や嫌味などは一切含まぬ声のまま、
『命と同じよ。なにぞ役目がありて、それに準じようとする。人間の作る道具の場合、明確に使われるべき目的があろう? それに準じようとするのは――至極、当然のこと』
 ただ、何かに耐えるように声が震えた。糸のような声が、身を捩るような軋みを上げている。火事を語る時の恐怖とはまた別種の疼痛を伴っているかのような声はぷつりと途切れ、
『玩具は童に遊ばれるためのものだからね。いつでも童を愛しく恋しく思うてる。そして、お前から童の臭いを嗅ぎつけた。齢も考えて、お前には愛児がいるのだと思うたのよ』
 紡がれた声は、また変わらぬ憂鬱げな声となっていた。声の変化は猪狩には届かない。だが、紡がれる言葉から何かを感じ取ったのだろう。猪狩の眉間に珍しく皺が寄っている。じっと一度強く閉ざされた目が開く前に、グレイ、と口が開いて鱗道を呼んだ。遅れて開いた眼差しは、補足や説明を求めている――と、鱗道は感じ取った。
「付喪神になる切っ掛けにも寄るが、大体の付喪神は物の目的や対象に強く惹かれるんだ。同じ本でも小難しい内容なら大人に、絵本なら子どもにって違いも出る。それと、大体は年月に比例して力を増していくことで、はっきりとした意思を持ったり、人間社会に溶け込んだりしていく」
 感じ取った物は間違っていなかったようだ。鱗道の説明を黙って聞きながら、猪狩は視線を〝藪〟へと戻す。警戒や敵意は薄れていた。横から見ている限り――むしろ、細められた目は、物憂げにすら見える。
「いろはカルタは他の玩具に比べて少し古いし、〝藪〟から仕事を与えられてるんで我慢が出来るんだろうが、お前の背中に飛び付いてる奴らは、自分達で動けるだけの力は持ってても、そこで人間と離されて成長できずに衝動的なままなんだ。実際、殆どが言葉になっていない声しか聞こえん。何とか聞き取れても『こども』ってのが精々だ。〝藪〟と違って、聞いて答えが返ってくるもんじゃ――」
 ふと、猪狩から外れた鱗道の視線は蔵の面々を一巡りする。小さな、小さな違和感と言えばそうだ。形にも言葉にもなっていなかったものが、今ならはっきりと掴めそうな気がする。
 猪狩の背中によじ登って張り付く、小さな小さな手足と目を持った付喪神未満の玩具達。箪笥や行李から顔を覗かせるはっきりとした手足と目を持つ付喪神の日用品達。猪狩の前で整列するいろはカルタにも手足があって、模様に紛れた目が瞬きをする。鱗道の周りに集まっている古物や文具なども手足と目を持ち、ただ付喪神になって間もないのか言葉は単語が精々の物。〝藪〟を包む帯は細く長い手で大事そうに〝藪〟の箱を抱えて、煌びやかな模様の表面を目が泳いで周囲を見渡し続けている。そして、帯の上で揺れる〝藪〟の箱。古くも滑らかであり、白茶の表面に煤を付けた木箱には、
「――〝藪〟、アンタは、何者なんだ?」
 手足も目も、無い。
 鱗道の言葉に最初に反応を示したのは猪狩であった。と言うのも、鱗道の問いの意味が猪狩には理解できないからだろう。問いの矛先である〝藪〟から返事がされるまでは数秒の間があった。唐突であったのも要因であろうが、
『……申し訳ないね、代理殿。その問いでは答えられぬ』
 決まりに則っているかどうか、判断するために必要な間であったようだ。
「ああ……そうか。是か非か答えられる質問、だったな……じゃぁ、聞き方を変える。取り敢えず……アンタは付喪神じゃない、な?」
『是である。よくぞ気付かれた。妾は、付喪神とは異なるもの』
 返答の声質はざらついていて、確定事項として受け取れる物であった。答えた後、〝藪〟は華奢な声にて小さくも長く笑う。この問いがされたことを、単純に愉快だと思っているようだった。カルタの文面を読み終えた猪狩が鱗道の肩を勢いよく掴み、引いて、
「おい。どういうことだ。ありゃァ、勝手に動く物じゃねぇってのか?」
 訳が分からない、と表情にも声にも明らかである。その質問では答えにくい、と鱗道は自分が〝藪〟側に立ったような気持ちになりながらも、
「勝手に動く物、と言えばそうだが……それは付喪神に限ったものじゃないんだ。付喪神ってのは目や手足が付いてて、それで見るし、動く。お前には見えんが、お前にくっ付いてる付喪神未満の玩具にも小さいが付いてるんだ。ただ、あの箱には目も手足もない。〝藪〟は箱自体じゃない、ってのは聞いたんで、付喪神だとしたら中に入ってるもんになるが、箱は一度も開いていないんだ。外が見えるはずがない」
 掴んだ違和感を、ゆっくりと言葉にしていく。鱗道の言葉を聞いて、猪狩も蔵を一瞥した。勿論、猪狩には付喪神の目や手足は見えない。だが、付喪神達がコチラを見るために行李や引き出しからその姿を覗かせていることは分かるはずだ。
「……それは、カミサマの不思議な力でどうにかしてんだろ?」
「ああ。大雑把に言えばそうだ。だが、それは付喪神の見方とは違うってことになる。付喪神じゃなく……お前の推測通りに生き物絡みだとしたら、幽霊かもしれんが――」
 と、鱗道が口にした瞬間に、肩を掴む猪狩の手が一層強さを増して、思わず呻いた。呻き声を聞いた猪狩が手を離す。
「安心しろ。その線は薄い。さっきみたいに確認しておくか?」
『それは不要よ、代理殿。妾は幽霊や死霊ではない』
 悪い、と言いたげな猪狩に気にするな、と手を振ってカルタに視線を誘導してやる。幽霊ではないと言質を取ったことで、猪狩が安堵の息を漏らすのを見ながら、鱗道はまた新たな違和感を抱えることになった。あまりにあっさりと答えられたことが肩透かしであったのだ。問われれば答えるのは〝藪〟の決まりに則って必要なことなのだろう。問われることが分かり切っている場合は、先んじて答えることで時間の短縮になる。非常に合理的だ。だが、
「アンタが付喪神じゃないなら、箱の中身は答えにならんよな。なら、箱の中身について聞いても答えて貰える筈だ。やっと思い出したが……その箱は、掛け軸を入れる箱だな」
 合理的すぎやしないか。あっさりと答えすぎじゃないか。向こうは、命を賭けた決まりであると再三言っているにも関わらず――
「箱の中身は、掛け軸か?」
 おい、と低い声を上げたのは猪狩であった。鱗道が猪狩を見る。困惑の表情を浮かべていた。何故、どうした、と問う前に、
『是である。箱の中身は掛け軸だ』
 〝藪〟の声は、確定の回答として返された。何の躊躇いもなく答えられたことが不気味であった。抱えたばかりの違和感が嫌な予感へと変わっていく。もしや、〝藪〟の正体には無関係な質問だったのではないか、と考え込もうとした頭を振って中断させた。少なくとも質問を重ねることは無駄にならない。箱の中身が知れたことは着実な前進である筈だ。〝藪〟は付喪神でも幽霊でもなく、箱自体も中身の掛け軸もそれだけでは問いの答えにならない。〝藪〟の声が箱からする以上、〝藪〟を語る蔵の主は箱の中身に憑いているもので間違いないはずだ。さて、付喪神ではなく、物に憑く物と言えば他に何があったか――
「――グレイ」
 思考を巡らせ始めた鱗道を止めたのは猪狩の声であり、鱗道の襟を捻るように掴む手であった。低い声は淡々とした物で、鱗道が顔を向ければ猪狩の表情は無感情に近いもの。腕を動かした時にばらばらと落ちた玩具達が、すぐには上ろうとはしていない。
「俺達が当てるオモテってのは、何のことだ?」
 鱗道の視線を受けてから、猪狩は話を纏めたメモの画面を食い入るように見つめ始めた。一つ一つを確認するようにじっくりと見つめている。
「……〝藪〟の正体……その、姿形は何か、ってことだろう?」
 と、鱗道は猪狩の真剣さに言い淀みはすれど、迷いなく答えた。〝藪〟の言葉は鱗道達には少し古くさい物であるから、オモテという言葉を正体や姿形を意味する面として受け取っていたのだ。〝藪〟のオモテ――姿形を絞るために、色々と考え成れない頭を懸命に巡らせていたのである。
「……そうか。いや、俺も似たようなモンは思ってた。が……俺は、箱の中身を当てろと言われてるんだと思ってたぜ」
 鱗道が箱の中身を聞いた時に、猪狩が声をかけた理由はそれか、と思い至る。そもそも猪狩は〝彼方の世界〟の存在が様々な姿形を取ることを知らないのだから当然のことだ。それに、〝藪〟は己はただの人間でも知っているものであると答えているのだから、順当に考えれば問われているオモテ――正体は、箱の中身を当てろと考えるものだろう。
 そこからズレていたのかと鱗道が気が付いた時には、猪狩の表情は一層険しくなっていた。
「箱の中身は掛け軸だ、ってのは……ちゃんと、〝藪〟の決まりに則った答えだったな?」
 低く、無感情気味な声は、問題はそこではない、と鱗道に突き付けている。
「おい、〝藪〟。俺達が当てるのは、お前は何者かっていう正体や姿形って意味のオモテか?」
 〝藪〟の返答を猪狩は待たなかった。これも、本題の問いではないからだ。真に聞くべき問いに、猪狩はじっと〝藪〟を見据えた。
「それとも、表装の絵柄――掛け軸のオモテか?」
 少し顎を引いた姿勢が――イノシシと重なって見える。
『答えられない』
 鱗道には〝藪〟のざらついた声色の返答が、問われると分かっていた故の即答であったことが分かる。
『是も非も、その問いには答えられぬ。何せ、我が問いに対する答えの根幹に触れること故に』
 付喪神でも幽霊でもない〝藪〟のオモテ――正体や姿形を看過し指摘したとしても、掛け軸のオモテ――絵柄と違う、絵柄の指摘には曖昧だという別解が存在する。その逆もまたしかりで、どちらか一方を当てるだけでは誤答と逃げられてしまうのだろう。
 問いが限定しない言葉の曖昧さに気が付けば、狭めて探さねばならない答えの多さに迷い出す。蔵の主が身を隠した〝藪〟は、深く暗い罠が仕掛けられていた。気が付かねば逃げ道に、気が付けば迷い道に変貌する罠を仕掛けていたからこそ、〝藪〟は今までの質問にあっさりと答え続けたのだ。
 〝藪〟の声に嘲りはない。が、陰湿な笑みは色濃かった。猪狩に〝藪〟の声は聞こえないが、多少の揶揄もないカルタの文面は、〝藪〟のオモテという言葉の意味を限定せず含みを持たせたままであることは故意であると――そして、そこに気が付くまでの二人を、気が付いてからの二人を、大層愉快に見ていたことは充分に伝わる。伝わってしまった。
 猪狩の目が鋭くつり上がり、その歯軋りが届くような気がした。実際に耳に届いたのは、猪狩の左拳が床に押し当てられ、より前傾になった所為で上がった床の軋みである。それこそ、イノシシのように低い姿勢で〝藪〟に向かって突撃しかねないと思い、鱗道は咄嗟に自身の襟から離れ損ねていた猪狩の右腕を掴んだ。
「〝藪〟よ。それでも、アンタの決まりは成立しているな?」
 〝藪〟に呼び掛けているのは上面だけだ。故に、〝藪〟からの返答は待たずに言葉を続ける。言葉の矛先は、
「アンタの問いのオモテってのがどれであろうと、一言か一つで言い当てられる。アンタの正体である姿形と掛け軸の絵柄は全く無縁の、無関係のものじゃない。全く同じか、少なくとも共通点がある。じゃなきゃ、決まりとして通用しない。俺達は蔵からなんの問題もなく出られるし、アンタを引っ張り出すことも出来る。蔵から出るのは死ぬも同じ、なんて言うアンタがそんなつまらん脅しやはったりをするか?」
 鱗道自身にも、猪狩にも向いている。二股の矛先の一方をじっと見据え、力が込められ震える腕を掴み続けることで、鱗道は平常心を保とうとした。
「アンタらには、アンタらのやり方があるんだろうが、何でもありの無法じゃない。答えられるはずだ。〝藪〟よ、アンタの問いに、一言、あるいは一つの物で答える方法はあるな?」
『是である』
 意識で辿る矛の柄には、華やかな帯に包まれた煤けた古い箱がある。箱は当然、何の表情も動きも見せないが、〝藪〟は鱗道も猪狩も見ているはずだ。返答の声は間違いなくざらついたものであり、
『妾は姿も形も変わるが、妾を表す名は変わらぬ。代理殿のご明察通り、妾の姿形と掛け軸の絵柄は無縁ではない。妾を成すは一つのものではないが、妾を成すもの同士もまた無縁ではない。我がオモテの解答は、一つの言葉あるいは一つのもので成立するものである――これ以上、問いに関して誑かしはないことも、並び申し上げましょうぞ』
 続く言葉も、また同質の物である。だが、不満さが滲んでいたことが鱗道には聞き取れた。想像通りに動揺せず、収まったことに対して不満か不服――あるいは、嫉妬か羨望めいたものが隠せていない。
 が、鱗道はまだ猪狩を見たまま動かなかった。腕も掴んで離さない。猪狩の目はカルタの文面を見ているはずだ。前傾姿勢を取った所為で長い前髪が全て垂れ、顔の殆どを覆いつつある。隣に並ぶ程度の距離ならば、髪の束の隙間からまだ視線の動きは見て取れるが、
「――猪狩。そういうわけだ」
 猪狩の感情は、思考は、ただでさえ鈍い鱗道には全く読み取れない物になっている。腕の震えは止んでいるが力が抜けているわけではない。前傾の姿勢も直ってはいない。
「俺達とは違っても、〝彼方〟には〝彼方〟の理がある。それが矛盾しないのは、〝此方〟の理と同じだ。罠は見破ったし、決まりは成立していることも確認できた。手段はある」
 鱗道の言葉に、猪狩の顔が向いた。左拳は床から離れず、前髪を掻き上げる手はない。茶髪の向こうにある視線からは、度々〝藪〟に向けられていた物と同じ、疑心、懐疑、猜疑と不審の眼差しを感じ取れた。
「それを、何が保証するんだ。向こうのコトワリとして成立してるだとか、妙な言葉遊びに翻弄されねぇだとか」
 低い呻き声めいて発せられる言葉は、猪狩の取っている前傾の姿勢が一方的に押し付けられる理不尽に耐えるように丸められているようにも映してくる。
「俺だ。今の質問に対しても、決まりに則った返答だった。ざらついた声だったんだ。お前が……納得しがたいのは分かる。理不尽に巻き込んで」
「ああ、そうだな。お前が保証してくれる。分かってるさ――いい加減離せよ」
 鱗道の言葉を遮り、分かってると繰り返した猪狩の語調は軽口めいていた。右腕を振られれば、呆気なく離される。前髪の向こうにある眼差しから向けられた疑心をどう払拭できるかと、鱗道は考えていた。だが、無駄だと首を振る。猪狩の疑心を簡単に拭うことなど出来やしまい。ならばどうするか、というのはこの男から教わっているではないか。
「俺は、ちゃんと繋ぐ。それが、俺がずっとやって来たことだからだ」
 じっと真っ直ぐ、猪狩の目を探して見据えた。猪狩は、昔からの友人だ。この男はもっと若い頃に、作り話にしか聞こえないだろう鱗道の身に起こった蛇神の代理を担うと言うことを、あっさりと容易く飲み込んでいる。同じようにすればいい。ただ――蛙と違って、鱗道は飲み込んだ物を吐き出すことは出来ない。だが、構うものか。鱗道は、蛇神の代理である。だから、蛇に倣って丸呑みにすればよい。
「……アチラだの、コチラだのと、さっきから両肩持ちやがって……なァ、グレイ」
 苛立つように、内臓の一つでも握られているかのように、猪狩の声は呻いている。グレイ、と昔と変わらず鱗道を呼びながら、前髪の幕向こうで視線がなかなか交差しない。もっと分厚い隔たりが降りようとしている。そんな気がした。僅かな隙間でちらりと覗いた瞳の冷たさに、ぞっと背筋が冷える。大きな瞳には感情がない。ぽっかり開いたかのような瞳孔は一瞬、蛇神を彷彿とさせたが全く違う。蛇神は完全な意思疎通が出来ないと分かっていながら、それでも試みている。だが、この目はその逆だ。意思疎通が出来ると分かっていながら、その全てを拒絶しているかのようである。
「お前は、彼方側か? 此方側か?」
 そんな目を覗かせながら鱗道に問う声は、妙に気の抜けた寝起きのような声であった。心ここにあらずというか、全てに無防備で剥き出しの状態で立っていられているような、目と相反する奇妙さがある。猪狩は普段から子供っぽさの抜けない男だ。笑っても喜んでも、反応の殆どが子どもの頃から変わらない。ただ、今は子どもっぽいだとか子どもの頃と変わらないとかではなく、子どもの頃そのままと対峙しているような――
『お止し。代理殿は人間だ。妾の問いの最中に、別の問い掛けをしている暇があるのかえ?』
 カルタが慌ただしくパタパタと捲れたことで、猪狩の顔は完全に鱗道から外れた。鱗道に残されたのは朧気な子どもの頃の記憶と〝藪〟の声、そして普段より早い自身の鼓動である。飲んでいた息を吐き出して整えている間も〝藪〟は語り続け、カルタは捲られていく。
『引き金を引いた妾が言うのもおこがましいが、今の争いは実に醜い。片割れを失えば生きていけぬ脆弱や薄弱による依存の一対とは異なる、陰陽の如く混ざれぬも欠かせぬような共存の一対かと思って眺めていたが――守り干支ではなく、食い合う獣であったか。妾の目も箱と同じく煤けたものよな』
 蔵の中は様子を窺う付喪神達が立てる僅かな音と、カルタの捲れる音のみで静まりかえっている。猪狩には長い長い静寂であった筈だ。〝藪〟の声が直接聞こえている鱗道と違い、カルタが並べられる文字数には限界がある。加え、文面は全て平仮名で、解釈には噛み砕く必要があり、細かいニュアンスは読み取れない。相手は己と全く違う存在であると分かっている中での長文に対し、全てを読み取ろうと足掻いたのか、それとも途中から眺めるだけと諦めたのかは、
「はっ……それもそうだ。カミサマに諭されたんじゃ、聞くしかねェな」
 カルタが捲れる音が止んで数秒後の、猪狩の言葉だけでは分からない。鱗道に見えるのは前髪で覆い隠された横顔の苦笑いだけである。つり上がった口元の笑みは、いつもと変わらないように見えたが、
「悪ぃな、グレイ。頭に血が上っちまってよ……血迷ったんだと思って、聞き流してくれ」
 顔が向けられるが前髪は上げられない。視線を探しても交わることがない。奇妙な声で投げた問いなど無かったことにしようと、猪狩の手は振られている。そのまま顔が逸らされる。背が向けられる。藪の中に進もうとしている。
 猪狩の問いに鱗道は即答できなかった。〝藪〟が代わりに答えたように単純に人間か否かと問うようでもあり、〝藪〟の策謀が露わになっても猪狩を諭す側に回ったことで疑心暗鬼に陥った結果の確認であったようにも聞こえたからだ。あるいは――もっと昔から抱えていた疑問が、ふとした隙に零れ落ちたようでもあった。だからこそ、何を答えれば良いかと迷ったのだ。
 そもそも鱗道は頭の巡りが遅い自覚がある。単純な質問でも答えるのに時間を要することは珍しくない。何を聞かれ、何を答えるべきかという解釈にも、己の中にあるものを言語化するまでにも時間がかかる。問いの本質が多層構造を持っていれば尚のことだ。猪狩に質問の真意を聞こうにも〝藪〟が答えてしまったことでそれも出来ない。だが、〝藪〟の答えは〝藪〟のものだ。鱗道の代弁でもなければ、考えとも違う。
 十年以上前、猪狩の右目にある陰りを見付けてしまった時を思い出す。触れてくれるなと願われたような気がしてそれ以上踏み込まなかった。漠然と、その時に似ていることは分かっている。望みを叶えると信じられて、だからこそ聞き流せと願われているのだ。
 ただ、その時と、今は違う。違ってしまったのだ。春を待つ残雪のように終わりを待つ犬や、呪いと孤独と共に書斎に残されて思考し続けた鴉と出会っている。犬も鴉も当時それぞれが抱いていた望みと今現在の状態は違っていよう。だが、そのどちらとも機会を逃せば二度目はなかった。シロとクロは鱗道の側にいなかった。望みを叶えるだけでは失うことがあることを鱗道は彼らから学んでいる。
「猪狩」
 猪狩を呼んだ鱗道は、猪狩がこちらに顔を向けきる前に手を伸ばしていた。頭を掴むように伸ばした手で前髪を絡み取って上げさせる。猪狩が痛ぇ! と、声を上げたが無視を決め込み、ようやく見えた両目を見据え、
「俺は、お前の味方だ」
 言葉は、常と変わらず年齢相応に掠れた声と快活さに欠ける語調で、常らしからぬ強い断定を伴うものであった。言いたいことは言わせて貰うと、決めて発した言葉であった。
 猪狩が、酷くゆっくりと間の抜けた表情で瞬きをする。それから瞳が動いて、子供っぽさの抜けない笑みを浮かべた。もう何年も見続けているというのに大した変化のない笑顔だ。しかし、笑うことで細くなった猪狩の目は苦しげであった。辛く、苦しく、何かに耐えているような目であった。それが、今のこの場――ただの人間が一人きりしかいない蔵の中だけに限ったものではないことは明らかだ。それだけ、鱗道が無理矢理こじ開けたことで隠せなかった目の陰りは重く、濃い。
「痛ぇな。離せよ。急に頭掴んでくる奴がいるか? ああ、いやがったな。目の前に一人」
 溌剌とした口調と声、普段と変わらない笑顔すら陰りある眼差しにはあまりに不釣り合いだ。隠そうとして、逆に不自然な印象として残るというのはこういうことを言うのだろう。猪狩は鱗道の手を払い落とし、鱗道は払われた手をそのまま落とした。不自然に歪んだ前髪が落ちてくるには少し時間がかかるだろう。
「――分かってる」
 猪狩も、鱗道に残した不自然な印象に気が付いている筈だ。今、己が見せた物も、投げてしまった問いも、本当に無かったことにして欲しいに違いない。だが、猪狩の右目に残る僅かな黒ずみのように、気が付いてしまえば二度と忘れえぬ確かな瑕疵であることも、この男は気が付いている。触れてくれるな、忘れてくれと願いながらも、鱗道という古い友人が、猪狩の望みをいつも斜め上から叶えると言うことも分かっていて、
「お前が俺の味方だなんてのは」
 だからこそ願い、実際に斜め上で返されて、結果として叶えられ、
「ずっと昔から分かってんだ」
 信頼と安堵が自身の声に滲んだことに気が付いて、情けなくも子どもっぽく笑うのだろう。

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