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 夜を煮詰めたかのような闇の中を、白い連なりが流れている。濁りに似た流れは大きな口を開いて闇を食らい膨らんでいきながら、表面に緻密なさざ波を浮かばせていった。砂を撫でたような乾いたざわめきをたてながらさざ波は一枚一枚が絹のような輝きを持った鱗になり、流れの体表を覆っていく。時に青、所により緑、そして額に一枚だけの赤を差した白い大蛇に目が浮かぶ。金箔で覆った皿に、ぼたりと落とした墨のような漆黒の瞳孔。朱漆のひだに覆われた口が開き、細く長い牙と二股の舌を覗かせて、
『末代』
 蛇神は短く、闇に漂う鱗道に呼び掛けた。風の抜けるような、砂が擦れるような乾いた声である。ただ、鱗道はこの声が芯から乾いていると思ったことはない。必ず、声のどこかがしっとりと濡れている。海の砂のようなものだ。遠くの海や近くの山から流れ着いたあらゆるものが同じような砂塵になって集まって、乾きと湿度の両方を持っているあの海の砂。触れがたい強者の風格と、自身の領地に対する執着を表すかのような――
『珍しく感じ入ってるようだがね、生憎だが無駄話をしてやる心持ちではないんだよ』
 蛇神と会う夢の中では鱗道の思考は筒抜けだ。つれない蛇神の返事に鱗道が取り留めない思考を中断させたことも、代わりに別のことを考え始めたことも通じている。闇を食らって丸く膨らんだ蛇神の胴体は、ぐるりと鱗道を取り巻いて巨大な顔を鱗道の体に寄せた。蜷局も巻かず、半月型の瞳孔は実に不愉快げである。
 ――大事か。
 鱗道の視界から、蛇神の頭が動いて離れていく。頭に続いて首と胴が流れていった。闇に漂うだけの鱗道は頭を動かすことも出来ない。蛇神が体を動かし続けているせいで頭の中では、目の粗いヤスリがけをされているように鱗が擦れ合う音が絶え間なく続いている。
『大事だね』
 蛇神の返事は早い。が、雄大で荘厳ないつもの声とは違う、短く鋭利な声には余裕がない。鱗道の視界は、所々に青や緑を含む白い鱗の流れにすっかり覆われている。蛇神の声はなかなか続かない。鱗道の視界から頭が離れて太い胴体が続き、尾が近付いて来て闇が見え始め、細い尾の末端までが流れ去るまで蛇神は沈黙し続け、
『〝鯨〟』
 鱗道の目の前で大顎を開きながら、ようやくその一言を発した。細く鋭い二本の牙が口の奥から引き出されている。朱漆のヒダに覆われた口は、金眼の下まで大きく開かれていてこのまま鱗道を飲み込もうとしているかのようだ。
『〝鯨〟が来るのさ』
 口は、鱗道の真横で閉ざされた。二股の舌が口の端をべろりと舐め上げる。金色の目が鱗道を覗き込み、漆黒の瞳孔が眼前に迫った。白に闇に金に黒に、今日の夢は随分と極端に鮮やかだ。だが、眼前に迫る最後の黒は頂けない。平たく、奥行きもなく、艶もない黒い瞳孔を前に、鱗道は思わず目を閉じた。冬の海のようであるからだ。

 高校入学前の冬休みである。蛇神からは立ち会う必要も見る必要もないと言われていたが、蛇神の代理を父親から引き継いで初めての大仕事であったこともあり――だが、一番は若さ故の好奇心が勝って、遠くからでも見届けることを選んだ。鱗道は蛇神が指定した海を望める山中で、それを見た。
 結果、三十年程経った今でもあれは夢か幻であったのだと思いたがっている。後悔が心の半分以上を占めていた。真冬であった。真冬の、海であった。地平も水平もない、ひたすらの黒が続く海。しばらくは思い返してはうなされながら寝込み、夜中に飛び起きることもあった。労いに鱗道の夢に現れた蛇神は、
『だから、見る必要もなかったものを』
 と、言いながらも、それから毎晩鱗道の夢に現れてはその巨体で包んでいく。
『可哀想に。あてられたんだろう』
 砂を擦るような乾いた声が、砂を擦るような鱗の音と共に鱗道の周囲を回る。鱗道は夢の中でも目を開け続けていた。瞼を閉じると冬の海を思い返したからだ。だから目を開けて、純白の、絹のように艶めいて数多の色彩を内包した蛇神の鱗を見続けていた。蛇神がうねると、夢の中の闇が覗く。この黒は全く違う黒だと思えた。青や緑や紫などをも含む色は、夜を煮詰めた闇である。黒ではなく、闇なのだ。あれとは違う。冬の海とは違う色だ――そう言い聞かせる夢を何度も繰り返した。
 四十路を過ぎた今も鱗道は、冬の夜、海にはけっして近付かないし見ることもない。

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