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春③

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03―1 


 「ねえ君、僕はどこから始まるのかな
  君を愛してる! 
君にここで出会えたことは、なんというか、すごい幸運なんだ!」
  


























  

「もう! 本当なんですって! ああ! 景さんにすら信じてもらえないなら、一体誰が僕の話を信じてくれるんですか! どうか信じてくださいよう! 景さんなら信じると思ったのに! だって先輩なんて運動はともかく勉強の方はからっきしで頭が空っぽなんだから、ものを疑うなんてことを知らないでしょう——あっ!」
 花終景(かつい けい)の右半身がわずかに動いたと思ったのも束の間、すでに僕に対しての制裁は加えられていた。
右目に数本の熱した針が突き刺さったかのような感覚が走った。
「いったぁぁぁ・・・!」
 僕は電熱のような鋭い痛みに耐えきれず、目を押さえてうずくまった。
 涙が溢れてくる滲んだ視界の先にある花終景の爪の先を見ると、僕のまつ毛のような小さな毛が正確に三、四本摘まれていた。
「殺すぞガキ。口の聞き方に気をつけろ。年下の分際で生意気なんだよ」
 そう言ったや否や、景さんの長く白い右足が僕の鳩尾に飛んできて、うずくまっていた僕はそれを避けそびれた。
「おえっ!」
 その威力たるや、一年以上の付き合いがあり、活動は形骸化している上に部員は四人とはいえ一応は同じ散歩同好会の仲間である僕に浴びせるには全く遠慮が感じられなかった。胃液のようなものがビチャっと床に飛び散った。
 僕は床に這いつくばったまま景さんを見上げた。彼女のピカピカの上履きが唇がくっつきそうな近さにあった。
「先輩・・・僕・・・そんなに先輩の気に触ること言いましたか?」
「さァね。まあ今後一週間、私に話しかけてくるたびに、同じような対応と取ることにするかな」
 彼女はそう言い捨てると踵を返して、長い黒髪をたなびかせて歩き始めた。
「ちょっと・・・先輩・・・どこいくんですか! 手伝って欲しいことがあるのに・・・!」
 校舎裏の乾いた土の上をスタスタと歩き去ろうとする先輩を止めるために、僕はほうほうのていで立ち上がって、よろめきながら先輩のお尻を
「アスホール!」
 と大声で言いながらペチンと平手で叩いた。
僕はこの後、偶然通りすがった浅井希に助けられなければ、おそらく殺されていただろうと確信できるほどの暴行を彼女から受けた。
しかし僕が景さんの(ふわふわだった)お尻をひっぱたいてしまったのには訳がある。
散歩研究会は僕と、浅井、花終景と、もう一人三年生の先輩、鈴原さんを擁する部活動だ。小説家の卵である鈴原さんによると、海外特にアメリカでは、女性に話があるときはこうやってお尻を引っ叩くらしい。そうすると女の人は立ち止まって、夫に向き合って、見惚れるような眼差しで見つめ合い、建設的な話し合いが始まるだとか。
 ふむ。結果、それはデマだったというわけだ。
これは仕方のないことだ。鈴原さんは、彼自身にすら、彼の発言内容の本当と嘘の違いがわかっていないらしいから困ったものだ。やっぱり今後はあんまり信用しないようにしなければならない。
とはいえ、僕は魔法使い。人間に騙されたところで怒りだとか、そういう感情はわかないのだ。
 そして場面は翌日、僕が鼻にワタを詰め、右足にギプスを巻いて天井から吊るされ、ベッドで横になって読書をしているシーンに移る。
その日は午後に退院の予定だった。花終景がちっとも申し訳なさそうにせず、不貞腐れたような顔でお見舞いにやってきたのは午前11時だった。
 彼女は麦わら帽子に真白のワンピースでやってきた。腕に下げたバスケットには小さなナイフとリンゴが二つ入っていた。
僕は嬉しかった。何せりんごは僕の大好物なのだ。

03―2 

 景さんは右手でテレビのリモコンを持つと、病室に備え付けられたテレビを点けた。やっていたのは高校野球の中継だった。適度に冷房の効いた病室の中から、灼熱に焦がされながらプレーする高校生を眺めると、余計に彼らが暑そうに見える。
 彼女は右手でテレビの音量を調節しながら、左手でリンゴの皮を剥いていた。
 親指と人差し指でつままれた小さなナイフによって、残った指の上に乗ったリンゴの黄色い身が露わになってゆく。左手でそんな曲芸をしている最中でさえ、景さんはリンゴの方をチラリとも見なかった。指の中の筋繊維がピンと張っているのがわかるが、彼女は力んではいないようだった。指の上に乗っているリンゴはナイフがいくらその表面を滑ろうと、びくともしない。
 とんでもない握力があの小さい指に秘められているのだ。彼女の運動能力は頭抜けているというか、人間離れしていた。身長は僕よりも五センチほど低いはずなのに、喧嘩をしたら彼女の方が間違いなく、絶対に強いだろう。もし10000回彼女と殴り合いをしたとしたら、僕は9999回はプレス機に潰される空き缶のようにぐちゃぐちゃにされ、最後の1回は泣いて笑いながら勘弁してくれるように懇願するに違いないのだ。
「相変わらずの馬鹿力ですね。まるでゴ・・・」
「なんか言ったか・・・?」
 彼女はゆっくり振り返りながら、悪魔が使う古い遊具のように軋んだ声でそう言った。
 僕は彼女がナイフを持っていることを鑑みて、今失言したら今度こそ命の危険に遭うと判断した。出かけた言葉を飲み込んで、その代わりに、以前本で読んだ、

イライラしている妻を丸め込むための陳謝の言葉100選

のうち、最も汎用性が高いらしいセリフを選んで口に出した。(景さんは僕の妻ではないが、この際細かいことは気にしないで良いだろう)
「ごめんよハニー、そうだ、今晩はディナーに行こう、そして帰ったらとびきりのファックを」
 付録にあったビデオ教材でみた、キザな白人の真似をしながらそういうと、鼻先にナイフがスッと向けられた。
「黙らないと、次はお前の顔の皮を剥ぐぞ」
 そう言われて僕は黙った。
 黙ってじっとしていると、景さんはカットされたリンゴを皿に盛り付けてくれた。
「わあ、ありがとうございます」
 僕は爪楊枝を刺してリンゴを食べた。とても美味しい。
 景さんはワンピースの中で足を組んで、腕を組み、むっつりと黙り込んだまましばらくは静かにテレビを見ていた。僕もりんごに夢中で、テレビを眺めながら次へ次へとリンゴを口に運び続けた。野球中継は無音で映像だけをこちらに届けていて、部屋の中で聞こえる音は、僕がリンゴを噛む音だけだった。
「で、草々蜜柑っていう二年生の女子が、なんだって?」
 突然、景さんがそう訊いてきた。
「え?」
 僕がきょとんとして訊き返すと、眉間に薄く皺を寄せて景さんが僕に向き直った。
「このクソガキ! え? じゃないだろ? お前がその、草々蜜柑がナントカカントカっていう、くだらない噂話を私に持ってきたのが全ての発端だろうが! お前がそのくだらないゴシップを私に持ってこなきゃ、私はお前を半殺しにしないで済んだんだよ!」
「もう、病院でそんな大きな声を出さないでください」
「うるせえ。さっさと相談事を言え」
 僕はリンゴを口の中に入れたまま、ワタの詰まった鼻声で歓喜した。
「え! 僕の話を聞いてくれるんですか?」
「好きでやるわけじゃない。そうしろって浅井に言われたからだ」
 景さんはワンピースの裾をはためかせながら立ち上がり、部屋の中を往復し始めた。
「浅井が?」
「ところで! お前の治療費と、昨日から今晩までの入院費、いくらだと思う?」
「さァ、保険適用とかで、けっこう安いんじゃないですか?」
 彼女は立ち止まって目を丸くした。
「本気で言ってんのか? お前、自分が保険に入った覚えがあるのか?」
 伊井野は記憶を探った。
「んー。そういえばないですね」
「突然日本に引っ越してくる、自称魔法使い、一文無し、保険料未払い、こんなやつに保険は適用されないんだよ。バカ。覚えとけ」
「はい、すみません」
「チッ」
 景さんは僕のベッドの傍に立ち、ポケットから青いメモ帳のようなものを取り出した。
「これ、なんだと思う」
「リリック帳ですか?」
「ちっがう! 貯金通帳だ!」
 僕がいまいちピンときていないのがわかったのか、景さんはずいっと僕の目の前に通帳を突き出し、一番最新の記入欄を指差した。
「みろ! お前の医療費、私と鈴原と浅井で割り勘して払ってやってるんだ! くそっ! 何だこの数字ッ! 旅行の一つにも行けやしないじゃねーか!」
 彼女は弟ばっかりお母さんに可愛がられて嫉妬に狂う女児のように地団駄を踏んだ。
「こっからデート代、洋服代、交通費、食費差し引いて・・・ああっ!」
「ちょっと待って、なんで僕の医療費を景さんと鈴原さんと浅井が払ってくれるんですか? 僕にだってヘソクリくらいあるのに」
「いいか、健康ってのは高くつくんだよ。お前のヘソクリなんか、中古のパソコンが買えるかどうかくらいのあぶく銭だろ? お前一人が払える金額じゃないんだ」
 僕は申し訳なく思うと同時に感心してしまった。健康すらも個人資産に依存するとは、なんてインチキのない世界なのだろうか。
「わかったな? わかったら黙って退院までの間に体力を回復しとけ」
「ありがとうございます。っていうか、景さんみたいな人は他人の命令に従うなんて大の苦手でしょうに。なんでそんなに律儀に浅井の言うことを聞くんですか?」
 僕がそう訊くと、景さんはつまらなそうにこう説明した。
「私はあいつに借りがあるからな。いや、私だけじゃない。あの大バカの鈴原も、お前だって、浅井に関わる誰しもが何かしら浅井に借りがある」
「借り?」
「私のは大した借りじゃないけどな。そのちょっとした借りだが、今回お前の手伝いをして、入院費を払えばそれでチャラになるらしい」
「はぁ、なるほど」
「私は道具でもなんでも、人に借りっぱなしなのは嫌いなんだよ。買い取るか奪い取るかだ。だからわざわざ近くの青果店で、知りたくもないお前の好物だったリンゴ買ってきて、剥いてやってんだ、わかったか?」
「大まかには」
 景さんはバスケットの中からもう一つリンゴを取り出して齧り、麦わら帽子を被った。
「もう帰るんですか」
「こんな辛気臭いところに長居なんてしてられるかよ。それに午後から陸上部の試合だ」
 日焼けぎらいの彼女は憎悪に満ちた目つきで窓の外の日照りに目を向けた。月に五回は室外活動の運動部の試合に出ているというのに、彼女はまだ雪のように白い肌を保っている。
「だからお前の手伝いをするのは今晩からだ。で、草々蜜柑について調べれば良いんだろ?」
「調べるっていうか、そんな大袈裟なことじゃないですよ。本格的に動くのは来週からです。まずは景さんの後輩とかに、彼女が校内とか校外でよく行く場所とかを知っている人とかがいたら、それを聞いてもらってメモに書いてもらって—」
「それくらいメモしなくても覚えれる!」
 景さんは憤慨した。
「そもそも草々蜜柑が何人もいるだとか、書道室で超常現象が起こったとか、そういう変な噂は私の耳にも入ってる」
「やっぱり有名な噂なんですか」
「有名かどうかは知らない。ただ、後輩が話しているのを小耳に挟んだだけだ」
「でも実際、彼女は本当に二人いたんです! あれは見間違いじゃない・・・」
 景さんはため息をついた。
「別にどうだって良いだろうが、同じ人間が何人いたって。双子の姉妹だと思えばなんてことない」
 僕はすれ違った草々蜜柑と、対岸の校舎にいた草々蜜柑を思い出した。確かに後から見た方の草々の顔はくっきりと見えていたわけじゃないが、少なくとも非常に似ていたことは間違いない。
 もちろん、彼女が二人いたこと自体にさして興味はない。それよりも僕が気になるのは彼女が二人になった方法だ。
「あれは魔法使いの仕業かもしれないんです!」
 僕がそう意気込んでいった。
あはは、と景さんは嘲笑した。
「はっ。魔法使いの世界からこっちにきたのはお前だけじゃなかったのかよ?」
「だから僕以外の魔法使いが、なんらかの理由でこちらの世界に来ているのかも・・・」
「なんのために?」
 これは鋭い問いだった。まさか友達作りというわけでもないだろうからだ。
「考えられるものとして、威力偵察とか、殺戮目的とかがありえます。まあ今は国境は閉鎖されているはずなので、おかしな話っていうことには変わりないんですが。ともかく、ちょっとでも可能性がある限り、異変の正体は見極めたいんです!」
 景さんはもういいというように首を横に振った。
「はいはい、わかったよ。とりあえず聞き込み調査はしてきてやる。繰り返すが、お前のためじゃないからな。自分の名誉のためにだ」
「なんでも良いです。よろしくお願いいたします」
「第一そもそも魔法使いなんてものがいるかどうか、私からしたら怪しいと言わざるをえないね」
「僕が何よりの証拠じゃないですか」
 景さんは意地悪そうな表情を浮かべて、天井からぶら下がった僕の右足をポンと叩いた。
「なぁ。お前って本当に魔法使いなのか?」
「何を!」
「私はあいにく、お前が魔法を使うところなんて見たことないんだよ。それに、去年一年間丸ごと、だ。もしお前が本当に魔法使いなら、この足なんてとっくに治せてるだろ? 回復魔法とか使ってさぁ」
「僕が使える回復魔法はちょっと複雑で、簡単にはできないやつですし、それに浅井に可能な限り魔法は使うなって釘を刺されてるんです」
「あっっそォ」
 景さんは興醒めしたように、スタスタと病室を出て行った。
 僕はリンゴの最後の一つを口の中に放り込んだ。
 すると景さんと入れ違いに看護婦さんが昼食を運んできた。
「今日のメニューは特別よ。系列の農園から大量にリンゴが届いたの」
 リンゴのデニッシュにリンゴのパイ。焼きリンゴ入りのスープに、リンゴらしきものがすりおろされて乗っているリンゴのご飯がトレーの上には乗っていた。もはや盛り付けられた皿まで赤色だった。
 僕が苦笑いをしていると、ナースは笑顔で僕の吊り下げられた足のギプスの上に、イタズラのように半分に切ったリンゴ。
「はい、デザート! 今日はりんご尽くしね! あれ、もしかしてあなたリンゴは嫌い?」
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