人の死について考えていたことがある、
先日職場で多少仲良くしていた同僚の死にあった。
公開が残るのは最後のオートレースの誘いに
私が睡眠不足を理由に断ってしまったこと、
いま思えば心底残念そうな顔をしていた。
もっといえば、
かれは無意識に自分自身の死を無意識に予見していた?ような表情だった。
(あとから思えばだが、、)
その後、癌で入院して、
三回虎ノ門病院に見舞いに行ったのだが、
三回多少の会話を交わしたが、
あの「空間」と
「状況設定」では
僕らはあれ以上のコミュニケーションを
することができず、
(しかも、
お互いがお互いにベストを尽くしていたのがわかったし、)
言葉単体は本当に無力なんだな。
と思った。
さて、いま、
私は、私の父と和解しようか
ふとおもった。
七年くらい会っていないのだが、
時々電話がかかってきていた。
思うのが、
親が子供に願うものは自立であって、
(私は子供という年齢ではもうないか、、)
ほかの場所でひとりで生きていけることを
願うのが生物の本能だ。
その上の言語、コミュニケーション、
人間的な上部意識の感情は、むしろマイナスに働くことが、
対「男 ⇔ 男」の関係性では
ほとんどなのだと思う。
おれたち男同士の関係性に、言語など不要で、
時間軸も不要であるという
考えだ。
🐻会話と距離。
25に骨だから、
おれ骨に何日も電話かけちゃってたワ。
おれ骨に何日も電話かけちゃってたワ。