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 鱗道がナポリタンを食べ終え、それでもまた足りない気がして貰い物の煮物も摘まみ、食器を下げて片付けるまでの間、こごめとクロは延々と喋り続けていた。こごめはクロの話す鱗道やシロの日常を微笑ましげに聞き、クロはこごめから語られる〝彼方の世界〟の詳細を興味津々で聞き入っている。対極にあるような二種類の話し声は非常に聞き心地良いものであった。鱗道が諸々を片付け、麦茶を汲んでちゃぶ台に戻ったことで終わってしまったのが名残惜しいと思えるほどである。
 床に揃って並んでいたこごめが、するりとちゃぶ台の上に上ると、
『クロ殿は大変聡明でいらっしゃいますね。クロ殿はもう一人の殿方との話の合間に、わたくしに此度の件を説明してくださいましたが、それも過不足なく理路整然としていたものです。それに、ずっと貴殿やシロ殿の心配をされておりました。我が友より聞くには、害が無くとも得体が知れぬとのことでしたが、非常に温かな心の持ち主ではありませんか』
 偉く感激した様子で小さな手を合わせ、満面の笑みで鱗道に語る。その時、鱗道は知っている音だが聞いたことのない声を確かに聞いた。金属同士を強くぶつけたような音は殆ど響きがなく、短く放たれた声は言葉の体を成していない。こごめが普段接している相手と全く違うのは鱗道だけではないのである。そっとちゃぶ台の下から音の発生源を覗いてみたが、クロはシロに顔の正面を向けていていつも通り微動だにしていない。外見的な変化が一切見て取れないことが少々悔やまれた。
『――そう言えば、その殿方はいずこに?』
「ああ……猪狩のことか? 帰ったよ……あー……アイツは、俺の古い友人でな……もし、なんか無礼な振る舞いとかしてたら済まん。アイツは一般人で……アンタのことも見えてなけりゃ、声も聞こえんから」
 おや、とこごめは少し驚いたような顔をして、小首を傾げてから、
『いえいえ。あの方が〝わたくし〟達を一切認識出来ないことは、クロ殿から聞きました。それにしても……それであの行動力は、随分と類い希な殿方ですね』
 感心するように頷いていた。蛇神にも稀有な蛙呼ばわりをされ、先日の蔵でもただの人間と呼ぶには語弊があると言われ、こごめにも類い希と評されれば、〝彼方の世界〟でも常識外れな感覚の持ち主であることが保証されたようなものである。それもそうか、と鱗道は思うほかにない。〝此方の世界〟でも、常識外れな感覚の持ち主であることは鱗道自身がよく知っている。
『さて……それでは、何からお話ししましょうか』
 こごめの言葉を聞いて、鱗道の視線は真っ先に、
「シロの状況から教えて欲しい。シロの穢れが悪さをしてるってのは察してるんだが」
 まだ動かないシロを見た。こごめも体を捻り、ちゃぶ台下のシロを見下ろして、金色の目を痛々しげに細める。その表情だけでも、状況が芳しくないことは知れた。ただ、知りたいのは詳細だ。鱗道はこごめの言葉を静かに待った。
『シロ殿は、やはり荒神の角で貫かれたそうですね。あの荒神の角は瘴気が形を成したもの。シロ殿を貫いたことで瘴気が流れ込み、シロ殿に巣くう穢れが優勢に動き始めたのでしょう。シロ殿の口や貫かれた痕から溢れていたのは、穢れがシロ殿の力を腐らせ瘴気に変えたもの。あのまま、穢れと瘴気に飲まれることもあり得ました。ですが』
 細く長いヒゲや小さな丸い耳をピンと立てて、こごめは鱗道を振り返る。金色の目は不安げな鱗道を安心させるかのように微笑み、
『あの場には我が友の依り代が撒かれていましたし、鱗道殿に名を呼ばれたことでシロ殿は穢れを一度ねじ伏せたようにも見えました。今もまた、己に巣くう穢れを屈服せしめんと戦っているのです。あの場からシロ殿を救われたのは、紛れもなく鱗道殿ですとも。シロ殿は、本当に良い供人を得て、良い日々を過ごしているのですね』
 それと、とこごめは言葉を続けながら、小さな手でシロの鼻先を指差した。例の、黄色い花を付けた枝である。
『あの蝋梅は、シロ殿がおりました社跡に芽吹いたもの。ご覧に入れられればとお持ちしたものですが、図らずも役に立つでしょう。梅の慈しみはあらゆる物を癒やしましょうし、縁は切れたといえども故郷のものは心を鎮める一助になります』
 ロウバイ、と鱗道が繰り返すと、クロが早速その蝋梅を嘴に咥えてちゃぶ台に飛び乗ってきた。ガラスのコップに挿されていた、鱗道の頭上にあった方の枝である。
「俺の傷が妙に少なかったのも、それのお陰か?」
 梅の慈しみはあらゆる物を癒やす、と言うこごめの言葉に、鱗道は風呂場で確認した傷の少なさや治りの早さを思い出した。
『ええ。貴方は、我が友の代理の、末代なれば』
 こごめは静かに肯定し、鱗道は少しだけ目を伏せた。それから、思い付いたように、
「クロ。それも、シロの鼻先においてやってくれ」
『了解です。鱗道。もっとも、貴方はそう言うと思っていました』
 クロは言いながらに、ちゃぶ台から飛び降りている。シロの鼻先に咥えた枝を置き、もしかしたら角度や置き方に拘っているかもしれない。さすがだな、とクロを褒めながら、
「……シロは、どうなる」
『山の蝋梅とわたくしの柊で出来るのは、しょせん一助に過ぎません。全てはシロ殿次第です。穢れを屈服せしめれば以前の通りに。出来ねば、貴殿の危惧する通りに』
 こごめの言葉を聞いた鱗道が大きく溜め息を吐いたのを、こごめは意外そうに見上げてきた。鱗道の溜め息は懸念や不安の色を一切含まず、ただただ安堵の、気が緩んだだけの溜め息であったからだ。
 人間の時からすれば長すぎるほど、〝彼方の世界〟からしても充分な長さを、シロは穢れが浸食する体を抑えながら縁の深い社で自身を終わらせる相手を待ち続けていた。完全に抑えきることは出来ず、様子を見に来た一柱であるこごめを追い立て、大事な社や鳥居を壊してしまいながら。それを嘆いて悲しんで苦しんで、それでも完全に荒神に成り果てないように、大事なものを壊しきらないようにとずっとずっと耐えていた。そして、蛇神の代理である鱗道が共に歩もうとシロを山から連れ出すその時まで耐え抜いた。
 シロは、そんな犬である。
「それなら、シロは大丈夫だ」
 鱗道の言葉を受けて、こごめは一度目を閉じ、ゆっくりと笑みに変え、
『――そうですね、シロ殿ならば、確かに大丈夫でしょう』
 と、そっと同意を寄せてくれた。花が綻ぶように笑うこごめは、
『ただし、それも荒神とこれ以上の接触をしなければでしょうが――いざ危うしとなれば、我が友にほんの少し食らって貰えば良いでしょうし』
「……結構、過激なことを言うんだな」
 あまりにさらりと言ってのけられたので、鱗道の方が妙に口籠もってしまう。
『シロ殿がこちらに来たばかりの頃は、時折そのように無理に鎮めることもあったと聞き及んでおりますよ』
 柔らかい声のまま、優しげに首を傾げるこごめを前に、鱗道は腕を組んで唸ったまま返事をしなかった。事実である。蛇神を降ろして食わねば落ち着かない程の時期は、確かにあった。だが、それはシロを連れてきたばかりの精々一、二年のことである。少し食うのが最善策だと言われようとも、今となっては精神的な抵抗の方が強い。
 ともかく、シロの話に一区切りがついた。鱗道が麦茶を飲んで、次に口を開いたのは、
「シロを助けて貰った上で図々しいのは分かってるが、更に手を借りたい。この借りは必ず返す。こごめが力を貸せる範囲を教えて欲しい」
 と、深く頭を下げながらの懇願を発するためであった。
『鱗道殿――必ず返すなどとは仰いませぬよう。一柱が求める対価は、容易く人の子の命運を分けてしまうことはご存じのはず』
「俺は、人間一人の限界を知ってる。その上で、人間の理外を対処しなきゃならん。その為にはどんな手だって使うし、借りることにしてる。〝彼方の世界〟を相手に手段を選ぶ余裕なんてないんだ」
 鱗道が頭を上げた先で、こごめはすっと背筋を伸ばして立っていた。そうして立っている様は、やはり己の領地を持ち、そこを治める一柱であることを彷彿とさせるものである。鱗道を見る金色の目は万華鏡のように揺らめいて、ただの室内灯を受けるだけの短い体毛に覆われたしなやかな体は星のように細かい燦めきを纏っている。夢で会う蛇神の巨大で荘厳な様とはまた違う、厳かで静かな立ち姿に一度は息を飲んだが、
「あの荒神に対しての意見も対処も、蛇神とは一致してる。アンタに手を借りていいとも、俺に返せん借りになるなら蛇神が代わりに返すとも言われてる。全て承知の上で、こごめの手を借りたい。頼む」
 気圧され怯まされきる前に言い終えて、鱗道は再び、深く頭を下げた。
『お顔を上げてくださいませ。鱗道殿』
 甘い花の香りが強くなり、鱗道は言葉に従って顔を上げた。すぐ目の前にこごめが立っている。短く濃密な白い毛皮が、白粉のように燦めいていた。金色の目は微笑みを浮かべ、
『どうぞ、自身をあまり卑下されませぬよう。貴殿は目的を違えぬ正しさを持っている。そして同時に……わたくしには少し意外ですが、負けず嫌いでいらっしゃるのですね。我が友によく似ています』
 鱗道の目を覗き込むように近付いたこごめの鼻先は、鱗道の目を通して巣穴の向こうにいる蛇神を見るかのようであった。しばらくそうしていたこごめはそっと顔を離し、
『貴殿にはシロ殿の一件に関する恩が御座います。そもそもわたくしはそれを返しに参った次第。それでは納得がいかぬと仰るかも知れませんが、この件にて貸し借りなしの手打ちといたしませんか? なれば喜んで、我が微力をお貸しいたします』
 長い体を折って座り込むと、小さな頭を下げてきた。そうなると慌てるのは鱗道である。相手は一柱、言うなれば蛇神と同等の存在だ。それに蛇神の恩人にして友人である。頼むから止めてくれ、後で何を言われるか分からない――などと、また懇願を重ねる事となってしまった。

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