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『十』

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 月の光さえ届かない深夜の職員室で唯一パソコンだけが光っている。不気味に光る液晶の画面の前にして、谷川はせわしく指を動かしていた。いつもはかけないめがねにはパソコンの画面が映っている。残業というわけではない。谷川以外の人物はこの職員室にはおろか学校を探してもいないだろう。本当なら無人となる学校で谷川はかれこれ何時間もパソコンと向かい続けている。何をしているのかは谷川自身しか把握していないはずだ。光がなければ何も見えないほどのこの暗い中には機械の無機質な音だけが飛び交っている。谷川はそのなかでひっそりと自分のことにのめりこんでいた。パソコンのファンが回転する音にキーボードを叩く無機質な音の二つが谷川の集中力を高める。眼鏡の奥で谷川の瞳がきらりと光った。それまで一文字だった唇がわずかにゆがむ。何かいい結果でも得られたようだ。椅子に深く座りなおしてさっきよりもすばやくキーボードを叩きだす。

 谷川は教師の中では異端な存在である。生徒の会話の中に自ら入り込もうとしている教師はそうありふれたものではない。生徒も生徒のほうで教師がでしゃばってくると普通は煙たがるものなのだが、谷川の人柄だろうか、そんな垣根はすぐに崩壊した。
谷川と生徒間の絆は谷川が就任してからわずか一ヶ月で簡単に出来上がってしまった。今では生徒のほうから盛んに声をかけられるほどの人気者である。谷川自身もなるべく生徒に好かれようとしている。だけどそれは生徒のご機嫌取りをしているということではない。もうすこし言葉を変えると谷川は生徒のために身を粉にしている。
教師の使命としてがんばっているのだろう。なるべく生徒の願いを叶えようと日々奮闘しているのだ。今日一人残ってパソコンと向かい合っているのもだいたいそれと関係している。谷川は生徒のためならなんだってやるのである。その覚悟と技量が谷川には十分備わっている。
ふいに谷川はキーボードを叩く手をいきなり止めた。その指を少しも動かさない。わずかに画面から目をそらして谷川は耳に神経を集中させる。遠くから何かの音が聞こえる。カツカツとテンポのいい高い音が定期的に聞こえてきた。初めは小さくてかすかにしか聞こえなかったがはっきりとは気づかないほどの変化で大きくなっていた。それが足音だということが分かるのにさほど時間はかからなかった。谷川の目線はパソコンからずれたままだ。指先も動きを止めている。谷川はゆっくりとまばたきを重ねながらその足音の主を待っていた。ここに立ち寄るだろう。職員室の扉が硬いものをひっかくような音を引き連れて、開く。

「やや。谷川先生。こんな夜遅くまでご苦労様です。残業ですか?」

帽子を取り、警備員は懐中電灯の光を谷川の足元へと向け、明るい声をかける。
谷川は警備員のことをさっきまで忘れていたから扉が開いた瞬間うろたえた。
だけどそれは所詮一瞬のことで警備員がこちらを見たときには普通の笑顔に戻っていた。

「まぁそれに近いですね。」

顔だけは苦労で一杯という困ったような感じを装う。パソコンから一旦目を離し警備員へと顔を向ける。手だけはキーボードの上に置かれたままだった。職員室の壁にかけられている時計が夜の十一時を指している。この時間になると警備員も帰ってしまうだろう。学校に誰もいないのは無防備かもしれないが、もともと学校に忍び込む人間などいないのが現実である。それに警備員の他にも金庫や戸締りなどそれなりの予防策も存在している。さすがに赤外線センサーとか本格的なものまでは用意できないがそれなしでも侵入事件はそれほど起こらないだろう。そこまでして夜の学校に進入しようなどいう物好きもめったにいない。警備員は職員室の中まで進むと懐中電灯でその辺をざっと見回した。谷川はもうパソコンに向かいなおしている。それと同時にパソコンのファンがまた回りだす。警備員はまだ懐中電灯で辺りを探っている。一応戸締りだけを確認すればいいのだが職業病というものだろう。それに懐中電灯の光は意外に頼りないものだ。そのような光は簡単にこの夜に飲まれてしまうだろう。懐中電灯で照らされていない場所など話すまでもない。よって谷川と警備員の間には境界のように絶対の暗闇があった。警備員は自分の役目を終えるとすぐに扉へと向かっていく。大方すぐに帰り支度をして一秒でも早く家へと帰りたいのだろう。

「谷川先生。
 最後にここを出るときはここの戸締りだけお願いしてもよろしいでしょうか?」

「はい。喜んで。」

こうして警備員は学校から立ち去るだろう。これで本当に谷川しか学校にいない。
キーボードを叩いていた指を止め谷川は目を閉じる。瞑想に近い気休めをしたところで大きく深呼吸した。そしてゆっくりとエンターキーを押す。
職員室は無音のままだったが谷川はカチリという音を聞いたような気がした。


 もうずっと前のことだ。屋上が開いているのを偶然見つけたあさひは昼休みになるなりそこに直行した。元々静かな場所が欲しかったのである。
自分ひとりでゆっくりしていられるような時間を三十分ぐらいは望んでもいいはずだ。
学校にいるときは常々そう思っていた。なぜなら教室はあさひの希望にはそぐわない場所だったからだ。誰の声かも分からない話し声が何重にもなって届いているのは授業中よりつらいものだ。それに比べればこの屋上はとてもすごしやすい。
購買で買ってきたパンを齧り、あさひは一直線に屋上を目指す。
瞬きもしないうちにあさひは屋上にいた。全身に風を受ける。まるで風が祝福してくれるみたいであった。柵の向こうには学校の周りの施設が一望できる。どこまでも見渡せるからどこまでも行けるような気分になってくる。
絶景を独り占めしているためかあさひも気づかないうちに笑い声を上げていた。
こんなに気分がいいのは久しぶりかもしれない。
目を閉じ、手を開き太陽の光を一身に浴びる。自分のそんなところ誰にも見られたくないが屋上には誰もいないからそのような心配をする必要はない。
風のうねり、鳥の鳴き声、下からあがってくるざわめきなどのいろいろな音を耳の中で楽しんでいた。
しかしその中であさひは予想していなかったものを聞いた。
わずかだけど、鼻歌ほどの歌声があさひの耳をくすぐる。それは空気が擦れるような音なのに透き通るような透明感を持っていた。あさひがもう少し意気地でなかったら聞きほれていただろう。だけどあさひはその声のせいでくやしさに目覚めていた。自分以外の人間がここに居る。低くうなりながらあさひはその声の主のところまで進む。入り口の影のところに歌い手はいた。弁当をひざの上に乗っけて目を閉じつつ歌い続けている。あさひがいることに気づいていない。

「下手くそな歌だな。」

そういう感想になってしまったのは静かな場所を求めてここにきたことが
彼女のせいで台無しになってしまったからだ。
実のところ彼女の歌声は全然苦にならないものだった。それどころか聞いていると自分の悩みなどが全てチリとなって消えてゆく。結局あさひの言葉はただのほらにしかすぎない。それを自分でも分かっているから、
自分本位で軽々しいことを言ってしまったことが恥ずかしくて
あさひはこの場から帰りたくなった。春のはずなのに肌寒い。
ここか日陰だからだろうか、それともあさひが冷たいようなことを言ってしまったからか。あさひとしては前者が理由であることを祈りたかった。
そんな空気の中、彼女は歌うのを止める。コマ送りのような動作で目を開いた。
その大きな瞳は小さい彼女には似つかわしくないと思ったが、直に見つめられると似つかわしくないと感じていたのは自分の誤解のようだ。少し位置をずらすとときめきの一つも感じないのだが、彼女の目の位置はあさひの理想と寸分たがわない。
やや細めの体に白い肌がとてもまぶしかった。
皺一つないセーラー服に包まれている彼女は洗練された彫像のように綺麗だった。
少なくともあさひにはそう見えた。
しばらく二人とも無言だった後に彼女のほうがぽつぽつとしゃべり始めた。

「わたしの……大好きな歌なの。」

とても気弱そうなその声色はあさひのなかにすんなりと入ってくる。けど何を考えているのか読めなかった。自分の気持ちを隠して裏声をだしているようだった。
あさひは彼女の正体がつかめない。
霧のような彼女の雰囲気にあさひはいつのまにか飲まれていた。
彼女のことはまだ何にもわからないが、
さっきのあさひの言葉は大して気にしてなさそうである。
ほっとしたのを決して顔には出さずその思いを胸だけに止め、
あさひは隣に座って持ってきたパンにかぶりつく。
自分でも恐ろしいほどの自然な動作だった。

「タイトルは?」

「知らない。」

「どこで聞いたんだよ。」

「知らない。」

「歌手は?」

「知らない。」

知らない。どちらかというと知りたくないというふうにあさひは読み取った。
彼女は知らないのを残念に感じるそぶりを見せていない。自分が好きな歌ならそれがどんなものであるかを調べるぐらいはするだろう。
情報技術が発達した現代ではなおさらだ。その歌を歌いたいだけであってそれ以上については興味がないのだろうか。少し話しただけだが彼女のことを理解できない。まるで幽霊のように彼女は非科学的だった。凡人なら異端視して遠ざかってしまいそうな。
しかしその形容し難い雰囲気がなぜかあさひの琴線を響かせる。彼女は弁当には手をつけないで、またその歌を口ずさむ。
メロディのないただのアカペラなのにリズム感だけで彼女は歌い続けた。もうあさひは何も言わなかった。初めから彼女の歌声は苦痛でもなかったのだ。テレビで聞くのとは断然違う安らぎを与えてくれる。とても心地いいものだった。いつまでも聞いても飽きない。遥かかなたで浮かんでいる雲も彼女の歌に合わせて踊っているようだった。彼女のりんごより赤い唇が動いている。その横顔をあさひは長くは見つめられなかった。その映像をもみ消すかのようにパンを一気に食べる。
食べている間はどうということはないが、ふと気がつくと彼女の横顔を見ている自分が居る。彼女の耳にはつまめるほどのイヤリングがついていた。若葉をモチーフとしたアクセサリがときどき光っていた。その横顔をみてあさひは何かを思い出した。

「そういえばお前俺のクラスメートじゃない。」

彼女は歌うのを突然止めた。彼女の大きな瞳があさひだけを映している。
あさひの瞳孔に映っている彼女の顔は驚いていた。

「わたしが……私がいることをどうして……そもそも今だって……」

震える声を力ずくで押し殺して、彼女が自問するように呟く。
あさひは普通のことを言っているつもりだったから、
彼女がうろたえているということさえ気づかなかった。

「んなもん。普通に一番後ろの席に座っているだろ。俺の教室で。違うか?」

クラスに居るときとでは表情に雲泥の差があったからすぐには気づかなかった。
彼女はあさひのクラスメートだ。あさひは頭の片隅には彼女をとどめていた。彼女を意識するのはあさひ以外の誰もいない自信がある。彼女は誰とも話すこともなく終始じっと席に座っていた。いついかなるときも彼女は一人で、
他のやつらは彼女のことなど知らないかのように振舞っていた。誰の会話にも彼女が出てくることはなかった。多分自分と共感できることがあったからかもしれない。あまり輪を広げようとしない自分と彼女はなんとなく似ていた。
おせっかいかもしれないがそんな彼女が気になってしょうがなかったから彼女のことをたまに気にしていた。あさひが見ているときはいつも彼女は空虚な瞳のまなざしを窓の外に向けていた。彼女はあさひよりも孤独だったかもしれない。ところがあさひがたまたまそばにいることができた。初めはここに誰もいなかったらよかったと思っていたがあさひの中にそれが叶えられなかった悔しさはどこかに抜けていた。さっきまで彫像と思っていた彼女だったが、今はとても生き生きとしている。
あさひは彼女がそのような顔をしていることが意外ではなく、寧ろほっとする。

「私はあおばっていうの。」

「そうなん。」

「あなたは?」

名前を言うか、苗字を言うか、あさひはしばらく迷った。

「あさひでいい。」

あおばとはそういう過程を経て一緒に昼飯を食べる仲になった。その後あさひはあおばの秘密をうすうす知り、あおばもあさひが自分の正体に気づいていることを分かっていた。しかし二人はそのようなこと意にも介さず、昼の時間を屋上で過ごした。片方の耳にしかつけないあおばのイヤリングをからかったり、あおばが嫌いなメロンパンやチョココロネを無理やり食わせたり、嘘を巧みに操ってあおばに信じ込ませたりしていた。
その思い出はいつまでもあさひは胸の奥にしまっている。もう一度言おう。もうずっと前のことだ。
33, 32

  



 そんなことを思い出したのはあさひが屋上に来たときに一人の少女がそこに座っていたからだろう。こんなところで会うのだから知り合いかと思ったがそうでもなかった。
顔に見覚えはない。正座をした自分のひざの上で弁当箱をちょこんとおいたまま彼女は正面を向いている。風になびいているリボンだけが彼女の動きを表している。
あさひのことは気づいていないと思うが、ちらちらと彼女の瞳孔がこちらへと向けられているのにあさひは気づいていた。初めに見たあおばが持っていた彫像のような雰囲気とは違ったものを彼女が持っている。
例えるなら氷像のような冷たく、そして硬い。
何度見てもあさひは嫌悪感しか抱かなかった。そいつとはかかわりたくない。そいつからははなれたほうがいい。けど彼女が居る場所が気に食わなかった。どうして彼女は昼休みに屋上にいるのだろう?どうしてあおばと同じ場所に座っているのか。

「おい。そこはおれの席だ。」

彼女はあさひのほうへ首だけを曲げた。
彼女の周りは空気が薄いかのような鈍い反応だった。彼女は正座を崩さないままあさひを詩文の視界の中に入れる。あおばとは違って形こそは整っているものの心臓をわしづかみにされるような眼光を備えた細い瞳だった。攻撃的なまなざしというよりはあさひを解析しているような目線だった。あおばとは何一つ共通点が見当たらない。
あさひは彼女の視線を真似て見つめ返す。彼女とあおばを比べるほうが間違っている。
こいつはあおばとは何一つ共通点を持たない別人だ。あおばをにらみつけていた彼女とあさひはしばらくそのまま対峙しあった。

「どこが?」

一瞬自分の言葉に対する答えだとは気づかなかった。

「お前が今居る場所だよ。そこで俺がいつも昼飯食べているんだけど……」

「だからどうしたの。」

静かな物腰の割には直線的な言い方だ。反論をできないような強引さを持っている。
正論を言っているのは彼女のほうであることをあさひはわかっている。
しかしここではいそうですかと折れてはなんだかかっこ悪い。

「そこがいいんだよ。代わってくれよ。」

「他で食べればいいじゃない。」

「……」

あさひが何を言っても彼女はそこから動こうともしない。他で食べればいいとの一点張りだった。たとえてこを持ってきたとしても彼女を動かすことは無理なようだ。
あさひは鼻から大量の空気を吐き出す。肩を手で押さえながら首をコキリと鳴らすと壁に寄りかかりながらあさひはパンの袋を開いた。これ以上言っても彼女をどかすことはできそうにないと思った。彼女は弁当箱の蓋を開けて箸をもちそれに手をつけ始めている。
一つ一つの動作がとても優雅でまるで映画を鑑賞しているようだったがあさひは見ている気にはなれなかった。自分が食べているパンが何か分からない。焼きそばパンを買ってきたはずなのに食べている焼きそばはスパゲッティのような味がする。
自分が緊張しているのか。ばからしい。あおばのときは何も感じなかったというのに……
風があさひと彼女の前を通り抜ける。少し横にいる彼女の髪の毛が広がり、
それをあさひに見せ付けていた。
彼女の髪の毛は揺れているのか、揺れていないのかの区別がつかないほどの小さな揺れをしていた。その動きはとても繊細で顔は気に食わない彼女だけど、その髪だけは彼女の誰もが認めるチャームポイントだと思った。とても印象的な黒髪だった。
しかし不思議なことに真新しいとは感じない。そのわけをあさひはすぐに知った。
顔に見覚えがないと初めはそう感じたがその長い黒髪には見覚えがあった。少し前に谷川と学食を共にした後に彼女が谷川と向かい合っていた。
好き好んで谷川に話しかける女子は枚挙に暇がないがああやって一対一ではなしているのをあさひは見たことがなかった。またあんな学食のすみっこという暗くて人が寄り付かない場所で話していると二人が密談をしているように思える。まあ密談というのはあさひの気のせいだろう。でもその後少し彼女のことを調べた。というよりも自分のクラスにそいつが居たのを発見してそいつが近くに居たことを知った。彼女はあさひのクラスメートだった。冬にまでなって自分のクラスメートを全員覚えていないことに呆れてしまう。それにこいつがのぞみと交友関係があることを知ったときも自分の無知さをなじりたくなった。あさひがそのことを知ったとき、もう少し教室に居る時間を長くすればよかったと後悔した。あとこんな静かなやつとあんなうるさいやつが一緒になっていることにも驚いていた。人間の関係はどう広がるかは計り知れない。それに彼女と谷川の関係も。
こいつのような人間は自ら進んで会話をしようとはしない。
それが目上の存在ならなおさらだ。そのことを少し聞いてみるか。

「お前谷川のこと知ってる?」

「それって世間話のつもり。」

「そうだ。でどうなんだよ。」

「知っているも何も私の担任だからね。あなたの担任でもあるでしょ。」

「まあ……」

「何? 私があなたのことを知らないと思っていたの?」

疑問形で聞いてくるわりにはその顔はにやけている。本心が見え見えだし、本心を見せているのだろう。

「それはどうでもいいことだ。それで谷川とこの前話していたろ? 
 昼休みの学食で。」

「そうね。」

とくにためらいもせずに彼女はすぐ答えた。

「何を話していたんだ?」

屋上から見える景色を見つつ、あさひはさりげなく聞いた。横目で彼女の様子を確かめてみると彼女は広がった自分の髪を手で整えていた。手馴れた手つきで自分の髪をなででいくと髪の毛は彼女の意志に従うかのように一つにまとまっていく。

「あなたのことって言ったら戸惑っちゃったりするかしら?」

あさひは戸惑うことなどせず彼女の言葉を完全に無視した。彼女なりの冗談だったかもしれないがその面白さよりも彼女が冗談を言ったという意外性のほうが面白かった。

「冗談よ。本当は先生とたわいのない話をしていただけ。
二人で山手線の駅名をお題に山手線ゲームをしていただけよ。」

彼女は弁当に入っているから揚げをつまむと口に運ぶ。小さく開く口がから揚げを飲み込むと、彼女は味わうようにしっかりとかみ締める。あさひはメロンパンの袋を開く。彼女の言ったことが冗談かどうかはどちらでもいい。彼女と谷川の関係を彼女から直接聞き出すのは困難だろう。それなら第三者から聞いてみるのが一番いい。こんどのぞみに聞いてみよう。二人は自分の昼食を食べることに集中する。もう彼女と何も話すことはなかった。

「じゃあ今度はこっちから聞いてもいい?」

あさひはメロンパンの最後のかけらを飲み込むとその場に座り込んだ。このまま立っているとそろそろ疲れる。

「なんだよ。」

弁当の蓋を閉めて彼女は体ごとあさひのほうを向く。
今まで顔を髪にしか見ていなかったが体のほうもほぼ完璧なラインだ。
文句のない体の曲線美がセーラー服の上からも分かる。しかし今は彼女が何を言い出すのかしかあさひは考えられない。
体を動かしたことで乱れた服を正すと彼女は早速口火を切った。

「学校の七不思議を知っている?」

あさひはその一言だけでまた彼女が谷川と学食で話していたことに疑問を抱き始めた。

「知ってる。でも教えてくれよ。」

あさひの要求を彼女は待っていましたといわんばかりに叶え始める。本を音読しているときのようにテンポよく七不思議を列挙してあさひに聞かせた。


 夜の学校に訪れたとしたら……

 鏡を見てはいけない。映るのは自分の顔ではないから。
 忘れ物を取りに来てはいけない。自分が忘れ者になるから。
 階段の数を数えてはいけない。その数を知ることはできないから。
 携帯電話に応じてはいけない。電話主は近くにいるから。
 廊下で振り返ってはいけない。振り向いた先には何もないから。
 屋上から下を覗き込んではいけない。引きずられるから。
 七つ目を知ってはいけない。学校から出られなくなるから。

あさひは壁を背もたれの代わりにして雲に隠れる太陽を見ていた。彼女が話したものはどれも全てあさひが調べたとおりのものだった。谷川に聞かせたのは彼女だったのか?

「それでその七不思議がどうしたんだ。」

彼女はまだあさひが七不思議を調べていることを知らない。この話でさえただの世間話かもしれない。だからまだ様子をみる。あさひはそう判断を下した。

「実際同じ事を体験したという人がいるのよ。どう思う?」

あさひの頭上ではグライダーにも負けないほどに勢いよく滑空している鳥が地平線を目指している。あさひは彼女に一字一句同じ言葉を繰り返してもらいたかったが何度聞いても同じ事を言うだろう。

「ただの妄想だろ。」

ばかばかしい。そういう話が広まると第一にそういう噂を流したがる人間が居てそういう騒ぎに興味を示すものが居る。そんなガセネタに踊らされる人間にはかかわりたくない。彼女がどう思っているとしても、あさひはそうとしか思わなかった。
服についたパンの粉を落とすほうに忙しくなっていた。

「七不思議を調査している人がそういう感想なのね。」

婉曲もしていない。暗喩も込めていない。子供をからかうときに誰もがやるくちぶり。
彼女はあさひを単純に挑発している。実際彼女は今あさひをあざ笑うかのようにまっすぐな目をして口の端を吊り上げていた。
あさひは自分が七不思議を調べていることにではなく、そのような表情に背骨を抜かれるような気持ち悪さを覚える。分かった。こいつは屋上に来たかったのではなく、あさひに用があったからここに居るのだ。

「ねぇ…… お願いがあるの。聞いて。」

彼女はそういうとすぐにあさひに近づいた。
四つんばいになってあさひと彼女は顔と顔を合わせる。みずみずしい彼女の唇があさひの目の前に迫ってくる。真っ赤な唇を目にしてあさひの頬も朱に染まっていた。後ずさりしたかったが動けなかった。

「私と一緒に七不思議の検証を手伝って欲しいの。」

機敏に動く唇の切れ目から赤い舌のさきっちょがみえた。

「そしたら最後の一つを教えてあげてもいいわ。」

時折ちらつかせる舌があさひを誘っている。

「お前は七つ目を知っているのか?」

「ええ。私のお願い事を叶えてくれたら必ず教えてあげる。」

元々近い顔と顔との距離を彼女はさらに縮めた。
その距離に反比例するかのようにあさひの冷や汗の量が増えていく。心臓の音も太鼓の音のように重く響いていた。

「どうするの? あなたにとって悪い話ではないと思うわよ。」

「それは……」

「お断りします。」

背後からの声は彼女の言葉を一刀両断する。
振り返ったあさひがまず見たのは細くて小さな足だった。
黒いタイツに覆われた二本のそれは足幅を大きくして立っている。細い足に合わせたようなサイズのセーラー服とスカートが着ているものの動きに合わせてゆれている。その上には見知った顔があった。太陽の光を後ろから受けながらこまちが立っている。肩を上下に揺らし、荒い息づかいがあさひにまで聞こえてきた。

「またね。」

いつのまにか彼女は立ち上がっていた。彼女はあさひの目の前を通り過ぎる。
紅茶のような香りを残して彼女はあさひから放れていった。
彼女が屋上から出てゆくときに一度だけあさひのほうを振り返った。正確にはあさひではなく隣に居るこまちのほうを見ていた。彼女はにこやかに微笑みながらこまちに手を振る。こまちはそれに会釈をして答えたがその態度は形式上のもののようだとあさひは思った。そして後に残されたこまちとあさひは両者何も言わないまま同じ方向を見ていた。こまちがここに来たことも、そして彼女にあんな態度を取ったことのどちらも不思議すぎる。

「よくここに居ることが分かったな。」

こまちは彼女が消えた後も屋上の扉をにらみつけていた。あさひの声を聞いていない。
扉に穴を開ける勢いのようにこまちは扉に視線をぶつけている。その後ろ姿を見ているとあさひはさらに声をかけづらかった。

「私の教室からあさひさんが見えました。」

扉から目を離さないままこまちはあさひに答える。

「そうか……」

あさひはそれだけ返すとパンが入っていた袋をまとめてポケットに詰めた。そしてまた耐え難い無音の時間が続く。こまちはこれ以上にらみつけているのを無駄と判断したのか
おおきくためいきをつくとあさひのほうへと振り返る。ちょっと前に駅の近くの喫茶店で話していたときのこまちに戻っていた。

「放課後に話があります。図書室……いやここで待っていてください。」

それをあさひに伝えた後こまちは屋上からいなくなった。
そしてあさひ以外誰も居なくなった。あさひが昔望んでいた誰も居ない屋上が実現した。昼休みの終了を終わらせるチャイムが暴れている中、あさひは午後の授業をどうしようかを考えていた。

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