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2話 孤独さん

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 俺の一日は桜島の礼拝から始まる。
 鹿児島市の東側、錦江湾に面した桜島フェリー乗り場を毎朝訪れて、桜島を眺めるのだ。
 ここは市街地からのアクセスが非常に良好で、桜島と鹿児島市街地を結ぶ定期フェリーの乗降場となっている場所だ。早朝は人出も少なく、海沿いの為に視界を遮る物がほとんど無いので、桜島の全貌を見渡せる。だからここは俺にとって最高のパワースポットなのだ。
 瞼を閉じて、新鮮で神聖な空気を大きく吸いこむ。取り込んだ空気は血中へ運ばれ、酸素とともに桜島の力が全身を駆け巡る。いつしか体中にエネルギーが溢れて、俺は多幸感に包まれていく。体が飛び上がりそうなほどに幸福度が高まったところで、瞼を開ける。
 力強くも穏やかな桜島の姿を見て、今日も良い一日を過ごせる気がした。
 そんな予感が生まれた瞬間。
「何してるの?」
 背後から声をかけられる。
 デジャブだ。
 振り返り、そこに立っていたのは因縁の高崎だった。
「桜島を眺めながら歩いていたところだ。高崎こそ、ここで何をしてるんだ」
 まさか、俺と同じように桜島を礼拝しているのだろうか。
「私は毎朝、フェリーに乗って通学するから」
「え、ここへフェリーに乗ってくるってことは。向こうから?」
 俺は桜島の方を見る。
「そう。桜島の実家から、フェリーに乗ってここで降りて、大学に通ってる」
 やはり、そうか。
 桜島に住めない俺としては羨ましい限りだ。だから、改めて確認したくなった。
「高崎は、桜島が好きっていうのは本当なのか?」
「好きっていうか。うん。まあ、好きかな」
 高崎は少し言い淀んだ様子を見せて、鞄に吊り下げている『さくらじまん』を手で覆い隠した。
「隼人君も、好きなの?」
「好きだ。どれくらい好きかと言えば、世界一だと言って間違いないだろう」
「へえ」
 まるで興味が無いという反応を見せてきて腹が立った。だから俺はこれまでの鬱憤をぶつけてやろうと思った。
「まあ、そうやって『さくらじまん』を隠している様では、桜島への愛は大したことないよな」
 やや言い過ぎたように思えたが、これが本音だ。
 案の定、高崎は顔をしかめて、「ひどい」と呟いた。
 そして口を歪めたまま、何か考えている様子を見せた後、「そういえば」と言って口を開く。
「隼人君は桜島に住んでないんだよね。確か、大学の寮に住んでいるとか」
「ああ、そうだけど」
「それなら、隼人君こそ大した愛じゃないよね。桜島に住んでいないなんて、世界一が聞いて呆れる」
「何だと」
 桜島に住んでいない事。それだけは誰も踏み荒らしてはならない、禁断の領域だ。
 俺の中で一気に怒りが噴き上がる。
「高崎に何が分かる」
「隼人君こそ、何が分かるのよ」
 高崎は『さくらじまん』を手で覆ったまま、睨みつけてくる。そしてお互いじりじりと距離を詰め寄った。
 まさに一触即発。殴り合いでも始まりそうな状況だ。だが、俺だって分別はある。女性に手を挙げたりしない。それだけは、してはいけない事だ。自分に言い聞かせて気を静めていると、高崎から蹴りを一発食らわされて、左の脛に激しい痛みが走る。
 なんてことだ、まさか攻撃を受けるなんて。
 悔しい。痛い。蹴り返してやりたい。だけどそんな事、大学生の男がやるべきではない。
 耐えろ。やり返すな。
「くそお」
 耐えた。結果、俺は叫んだ。地団駄を踏み、そのまま叫びながら、哀れな姿でこの場を走り去った。
 たったいま桜島の力を全身に授かったばかりで、このような想いをするのは絶対におかしい。
 やはり高崎と出会ってから何かが狂い始めている。



 五月末日。
 桜島ワンダーフォーゲル部の活動が遂に始まる。
 数少ない先輩達はほぼ引退状態なので、同期だけで集まることになった。
 記念すべき最初の活動は鹿児島市街地から少し離れた八重山での登山だ。
 八重山は標高七百メートルほどの小高い山で、登山道も緩やかなので初心者の多い我々にはピッタリの行程である。
 登山に慣れている人間にとっては刺激が足りないかもしれないが、八重山の山頂から眺める景色は美しいし、遠くに佇む桜島の姿は、普段とは違った雰囲気を纏っているので十分に楽しめるだろう。 
 だから登山口に入った途端、自然と踏み出す一歩は大きくなり、反対の足を踏み出すペースは速くなる。
 山頂を目指し、夢中になって足を動かし続けていると後方から、「ちょっと待ってくれ」と声をかけられる。
 我に返って、振り返るとワンゲル部メンバーの姿が見えなくなる所まで登っていた。
「すまない」
 俺は謝って、みんなが追い付くのを待つことにした。
 そうしていると、高崎が最初に姿を見せた。アウトドア経験者というだけあって、軽快な足取りだった。彼女はあっという間に俺の元まで到着したが立ち止まる事は無く、俺を横目で見送って、そのまま登り続けた。
 どういうつもりだろうか?
「ちょっと待てよ」
 そう言っても、彼女は止まらない。仕方なく俺は高崎を追いかける事にした。
 彼女は俺が追いかけている事に気づくと、登るペースが更に速くなる。
 それから時々俺の方を無言で振り返りながら、登り続けている。
 まさか、あいつ。
「競争するつもりじゃないだろうな」
 俺が言うと、高崎は再び振り返って頷いた。
 何という奴だ。
 どちらが先に山頂へ到達するかを競うなんて、あまりにも危険すぎる。
 山を舐めるな。そしてアウトドアを舐めるな。そう言ってやりたかったのに、俺の闘争心には火がついていた。
 アウトドア熟練者の俺に挑もうだなんて、良い度胸をしている。
 高崎に負けまいと俺がペースを上げると、それに気づいて高崎もペースを上げた。しばらく一定の距離を保っていたが、次第に俺は息切れし、全身が重く、思ったように足を振り出せなくなっていた。
 いつしか高崎との距離が遠くなっていく。
 なぜ彼女を追い越せないのか。
 それは俺が山を登るのは久しぶりだからだ。ここ一年間はずっと受験勉強ばかりしていたので体力が落ちている。だから高崎に追いつけない。それは仕方ない事だろう。だが受験勉強に励んでいたのは高崎も同じだ。それに気づいて、俺は悔しくて、いたたまれなくなる。
 とうとう高崎の背中は見えなくなった。せめてもの抵抗として、できる限りの早いペースで登り続けた。
 高崎とどれくらいの差が開いたのか分からないが、ようやく山頂の広々とした平地に辿り着いた。
 平地を進み木々に囲まれた場所から抜けると、桜島の姿を見る事が出来た。この日は山麓全体に霞がかかっていて、普段より神秘的な様相を呈していた。もう少し歩くと、休憩用のベンチがあって、そこに腰掛ける高崎の姿を見つけた。彼女も桜島を眺めているようで、その場からじっと動かない。
「いま着いたからな」
 一応、高崎に到着を報せる。
「うん。私の勝ちだね」
「ああその通りだ。高崎は凄いよ」
 登山のマナーはともかく、彼女の身体能力と登山の技術は認めざるを得ない。だから、素直に尊敬し、潔く称賛する事にした。だがこれまでの因縁から、高崎とはこれ以上何も話したくなかったので山頂に転がる岩の上へ腰かけて他のメンバーが到着するのを静かに待った。
 その間はひたすら苦悩する事になった。
 高崎の実力を認めたとはいえ、悔しい。
 桜島への愛で負け、アウトドアの実力でも敗北してしまった。この短期間で俺の個性はことごとく打ち砕かれた。個性を失くした俺は一体、何者なのだ。何を誇りに生きればいいのか。途方に暮れる。
「俺はこの先、どうすればいいんでしょうか」
 桜島に縋る気持ちで声をかけた。
「その少女に負けて悔しいのか」
「はい、その通りです」
 すぐに桜島から声が返ってきて、安心する。
「まず、お前は自分の負けを素直に認める事ができている。これは簡単にできる事ではない。だから、それだけでも自信を持っていい」
「そうでしょうか」
「そうだ。何かを変える必要は無い。負けたからと言って、個性を失くした訳じゃない。自分を信じて個性をひたすら磨けばいいのだ。そうすれば道は開けるだろう。自分らしく生きる事、それが何よりも大切なんだ」
「ありがとうございます。では、もう一度、鍛えなおします」
 身に染みる言葉だった。
 自分らしく生きる。信念を貫く。俺が大切にしていた事を思い出させてもらえた。
すぐに自信を取り戻す事はできないが、これなら前に進む事ができると思った。

 しばらくしてワンゲル部のメンバーが山頂へ到着した。
 もれなく全員から苦言を受けたので、俺は素直に頭を下げる。
 高崎は完全に他人事といった様子を見せていたので何か言ってやろうと思ったが、そもそもは俺がペースを乱して競争をけしかけたので、今回は大目に見ることにした。
 それから各々が休憩する場所を確保して腰を下ろした。
 俺は持参したガスバーナーを用意し、お湯を沸かしてカップラーメンとコーヒーを作った。アウトドア慣れしていない直井はこの様子を見て感動していたので、俺は気分が良くなりコーヒーを作ってあげた。
 敗北の後に食べるカップラーメンの塩味は心に染みる。塩の効いた悔しさを忘れず精進していこうと思った。
 ふと直井の方を見ると、彼のすぐ隣に一人の登山客が立っていた。
 俺は登山客に軽く会釈すると、その男は頭を下げてから口を開いた。
「君達は集団で行動しているのか?」
「集団?」
「大人数で来たのか?という意味だ」
「そうですけど」
「そんな事をして、大丈夫なのかい?」
「大丈夫って何ですか?」
 何が言いたいのだろうか。直井の様子を伺うと、彼も困惑しているようだった。
「このご時世に集団行動をしては、駄目なんじゃないか?つまり、感染予防のための自粛が足りないんじゃないか。という話だ」
 感染予防とは、まさか、新型ウイルスの話をしているのだろうか。
「あんた、本気で言ってるのか」
「それはそうだろう。集団で行動する事は控えて感染拡大を防ぎ、多くの人を守る。何よりも大切な事だ。」
「いや、いまどき自粛警察かよ。例の感染症の制限が解かれてから、一年以上は経っているんだぜ。いまさら、なにを言ってるんだよ」
 直井が感情的になり、言葉遣いが荒くなる。
「…そうなのか?」
 この男の言動は明らかにおかしい。
 適当な事を言って俺達をからかいたいのかもしれないが、それは間違っている。俺達は自粛という曖昧な概念によってこれまで散々理不尽な目に合ってきたのだ。だから俺達にとって、これは非常に繊細かつ敏感な問題で、直井が怒るのは当然だったし、俺も同様に気分が悪い。だが、理不尽な事が起きてもそれは仕方ない。どうしようもない事なのだと諦める事に慣れてしまっているので、これ以上怒りをぶつけたりはしなかった。
「そういえば、マスクをつけた人はほとんどいなくなって、夜に出歩く人も多くなっていて。その度注意していたのだが。制限が解かれているのだとすれば、合点が行く事は多い」
 男は顎に手を当ててぶつぶつ言いながら思案し始めた。
「まさか本当に、感染症は無くなったのか?」
 俺と直井は再び顔を見合わせる。
 この男は俺達をからかう訳ではなく、感染症の制限が未だに継続していると本気で思い込んでいるのだろうか。だが、そんな事はありえるのか。
 直井はスマホを弄ると、感染症の行動制限が解除された事に関するページを見つけて、男に見せつけた。
 男はスマホの画面をしばらく凝視した後、再びぶつぶつと独り言を始める。
「おい。この人、変だぜ」
「そうだな。あまり関わらない方がよさそうだ」
 俺達が小声で話し合っていると、男は頭を下げてきた。
「すまない。どうやら私が間違っていたようだね」
「本当に知らなかったんですか?」
「ああ、本当に私の無知が原因だ。私は孤独な人間でね。世間との関わりが薄くて、世の中の変化に気づくのが遅くて。この事も本当に知らなかったんだ」
「そうだったんですね。それなら、構わないです」
 とはいえ、限度があるだろうと思った。
「こうやって世間の事に疎くなってしまったのにも理由があるんだ」
「はあ」
「少し前の事だけど、私は悪意ある人間達から理不尽に糾弾され、迫害されて。世の中の仕組みに嫌気がさして、人との繋がりを捨てた。いや、捨てられたのだろうか。とにかく、私が手にしていた物は、何もかも全て失った。だから、世間の事には疎いんだ」
 彼の言う事は抽象的でよく分からないが、どうやら辛い境遇に置かれているようだ。
「私は君達に理不尽な事をしてしまった。これでは連中と同じだ。本当に申し訳ない」
 そう言って、男は再び頭を下げた。
「もう、いいですから」
 ここまでされると、鬱陶しくなってくる。
「すまない。では、せめてもの償いとして、助言をさせてくれ」
「助言ですか?」
 何故、この流れで助言を受けなければならないのか。疑問である。
「君達は選択肢が多く将来性のある大学生だろうが、明るい未来を想像するのが難しい世の中で辛い事も多いだろう。場合によっては私のように世の中から弾かれる事だってあるかもしれない。だけど、心配はいらない。何故なら、世の中から弾かれた生活というのは、案外快適であったりする。どうなっても生きていくことは出来るし、今を楽しむ事もできる。例えば、こうして一人で山を登る事は楽しくて仕方がない。だからそこまで不安に思う事は無い。思うが儘に生きればいいんだ」
 表情を変えず、抑揚の無い語り口で長々と話す男の姿は不気味だった。しかし、言っている事は案外、共感できる。
 感染対策の行動制限が敷かれていた頃は、お互いを監視し合い、粗探しをしては批判し、些細な事を大きな犯罪であるかのように扱われていた。仲間達とどこへ遊びに行くのかさえ気安く語り合えない雰囲気が広がっていて、俺はそれが嫌いだった。余計なしがらみに気を遣うくらいならば一人で行動した方が良いと思っていた。だから一人で山を登る事が楽しいという気持ちを理解できるし、世の中から弾かれても楽しく過ごせるだろうと思った。
「まあ、一人で山を登る楽しみは分かりますよ」
「そうだろう。君には、分かってもらえると思っていた」
「え?」
「君を見ているとね、私と同じ領域の人間だと思えるんだ。仲間と一緒に過ごしているようだけど、いまひとつ打ち解ける事ができていない。他人との間に壁があるような感じだ」
「よく分からないけど、何か、失礼な事を言われてるんじゃないか?」
 直井は険しい表情を見せる。
「いや、そんなつもりはないが。気を悪くさせたなら、すまない」
「気を悪くなんてしていませんよ。貴方の言う通り、俺は一人で山を登ったり、キャンプをする事が好きで、他人との間に壁を作っているタイプです。本当に、貴方と似たタイプみたいなので、今日、貴方と出会えた事は嬉しいです」
 彼に対する親近感が湧いていて、本当に喜びを感じていた。
「そう言ってもらえると私も嬉しいよ」
「せっかくなので、名前を教えてもらえませんか?」
「もちろんだとも。私の名前は、孤独だ」
 孤独とは、何だ。自分で名付けたのだろうか。それとも誰かに仇名をつけられたのか。どちらにしても痛々しいと思った。
 それから間もなくして孤独さんは下山を始めた。
 彼を見送った後、俺と直井は揃ってため息をついた。嬉しい出会いとはいえ、何だか気疲れしてしまったのだ。
 桜島ワンダーフォーゲル部の初回遠征は高崎に敗北した苦い思い出だけでは終わらず、奇妙だが素敵な出会いを作ってくれた。
 孤独さんとは長い付き合いになるのではないか。そんな予感がした。

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