○春・4〜7月
○ 春・4〜7月
01
「どこまで読んだ?」
浅井が僕にそう訊ねた。僕は少々目が疲れていたので、二週間前からの習慣にしている、毎週金曜日の午後四時、図書館棟の前、日当たりが悪く風通しのいい、返却ボックスから四つめのベンチでの読書を中断しているところだった。
大学という高等教育機関にしてはずいぶん古臭い作りだなあと、この大学にやってきて、校舎を見回したときは思ったが、二年前に改装が終わったばかりの図書館と、図書館に3、7階で連結している真隣の棟だけは、真珠のような白い輝きを放っている。今日のような白金色の陽光が、どこにも寄り道せず、まっすぐ優しく差し込むような日には、天国のお役所みたいになる。
僕の座っている二人がけの、硬くてひんやりとしているが座っているうちに人肌のように暖かくなってきて、決して悪い座り心地ではない、乳白色の石製のベンチを日光から遮っているのは、隣の教室棟と図書館の入り口をつなぐ、不必要なまでに広い平らな雨よけだ。雨よけと言っても、布の生地のテントや、裏側の汚れが見えるようなガラス張りではなく、真っ白の平らな、つややかな石板を頼りない細い柱が左右六本で支えている。雨よけは20メートル四方の巨大な正方形で、床は歩くとコツコツとなる、こちらも白色の大理石。雨よけの中には、主張の激しすぎない、ささやかなランタンが一定間隔で、すみの方についていて、夜になると、じきに腐りそうなほど濃いが、その分弱い、鬼百合色の光を落としてくれる。今みたいな朝早くや、夜は、人通りも少なく、物音もない。ページを捲る音すら少し響く気がする。僕のお気に入りの場所だ。
そしてなぜだかここは、いつまで経ってもちっとも汚れない。用務員がよっぽど、神経質なまでに綺麗に掃除しているのかっていうほど、汚れがないのだ。雨の日でも次の日になれば、つい昨日建てられたかのような光沢を取り戻している。桜の花が散ってそこらじゅうに撒き散らされていたとしても、次の日には花弁の一つもなくなっているから、その大理石の床の中に溶け込んで消化されてしまったかと思える。この通路は、もしかしたら生きているのではないだろうかと、何度も思ったことがある。
コツコツと静かな足音を立てながら、教室棟の方から歩いてきた浅井は図書館に用があるようで、偶然かどうか、僕の前を通りすがり、挨拶もなくそう訊いてきた。挨拶がないっていうことは、まだ、あの件については、僕を恨んでいるのかもしれない。でも話しかけてきてくれたということは、彼の中に僕はまだ、友人としての籍を置くことができているのだろう。
「四十ページ」
「まだそんなところか、早く読め」
「早くっていったって、難しいことだよそれは。僕は日本語が話せるけれど、読むのが苦手で、書くことはできないくらいなんだから」
浅井はため息をついて歩き出し、重たそうな扉を手で押し開けて、図書館に入って行った。伸びた背筋の下半分にくっついた細い足が、トコトコとバラバラに動き、不安定に浅井の体を支えながら、ゆらゆらとガラス張りの扉の曇りの中に消えていった。浅井はそういえば、我々共通の友人である、運動の申し子と執筆の申し子彼ら彼女ら二人といるところを別とすれば、あまり人と並んで歩いているイメージがない。あるにはあるが、どうも仲睦まじく話しているようには見えない。僕も、魔法使いという一身上の都合で、それほど人間とずっと一緒にいては正体を見破られる可能性が高くなると困るので、不必要な交友関係は持たないようにしているが、浅井ほどではない。
僭越ながら、彼から賜ったこの、僕の右手に持たれている本。人差し指が四十ページに挟まり、再び時間が溶け出すことを待ちに待っているこの本を、僕に「読め」と命令している場合なのかと思ってしまう。なぜかというと、彼がこの本を僕に読ませた理由は、僕に、「人との関わり方を学」ばせるためらしいからだ。彼の方がよっぽどその知識を必要としている。彼はこれから死ぬまで人間界で、うまくやっていく必要があるのだし、僕にも本を読ませるだけではなく、彼自身の経験から得た、即効性のある対人関係に関しての知識を与えてほしい。
僕はところどころ、日焼けし、コーヒーの茶色いシミが飛んでいるこの本の表紙を見つめた。タイトルは「きみの気持ち、僕の気持ち」である。ひらがなで書いてあり、ボリュームはあるが、登場人物の性格や彼らの考えやシチュエーションが平易で読みやすい。
水色で縁取られた表紙の中に緑の小高い丘があり、赤いワンピースの女の子と青いシャツの男の子が、つま先を突き合わせて、丘の上に座っている。男の子は空を見上げて、その表情は魂が抜けたような安息感を感じられる。たいして女の子は空になど興味はないようで、まっすぐ男の子を見つめて、その表情からは慈愛がありありと見てとれる。よくもまあこんな、点と棒だけで構成された顔で表情を描き、感情の機微をこちらに読み取らせることができるなあ! と僕は感嘆したものだ。
きっと女の子が男の子に恋しているのだ。僕はそう読み解く。男の子は空を見上げているのだから、きっと、宇宙か、青い空か、鳥か、蝶々とか、とりあえず人間よりも高い位置にある何らかに興味があるのだろう。どれくらい興味が深いのかというと、目の前にいる可愛らしい赤いワンピースの女の子をほっぽり出して、上ばっかり見つめてしまうくらい。女の子は、目の前に座っている、膝小僧が丸出しになった無邪気な男の子の、そういう、ある種野望のような上昇思考に興味があるのだろう。目の前の女の子よりも、手の届かない空の存在を欲しがる、その野心に。
女の子は、この可愛い自分を視界の隅に留めておいて、どこにも行かないようにキープしながら、自分は空ばっかり見ている、その男の子の虫のいい態度に、反感ではなく、かえって大人っぽさを感じているのかもしれない。彼がもしも、女の子の胸やお尻ばっかり見ながら青空の下で、上の空のピクニックを展開するような人だったら、いかに彼の恋心が親身に伝わってきたとしても、もしかしたら彼女は興醒めしてしまうかもしれない。
しかし、これほど空に夢中な男の子が、ほんの少し自分が寂しいという感情を態度に出して匂わせたら、彼女を手放さないために、空の引力を振り切って、落ち着かない様子ながら、自分にあれこれと静かに質問をしてくれるとしたら、それはどんなに幸せなことだろうか。彼が、女の子が家に帰って「今日のピクニックはどうだった」とお父さんに尋ねられた時に「とっても楽しかった」と素直に言えるようなピクニック・メイキングをしてくれたとしたら、彼女は並々ならぬ優越感を抱くだろう。男に、自分に集中してもらうために、仕事を一時的に中断してもらうその快感、それを知っているのだろうか。とんだおませさんだと僕は心の中で独りごちた。
残念ながら表紙に描かれている二人のピクニックの顛末は、僕にはわからない。今のところだが、この本の内容は、二人と全く関係がない。二人はこの本の中に出てこない。
本の残りは三分の二ほどである。今日の部活動まではまだ時間があるので、もう三分の一ほど読み進めたいところだ。もしもこれを読んだら、また僕は一段階、複雑な人間になれる気がする。
02
いかに僕が、自らの交友関係に、自ら規制線を張り巡らせて、不特定多数の人間と広範囲の関わり合いをしないように努めていると言っても、それには限度ってものがある。
例えば曲がり角で誰かと正面衝突して、こっちが怪我をしたり、相手に怪我を負わせたりしたら、それは良くも悪くも縁となって、今後もしばらく引きずっていかなければならない。授業でペアワークをする必要に迫られてしまったら、その学期の間は、その相棒と信頼関係を築いて、共同作業をしなければならない。
草草蜜柑。その女の子、女学生、彼女も、僕が友好的な関係を築くことを避けられなかった人間の一人であった。とはいえ、彼女と初めてコンタクトを取ったのは、曲がり角でぶつかるだとか、授業でペアになったとか、そういうきっかけではない。
とある、僕の勝手な思い込みから、彼女に話しかけてしまったのだ。話しかけるべきではなかったのかもしれない。もうちょっと熟慮するべきだったのかもしれないが、あの時はあの時で、僕の方も差し迫った気持ちだったのだ。砂漠で遭難している時に、太陽が沈んでいく方角に、黒い人影が見えたよう気がしたら、思いとどまるまもなく走り出してしまうように。僕は草草に話しかけるのを我慢することができなかった。
だがあの時あの電車、あの車両のあの席で、彼女に話しかける以前から、偶然にも、僕は彼女のことを認知していた。彼女の方が僕のことを認知していたかどうか、それは知らないけれど、僕は彼女の顔も、なんとなくの名前の感じも知っていた。
彼女は書道部に所属していた。書道部は僕が所属している部活動の一つである。書道部での彼女の立ち振る舞いは——決して彼女を貶めるような意図で下す評価ではないが——あまり目立つ方ではなかった。座る席も、いつも離れていたし(これは僕が特別特訓コースと呼ばれるカリキュラムを組まれて、教室の隅で、副部長の金城さんに毎日毎日しごかれているせいもある。彼女の口癖はこうだった。「あんたは書道ではなく、習字をやりにきたの⁉︎ それも、文字通り、字を習うという意味で! 前代未聞よ? 漢字はおろか、ひらがなすら一つも書けない状態で入部してきたバカは! ほんとのバカねあんたは! 世話が焼ける!」)、彼女はあんまり人と話したくはなさそうだった。
そう思う根拠は十分にある。草草は、他の女の子がそうしているのとは異なって、いつも一人で書道室に入ってきたし、帰る時も後腐れなく一人で去っていった。まあもしかしたら、教室の外で恋人と待ち合わせていて、それに気を遣って他の女の子が、わざわざ彼女について行ったりして、邪魔したりしないようにしているのかもしれないけど。
部活動中、大抵は17時から19時、または19時から21時の2時間の活動だが、その間に他の部員と話す回数はきっと片手で数えられるくらいだろう。僕だって特別特訓で忙しいし、彼女にそれほど特別な興味を抱いているわけではないから、この観察結果は不確かなものだろうが、何度か席が近くなった時に、えらく口数の少ない人がいるなあと思ったことだけは覚えている。だがきっと、彼女は嫌われているだとか、話し始めたらこっちの都合もお構いなしに子犬みたいにまとわりついてくるから面倒臭いだとか、そういうわけで、周りから若干の距離を置かれているのではない。必要に応じて彼女は部長や、金城さんや、近くの席の人から話しかけられていることから、それはわかる。
僕は——決して聞き耳を立てて草草蜜柑についての話題を聞き漏らすまいとアンテナを貼っていたわけじゃないが——彼女についての噂を聞いたことがある。内容からして、きっとそれこそが、彼女が文鎮と墨汁のボトルを独占し、その配置や使用頻度に一切の制限を課せられておらず、その点だけ見れば、とても快適に書道に取り組めている理由だろう。
そして僕がその噂を金城さんから聞いてしまったことこそ、僕が彼女に話しかけ、僕と彼女の交友関係が始まってしまったきっかけに他ならない。そうでなければ、僕は彼女を、ただ物静かな書道部員だと思ったまま時は進んでいっただろうし、彼女の方こそ僕はひらがなすらまともに来れない、万年補修のバカ丸出し男だと思ったままだろうから。
その噂は去年の秋ごろ、つまりだいたい半年前から持ち上がり始めたらしい。そして、むしろそれはどうやら公然の、といったような、門戸の緩んだ秘密らしい。書道部の人間なら、例えば二年生からひょっこりと入部してきたような外国籍の新入りはなんかではない限り、おおよそ誰もが知っている噂。草草と同じ学部だったり、同じ授業をいくつかとっていて、彼女と付き合いの長い誰かしらと接する機会があったとしたら、知っていてしかるべきといった噂。
僕の知っている、彼女についての噂は三つだ。
僕の持っている彼女の秘密は三つだ。
① 彼女は半年前に突然右利きになった。
② 彼女ととある生徒が書道室で口論になった。その時他の部員が使っていた墨汁が全て真っ赤に染まり始め、やがて血の匂いで教室がいっぱいになった。口論相手の学生は書道部を辞めた。
③ 彼女はどうやら校内の三箇所に同時に存在する。草草蜜柑は三人いる。
まあもっともな話、これは僕が、極めて客観的な視点を維持しながら、およそ百人以上から聞いた話を平均的な着地点に着陸させた結果である。なぜかと言ったら、僕が入荷した彼女についてのエピソードの中には、「草草は以前左手で相手の鳩尾を殴っていた女だったが、この前は右手で相手の顔面をひっぱたいていた」だとか、「彼女は野球部に所属していて、一塁から三塁を全て一人で守っていた」だとか、そもそもおかしな不良品がいくつも混入していたからだった。
だがしかし、胡散臭い噂を整理整頓してまとめるという作業は、それほど骨の折れるものではなかった。彼女について話す際、バカ笑いしながら話しているやつの話を除外したりと、尾ヒレとウロコを慎重に包丁で落としていったら、その三つに収束したといった形だ。どの噂も、核となる部分は同じだった。(そして面白いことに、初めに僕に、草草の不思議な噂について話してくれた金城さんの話と、ほとんど一致していた。彼女はただ僕の頭を引っ叩きながら恐ろしく美しい字を書く、多面性の悪魔ではなかったというわけだ。彼女は公正さというものを重んじているのだと、その時わかり、ちょっと信頼してしまった。まあそうではなくとも、僕は女の人に殴られるのが、まあそこまで嫌いというわけではないから、彼女に対して不満なんてなかったが)
とはいえ、僕だって、こんな噂を手放しで信じたりはしない。そこには魔法使いとしてのプライドがあるのだ。親指が取れるだけのチンケな手品を、この前公園で子供が子供に披露していたが、これらの噂を聞いただけで目を丸くしたら、あの小さい子供と何も変わらない。噂をまとめ終わった時点でも僕の、草草蜜柑に対する印象の変化は、「言葉足らずの赤髪のお姫様」から、「まだハッタリを見破られていない手練れのキュートなペテン師」に変わっただけだった。僕に限らず、他の全員がその噂を本気で信じているというわけでもなさそうだった。
でも、その噂を僕に伝える時、時々演技とは思えないような怯えやスリルを体に纏わせている女の子が一定数いたのも事実だった。何より金城さんも、至って真面目に僕にその話をした。これらの事実は無視できない。
そして何を隠そう、僕自身も、彼女の噂について真剣に考え始める転機を、つい一週間前に迎えたところなのだ。そこから電車の中で彼女に話しかけた昨日までは、実に悶々とした気分を心の中に住まわせていた。
僕は4月24日、確か昼を少しすぎた頃、書道室に忘れものを取りに行くところだった。忘れ物はセサミストリートのビックバードの、プラスチック製フィギュアだった。筆箱にくくりつけていたお気に入りのやつだったから、無くしてしまった時はかなり焦った。魔法を使おうか悩んだが、浅井に止められているので、恐る恐る金城さんに電話したた。するとやっぱり、だらしないだとか世話が焼けるだとか、チクチクと言われる羽目になってしまったが、聞き馴染みのあるお説教の言葉の間に、机の下にそれっぽいのが落ちてたから書道室の共有の筆記用具入れに入れておいた、というとても有用な情報が挟まっていた。
僕は浮き足立つ思いで廊下を歩いていた。僕のBBが帰ってくるのだ。我が兄弟。あいつがいないと勉強に精が出ない。机の上でよろよろと倒立しているあいつのからっきしの笑顔が、勉強でへとへとになった僕の元気を、ノートに書き落とされた文字の中から引っ張り出して、僕にまた詰め込んで、取り戻してくれる。
リノリウムの廊下をテンポよく歩いていると、向こうから足音もなく、見覚えのある赤い髪の毛がふわふわと歩いてくるのが見えた。僕は彼女の下の名前の読み方をまだ知らなかった。そして彼女についての噂だって、眉唾だと思っていた。まだ赤の他人の域をでない関係だったのだ。だから僕と彼女の目線は、ほんの少しぶつかっただけだった。
とはいえ同じ部活動に所属しているもの同士、街中ですれ違う、二度と会わない他人と同じ態度を取り合っているのも筋違いだ。僕はそう思って、目線がぶつかるとき、タイミングをうまく合わせて軽く会釈をした。
草草は困惑の色を一瞬浮かべて、ただ反射的に首を傾けた。きっと彼女は僕が同じ部活動にいる人間だとも分かっていないらしかった。それに加えて、彼女はあんまり、目に映る現実に興味がないように見えた。
僕もそれ以上、彼女に何も、アクションをしたり、目線を送ることもなかった。どんなにそばにいたって、地球の裏側にいる人間と同じくらい関係のない人もいるのだ。それを無理して繋がろうとする必要なんてない。
すれ違った後、僕の横顔に鋭く日光が刺した。ほおがポッと暖かくなった。きっと太陽がいる方の背の高い校舎が見切れて、遮っていた太陽が丸見えになったのだ。
なんの気無しに、そっちの方を見た。すると中庭を挟んで反対側の校舎の三階、今僕がいる2階よりも少しばかり高い位置から、一人の女が、やけにニタニタと笑いながら中庭を見下ろしてた。
それこそが二人めの草草蜜柑だった。