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「(短編) 呼吸する春たち (2023/10/14)」

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 甘い香りのする春の盛りも過ぎ去った頃には、都心へと続く朝の通学電車の混雑具合も一段落したようで、途中駅で座れる日も多くなっていた。夏にかけて日が伸びていく車内は、昨日と今日が違うものであると主張するように、いままでは空一面を暗く沈んでいた太陽が大きな河川を通り抜けるとき、オレンジ色に染めたその顔を覗かせた。
 今日も人の往来の多い途中駅で大柄な男性の両端がぽっかりと開いたので、その隣に腰を落とした。そうして、文庫本を手に取って、駅に着くまでの埋め難い時間をやり過ごそうとしている。その時丁度、隣を挟んでうちの学校と同じ制服に身を包んだ線の細い女の子が座ったような気がしたが、特に気にも留めはしなかった。何気ない朝。淡々としたリズムを刻んでいく心地よい振動。今日一日も安穏とした日の始まりを告げる福音の予兆を感じさせていたーーにも関わらず、魔のカーブはすぐそこまで迫っていた。
「この先、電車が揺れますのでご注意ください。……」
 吊り革を掴んでいなければ少しよろめいてしまうようなカーブだが、今日は座っているので特段問題ない……そう思った矢先だった。
 電車に伝わる揺れと共に、急に頭に覆われた大きくて厚いその感触は、訳もわからぬまま宙を並行移動させられた。
 逆らうことのできない中、どこにぶつかっていくのか、硬いものか、角ばったものなのか、血を流す物なのか、その予感とは異なっていた。
 柔らかく優しい感触が唇に伝わってくる。これは一体……?
 目の前にいるのは、切れ長の目を開き切った大人びた顔をした女の子だった。顔は違うにしても、きっと自分も同じ顔をしていたと思う。
 周りがざわついている。引き離せ、引き離せ、という声が後に続く。
 隣に座っていた男に両隣に座っていた私たちが強制的にキスさせられたと理解するには、まだしばらくの時間がかかった。
 その男は「百合おじさん」そう呼ばれているようだった。

 夏休み。
 あの事件以来私に何かの変化をもたらしたであろう、百合おじさんとの遭遇だったが、私の日常に対して対局的な変化をもたらすことは無かった。あの日、おじさんは警察に引き渡され、私は学校を休むという選択もあったが、周りからの雑音を肌感覚で感じながら、あっさりと普通に授業を受けた。私にキスをさせられたあの美少女は、私たちは同じ学年の同級生だという浅薄な情報交換だけで、あとは親レベルの話し合いとなった。
 あれからあの女の子とは会っていないし、学校で見ることもない。友達から伝え聞く風聞では学校を休みがちになっているだとかいうことに、なぜだか当事者として気まずい思いをしてしまう。
 母が昼から仕事に出かけると言い、ミサキ、しっかり戸締りしてね。と、告げる。
 変わったのは私より周りの環境立ったのかもしれない。両親は何かと私に対する虞のようなものに神経質になっていた。
 「分かってるよ、いってらっしゃい」
 そう言って出来るだけ笑顔で母を見送った。
 どこかに出かけてしまうと親が不安がるのを分かっているので、セルフ軟禁状態に陥り、そんな中でやることと言えば、リビングでアイスを食べながらテレビを観るか、たまに思い出したかのように勉強するぐらいしか選択肢が残されていなかった。
 不意にチャイムの音が鳴り響く。
 宅配業者か、もしくは、分は悪いが仲の良いクラスメイトが事情を察してやってきてくれたのか、その二択だと思っていた。インターホンに向かうと、そのどちらでもないことが一目で分かる。
 目深に被ったベージュのツイルキャップで顔は見えないが、痩躯で長身な女性だというのが見て取れる。
 「どちら様ですか?」
 その問いかけに相手は返答をしなかった。こういう場合どうすればいいんだと頭を抱える素振りをしていると、モニターの向こうで女性が腰を落として膝を抱えてしまったので、仕方なくペタペタとスリッパの音を立てながら玄関へ急ぐ。扉を開けると茹だるような初夏の日差しが差し込んで来た。虹彩が明順応を起こして、逆光の生じた写真のように女性の影だけがくっきりと縁取られたかのようにそこに残っていた。
 「大丈夫ですか?立てますか?」
 近くに寄り添って手を差し伸べる。その手を受け取らず、「大丈夫です」と受け答えた女性は、いつかの不運に一緒に巻きこまれたあの美少女だった。
 「ミサキさんですよね?私、ナギサです。あの時の……。とても言いにくいんですが、あの男が憎くて、殺したいんです」
 「はい?」
 「あの男の住所は弁護士の先生が親宛に送った書類に載っていて、知ってます」
 「いやそうじゃなくて……」
 「憎く無いんですか?」

 今日中に帰りますという書き置きを食卓に残して、突然その男が住んでいるという町まで行くことになってしまった。口では同情を込めて憎いと言ってしまったが、そんな気持ちはさらさら無く、暴挙でも起こそうものならすぐに誰か呼ぼうと算段していた。
 通勤ラッシュの過ぎた車内は、いくつも虫食いのようにぽっかりと空いた座席があったが、二人が座ることはなくつり革に捕まっていた。
 「そのボストンバック、何が入ってるんですか?」くぐもった小さな声で尋ねる。
 「包丁とスタンガンと……」
 これはひょっとすると汚してしまった私も処分されてしまうのではないかという背筋に冷たいものを感じたので、同情を買うためにいくつかの言葉を重ねなければならなかった。 
 「あの事件があって、やっぱり辛い思いをしましたよねぇ……?」
 「父が性暴力を受けたと過剰反応を起こして、母と喧嘩ばかり起こして別居状態になりました」
 「闇深いな……」
 電車は大きなターミナル駅へと入っていく。終点駅は中華街だったので、中華料理店でガールズトークをして家に帰りたかった。
 大きなスーツケースを両手に転がしている集団とすれ違うように、東京湾を沿って走る電車に乗り込む。
 ここから先は生まれてから一度も行ったことの無い場所なので、残念な状況だが少し心が浮わついた。
 「この先に行ったことあります?私はじめてで……」
 「私もはじめて」
 ようやく意見が合ったので、生まれた病院から通った学校のこと、主義や思想についてまで話し合いたかったが、埋め合わせるには足りない時間が多すぎて、おざなりな会話に終止してしまった。
 「この路線って海の近くを通るのに海、見えないんですね~、船が見えるものかと思ってた」
 最後の大きな駅で客を一斉に吐き出し、がらんどうとなった車内で二人は横並びになって吊り革を掴む。泡のように散発的な会話のラリーが何往復かしたところで、目的地の終着駅に着いた。
 赤い電車から吐き出されて、どこかから香る潮の匂いを纏いながら、小さな駅だと感じさせる手狭な改札を抜けていく。駅の外は、どこか南国情緒があり、どこか街中が寂れていて、寒々しい雰囲気があった。駅前でバスに乗り換えると、ナギサは打って変わったように口を横に結び、神妙とした顔つきになっていた。
 突然青々とした海が開け、白亜の城は言い過ぎにしてもなかなか威圧感のある団地が眼前に現れた。
 「ここです」
 子供の頃に友達の家を訪ねに団地に行ったことがある。その時、家を探し出すのにかなり難儀した記憶があるものだが、ナギサはするする糸に引かれていくように、男の家へと向かっていく。多分そこまで計画を練り上げていたのだろう。
 エレベーターの無い団地の急な階段を登っていくと緊張よりも運動による心臓の拍動でくらくらして来そうだ。先を登る、額をうっすらと湿らせながら涼しい顔をしたナギサの横顔をちらと見て、屈折した感情を持ってしまう。
 502号室の目の前で止まると、すっと古びたチャイムを鳴らした。
 蝉の声と、どこか遥か上空で飛行機が飛んでいる音だけが耳に響く。誰も出てこないで、という祈りを込めて、時が過ぎ去るのを待っていた。何十秒かしてもう一度、ナギサはチャイムを鳴らした。きっと誰もいないのだろう。
 「帰ろう」と促して、ほっとした顔を浮かべ背を向けたところで、扉が開く、立て付けの悪そうな重い音が響いた。
 「どちら様でしょうかあ?」
 眠たげな野太い音の声が聞こえると、ナギサはボストンバックから刀身の長い――刺身包丁を取り出して、扉の中へ一突きした。

 「あんたのせいで私の家族がメチャクチャになったじゃねえか!!!」

 「痛っ……。これ、どういうこと?」
 扉に隠れて男の姿は見えないが悲鳴混じりの声が漏れ、そして、その後ナギサの顔が重く曇った。
 私はすべてを視界に収められるように螺旋階段を下ると、頭上でナギサが男に腕を掴まれて、包丁を天に向ける形になっていた。
 「ちょ、ちょっと、警察呼びますよ!」
 スマホを取り出して、大仰に叫んだ。
 「呼んでほしいのはこっちだよお、あんたたち何なんだ……」
 「百合おじさんじゃないんですか?」
 「ぼく?違う違う、百合おじさんじゃないよ、反百合おじさんで……」
 「は?」
 ナギサと息が合った。

 備え付けられた仏壇に、反百合おじさんと自称する大柄で太った冴えない男が手を合わせる。
 「いやそれにしても乱暴だなあ……。百合おじさんはつい最近亡くなったんだ。持病を抱えてて、そのせいで自暴自棄になって毎日電車で女の子を見つけてはとんでもないことをして警察に捕まってたんだけどさ……」
 「反百合おじさんってなんですか?」
 少し前に取り乱した姿はまるで夢だったかのように、ナギサはすんとした顔で姿勢正しく正座している。
 「これは一種のまじないみたいなものなんだけど、百合おじさんにかけられた呪いをせめて気持ちだけでも解消できるように手助けしてるんだ。葬式みたいなもんだよ。それに、正百合おじさんがいれば反百合おじさんもいるだろ?」
 「いや知りませんけど……」
 「この宇宙に反物質は存在しませんが、それで私達は救われるんですか?」
 「いままで被害に合った女の子たちも不思議と納得していったな、やっぱり世界の機序が……」
 ナギサと反百合おじさんが鹿爪らしく宇宙理論について話し合ってる間を縫って、「それでどうすればいいんですか?」
 と投げかけると、反百合おじさんは何故か腕を組む。
 「再現だよ」

 二度目の春。
 あの日と同じ日、同じ時刻に駅へと向かい、事件のあった同じ号車が止まるホームの位置に足を進める。
 時刻表は変わっていなかったので寸分の狂いも無く電車はやって来た。
 多くの人が乗り込んで行き、私は座れず立つことになった。数駅過ぎた後、当然あの日と同じように、途中駅で座席がぽっかり空いてしまう。そして、ある男を挟む形で私とある女の子が座った。
 当たり前だ。馬鹿馬鹿しい。すべて反百合おじさんが雇ったエキストラなんだから。
 つまりこういうことだ。私達はまずキスをして、反百合おじさんが力づくで引き離すという、逆の儀式を行う段取りになっていた。
 巻き込まれた時間までは覚えていなかったが、ある程度の目安を測って、ナギサがそっと目を閉じて唇を寄せてきた。
 微かに震えているのが分かって無理をしていることが分かっても、私もそれに応えなければならなかった。
 そしてぶつかるあの時と同じ唇の柔らかさ、そして、突然引き離された。
 「これで全ておしまい」
 ニコリとした反百合おじさん。それでも顔を青くさせているナギサに、私は一計を案じた。
 「おいでナギサ」
 手を広げて、唇を突き出した。
 「は?」
 驚いた声を上げるおじさんを跨いで、ナギサと接吻した。
 「おいおい、こいつは……すげえぞ!」
 エキストラよりももっと多くの乗客達の驚く声が聞こえる。何かシャッターの切られる音も聞こえるが、それでも、キスは続く。
 「こんなこと最後にして、初めてだな……。ぼくも百合おじさんに転向しようかな……」
 この一年で、引き離すよりも強い引力が働いてしまった。
 ようやく終着駅で駅員に引き離された時には、電車は多くの見物客と共に埼玉県の小川町に着いていて、学校には遅刻した。
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