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 翌日昼間、鱗道は依り代を撒くためにシロを連れて普段は行かない道を歩いていた。数ヶ所ある目的の水源だが、最初に行くことにしたのはS町を囲む山の中でも神社がある山とは反対側――鱗道の家から最も遠い場所である。ここ数日はしばらく歩くことになる中で最も遠いところから着手したかったのが一番の理由であるが、他にもう一つ理由があった。その為に今日は、クロにも着いてくるように言っている。
 行きは目的地までの最短距離を手早く進む。神社とは反対側の山にはハイキングコースが整備されていて、山頂近くに展望台が作られていた。そこからはS町と海を一望出来る。晴れていれば遙か沖合を進むタンカーや水平線の僅かな曲線を見られる場所だ。が、この日は生憎の曇りであった。雨の気配はないが、空は薄い灰色に覆われている。海は、遠方まで濃い青色をしていた。
『ここに貴方が来るのは、開店してから初めてですね』
 風吹きすさぶ冬の展望台に、人の姿はない。空を飛んでいたクロが人の目を確認してからシロの頭上に下りた。鱗道もシロのリードを首輪から外してベンチに腰を下ろす。日頃の運動がシロの散歩しかない四十路には、整備されているとは言え山登りは厳しいものがある。目的の水源はここから更に山に入らねばならない。小休止にはもってこいの場所である。
「……遠いから疲れるんだ。ただ……全体が見えるからな。次はどこに行くってのが、分かりやすいだろ」
 すっかり上がっている息を整えながら、鱗道はコートの前を少し開いた。シロはリードから解放されて、展望台の手摺りに両前足をかけて風景を見渡している。イヌの視力など知らないが、霊犬であるシロに一般的なイヌの常識は通用しない。
 シロが立ち上がったことで頭上の居心地が悪くなったクロが手摺りに飛び移った。時々、S町の上空を人間観察だ社会見学だ偵察だ等と言いながら飛び回っているクロには目新しいものはないだろうと思うが、ゆっくりと頭を動かしてシロと並んで風景を見渡している。
「……反対の山に、鳥居が見えるんじゃないか? そこが、散歩で行ってる神社だ」
 鱗道はベンチからのっそりと立ち上がると、自動販売機に向かった。鱗道が座るベンチからは町を見下ろすことは出来ない。ただ、特に手摺りの外を覗き込むことなく、缶コーヒーを買うと再びベンチに腰を下ろした。白く大きな犬と、黒く大きな鴉が揃って頭を動かしているのはなかなか面白い光景である。
 神社がある山の木は大きな物は落葉樹が殆どでこの時期、葉は落ちきっている。赤い鳥居は遠目にも目立つはずだ。程なくして、
『あった!』
 と、シロが声を上げた。
「その神社の近くにも水源がある。近いから……行くのは最後でいいだろ。後は駅の反対側に一つと、この山との間に一つあって――」
『駅! 駅どこ!?』
「あー……そうだな。鳥居から山を下りていけば、いつも歩いてる商店街があるだろ。そこから、ずっと海を離れるように見ていけば見つかる」
 吐く息が白むほどの気温だが、缶コーヒーを飲むにはまだ体が熱かった。飾り気のない手袋に握ったまま、ぼんやりと二人の後ろ姿を眺めている。シロは商店街が見付けられないらしく首を傾いでしまい、見かねたクロが翼を伸ばして方向を示した。
『私の翼の先に十字路が見えるでしょう。そこが鱗道の住宅兼店舗ですよ。それと神社の間です』
『間。間、いっぱいあるよ? どっち?』
『いつも散歩で歩いているのは貴方ではありませんか……貴方は、時折驚くほどの駄犬っぷりを晒しますね。ほら、商店街の旗を下げた街灯が規則正しく並んでいる区画があるでしょう?』
 クロはシロの垂れかけた耳を嘴で引っ張り、『ほら、あっちです』などとやや乱暴な誘導をする。シロはキャンと少しだけ悲鳴を上げたが、クロの痛みを伴う誘導によって無事に商店街を見付けたようだ。尻尾が千切れんばかりに振られている。
『お花屋さんだ! あそこはいつも甘いにおいがしてる! お魚屋さんはお水のにおいがするけど、お魚を焼いてる時もあるからいいにおいがするし、時々、お店の前に大きな黄色いバケツがあって、中でドジョウがいっぱい泳いでるの!』
 次に何かを教えるのは自分の番だと言わんばかりに、シロがひゃんひゃんと喋り出す。こういうとき、クロは一切鬱陶しがることはなく、クロには無い感覚で語られるシロの世界を真面目に聞いていることが殆どだ。あまりにシロの感想ばかりで支離滅裂になり始めると、軌道修正したり深く問いただしたりとし始める。二人で交わされる賑やかな会話を聞きながら、鱗道はようやく缶コーヒーに口を付けた。
『あ、あとね! お肉屋さん! 一番大事! アブラのにおいがいつもしてるの。鱗道が時々、唐揚げとかコロッケとか買ってる!』
「ああ……昔から惣菜やってるからな……そういや、最近は買ってないな」
 気持ちの所為だろうが、口の中が少しばかり油っぽくなる。油気を流し込むように、缶コーヒーを口に含んだ。シロと散歩で歩く商店街は昔からある店が多い。勿論店自体が入れ替わっているところもあるが、店主が鱗道と同世代に代替わりしていたり、鱗道が学生の頃から店主が替わらず現役で店先に座っている店もある。鱗道も知られた顔だが、知っている顔も多い商店街だ。
「駅は見付けたか? 商店街を海と反対側に進むんだぞ。途中に、中学校がある。そのあたりで住宅地が終わって……そうなると、ちょっと目印になるもんは難しいなぁ……ま、建物が高くなっていく方向に行けば分かるだろ」
『貴方は、おおよそを把握しているのですね』
 口を付け始めた缶コーヒーは冷めていくのが早い。冷え切らないうちに腹の中に流し込もうと顔を上げた鱗道は、クロがこちらを見ていることに気が付いた。赤い鉱石の目も、曇天下で離れてしまえば見えにくい。
「……まぁ……生まれ育ってるからな……分かるのは、変わってないところだけだ」
 実際、S町の全てを把握しているとは言えなかった。特に駅周辺は変化が目まぐるしく、普段から駅を利用しない鱗道は、何らかの用事で駅近くを歩くとなると初見の店が一つ二つと増えている。ただ、駅周辺の開発地区とは離れた古い住宅地や商店街、他の町でも殆ど場所が変わらない学校や神社、それから大きな道などは昔からそのまま残っている。一時的に離れていたが、四十年ほどは暮らしてきた町なのだ。大雑把には把握していて当然だろう。
『鱗道。また、ここに連れてきて頂けますか?』
 缶コーヒーを流し込んだ鱗道が聞いたのは、少し奇妙な響きを持ったクロの声であった。悪い変調ではない。いつも通りの一律な声だが――心なしか、柔らかい響きがあるのだ。
「それは、別に構わんが……お前なら一人でも来れるだろ? 街を見るにも、お前は高く飛べば好きに見れるじゃないか」
『私が見たいのは町ではありません。そうですね、その時はシロも連れた、今のような状況が望ましい』
 クロが、小さく跳ねて鱗道に体ごと向く。声は変わらず、柔らかな響きを持ったまま――
『私は、この町について語る貴方の表情を見ていたいのです』
「……なんだ、それ。そんなに変な顔をしてるか?」
『ええ、普段の貴方がしない表情をしていました。その表情を見ているときの私の感情に覚えがあるのです。すっかり忘れていましたが――』
 その柔らかさが再び硬質さを取り戻していった。だが、一律にして硬質な響きの声は、
『何十年も前――私に触れようとした猟師に、自分のものだから勝手に触れるなと激昂した昴を見た時と、同じ感情です。私は、物静かな昴が激昂したことに驚きながら――明確な言語化は難しいのですが……好ましいものと思ったのです。この感情を解析するには、幾度か経験が必要だと思われます』
 けっして冷淡でも無感情でもない。だが、鈍い鱗道に細かく読み取れるほど鮮やかでもない。
「よく分からんが……また来るのは、もう少し暖かくなってからにしような」
 ベンチを立ち上がった鱗道は、空き缶を捨ててコートの前をしっかりと合わせた。立ち上がったことで、曇り空直下に広がる海が目に入る。沖の方でも白波が立っていた。〝鯨〟の姿はまだ、見えない。
「……そろそろ行くか。クロの方も頼んだぞ」
 尻尾を揺らして近付いて来たシロの頭を撫で叩きながら、鱗道はクロを見た。嘴と翼を開いたクロは、
『ええ。了解しました。数日に分けて行うつもりですが、帰りは遅くなるかもしれません。雨天でもなければ小窓は開けっぱなしでお願いします』
 鱗道の短い返事を聞いて、滑り落ちるように空中に身を投げた。柔軟な翼が風を掴み、一気に天高く舞い上がる。灰色の空にクロの黒い体はよく目立っていたが、あっという間に小さな点に変わってしまった。
『クロにも、クロのお仕事があるんだね』
「ああ。同時進行で事が進むってのは助かるよ」
 シロはどこまでクロの姿を追えているのだろうか。鱗道はシロにリードを繋げないまま、展望台の階段を下りていく。途中の遊歩道を外れた先に水源があった筈だ。展望台から目的の水源まではそう遠くなかったと記憶している。
「……シロ。今日のお前の仕事は分かってるか?」
『うん! 今日は、お水を探すの!』
 跳ねるように階段を下り、滑るように鱗道の脇を抜けてシロは一切の躊躇いもなく未整備の山道を進もうとしていた。山道を歩く自分のことを配慮してくれ――とまで注文を付けるのは、少しばかり酷だろうか。実際に距離が開けば、シロは足を止めるだろう。それで妥協すべきか、などと考えながら、
「よし、あってる……行くか。まぁ、少しゆっくりめにな」
 言って、鱗道も遊歩道を外れ始めた。今日は水源に依り代を撒いたら帰るだけだ。明日からは依り代が街に広がっているか確認しながら歩くため、行きも帰りも少し遠回りになるだろう。頭の中に大雑把に思い描いたS町の地図上を、鱗道は辿りながら経路を考え、ぽつりと――
「……一回帰ったら、唐揚げ買いに行くかなぁ」
 結局、口の中に記憶の唐揚げが引っかかっていた。味が濃いめの、おかずに最適と言わんばかりの味付けが好きだった。近年になって塩唐揚げも並ぶようになったが、やはり醤油ベースの味がいい。
『お肉屋さんの!?』
 シロがひゃん! と鳴いて尻尾を振り回している。鱗道は、おう、と短い返事をした。シロの足取りが酷く軽い。まだ分けるとは言っていないのだが――まぁ、分けることになるのだろうな、と考える鱗道の足取りは、常と変わらず重かった。
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