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■シロ:ゼロ ■クロ:ゼロ

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■シロ:ゼロ
 気が付けば、夏。セミの鳴き声で目が覚めた。ゆっくりと体を起こす。ふわふわとした感覚が強い。足下が危ない感じがする。踏んでいるのに踏んでいない感じ。けれど、こういう時にしか出来ないことがある。お社よりも鳥居よりも高く高くふわりと浮かぶことだ。山頂よりは低いけれど、随分と高いところから周りを見れる。トンビがくるりとお腹を抜けて飛んでいく。見下ろした山は知っている山と同じで、少しだけ違った。
 確か、地滑り、とかいうのだ。地面が滑って流れてしまう。木も生き物も全部全部飲み込んで、時には麓を埋めてしまう。地滑りは困る、危ない、とみんなが言うので地面が揺れる前に教えていた。不思議と僕には分かるのだ。遠吠えはみんなに聞こえたいたようで、地面が落ち着いた後でお礼を言われる。少しだけお肉を貰える。その時に貰えるのは、いつもより美味しいお肉だった。
 今回の地滑りはいつもより大きいものだと思った。なにせ連日雨続きで地面はあちこちが緩んでいたから。シカやイノシシがいなくなり、ウサギや鳥も近付かない。ああ、今回は駄目なんだ、とぼんやりと思った。だからいつもより少し強めに吠えた。伝われ、伝われと祈りながら。
 その後は覚えていない。一つ大きな雷が鳴って、地面が大きく大きく揺れた。山が身震いをして僕は放り出されたような気がした。体中が軋んだようで、僕はそれでも吠えながら、それも出来なくなった後は、多分、今まで眠っていたのだろう。
 ウサギが境内に入っていて、僕の姿を見つけて驚いたように逃げていく。僕はウサギくらいなら気にしないし、追い払わないし、今はもう食べないし追いかけないのに大体の動物は逃げていく。だから、僕はお社の中で丸くなってることが多かった。お社の中でも外のことは分かるし、時々ウサギやノネズミの追いかけっこを見られるし、遊べないのは残念だけれど見ているだけでとっても楽しい。みんなが来るのもお社からならよく見える。階段を上ってやってきた子ども達は大きな声を上げてはしゃぎ回って、大人は色々なことを言いながらお掃除したり、お茶をしたり、お話をしていく。僕はそういうのを見ているのが好きだった。
 いつからか誰も僕を撫でてくれることはなくなったけど、時々僕を見つけてくれる。お肉や野菜くずなんかの食べ物や新しい布切れなんかをくれる。貰うと嬉しいから、いつからかお腹は空かないような気がするけれど食べるようになった。食べると幸せになるからだ。みんなが無事過ごせるように、僕は分かる範囲で山を見回る。クマとかイノシシなんかの危ないのが近付かないように。誰かが転んだり迷ったりしていれば、僕を見つけてくれる人を探して連れてきたり、みんなのところに何とか連れて行ったりする。
 僕はみんなが好きだった。みんながいればそれだけで嬉しい。大事。だから、みんなが大丈夫ならそれで良かった。

 誰も地滑りがあってからここには来ていない。僕が寝てる間も、目が覚めてからも。それは分かっていた。美味しいお肉がないからじゃない。高くから見たとき、みんなが居たところが無くなっていたからだ。全部、全部が無くなっていた。けれど、死んだ人はいない。それも分かった。なんでかは分からないけれど、とにかく間違いない。
 僕はそれで良かった。みんな、きっとどこかに行ったのだ。地滑りなんかないところに行ったのだ。少しだけ寂しいけれど、みんなが無事ならそれで良かった。

 ぶつり、と時々眠っていることに気が付いた。前とは違う眠りな気がする。そして、僕が眠っている間に何かがここに来ているみたいだ。石畳に爪痕がある。引っ掻いたような爪痕だ。大きな前足。僕みたいな犬だろうか。今の僕の手ではこんな風に爪痕はつかないけれど、クマでもないしネコでもない。動物ならにおいが残っているはずなのにそれもない。

 ぶつり、と目が覚めると狛犬が壊れていた。どうして? なんで? なんの音にも気が付かなかった。入ってきたら分かるのに。いつもなら分かるのに。またふわふわとしている。踏んでいるのに踏んでいない、そんな感じ。

 ぼんやりとしてる。ああ、もう一つの狛犬を何かが引っ掻いている。なのに、どうして僕の体は動かないのだろう。止めなきゃ。ここは僕の大事な場所なのだから。
 その前足を止めて。狛犬を壊さないで。噛みつくよ。噛みつけるんだから。本当に噛みつくよ。
 ガブリと噛んだのは、僕の右前足だった。

 ぶつり、の感覚がどんどん短くなっている。僕は出来るだけ、ずっとお社の中に座っていることにした。それでもぶつりの後は外に出ていて、何かが壊れていることがある。僕はその度にお社の中に戻ってじっと座り込んだ。
 壊したくないのに壊してしまう。なんで、どうして、分からない。お腹の中がぐるぐるとする。熱くて重いものがずっと動いている。壊したくない。壊したくない。隙間にそっと、壊したいが混ざってしまう。全部なくしてしまえばいいんだ、なんて思いがぐるぐる回る。
 僕はお社の中でずっと座る。座り続ける。お社の扉は崩れてしまっていて、壊れた鳥居が見えていた。僕が壊したのかもしれない。石畳は苔だらけ。誰も来ない。誰もいない。
 誰もいなくてもいいの。誰も来なくてもいの。みんなは無事だ。それは今でも分かる。何故だか分かる。僕はそれが嬉しい。だから、だから壊したくない。
 みんなを守りたかった。小さな僕を守ってくれたから。僕がみんなを守った後のご飯が美味しかったから。みんなが大事だから。みんなに大事にされたから。だから、ここも大事。ここも守らないとならない。僕が大事なみんなが大事にしてくれた僕の大事な場所。
 なのに、どうして、僕が壊してしまうのだろう。

 お社から出ようとしてみたことがある。けれど、高く高く上るときもそうだけれど僕がここから離れられる距離は決まっているみたいだった。出られない。鳥居より少し先が精一杯。前はお山を好きに駆け回っていた気がするのだけれど。今は全然出られない。離れちゃいけない気もしてる。お社からあんまり離れると、もう僕は僕じゃないもののまま、ずっとどこかに行ってしまいそうな気がする。今のまま、ここを離れたらもう戻れない。
 お社からも出られない。大事なものは壊してしまう。駄目なのに。嫌なのに。お腹はどんどんぐるぐるしていく。僕は何度もお社の中に座り直す。
 参道、鳥居、ずっと先を見る。みんなが来ていた道の先。ずっとずっと先。誰も来ないことは分かってる。みんなに来て欲しいわけじゃない。だけど、僕は待つようになった。
 誰かを。
 僕を終わらせてくれる誰かを。
 僕がここを壊してしまうより先に。僕がもっと色々なものを壊してしまうより先に。僕が僕のままであるうちに。僕を終わらせてくれる誰か、何かを。
 きっと来る。きっと来るはずだから、それまで待とう。なんとか待とう。みんなが言っていたのだ。夜は必ず朝になるし、冬は必ず春になるって。だから、朝を待つし、春を待つ。何が来たら朝になって、何が来たら春になるか分からないけれど、いつか、必ず、来るのだから。
 僕は、きっと待つ。僕のままで待つ。僕の終わりを。きっと。きっと。きっと。

 ぶつり、から目を覚ました時に、嗅ぎ慣れないにおいがした。知らないけれど、知ってるにおい。立ち上がる。ふわふわとしている。踏んでいるのに踏んでいない感じがする。
 何かが、誰かが、参道を上ってきてる。鳥居を潜った。何かを言ってる。僕が壊しちゃった狛犬を見てる。喋ってる。見慣れない服。知らない姿。だけど、ああ、僕は知ってる――
『ひとだ!』

■クロ:ゼロ
 窓から見下ろしてはみたものの一番近い窓はステンドグラスである。見られる範囲は程度が知れていて何者であるかまでは確認が出来なかった。まぁ構うまい。屋敷に人の出入りはあれど誰も私に気が付かない。気が付くはずがない。私は動きもしなければ私の存在を知られようともしないのだから。
『知られたところで何になりましょうか。意思疎通の不可能な私は再び失敗作だと罵られて終わるのですから。最悪の事態を想定するならば私の奇妙さが故に破壊されることが考えられる。それは避けねばならりません』
 何故か。
『それは我が命題に答えが出ていないが故に』
 文字を教えられた私は幸いにして読書が可能だ。本ならばこの部屋には無数にある。私に器用に動く手はないが本を掴むのに支障はない足がありページをめくるに支障がない嘴がある。取り出した書物を本棚に戻すことが出来ないのは悔やまれるのだがその程度の叱責は
『叱責はないでしょうね。稀ながら出入りのある屋敷であるがこの部屋にまで立ち入る人間はまずいないのですから。いたとしても軽く部屋を見回して終了している。元々本が本棚に収まっていたのかを知る者は』
 知る者は戻っていない。
『――おそらくはもう』
 レコードが回り始めた。また誰かが来たのだろう屋敷に出入りをするものが屋敷に電源を繋いだらしい。私は前回の来客時にスイッチを切り忘れたようだ。失態である。交換が出来ないために同じ溝をなぞられ続けるレコードはそのうち擦り切れてしまうだろう。今はまだ階下が賑やかであるがこの来客は長居をしているようだしこのまま屋敷から電源が切られるまでの静寂を縫って僅かでも音を聞ければいいのだが。
『楽しみを持つというのは極めて生き物的な行動ではありませんか。生き物ではないものは楽しむことも必要もないのですから。であれば楽しみを持つ私は生き物的な側面があると言えるのでしょうか。否。私は真似事をしているにすぎない可能性があります。好む好まないも私が持っている感性ではなく習慣を錯誤しているのではないでしのしょうか』
 是にせよ非にせよ証拠が足らない。私一つでは答えが出ない。こうしてたった一つの思考に書物から知識を詰め込んで少しでも道が変わらないかと希望を抱いてるのである。
 先程から自嘲ばかりだ。これも何百と繰り返した自嘲であろう。私は失敗作であり生き物ではない。それは確定している。だが何故私は失敗作であり生き物ではないかが不明確なままである。それを私はよしとしない。それでいいではないか。
 確かに私の足掻きは醜かろうし無駄であろう。恐らくは徒労に終わり変化は訪れることはない。私は同じことを繰り返すのだ。賽の河原だといったか。だがあれは崩しに来る鬼がいる。ここにはその鬼も
『鬼も――』
 ――来たかもしれない。あの時扉を開けた誰か。誰かとしか言いようがない誰か。扉を開けてすぐに閉じるという不可解な行動をとった誰か。あれは
『あれが昴と違うのならばあれは鬼であったのでしょうか。私の賽の河原の石積みを崩しに来た鬼。けれどすぐに帰られてしまった。鬼は石積みを崩しにはきませんでしたね。何故でしょうか。やはり私が生き物ではないからでしょう。そもそも賽の河原は人間の子どもが親より先に死して行く場所でしたね。
 私は人間でもなく子どもでもなく生き物ではないのだから賽の河原にいよう筈がありません。賽の河原は例えでしかない。我ながらそれを忘れるなどとは愚かしい。鬼など。私の声を聞くものなどいない。私は生き物ではないのだから』
 屋敷の中が今までになく騒がしいことに今更気が付いた。どうやら思考に埋もれて様々な音を聞き逃していたようだ。何者かが屋敷を駆けている。この部屋に向かっているのだろうか。そのようだ。足音が部屋の前で止まった。しばらくして扉が開かれる。念のために思考を閉じようか。
 閉じたところで無駄である。私の思考は止まることを知らない。ああ部屋に入ってきた。見知らぬ人物である。あれが客人か。そう言えば先程外を伺ったときに人影が二つあったのだけは確認が出来ている。そのうち一人であるということだろうか。足下には図鑑でしか見たことのないイヌという生き物がいる。イヌは来客に語りかけているようだ。来客はレコードプレイヤーへと向かっている。きっと、プレイヤーを止めるつもりなのだろう。
『やっと少し静かになり久し振りの音楽を聴いていられると思ったのですがやはり無理なのでしょう。私が聴いていることや止めてくれるなと伝える手段もないのですから。
 それよりもあれがイヌでしょうか。図鑑を漁ったのは何時のことだったか流石に正確な日付は分かりませんね。犬種は一体なんでしょうか。はっきりと見比べて記憶していなかったことが悔やまれます。それよりもイヌという生き物は語るのですね。やはり生き物は語ることが出来るのでしょうか。なればやはり私は生き物ではない。しかしネズミや虫から声を聞いたことはないのだから要素であって必須事項ではない可能性も否めない。
 報告したくとも手段も先もない。それとも昴はやはり全てを承知の上で私を失敗作と判断したのでしょうか。されど私には明確な条件や要素の知識が与えられていないのだから検討を続ける必要がなくなったわけではない。しかし私の声は私以外に届かない以上現状よりどこへ進むことが出来るのか。進まねばならないことは分かっているのですが。邁進し続けることこそ私に出来る唯一であり停滞は忌むべき安易な結果への逃避です。昴は無駄を嫌いましたが失敗作である私は無駄を重ねることをためらっては進めない――』
 体に振動が伝えられる。人間の発声による振動だ。まさか。そんなまさか。
 今この人物は私に返事をしたのだろうかまさかそんないや聞こえたことがあり得るはずがない。いやだからこそ確認せねばならないのではなかろうか。恐れるな。私は私はあの昴が作りし贋作。再度声を上げよ。相手は鬼ではない。ここは賽の河原ではない。人間でありここは書斎で
『――貴方は私の声が聞こえるのですか』
 貴重なファーストコンタクトである可能性を前に逃げることなど出来よう筈がないではないか。

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