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6話 葉月モラトリアム

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 八月。
 いよいよ真夏のピークとなった鹿児島は南国の意地を見せ、気温は三十五度を毎日超え続けている。
 このような状況なので、俺はアウトドアから更に足が遠のいていた。
 夏闇の時間を浪費するだけの日々に、やりがいが生まれていた。
 それは野村からアウトドアについてアドバイスがほしいという連絡が毎日のように届いては、応えていく事で。非常にやりがいを感じる事ができていた。
 野村と語り合う以外では、桜島の礼拝と、コンビニでのバイト、自宅か部室でテレビゲームを繰り返すだけだ。
 猛暑を避けるため、バイトのシフトは主に早朝から昼前までで組んでもらっていた。
 この日も午前中でアルバイトを終えた。外へ出て、昼前の陽射しを浴びると、数分歩いただけで額から汗が噴き出してきた。だから、さっさと自宅へ戻りたいのだが、食べるもの等が不足しているので買い物をしなければならない。仕方なく、スーパーへ寄り、買い物をする事にした。
 冷房の効いた店内へ入ると身体の緊張は解れて、心が休まった。ここからもう一度、外に出るなんて考えたくない。
 インスタントラーメンや飲み物類を籠に投入し、最後に総菜を物色していると、印象的な髪色を見た。
「野村じゃないか」
 声をかけると、彼女は分かりやすく驚いたように両肩を挙げて、こちらを振り向いた。
「え、ああ、隼人君。お疲れ様」
 野村は買い物を終えたところなのだろう。商品の詰まったエコバッグを手にしている。
「おつかれ。野村もこの辺りにアパートを借りてるんだったか」
「近くではあるけど、アパートじゃなくて。実家暮らしだよ」
「そうだったのか。立地の良い所に家があるんだな」
「まあ、そうかな。隼人君も、この近くだよね。今日はバイトの帰り?」
「そうだよ。しっかり労働してきた」
「お疲れ様、大変だったね」
「ああ、本当だよ。一日中働く社会人は偉いぜ」
「本当だね、私には、無理かもしれない」
 確かに、こんな調子の野村が社会に出ていく姿は想像できない。
「私と、隼人君は、生活圏が同じなんだね」
 野村は何故か嬉しそうに言う。
「知人とばったり会うのは好きじゃない」
 否定すると、野村は不満そうな顔をした。
 よく分からない奴だ。
 話す事がなくなったので、この場を離れようとした時、野村は俺の買い物籠を覗いてきた。
「インスタントばかりだけど、身体に悪いよ。栄養のあるもの食べてる?」
「うるさい」
 野村がこんなに図々しい事を言ってくるとは、意外だった。
「健康に気をつけないと。料理はできる?」
 しつこい。お母さんか、こいつは。
「知らないのか。アウトドアをする人間は料理上手なんだよ」
「知らなかった。アウトドア中は、料理するから?」
「そうだ。しかも旨い飯が求められる。だから心配は無用だ」
 俺はそれだけ言うと野村に手を振って、レジに向かう。
 会計を済ませて店外へ出ると、再び灼熱の下に晒されて溜息が出る。
 少しでも暑さを避けるために影の下を歩き始めると、店の入り口近くに設置されたベンチに野村が座っていて、手を振ってきた。
「何してるんだ。暑くないのか」
「暑いのは大丈夫。暇だったから、少し待ってみようかな、と思って。それに、せっかく、久しぶりに会ったから」
 普段はメッセージでアウトドアについて語り合っていたので、直接顔を合わせるのは久しぶりだった。だが、わざわざ待っているとは律儀な奴である。
 仕方なく俺はリュックから二等分に割って食べるアイスを取り出し、その半分を野村にあげた。
「食べたら帰ろう」
「ありがとう。こういうの、初めてだ。いただきます」
 俺達は二人そろって、アイスのビニール容器に齧りついた。
「そういえばほら、これ、買ったんだ」
 野村はスマホで、新品のスキレットとダッチオーブンの写真を見せてきた。
「おお、ついに買ったのか」
 スキレットは鋳鉄製のフライパンで、ダッチオーブンは同じく鋳鉄製で、圧力鍋のような機能を持つ調理器具だ。いずれもアウトドアを志した者が最初に欲しがる定番の品だ。
「でも、いまは使う場面がないから、家の中で使ってるんだ」
「その気持ちは分かるぜ。俺も家で使う派だ。ちなみに、そいつらを洗う時に洗剤は使ってないよな」
「うん。この前、教えてもらった通り。お湯だけで洗ってる」
「良かった。ただ、お湯だけで洗う理由は話してなかったよな。特にダッチオーブンはブラックポットを目指さないといけないから、重要な事だ。そうだ、ブラックポットっていうのは知ってるか」
「いや、それは知らないから。教えてほしいな」
「ダッチオーブンは使った後に汚れを落として、錆を防ぐためにオリーブオイルを塗り込むだろ。ダッチオーブンを使い続けて、その過程を何年、何十年と重ねていく内にダッチオーブンの本体は重厚感のある黒い輝きを放ち始めるんだ。その状態に到達したダッチオーブンをブラックポットと呼ぶんだ。その域に達すると、油を敷かずとも調理が行えて、使用後にオリーブオイルを塗らずとも錆が生えたりはしないんだ。憧れるよな」
「それは、なんというか、凄いね。見てみたい」
「だよな。俺のダッチオーブンもその領域には到達していない。まだまだ先は長いぜ」
「興味深い話だな。うちのダッチオーブンは黒く光ってるが、それがブラックなんとかっていうのかな」
 隣のベンチに座っていた人物が突然、俺たちの会話に割り込んできた。
 何者だろうかと視線を向ける。
「あ、孤独さんじゃないですか。」
 そこに座っていたのは、春に八重山で印象的な出会いをした『孤独さん』だった。
「おや、いつぞやの君だったか。久しぶりだな」
「はい。ご無沙汰しております」
 俺が頭を下げると、野村も頭を下げた。
 孤独さんと再び出会えるとは、運命的だと思った。そして既にブラックポットを完成させているとは、流石である。
「調子はいかがですか」
「相変わらず一人の時間を謳歌しているよ」
 それを聞いて安心した。変わりないと言っているが、外見は変化しているようだ。頭髪と髭が長く伸びていて白髪が目立ち、さながら山に籠る仙人のようで浮世離れした雰囲気に磨きがかかっていた。
「しかし、君は変わったように見える。なんというか。孤独から離れてしまったようじゃないか」
「そんなことないですよ。いまも一人の時間を愛しています。こいつとだって一人で買い物していたところに、偶々出くわしてしまっただけなんで」
「なに、その言い方」
 野村が睨みつけてくる。
「確かに。その子とは深い関係ではないのだろう、それ位は見れば分かる」
「そうですか?」
 野村が口を挟む。
「だけど今の君には、親兄弟以外にも、大切な存在があるのではないだろうか」
「本当にそんな事はない、つもりです」
 俺は否定するが、図星を指されたように感じる。俺にとっての大切な存在が何なのか分からないが、彼の言う通りに思えた。
「そうだろうか」と孤独さんは首を傾げて呟くが、それ以上は追及してこなかった。
「孤独さんは何をされているんですか」
「私はここで缶コーヒーを飲みながら、日記を書くのが日課なんだ」
「日記ですか、素敵な趣味ですね」
「それが、趣味ではない」
「え?」
「私は生活保護を受けていてね。役所から一日の出来事をレポートにまとめる課題を与えられていて、それが日記という訳だ。将来のある大学生には聞かせたくない話だが、色々あって私は職を失った。就職活動をしたけど、この歳になると再就職は難しくて、生活保護受給者になったのさ。家族や仕事仲間とお別れして、いまでは孤独を謳歌しているという訳だ」
「大変だったみたいですが、今が楽しいなら何よりですね」
 触れてはいけない一面に触れた気がして、自分なりにフォローをする。
「そうだね。楽しい事も、辛い事も全て独り占めだ。平日の昼間から稼ぎのない中年が時間を浪費しても咎められる事はない。それが孤独だ」
 それは魅力的な話に思えた。俺がアウトドアを好むのは、面倒なしがらみを断ち切って、何にも気を遣わずに過ごす事ができるからだ。これが一時的ではなく、いつまでも続くというなら、それはどれだけ良い事だろうか。
 孤独さんは缶を振って中身が空になった事を確認した後、ベンチから立ち上がった。俺達もアイスを食べ終わったので立ち上がり、帰る事にした。
「暗い話ばかりして、申し訳ないね。ただ、君達には目標は持って生きてほしいと、心から思っているよ」
「ありがとうございます。最近、自分を見失いそうな時期はありましたけど。好きな事をなるべく好きなだけやっていけたら、満足ですね。野村はどうだ?」
「私もそんな感じです。今は、アウトドアとSNSを楽しめたら、いいかな」
「なるほど。今時の若者が何を考えているのか、聞けて良かったよ。やはり、我々の世代とは異なる考え方なのだろう。それの良し悪しは分からないが、とにかく。頑張ってほしい」
「ええ。ありがとうございます」
 そうして、孤独さんは去っていった。
 今がなるべく楽しければ良い。多くは望まない。野村だって似たような考えだった。そしてこの夏に孤独さんと再会できた事は、満足だった。
 やはり孤独さんは同志なのだと、改めて思い知らされる。



 八月中旬。
 俺と直井は相も変わらずワンゲル部の部室でテレビゲームをして遊んでいた。
「人生は無駄な事を楽しむためにあると思うんだ。無駄を楽しむ時間を作るために、どれだけの時間を費やすかが大切だと、この夏季休暇で気づいたんだ」
「なるほど。それは素晴らしい考えだと思う」
 直井に一体何があったのか。彼の言葉を聞いて素直に感心する。
「俺達は大学の受験勉強に膨大な時間を費やした結果、毎日、ダラダラとゲームをする事ができている。まるで生産性のない日々で、これが無駄を楽しむということだろう」
 感心したのだが、その思考に行き着いた理由は呆れたものだった。
「長瀬と満重さんはどこかでデートでもしているのか、それともアパートで愛を深めているのかね」
「知らん」
「そうだよな、隼人は野村さんにうつつを抜かしているから、他人の事なんてどうでもいいよな。まったく、高崎さんの事は忘れてしまったのかね」
「何を言ってるんだよ」
「分からないか」
「全く分からない」
 すると、直井の手で横腹を突かれる。
「俺にも良い出会いが訪れないのか、ということだ。まあ、俺には隼人がいるからな。愛しの隼人よ、お前は変わってくれるな」
 支離滅裂である。まるで話にならないと思ったが、高崎はいま何をしているのか。桜島への愛は忘れていないだろうかと、多少、気になった。とはいえ、わざわざ連絡を入れたりはしないのが俺達の関係性だろう。
 俺はスマホで時間を確認して、「そろそろ約束の時間だ」と直井に声をかける。
「そうだな、準備しよう」
 俺達はゲーム機を片づけ、簡単な身支度をした。
 準備を終えて部室を出たところで、丁度良く野村と合流できた。
「野村さん。今日はいよいよアウトドアデビューだね」
「うん。よろしく。隼人君もいろいろ教えてね」
「ああ」
 野村がワンゲル部に加入してから数週間が経ち、そろそろアウトドアを行うべきだと、直井が提案してきた。一方、俺は夏にアウトドアをするべきでないと主張した。直井と意見に食い違いが生まれ、しばらく話は纏まらなかったのだが、最終的にグランピングという手段を選択して折り合いを付けた。
 グランピングとは、あらかじめテントやトレーラーハウスなどが幾つか設営された施設で、バーベキューのコンロやテーブル、椅子などのアウトドア用品の貸し出しから、食材の調達や調理まで代行してくれるサービスである。利用客は料金を支払うだけでアウトドアを体験できるのだ。
 グランピングは便利なサービスだが、あくまでもアウトドアの疑似体験であって、本来のアウトドアとはまるで違うものだと思う。プラン次第では料金を支払って、席に着くだけで完結してしまうものをアウトドアと言えるだろうか。やはり自分の知恵と、身体を動かしてこそのアウトドアではないだろうか。だから俺は消極的なのだが、直井はいつまでもグランピングを推してくるし、野村も早くアウトドアをやりたいのだと、ねだってくる。
 暑さに耐えながら作業をする必要がないと思えば、グランピングをやるのもいいだろうと思い、二人の頼みを承諾した。
 路面電車に乗って、フェリー乗り場近くの電停で降りてから、徒歩数分。旅行気分に浸る間はなくグランピング施設へ到着した。
 施設は木製の塀で囲まれており、塀の隙間からテントが数張りと、テラス付きの小屋を一軒、確認できた。
 俺達は料金を支払って施設へ入場し、予約していたテントへ向かう。
 ここは人気スポットとなっているようで、利用客は多く、テラス付きの小屋では俺達と同世代位の男女が十人ほどで和気藹々としていた。
 我々が案内されたテントの中には既にアウトドア用品が用意されていて、実用性のないインテリアまで雑多に配置されていた。周囲の雰囲気やテント内の無駄な装飾を見て、グランピングとキャンプは別物だと改めて思った。
「すごい。こんなに凝った造りをしてるなんて、すごいなあ」
 野村は手を合わせて感動してみせる。
「なんだか、落ち着かないけどな」
「とかいって、本当は感動してるんじゃないの?」
 直井が意地悪く言う。
「まあ、こんな街中でアウトドアを体験できるのは凄い事だ。それに手ぶらで来られるのだって魅力的だな」
「そうだよね」
「後は、景色が良いな。海沿いだから桜島の姿がよく見える。今日は穏やかで。何よりだ」
 今朝もフェリー乗り場で桜島を眺めたばかりだが、一日に何度だって感動できる。だから俺は桜島に手を合わせる。それは当然の事だ。
「さあ準備しますか」
 直井は礼拝する俺を無視して、リュックからガスバーナーコンロと食材を取り出し、テントの正面に設けられたテーブルの上にセッティングする。
「初心者の野村さんが居るからさ、簡単な献立を考えてきてくれたんだ」
「そうなんだ、それは、ありがとう」
 立派な心遣いだが、直井だってまだ初心者だろうと思った。
 直井はコンロを点火させ、五徳の上にスキレットを置き、オリーブオイルを敷いた。
「手際が良いな」
「だろ。実は、家で練習していたんだよ」
「それは凄いな」
 野村だけでなく、直井まで努力をしていたとは。見直してしまう。
 直井は堂々と胸を張って、徳用のウインナーを焼き始めた。
「格好つけたけど、ウインナーを焼くだけなんだよな」
「良いんじゃないか。結局、こういうのが一番旨かったりする」
「だよな、それに大学生らしくて良いだろ」
 屋外で安いウインナーをつまむという行為は、確かに大学生らしい気がする。
 直井がスキレットを振るっている様子を眺めていると、俺達が借りているスペースの外から見知らぬ中年男性がコチラを睨んでいる事に気がついた。
「君達」
 気づかないフリをしていると、彼の方から声を掛けてくる。
「若くて、可愛いらしいね」
 何の事だろうか。直井と顔を見合わせる。
「可愛い道具まで使っちゃって。君達は、学生さんかい」
「はあ、そうですけど」
「若いんだからさ、ケチケチしないで、景気よくいきなよ。娯楽にはどんどんお金を使った方がいいよ」
 酒を飲んで酔いが周っているのか、男は弛んだ頬を赤く染めており、口元は不気味にニヤついている。傾き始めた太陽の光を浴びて顔中がテカついており、皮膚を絞れば結構な量の脂が抽出できそうに思えた。
 俺達が碌に言葉を返さず無愛想な様子を見せていると、男はフンと鼻を鳴らしてこの場から去っていった。
「何だったんだ。あのおじさん」
「アウトドアをしていると稀に遭遇する、上から目線でマウントを取ってくるタイプのおじさんだな。アウトドアではああいう面倒な中年の攻撃に耐える能力が求められる」
「何だか、怖かった。気をつけないといけないね」
 そう言って野村は怯えた様子を見せる。
 せっかくアウトドアを志した所に、嫌な想いをさせてしまうのは気の毒だが、これがアウトドアの現実である事は間違いなかった。
「こういう時は無視するのが一番だ。とりあえずウインナーを楽しもう」
 俺が言うと、「そうだね」と野村は言って、スマホを取り出しウインナーを炒める様子の撮影を始めた。
「SNSは順調なのか?」
「うん。日常の写真を毎日投稿していて、反応が少しづつ貰えてきているかな」
「そうなのか」
「野村さんは謙虚だが、凄い人気だぜ。しばらく離れていたとは思えないほどの勢いで盛り上がっていてさ、いいねの数も尋常じゃないんだ。これは野村さんの魅力とセンスがずば抜けているからだろう」
「へえ」
 よく分からないが、上手くいっているのだろう。
「隼人もSNSをやってみたらどうさ」
「やめとく」
 断ると、「やればいいのに」と野村は呟く。
「いいねが多いと言われても、それの凄さとか、良さが俺には分からないからな。それに、写真の良し悪しだってさっぱり分からない」
「難しく考えずに、気軽にやってみていいんじゃないかな。SNSで、人とつながるのは、やっぱり楽しいと思う」
 野村が珍しく食いついてくる。
「人とのつながりは既に満ち足りている気がするから。いまはまだ遠慮しとくよ」
「そっか」
 野村は残念そうに目を伏せた。
「まあ、隼人がSNSをやらないならそれでいい。けど、もう少し分かりやすく、野村さんの凄さを伝えたいんだ」
「本当に分かりやすく頼む」
「野村さんの投稿を気にいってファンになっている人達、いわゆるフォロワーは何人いると思う?」
「何人って、まあ、それだけ言うんだから、千人くらいか」
 俺が答えると、直井は、フフ、と笑う。
「五万人を超えている。凄いだろう」
「嘘だろ」
 五万人とは、何かの聞き間違いだと思った。
「五万人が野村を見ているって事だよな、垂水市の人口より多いじゃないか。それだけ多くの人たちに支持されているのか」
「うん。まあ、ありがたいことに。そうなる、かな」
「それは凄すぎるだろ。鹿児島県で一番じゃないのか」
「鹿児島県には、三百五十万人以上からフォローされている人がいるから、一番ではない」
「三百五十万?」
 何をどうしたらそれだけの人が集まるのか、まったく想像ができない。
「隼人は、素直で面白いな」
 直井が笑った。野村も楽しそうに微笑んでいる。
 それから、野村の写真撮影を眺めながら、俺はウインナーを齧る。自然に囲まれていなくても、外の空気を吸いながら食べるウインナーは美味だった。
 あっという間にスキレットが空になると、「次はアヒージョだ」と直井が言う。
「アヒージョって、聞いた事はあるけど美味しいのかよ」
「まあ、見とけって」
 彼はスキレットにオリーブオイルをなみなみと注ぎ、冷凍のシーフードミックスとブロッコリーを投入した。あまりに雑な工程で、何かの冗談なのではないかと思った。
 アヒージョの完成を待っている間、野村はスマホで写真を見せてくる。
 たったいま撮影したウインナーを焼いたり、妙な料理を作っているだけの様子だが、飾り付けられた背景のおかげで、洒落た雰囲気のある写真に仕上がっていた。
 こうやってSNSに載せる写真を用意するのだなと思っていると、さきほどの中年男性が再び姿を見せた。
「今度は格好つけた事をしているけど、使っている道具が貧相だから台無しだよね」
 登場して早々に嫌味を言ってくる。
 腹立たしい事だが、それよりも、直井が憤慨するのではないかと心配だった。だが、彼は一度酷い目に遭って学習したのか、冷静な顔をしている。
 その様子を見て、ここは俺も耐えようと思った。
「畑中、何してるんだ?」
 俺達が無視していると、中年男性の仲間らしい男が現れた。その男も清潔感のない印象である。
「根岸か。この子達がさ。せっかくの楽しい場で、何だか貧しい事をしているんだ。だから正しいアウトドアについて教えてあげようと思ったんだよ」
「そうか、それは良い事だな」
 仲間が現れて、状況は更に悪くなった。
 野村は不安になったようで、俺の服の袖を摘まんでいた。
 アウトドアでは厄介な奴に遭遇する事があり、それに耐える事が大切だ教えていたが、これは悠長な事を言っていられない状況になってきた。
「世の中は不景気なのに、若者にそんな事をされたらさ。気持ちまで不景気になるよねえ」
 畑中が腕組をして嘆いた。
「世の中が不景気なのは、あんた達の世代が大した成果を出せなかったせいだろ」
 気づけば俺は立ち上がり、畑中達に啖呵を切っていた。
 自分でも驚くほどに感情を爆発させてしまった。そして、俺に罵られた畑中と根岸は顔を見合わせる。
「今時の子は、何を言い出すか分からないね。本当に将来が不安だなあ」
 畑中は耳を赤く染めて、語気を荒げる。
「この調子だと、日本の未来は明るくないな」
 根岸が同調する。
「見てみろよ。どこのブランドなのかも分からないような道具を使ってるんだぜ」
「本当だ、もっと良いのを使わないと。面白くないよ」
 彼らの暴言は止まらない。
 俺は怒りを鎮めるために深く息を吸った。すると畑中達は更に近づいてきて、畑中はガスバーナーコンロを触り始める。ついにはコンロの火を消して、スキレットをテーブルの上に置き、コンロを舐めまわすように見つめている。
 一方の根岸はスキレットを眺め、「これも安物じゃないの」と呟いた。
 彼等の行動によって怒りは更に増し、俺は強く拳を握る。
 畑中と根岸の愚行にこれ以上耐える自信がない。怒りが爆発するのは時間の問題である。
「あれ、それは、何してるの?」
 畑中が指さす。
 怒りに震える俺の姿を指しているのかと思ったが、その指先は俺の隣に座る野村へ向けられていた。
「貴方達の行動を、撮影しています」
 野村は、手にしたスマートフォンのカメラレンズを畑中達へ向けている。
「そんな事をして、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですかって、何が」
 畑中は眉をひそめる。
「通報すれば、罪に問われるかもしれません」
「これが一体、何の罪になるんだい。今時の子は何を言い出すか、本当に分からないね」
 畑中と根岸は嘲笑う。
 不愉快だが彼の言う通りだった。俺達のアウトドア用品を触っただけでは、それを通報したところで無駄な気はする。
「通報が駄目なら、SNSで配信すれば。誰かが助けてくれるかもしれません」
「はいしん?」
「私のSNSは、五万人くらいの人が、見てくれているんです。貴方達がしている事、話した事、大勢の人に見られても、大丈夫ですか?」
「五万人?何だよそれ」
「これがこいつのアカウントですよ」
 直井は野村のSNSアカウントを彼等に見せつけた。
 すると、二人の顔は分かりやすく青ざめていく。
「何だ、これは。伊佐市の人口より多いじゃないか」
 畑中が言った。
「不適切な事をしている姿をSNSに配信されたらどうなるか、テレビのニュースとかで見て、知ってますよねえ?」
 直井が追い討ちをかけると、畑中と根岸は顔を見合わせ、そのまま畑中が頭を下げた。それに続けて、根岸も頭を下げる。
「すみませんでした。SNSで配信する事は、勘弁してください」
「後ろめたい事だって分かっているなら、最初からするべきじゃない。そんな事、今時の子でも分かっていますよ」
 直井は更に厳しい言葉を浴びせる。
 畑中と根岸は再び頭を下げて、「すみませんでした」と呟く。
「不景気で勤め先の事業は縮小して、夏のボーナスは減る。それなのに、業務の負担は増えるばかりで何ともやり切れなくて。鬱憤が溜まっていたんです」
 聞くに堪えない話だった。聞いているこちらの方が虚しくなってくる。
「だから、SNSに晒されて仕事を失えば、私達が再就職するなんて厳しいんです」
「分かりましたから。もう関わらないでくれれば、それでいいですよ。それで、いいよな?」
 直井が同意を求めてきたので、了承する。
「本当ですか」
「はい。そうすれば、動画は削除します」
 野村が答えると、畑中、根岸は頭を下げて、最後に、「ありがとうございます」と言い残して去っていった。
 野村は緊張が解けたのか、椅子に深く腰かけた。
 俺が感情的になったせいで騒動が大きくなりかけたのだが、野村と直井にこの場を収めてもらった。だから申し訳なくなり、「怒ってごめん」と謝った。
「隼人が怒らなければ俺が代わりに怒鳴ってたから、気にするなよ」
「私も、あんなに酷い事を言われて、気分悪かったから。嬉しかった」
「ありがとう」
「それにしてもさ。常に冷静な隼人があんなに怒るなんて珍しいし、驚きだぜ」
「自分でも驚きだよ」
 本当に、何故だろうか。
 彼等にアウトドアを汚された気分になったからだろうか、それとも野村が怯えていたからだろうか。両方とも当てはまる気がするし、他に理由がある気もする。
「とにかく、今回は野村さんの活躍で解決したな」
「確かに、野村の機転が無ければ、どうなっていたか分からない」
 直井と俺が野村を讃えると、恥ずかしいのか、野村は俯いてしまった。
「でも。それは隼人君のおかげだよ」
「俺のおかげ?」
「あの人達に立ち向かう姿勢を見せてくれたから、私も何かをするべきだと思ったんだ。隼人君がああしてなければ、私は何もできなかったと思う」
 そう言って野村は俺を見つめる。
「俺のおかげになるのか」
 首を傾げると、直井は俺と野村を交互に見てから目を細めて、俺の肩を強めに叩いてきた。
「何で叩くんだよ」
「別に」
 直井はそっけなく答えて、コンロに火を灯して調理を再開した。
「じゃあ、気を取り直して」
 野村は鞄から酒瓶をするすると取り出す。
「ワイン?」
「うん。美味しいんだってさ」
「これ高い奴だろ」
 直井がワインを凝視しながら質問すると、野村は、「インフルエンサーはそれなりにお金がもらえるから」と答えた。
「いい仕事だな」
「私にとっては、仕事じゃないよ。お金が欲しくてやっている訳じゃないし」
「じゃあ、お金に興味ないって事?」
 直井が食いついた。
「どちらかといえば、そうなるのかな。SNSの活動をしていて、気になるのは、貰えるお金の額よりも、反応の数だよね」
「ううん、そんなもんかね」
 直井が唸る。
「その気持ちは分かるな。俺も金なんて要らない。アウトドアを楽しむ事が一番大切だ」
「金が無いとアウトドアはできないけどな」
「それはそうだけど。アウトドアさえできれば余計な物は要らない、ってことだよ」
「何なんだよ、お前達。いろいろ考えてるんだな」
 むしろその逆だ。余計な事は考えない。考えたくない。
 世の中が不景気になっても、外国で戦争が起きても、大きな災害が起きて、人が死んでも、俺は見ている事しかできない。それなら、自分のコントロールできないところに想いを馳せても意味がないと思える。だから余計な事は考えずに自分のやりたい事をして生きていく事が大切だと、思っているのだ。
 野村が注いだワインに口をつける。
 爽やかな香りがして、舌の上に酸味を感じる。だけど、味の良し悪しはまるで分からない。
 直井は、「うまいうまい」と言っているが、背伸びをしているようにしか思えなかった。
 ワインの価値なんて分からないし、金の価値も分からない。日本の景気の事なんて尚更だ。だから不景気な世の中に対して腹を立てる中年達の気持ちはまるで理解できなかった。だけど、好きな事を大切にしようとする野村の気持ちはよく理解できる。俺は自分の好きな事にしか興味がないのだから、当然だ。こんな調子だから、俺の好きなアウトドアを汚そうとする中年達に腹を立てたのだろう。
 しばらくして完成したアヒージョの意外な美味しさに驚かされながら、直井の与太話を聞いて過ごした。
 こんなひと時こそ、金なんかよりずっと貴重ではないか。

 退去時間となり、十九時を過ぎても明るさが残る空の下を歩いていく。
 作業の疲れで三人とも無口になっていた。疲労は溜まったが、確かな達成感がある。やはり何かに夢中になるのは良い事だ。そしてアウトドアに嵌りつつある野村の姿を見て、何となく高崎の事を思い出した。
 あいつは今頃、忙しなく働いているのだろうか。それなら少し勿体ない。あいつがアウトドアを愛しているのなら、仕事より、アウトドアを優先してほしいものだ。そんな事を考えていたせいか、フェリー乗り場の近くで高崎の幻覚を見た。
「あれ、高崎さんじゃないか?」
 直井も俺と同じ幻覚を見ていた。いや、そんな訳はない。幻覚ではなく、本物の高崎だった。
「久しぶりじゃないか。何かの用事でこっちの方に来たのかい」
 直井は高崎に訊ねる。
「うん。買い出しに来ていたところで、いまから桜島に帰るところ」
「俺達はそこでグランピングをしていて、その帰りだ。なあ隼人」
「そうだな」
 高崎とは色々、話したい事があったのだが。突然の再会で何も思いつかなかった。
「あと、この人が前に連絡していた野村さん」
「よろしく、お願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
 高崎は野村に対して軽く頭を下げる。そして直井を見て、「じゃあ、また今度。旅館で」と言った。
 最後に俺の方を見たが、睨みつけるように目を細めると何も言わずにフェリー乗り場の方へ歩いていった。
「相変わらずクールだな。高崎さんは」
「それでいて、嫌な奴だ」
「おいおい、大切な人にそんな事言っていいのか」
 直井のくだらない言葉に俺が文句を言う前に、野村が、「大切な人?」と訊ねてくる。そんな野村の様子を見て、直井は俺の尻に蹴りを入れてきた。
「何するんだよ」
 俺の問いかけに直井は答えず、さっさと電停の方へ歩いていった。
 最後に高崎の後姿を見送る。
 彼女の前に立ちはだかる桜島は先程までの穏やかな姿から一転して、大きな噴煙を上げていた。
9, 8

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