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act.7「深淵の瞳」

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 風が強く吹いている。この身が凍てつくほどに襲いかかってくるその冷風は、今の私には少しばかり厳しいものがあった。
 つい先日、私、水島さん、御陵さんの三人でWay:に宣戦布告を行った。もう逃げられない世界に、私もとうとう足を踏み入れてしまったのだと、ハッキリと理解した。けれども、この生と死の狭間で彼女も、そして驟雨さんも戦って来ていたのだ。何か目的があるのならば、その目的に向かって行かなければならない。
 また杉原君が現れたとしても、それは自分が好きだった彼ではなく、偽物の杉原君なのだ。
 できるのならば、私は彼を救い出したい。ずっと前に助け出してもらった時のお返しを、今しなくていつしろというのか。
「由佳、どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
 水島さんの怪訝そうな表情に対し私は首を振ると、彼女のところまで駆けて行く。彼女はこの数ヶ月間、彼といて何か特別な感情は沸かなかったのだろうか。もしかしたら彼女も彼に好意を抱いているのかもしれない。私はほんの少しだけ、そんな疑問を頭の中に浮遊させながら彼女を見ていた。
 黒い長髪、真っ黒な瞳、精密に計算されているかのような綺麗な身体つき。
 遥かに及ばない存在。彼女と私を比べるとしたらそう言わざるを得ない。
「沙希ちゃんってさ、杉原君の事、どう思ってる?」
 不意に問いかけた悪戯に、彼女は一度目を見開いた後、その目を次は細めてから視線を泳がせ始める。よく見ると頬もほんの少し、間近で見てるから分かる程度に紅潮しているようだった。
――やっぱり、そうなんだ。
「好き?」
「好きとか、嫌いとかで……彼はただ私と協力関係を結んでるだけで……」
 私から視線をはずして、ひたすらに横の景色を見つめてぼそぼそと呟いている彼女に、なんだか私は初々しさと、清々しさのようなものをかんじ、思わずクスリと笑ってしまう。
「な、なに?」
「好きならはっきりと杉原君に言ってあげればいいのに。彼も、多分あなたの事を意識してるはずよ」
 私の言葉に、彼女の顔は更に朱色に染まってゆく。
「私は応援するよ」
 その言葉に、水島さんは驚きの色を浮かべ、そして思わず合わせた視線を再び逸らして行く。私は構わずに続ける。
「沙希ちゃんは綺麗なんだから。絶対に彼も振り向いてくれるよ」
 その言葉で流石に私も恥ずかしさと後悔にも似たなにかもやもやとする陰鬱とした切なさに耐え切れず、下を向いて地面とにらめっこする。多分、これ以上言葉を発すると涙が溢れ、声だって震えてしまうだろう。
「ありがとう」
 ひっそりと呟いた彼女の声を、私はしっかりと聞き取った。その言葉に私は何かが内側から溢れてゆくような気持ちを覚え、同時に充足感にも似たものを感じた。
 彼女は笑っていた。あの水島沙希が、初めて、満面の笑みを私に見せてくれたのだ。
 それだけで、十分だ。私は救われた。
 私は杉原君が好きだし、水島さんも好きだ。二人が幸せになってくれたならば、多分私も幸せになれると思う。
 だから私も、彼女の笑みに対し、笑みで答えを返した。その思いが嘘にならないように――
「ああ、いたいた」
 不意に、背後から男性の声が聞こえた。今ここを歩いているのは私と水島さんのみということを考えると、多分私達に対する言葉なのだろう。私と水島さんは顔を見合わせた後、恐る恐る顔を後方へと向けた。
「やあ水島沙希さん、山下由佳さん」
 そこには、黒色のビニール袋を担いだ笹島が、薄ら笑いを浮かべて立っていた。
「あなたは、私達の監視をずっとしていた……」
「ああ、ここ最近はそんな事を確かにしていたね」
「なにか、私達と直接会わなければならないことでも?」
 彼は首を振る。
「君達に良い知らせと悪い知らせを持って来たのさ」
 身構えつつも私達は顔を見合わせる。笹島は手にしているビニール袋をこちらに投げてよこすと、空いた手をポケットへと突っ込む。投げ渡されたビニール袋は、なんだかとても重くて、そしてある程度液体が中に入っているようだった。
「開けるのは俺がいなくなってからにしてくれ。ああ、危険なものではないからさ」
「それで、その知らせを早く言ってもらえないかしら」
 ああそうだったね、と笹島は意地の悪そうな笑みで頷くと、way:と書かれた一枚の紙を取り出し、私達に見えるように提示すると――
「こういうことさ」
 その一言と同時に、笹島はその紙を真っ二つに千切り、丸めて捨てる。
 一体どういうことなのか、そう水島さんに聞こうと彼女へ視線を移動する。が、その彼女の表情で私はある程度のことを把握した。
――彼女の復讐すべき存在が、自らが手をかける前に消え去った。
「どういうことなの!? テロは!? 組織だってまだ幹部は数人残っているじゃない!?」
「俺達はただ人殺しを捕まらないようにやりたかっただけだからね。テロなんてものに参加するのが面倒になったんだよ」
「それだけの理由で、全員……?」
「ああ、僕と断罪者も、ブラックパウダーも、協力者も、全員組織を離れていったよ」
 けれどもと彼は再び先程の君の悪い薄ら笑いを浮かべる。
「組織を出たって事は、もう統率する人間がいない。つまりは無差別に殺人事件がそこらかしこでできるってことだから、君達も殺されないように気をつけなよ。俺はそれを忠告したかっただけさ」
 無言のまま固まる私の横から、水島さんが一歩前へと足を出した。
「もう一つの、悪い知らせって言うのは……何?」
「ああ、そっちも聞きたいんだ?」
 水島さんはゆっくりと首を縦に振る。すると笹島は黒いビニール袋を指さし、そして口を開く。
「それ、杉原修也の残骸」
「――!?」」
 衝撃。
 ズシリと心に直接打撃を受けた感覚と、脱力感が全身を襲い、私はへたり込む。そんな、まさか、という感情よりも、ただただひたすらに「虚無」という存在が心の中を支配していることに我ながら驚いた。水島さんも動揺を隠しきれていないようだった。瞳孔が開き、そして口を噤んだまま、棒のようにその場にただひたすら佇んでいる。
「そいつさ、どうやら君に渡した筈のその瞳をまだ所有していたみたいなんだよね」
 その言葉に、水島さんの表情がとうとう揺らいだ。確か、あの瞳は体育館での一件の時に彼女の下に戻っていた筈なのだ。なのに、何故……。
「それともう一つ、結城翔と御陵遼の人質は変わらないみたいだから、下手に行動することはよしておくべきかもね。じゃないと、どっちか死んじゃうだろうから」
 そう言って彼は踵を返すと、私達の下を去っていく。そんな彼の姿を私はただただ、見つめていることしかできなかった。

   act.7「深淵の瞳」
   ―プロローグ―

「――ええ、言われたとおりの言葉を彼女たちに告げておきましたよ」
 報告に対して、電話の向こうの主、つまりは元way:の創造主は盛大に笑い声をあげる。
『良い働きをしてくれて良かったよ。礼は君の口座に振り込んでおこう』
「どうも。それにしても、本当に組織は解散なんですか?」
『ああ、そういう計画だったからな。元々は』
「できればもう少し、あなたの考える気味の悪い殺人方法を見てみたかったんですがね」
 僕は名残惜しそうに創造主に向けてそう呟くが、彼は少し押し黙った後に、再び口をゆっくりと開いた。
『申し訳ないが、この計画が最後を飾る事となる』
「ええ、組織ができる前のように、勝手に好きなことをやりますよ」
『私のテロに重ならなければ、どう行動してもらっても構わない。組織はもうないのだからな』
 テロに重ねるつもりは毛頭ない。自分たちまでそのテロに巻き込まれて死に伏すことだけは勘弁したいものなのだから。
「まあ、最後のその祭りの為のお膳立て位は盛大にさせてもらいますよ」
『そうしてくれるのならこちらとしても都合が良さそうだ』
 都合がいい、という言葉に多少の違和感を感じはしたが、とりあえず気にしなくてもいいだろう。別にそれで僕自身がテロ計画に巻き込まれる可能性はないのだから。
 あらかた会話を終え、僕は電話を切った。
 さて、とりあえず僕らがまずするべきはあの裏切者の殺害だろう。それを含めたカタチで人の命を潰す作業をはじめようかな。
「――断罪者、行くよ」
 その言葉と共にズシリ、と地にめり込むような音が響き、巨大なそれは獣の如く息を豪快に吐き出した後、僕の背後を追う。
「ターゲットは分かってる?」
「いんふぇるの! いんふぇるの!」
 ここまで知能がないと本当にこの巨漢が人間なのかさえ疑ってしまいそうになる。まああれだけの肉体を手にした代償なのだろうが、それでもこれは酷過ぎるような気がしなくもない。
 まあいいさ、僕はこの化け物に対する疑問を全て振り払う。
「正解、インフェルノと遊びに行こうか」
 断罪者は獣じみた顔で気味の悪い笑みを浮かべてから何度も頷く。
――裏切り者には、死を……。

   ―――――

 今、目の前に置かれた袋の中に彼がいる。その事実を残して『元』way:構成員の笹島は去っていった。何故彼がそんなことを伝えに来たのか疑問に思う。それともう一つ、杉原君が何故まだ私に返却したはずの瞳を手にしていたのだろうか。私が所有していた瞳は一つだ。つまり、それが二つに分離する事なんて全く以てありえないのだ。
 ならば何故彼の瞳は残ってしまったのか……。
「……」
 私はゆっくりと由佳の前にある黒い袋に手をかけ、そして思い切り開いた。
――肉塊。
 最初に感じたのは、生臭さだった。鼻腔にへばりつくように漂ってくるその鉄の臭いに私は一瞬吐き気を覚える。が、その吐き気さえもその中のソレを見た瞬間吹き飛んでしまった。
 硬直したままの私の横から、由佳がその中を覗き込み、そして私と同じく驚きの色を帯びた表情を浮かべている。
「……嘘」
 嘘ではない。
「……嘘よ。こんなの……嘘」
 彼女のその一文字が、彼女の心理状態の全てを物語っていた。
 由佳は袋に手を入れている。その奇行を私は止めようともせずにただ眺めている。いや、眺めていることしかできないのだ。彼の部品の入ったそれを肉の塊としか思えなくなっていることを自覚した瞬間に、全てがどうでも良くなってしまった。
「杉原君、杉原君……」
 彼だったその“首”を両手で丁寧に持って、彼女は大粒の涙をぼろぼろと流しながら名を呼び続ける。その肉塊を以前私は杉原と呼んでいたのだっけ。ぼんやりと意味の分からない自問自答を繰り返しながら、私はその彼女の行動を眺め続ける。
 仇を取るという言葉さえ、浮かぶ気がしない。
 大切だと思える人を失い過ぎた。もう、私の完敗だ。
「もういいや……。復讐も終わりでいい……」
 俯き、ぼんやりと綿に包まれたような意識の中浮かんだ言葉をそのまま呟く。
――お父さん、お母さん、お姉ちゃん、ごめんなさい。私はもう駄目です。
 この敗北で例え都市の人間が全て死に伏す事となっても知らない。そんなの私は守るつもりなかったのだから。私がしたかったのは『破壊』だ。けれどもこれだけの犠牲を出してしまっておまけに彼らには一つも被害を与える事ができていない。
 ハッキリ言って私には無理だったのだと分かった。
「――なに、これ……」
 不意に聞こえた由佳の言葉に私は反応し、顔をあげる。彼の頭部を大事そうに抱えたまま、自らの左目に手を添えている。
「どうしたの?」
「左目が突然見えなくなったと思ったら……映像が流れ込んできて」
 何を言っているのかうまく理解する事ができない。とにかく、左目が見えなくなったという状況とその流れ込んでくる映像を説明してもらう為に、私は数歩移動し彼女の前でしゃがみ込むと、左目を抑える手をどけた。
 これで驚くのは何度目だろうか、と一瞬思いつつ、彼女の左目の状況に私は唖然とした。
「私の眼、どうなってますか?」

 全てを吸い込むような黒々とした瞳が、私と同じそれが、彼女の左目にあった。

 途端、由佳は頭を抱え今度は苦しみ出す。何をどうすればいいのか分からず、と彼女の手を両手で包みこみ、ぎゅうと握り締め、彼女の苦しむ顔をひたすらに覗き続ける。
 刹那、自らの意識が何かに引っ張られる感覚を覚え、そして目の前に暗幕が垂れ下がったかと思うと、赤い光と共に、大量の情報が脳に流れ込んでくる。その異物感に多少の吐き気を催したが、しばらくするとそれはじわりと私の中に馴染んでいった。

 そうして、感覚が戻った瞬間に、暗雲のかかった視界の中で、由佳の言っていた映像は上映を開始した。

 静寂が降り積もる世界で、彼は私に微笑む。何も見えない暗がりの中で彼だけが一人はっきりとその輪郭を現していた。私はもがくようにして彼の下へと向かう。が、突然「keep out」と字が連続して打たれたテープが交差し、私と彼の間を切り裂くように立ちはだかる。
――君はまだ“こっち”じゃないから、行けないんだよ。
 彼は少し寂しげな表情を浮かべて、私に小さい声でそう言った。どういう意味なのだと、何故私は君のももとへ行くことができないのだと訴えかけるのだが、彼は穏やかな表情のまま静かにこう返す。
――まだ、君は役目が終わってないからだと思うよ。
 その役目はなんなのだと問いかけるのだが、彼はそれ以上何も口にしようとしない。じゃあ、と私はこの問いかけを最後に投げ掛ける。
「私にこの眼を与えたのは何故?」
 彼は、いや杉原修也はただ一言を私に返す。
「それが僕の役目だったからだよ」
 いつの間にか降り積もっていた静寂は、塵と化して消え去った。

   act.7-2
   ―杉原のはなし①―

 僕の周りを取り巻く世界をつまらないと感じるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。多分この世に生まれてきて、物心ついた時にはそんなことを考えていた気がしなくもないが、今のように強く思ってはいなかっただろう。
 変わることない友人、変わらない風景、ただひたすらに惰性のままに進む時間。
 もううんざりなのだ。全てが。
「おい杉原ぁ、今日は暇か?」
 須賀が陽気な声と共に僕の肩を抱き、そんなことを問いかけてくる。一年の頃から同じ教室で過ごしている為だからなのかは分からないが、彼は僕に対して非常に馴れ馴れしい。良い顔をして過ごし続けるという行為は内部まで入り込もうとする人間ほど面倒なものになるのだ。
「ああ……悪い、今日は先約があってさ」
「マジかよぉ、杉原、どうしても無理かよぉ……」
 そうごまかして、いや実際先約なるものはあるといえばあるのだが、そちらの方も既に破るつもりでいるのだ。
だが、須賀は足早に立ち去ろうとする僕の体にしがみ付き、泣きついてくる。これまでの絡みの中で最も面倒くさいしつこさに、僕はだんだんと憐れみにも似た感情を覚えてくる。ここまでして他人と慣れ合いたい人間が存在するとは思っていなかった。もしも彼が周囲から「ハブる」という行為を受けたら一体どうなってしまうのだろうか。その足で真っ直ぐ屋上を目指し、そのまま勢いよく飛び降りてしまう気がする。
 まあ、もしも飛び降りる事があるのならば間近で見たいものだ。ここまで骨のない生活を続けて抜けてしまう位ならば、そのくらいの刺激を貰いたい。そうすれば、また今とは違った世界観が僕の前に現れる可能性だってある。
 さて、大分最初に考えていたことから内容が逸れてしまった。刺激を求める前にまずすべきは、この僕の脇腹の辺りを挟み頑として動こうとしないこの男を退ける事だ。そのために何をすべきかと考えた結果、答えは一つだろう。
「……分かったよ」
 諦めること。それが僕の答えだ。無駄なら無駄と割り切ることで早々に目の前の事象を消化してしまえばいい。今更なにをしても面白いと感じることはないのだ。気が付けばいつもどおり坦々と時が過ぎて、帰宅し夕飯を食べて風呂に入り眠りに就くだけなのだから。
 先程までうだうだと説得を続けていた須賀は流石は須川だ、等と口にし始め、掌を返すようにして復活したあの陽気な姿が僕の目の前に姿を現す。全くもって現金な性格なことだ。
「それで、何の用だ?」
「いやぁ、たいした事じゃあないんだけどさ」
 ならば呼ぶな、という言葉を僕はゴクリと飲み込んだ。実際重要な事で呼び出すという事の方が滅多にありえないのだからまあこの発言は予期できなくもない。
「じゃあなんだよ、よっぽどのことじゃないなら俺は帰るぞ」
「まあまあちょっと待てよ。実はこれから俺と結城で――」
「杉原くん」
 後方からやってきた可愛らしい声が、須賀の言葉を唐竹割りにする。その良く知っている声の主に、僕は面倒くさそうに手を上げる。これがあるから早く帰りたかったのだ。っどう考えても作られているであろうその可愛らしい声の主は僕へと駆け寄ってくると、両手をぎゅうと握り締め、顔を僕と親指程もない距離まで寄せ、満面の笑みを見せる。
「一緒に帰ろう」
 雪野早苗はそう言うと、僕に向けて手を伸ばす。
「はいはい、帰りましょうか」
 もう逃げる事はできない。僕は本日二度目の「諦め」のスイッチを起動させ、全てを投げだし、彼女の手を取ると教室の出入り口へと歩いて行く。ああ、須賀が何かを話したがっていたような気がするな。一応そう言う部分のフォローもしておかないと完璧な“僕”の像に小さな罅が入るかもしれない。
 僕は振り返り、寂しげな表情を浮かべている須賀に対し、笑みを浮かべて開いた手を彼に向けて上げた。
「悪い須賀、明日ちゃんと話聞いてやるからな」
 その言葉に彼はどうやら満足したようだが、勿論明日その彼の話を聞くつもりは全くない。

   ――――

 まだ十一月だというのに、冬の寒さが体に沁み入る。この寒さを消し飛ばして、暑くもなく寒くもない無気力な環境が欲しいと思うが、刺激が欲しいといいながらこんな考えが生まれてしまう自分の思考の矛盾さに思わず自傷的な笑みを浮かべてしまった。酷いものだ。
「……ねえ、なんで最近私とお昼ご飯、一緒に食べてくれないの?」
 彼女のその威圧的な目が、僕にはとても禍々しい何かに見えて仕方がない。何故こんな女性と僕は二年間も続いたのだろうか。
「それに、ずっと帰りも違うし、しかも他の女性と話だって……。何? 私じゃ物足りないとでも言うの!?」
「いいや、そういうわけじゃないよ」
 一旦雪野がこういった状態になると僕の反論はすべて無視され、自らの意見を強引に通そうとすることになる。この状況になったら僕はもう彼女を止められない。というか、止める気が起きない。つまりは三つ目の「諦め」ということになる。僕は心の中で一度小さくため息を吐いてから“仮面”を装着し、彼女をじっと見つめる。
 僕の威圧的な視線に流石の彼女も戸惑ったようで、後方へと一歩引こうとするのだが、僕はそれを許さず彼女の両肩を掴み、自らの胸の中へと引きいれ、口を開く。
「どんな事があっても、君が一番だから、これだけは信じて欲しい……」
 今となってはおなじみとなってしまったこの台詞。けれども、僕のこの言葉だけで彼女は満足げな表情を浮かべているようだった。内心この都合のいい頭をしたこの雪野早苗という存在を一気に消してしまいたかったが、そんな物理的な手段に走るなんて馬鹿な真似をする程荒くはないので、いつもの調子で僕はその黒い塊を奥底へと沈めていく。
「……分かってくれた?」
 雪野は静かに頷き、そして目を瞑る。ああ、ここまでしなくてはいけないのか、表に出てしまいそうな「疲れ」という言葉をゴクリと飲み込んでから、僕はゆっくりとその彼女の紅とグリスがたっぷり塗られ艶が出ている唇に、自らのを重ねた。

「じゃあ、また明日」
「ああ、また明日な」
 頬を赤く染めた雪野はそう言うと一人家の中へと消えていった。僕は踵を返し彼女の家を後にし、そして少し離れた場所にある公園へと到着すると、隅に設置されているブランコに一人腰をかける。
「めんどー」
 今まで溜まりに溜まっていたその言葉の塊が、たった一言となって白い息と共に空へと消えていく。
 いつだったか、周囲にお似合いの二人組だと言われたことがあった。大半は多分出来たてのカップルを持て囃す為、あとはたんなるお世辞的な意味を込めて。
今だからこそ分かる事だが、実際そのお世辞として僕等にかけられた言葉は事実このうえないものであった。僕等は本当に似ているのだ。表には出してはいないが、彼女もまた相当黒い心を持っている。僕とはまた違った性質をもつ黒い塊を大事そうに抱えているのだ。敵となる者は全て抹殺し、自らが欲した物は必ず手に入れようとする。飽きれば捨て、また欲しい物を探す。
 多分この僕、杉原修也という存在として生きることを半ば放棄している人間が、彼女と付き合うというアクションを起こしたのは、そう言った部分に類似性を感じたからなのかもしれない。ようするに同類同士での舐め合いがしたかったのだ。
――どこまでも執着する癖に表は良い顔を見せる女。
――放棄し全て傍観したがる癖に刺激が欲しいと嘆く男。
「お似合いじゃないか」
 僕は思わず声に出して言ってしまった。まあ周囲に誰もいないのだから独り言で済んだだろうし、別にこの言葉を聞かれたことによって僕に対する害意が生まれるわけでもない。
「つまらなそうだね」
 ふと、男の声がした。大分若い男の声。僕は立ち上がり周囲を見渡すのだが、どこにも人がいる気配は全く無い。幻聴、というわけでもなさそうだ。
「何か俺に、用ですか?」
 ぽす。細長い指の付いた手が僕の左の肩に置かれた。緊張が、体を支配する。
「なぁに、君のその裏の顔に興味を抱いたしがない科学者だよ」
 背後の存在から敵意が感じられないということを感じ取り、僕はゆっくりと、ゆっくりと後方を振り返る。
 そこには、白衣を身に纏った小柄で背の高い男と僕と同じくらいの年代の少女が、そこには立っていた。
「やあ、世界をつまらないと決めつける少年さん」
「……あなたは」
 彼は一体誰なのだ。僕はそのままの気持ちと警戒心を込めて言葉を放った。まあ大した研究成果を表には持ってきていないから知らないのも無理はないか、と彼は意味不明なことを呟きながら胸ポケットを弄り、一枚の名刺を取り出し僕に向けて差し出す。その名刺を手に取り、僕はまじまじと見つめ、そしてそこの名前を声に出す。
「水島……潤?」
「ああ、表では細々とそこそこ働ける研究者を“演じて”生活している」
「演じる……?」
 その言葉の節々にどっかりとい座っている違和感に僕はたびたび首を捻る。
「非合法なことをしたいのなら、二つの生活を切り離しておくことが必要なんでね」
「危険なウィルスでも作ってるのか?」
 僕は彼の妄想じみた発言にため息と共にそう吐き出した。だが彼はその言葉に対し反応を示さずに、爛々と輝かせた瞳をこちらに向けて口を再び動かす。
「生物の中身だけを吸い取る装置さ」
 自信満々に言い放たれた彼の言葉。
 暫くの静寂の後、僕は思わず噴き出してします。
「馬鹿じゃないのか? そんな装置――」
 冷たい。その感覚が僕の口の動きを止める。そして、その突然の出来事に心臓が強く鼓動する。
 隣の少女が僕に向けて水を放った。何かを持っていたわけでもない、掌を僕に向けたかと思うと、そこからコップ一杯程度の透明な液体が僕の顔目がけて射出されたのだ。
「この子は私の人体実験によって出来上がった子でね、水を生み出せるんだよ」
「……!?」
 彼がふんと鼻を鳴らし、興奮気味に言ってその少女の頭に手を置く。手を置かれた少女はその行為をまるで誇らしいとでもいうかのように満足気な笑みを浮かべている。僕は顔の液体を袖で拭いとり、再び彼らに目を合わせる。
「それだけの摩訶不思議な人体実験をしているくせによく捕まらないものだな」
 とりあえず信じてしまおう。ここで僕が否定をしてしまえば面倒なことになるだろうし、まずは彼との話を進めてしまう事が先決だ。
 ようやく信じてくれたか、と彼はかけている眼鏡を中指を使って位置を整える。僕はポケットに手を突っ込み、ぶっきらぼうに彼と彼女を一度見てから、背後にあるブランコに再び腰かける。
「揉み消してもらっているからな。上の奴らに」
「上?」
「わかるだろう?」
 まあ完全に信じきっているわけではないのだが、そういうことにしておいていいだろう。異物に対する“恐怖”を全く感じていない時点で自分は狂っているのだろうということは分かっている。
 僕はその問いかけに面倒くさそうな素振りを見せながら答える。
「ああ、政府とかそんなもん?」
「正解、僕の特異な実験に興味を持ったようでね」
 その興味の意味が大体わかったが、あえて言わないでおくべきだろう。それを口に出してしまえば、いやもうここまで教えられている時点で意味はないか。全く面倒な出来事に無理やり引っ張りこまれたものだ。僕は肩を竦めながらその原因である彼を思い切り睨み付ける。
「なんだい?」
「いや、別に……」
 一度問いかけたが、彼は大体把握はしたようで、ああ、と僕のその表情を見て何か納得をする。
「別に興味なければいいよ、口外しない限り何もしないから」
 それは意外だった。てっきり断れば口止めとして殺されるのかとでも思っていた。一方通行バック禁止の誘いなのかとばかり。
 僕はその意外さに思わず噴き出す。
「はは、そんな軽いもんなのかよ」
「まあ口外された場合君の関係者を全て消させてもらうけどね。君はあえて生かすけど」
「……」
 軽快に言葉を発していた口を止めざるを得なくなった。ああ、それはむしろ殺されるよりも面倒なものかもしれない。流石に他人に迷惑をかけて自分だけ生き残るなんて気が狂う程の責任感だろう。多分これだけ面倒臭がっている自分でも、それだけのインパクトなら壊れざるを得ない。
「さて、大体把握はしてくれたかな?」
「ああ、まあ一番重要な事を聞いていない気がしなくもないけどな」
 とりあえず最初に話していた「生物の中身を吸い取る装置」について話されてもいないし、それで何をしたいのかも完全に話されてはいない。
「ああ、それは僕の研究所を“見学”してから答えさせてもらうよ」
 見学、か。
「まだ入ると決まってはいないけど、それでもいいのか?」
「そこまでしないと完全に信じてくれそうにはないからね」
 ああ、そこまで感づかれていたのか。僕は微笑して立ち上がり、頭をボリボリと手で掻く。
「なんでそこまで俺を入れたいのか分からないけど、まあ面白そうだし行くよ」
 それで興が乗らなければ今日起きた出来事を忘れて、またつまらない日々に戻ればいいのだから、たまにはこんな脇道に入ってみるのもいいだろう。
 僕の返答に彼は悦びを示すとその感情を無言のまま立っていた少女の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる事で発散させる。

―――――

「……うん、よろしく。鍵は持ってるから」
 数分間にわたる電話を切ってそれを二つに折ってから、ポケットに突っ込む。
「話は終わったかい?」
「とりあえず明日までには帰るって言っておいた」
 これだけ生活を制限されている家はどれくらいあるのだろうかと、できればもう少し自由気ままにできる家に生まれたかったかななんてことをふと考えてみる。いや、そんな自由な生活に溺れてしまったら余計つまらない人生になってしまうだろうな。
「それで、すぐに連れて行ってもらえるのかい?」
 コクリ、と一度頷く。
「車を用意してある」
 そう言ってから水島は公園の外を指さす。そこには黒光りし威厳を周囲に見せつけている車がどっしりと置かれていた。先ほどまであんな車あっただろうかと一瞬思ってしまったが、まあ今更疑問に思う部分でもないだろう。
「じゃあ連れて行ってもらおうか」
 革張りのシートに腰を掛け、相対すように座る水島に対し、余裕を込めてそう突っかかってみる。彼はその言葉に眼鏡をきらりと輝かせてから手足をそれぞれ組むとふふ、と奇妙に笑って見せた。
「勿論、君なら自ら足を踏み入れたくなる世界だよ」
「何故、そんな言いきれるんだい?」
 その問いかけの答えを、僕は大体予想ができていた。それをあえて問いかけたのは、多分再確認の意味があったのだろうと思う。外部の者に言われる事で“それ”をしっかりと自分の心に刻みたかったのだ。
「君が狂った考えの持ち主、つまりは僕らと同じ“異常者”だからだよ」
――ほら、やっぱりこの答えがきた。
 そう認定されたことが嬉しいのか、そう納得してしまったことが悲しいのか、よく分からない感情が僕の周囲を取り巻く。
「失礼だったかい?」
 その問いかけで、その考えは完全に消え去った。
「いいや、別に気にしやしないよ。自分でもそう思うから」
「そうか」
「ちょっと見させてもらおうじゃないか」
 僕を異常者として見てくれるその男に、なぜかとてつもなく強い好奇心を覚えた。ここまで楽しいと感じられる出来事が今まであっただろうか。
 だからこそ、僕はあえて足を踏み入れてみよう。
「その異常者だらけの世界をさ」
 僕が今まで見たことのない、つまらない世界を他の楽しくしようと毎日狂った研究を続けている者達のはびこっている世界を。
 その言葉に、水島は「それならば十分に満足していってもらおう」と返し、僕を大きな声で歓迎した。

 ようこそ、異常者の世界へ。
44, 43

  


 見たところ一時間に一本の頻度のようだ。多分今日はここで朝まで待つしかないようだ。僕はバス停の停留所に設置されたベンチへと向かう。
 刹那、ドクンと僕の身体が脈動し、体中に酸をかけられているかのような感覚を覚える。
 今日刻まれた“名”が、僕に耐えがたいほどの苦痛を与え始めたのだ。いつものように起こっていた発作も、これだけの人数ともなると頻繁に起こるようになるものなのだなと、僕は思わず笑みを零す。
「残すは一人か」
 僕は自らの身体を見る。随分と侵されてしまったものだ。厚手のコートを着てマフラーでもしていないと変色した部分が見えてしまう。今が冬で良かった。本当に良かった。
 苦痛にしゃがみ込みながら、僕は空を見上げる。どうしようもなく耐え難い苦痛でも、下だけは向くべきではないと、杉原君と出会い、そして救われた時から自分に定めたルールだった。下を向いてしまえば、何かを諦めてしまいたくなるかもしれない。できない事だと思って途中で放棄したくなってしまうかもしれない。
 僕にとって『諦める』という言葉は、死ぬ事と同義語であると言えるほどの重要性を秘めている。これだけの命が僕の手の中で眠っている。だからこそ最後まで貫き通さなくてはいけない。この計画は僕一人で打ち立てたものではないのだ。僕“ら”の立てた計画なのだから。
「星が綺麗だ……」
 ここ最近曇っていた為見る事ができないでいた星が、今日はやけに良く見える。黒に近い青の大海に散りばめられた光源がそれぞれまるで主張するかのように輝いている。その姿のなんと綺麗な事か。
「できれば計画が果たされるその前に、もう一度堂々と立って陽の下に出たいものだよ……」
 自傷気味にそんなことを言ってみる。僕にそんな自覚は全く以てないが、社会的に見て「越戸要」という存在は「犯罪者」として分類されている。陰で動かざるを得ないということで移動等はかなり制限されてしまっているし、向こうではどうやら生徒達の名簿が公表されたようで時たま待ち構えているというパターンも幾つかあった。
 最後の一人という事もあって、多分彼らも最高のもてなしの準備をして待っている頃だろう。今までは上手くやっていくことができたが、これは正直一人ではどうすることもできそうにない。
 そう、“一人”では――
 携帯が鳴る。僕は画面を開いてその名前を確認、というよりもホットラインとなっているこの電話にかける事が出来るのは一人なわけであるが。
 電話の着信を取り、耳に充てた。そこからは、少し笑いを含んだ声が聞こえてくる。
『やぁ、ラスト一人まで頑張ったね』
 電話の主、インフェルノはそう言う。
「できれば一人でやるべきだからね」
『けれども、今回は流石にそうはいかない。だろ?』
 流石にお見通しか、僕がそう言うと彼は調子の良い笑い声を上げる。
「付き合ってもらえるかい?」
『ああ、杉原と水島に一泡吹かせてやることができるならな』
 その言葉に、僕は静かに言う。
「ああ――可能だ」
 彼は満足そうにそうか、という三文字を繰り出す。二人を一泡吹かせてやるという理由は少し目的としては違うが、結果としてそうなる。まあ方向が同じで互いにリスクが生じないようになるのなら僕は「共闘」を選ぶべきだろう。
『今お前のいる位置を教えてくれ』
 目の前にあるバス停の表記をそのまま口に出すと、一時間以内に行くと残して携帯を切った。多分彼の事だから、それよりも早く来てくれるだろう。
 合流が済めば、あとは最後の一人と逢いに行き、そして約束を果たす。これで彼らの計画の日まで待てば良い。
「やっと、やっとここまで来れたよ……沙希」
 疲労と痛みによる体力の消耗が限界まできているようだ。とりあえず、周囲に気配のないこの状況なら、少しくらい目を瞑っても良いだろう。危機感がないと言われれば確かにそうかもしれないが、インフェルノが来るまでの間だ。
 僕は腰かけていたベンチに横になり、右腕で簡易的な枕を作るとそこに頭を載せる。雨は、降らないだろう。雲ひとつない気持ちの良い夜空だ。僕は彼に信頼感を寄せつつ、瞳を閉じる。
 そうだ、どうせ眠るのならば今までの出来事を思い出しながら眠りにでもついてみようかな。ここまで来れたのだし、もう一度自らの決意を再確認する時間はあってもいいだろう。
 じゃあ、どこから思い出すとしようかな。

   act.7-3
   ―越戸のはなし①―

 チャイムが鳴る。簡易的に設置されたスピーカから流れている音声なのでとても簡素だが、確かに音を鳴らしこの授業が終了したことを知らせている。
「じゃあ授業は終わり。この三十五から四十までは宿題だからやっておいてくださいね」
 僕の言葉に生徒達は少し暗い表情を浮かべている。けれどもそこまで甘やかしては学力は伸びない。僕は心を鬼にして、彼女たちにこの課題を提示しておかなくてはならない。
「ああ、あと“相談”も受け付けているからね」
 そう生徒達に言ってから僕は教室を後にし、相談室まで歩いて行き、その中に入ると灯りを付け、部屋の中心にぽつんと対を成すように置いてある簡素な椅子の片側に座る。
 僕の塾には特殊な物が一つだけ存在している。それがこの“相談室”だ。
学校では言えない事、誰かに相談するのがとても辛いことをこの場で吐き出してもらい、そして僕はその愚痴や苦しみを受け止めて、生徒達の暗闇に小さくてもいいから光を照らしてやる。
 光が出来れば暗闇は薄暗くなる。それだけでも周囲は見えるようになるものだ。生徒達もそれできっとその先を見据える事が出来るようになる筈。
 そう信じて僕はこの塾を始めてからずっとこの部屋を開き続けている。
「失礼します……」
 ガラリ、とこの部屋の戸を誰かが開いた。
「今、大丈夫ですか?」
 少し引き気味に、彼女は入ってきた。
「やあ、三島さん。どうしたんだい?」
 彼女、三島葵は黙ったまま僕の前に座ると、目に涙を溜めながら俯いている。僕はその彼女の姿を見て、静かに微笑んでから、手を握り締める。
「言えるようになったら言えばいいからね」
 彼女はコクリと頷いてから、暫く俯き鼻を啜り続けている。僕はその姿をじっと、ただひたすらに見続ける。これだけでも彼女の気が楽になる場合だってある。押すべきか引いておくべき時かを見極めるのが僕の役目だ。
「……告白、する前に恋が終わっちゃったんです」
 涙を流しながら彼女は小さな声で呟く。
「そっか、相手はどんな子?」
「すごく明るい人で、静かな私にも声をかけてくれるんです……」
 黙ったまま頷く。
「いつも私を笑わせてくれて、周囲にうまく交われない私に……楽しみをくれて」
「すごく大切な人だったんだね」
 その言葉に彼女は深く頷く。僕の両手の中の彼女の小さな手が、ぐっと強く握られた。
「それで、いつの間にか好きになってて……。決意を決めて告白しようと思ったら……帰り際に女性を二人で出て行く彼が見えて……」
 僕はそこで、彼女の握り拳を解き、ゆっくりと手を背に回す。ここまで告白してくれたことに敬意を示そう。そして同時に彼女の悲しみを共有しよう。
「そういう時は、泣くと良いよ」
 唇をかみしめる彼女。
「泣いて泣いて、悔しがって悔しがって、全部吐き出そう。そうしてから次に進めばいい。君にはまだ時間が沢山あるんだからね」
 彼女は大声を上げて泣き出す。僕はその彼女の姿を見つめ、頭をひたすらに撫で続ける。
 ふと扉に嵌めこまれた窓を見ると、切なそうな視線でこちらを見ている少女が一人いた。僕はその少女に一度笑みを浮かべてから、再び三島さんへと意識を戻す。

   ―――――

 塾の時間が終わる。精一杯涙を流した彼女は、幾分晴れた表情を浮かべ帰っていった。
「ねえ越戸先生、いい加減、相談室はやめにしませんか?」
 教室の見回りを済ませて帰ってきた時に、この塾で働く「中島悟」はそう切り出してきた。
「そんな事を言ってもね、生徒の為に何かをしてやりたいからね……。あの世代は色々と大変だから」
「しかし、これ以上続けていたら越戸先生の精神が……」
「あれこそが僕の『役目』だからね」
 そう言い切ると中島は一度ため息を吐き、そう言うのならもう何も言いませんよ、と言葉を捨てて先に職場を後にしていった。
 僕の身体を案じてくれての発言だという事はちゃんと分かっている。けれども、この行いをやめてしまったら多分僕は生きていて価値のない人間になってしまう気がするのだ。だから、この行いは絶対にやめない。目の前で苦しんでいる人間くらい、ちゃんと救いたいのだ。少し手を伸ばしてあげる事でその苦しみから掬いあげてやることができるのならば、僕は喜んでこの身を差し出す。
「ある意味、狂ってはいるのかもしれないな……」
 たった一人だけの部屋で僕はそんな事を呟く。誰にも被害のない狂い方ならば、それでいいだろう。
 僕は上着を羽織り職員室の点検を済ませた後、塾を出て警備システムを入れる。
 そんな僕の頬に何か冷たいものが当たる。僕は反射的に身体を竦め、視線を背後へと動かす。
「お疲れ様、要せんせ」
 悪戯な笑みを浮かべながら手にジュース缶を持った黒い長髪の少女、水島沙希がそこに立っていた。

「待たなくていいって毎回言っているじゃないか」
 沙希から受け取った缶のプルを引いてからそれに口を付ける。炭酸の適度に良い刺激と薄めの葡萄の味が口の中に広がっていく。
 彼女は僕を見つめてから顔を赤らめて一言。
「だって私はあなたの恋人だもの。彼氏を待って何が悪いって言うんですか?」
 その言葉に僕は頭をぽりぽりと空いた手で掻き、目を空へと向ける。すっかり陽が落ちて暗くなった夜空にはいくつかの星が点々と存在していた。
「綺麗ですね」
「そうだね」
 僕と一緒になって夜空を見上げる彼女を、僕は横目で見る。とても純粋で綺麗な子だ。誰かの助けを借りずに必死に頑張ったり、嫌な事があっても自らの中で自己完結して、次へと進もうとする。自分の意見が通らないと噛みついてくる頑固さは玉に瑕だが、僕の“相談”を利用しようとしない生徒は彼女が初めてだった。
 何かしらの苦難をぶつけてくる他の生徒達に対し彼女はそんな僕を心配してくるのだ。
 多分、そんな部分に僕は魅かれてしまったのだと思う。いつの間にか僕の傍に水島沙希という存在がいて、そして――
「何をそんなに考え込んでいるんですか?」
「あ、ああ。大した事じゃないよ」
 僕がそう言うと、彼女はふふ、と笑みを浮かべたかと思うと僕の左腕にぎゅうとしがみ付いてくる。僕はそんな彼女を見下ろしながら笑い、そしてその笑みを誤魔化すようにジュースの残りを口の中に流し込んでいった。
「ねえ、やっぱり大変?」
 沙希は突然問いかけてくる。
「何が?」
「みんなの相談を聞くのって」
 ああそのことか、と僕は呟き、飲み終わった缶を傍にあったゴミ箱に放り込んでからその右手をポケットに入れる。
「どちらかというと、あっちが本業のつもりだからね」
「相談を受ける方が?」
 僕は頷く。
「ふぅん……」
「懺悔室なんて場所になるとなんだかすごく厳かなものになってしまうだろ、そんな場所に入れる人間なんて本当に辛い事があった人だけだと思うんだよ」
 彼女は僕に視線を向けたまま顔を固定している。
「そんな世界の人間を救おうとは思わないけど、僕に関連する人位は救ってあげたいんだよ。どんな些細な事でもいいからね……」
 変だと思うかい。僕が彼女にそう問いかけると、彼女は首を横に振った。
「良いと思うよ。自分のしたい事をできてるんだから」
 肯定してくれるということへの喜びが僕の心にじわりと染み渡っていく。変ではないという言葉が僕の諦めにも似た『自分は狂っている』という考えを溶かしていく。
「じゃあ私の役目ってなんだと思う?」
 沙希は眼を輝かせながら僕にそんなことを聞いてきた僕は暫く考えた後、首を横に振り彼女の方へ顔を向けた。
 刹那、僕の目の前に彼女の顔が現れ、そして数秒してから僕と彼女の唇が重なっているという事に気付く。僕はそれに応えるように両の手で水島沙希の身体を包み込む。
 暫くの間、いや実際はたった数秒なのかもしれないが、彼女は背伸びをして、僕はその場に立ち尽くしたままで、唇を重ね続けたままとなった。
 少ししてから離れる僕ら。沙希は顔を火照らせ、息を大きく吸って暫く息を止めていたことを誤魔化そうとしている。まあ僕も同じようなものなのだが。
「分かった? 私の役目。今のがヒントね」
 言われなくても十分だ。十分過ぎる程のヒントを貰えたよ。僕はこの答えをどうやって口に出そうか暫く考え、閃いた一つの言葉を試す事にする。
 少し恥ずかしさがあるのか、視線を逸らす彼女の肩に手を置いてから、僕は微笑んだ。
「ずっと、支えてください」
 その言葉は、彼女に正しく伝わってくれただろうか。
「うん」
 沙希はゆっくりと首を縦に振り、そうしてから目を瞑る。指輪はないけれども、ちゃんと伝わってくれたようだった。
 僕は眼を瞑っている彼女に、もう一度唇を近付けた――

「卒業まで待たないとね」
「そうだね」
「もう結婚できる年なのにね」
「そうだね」
「ねえ、本当に貰ってくれる?」
「貰ってあげる」
「ずっとずっと支えていくからね」
「僕も君の事を支えるよ」
「……うん」
 手を繋いだ僕等は一言のキャッチボールを続けて行く。手を繋いでいるだけ、体を重ね合っている時よりも繋がり合っているような、そんな気がした。

 でも、僕等は、僕と沙希との物語は、もうすぐ終わる。
 そんなことを、当時の僕は微塵にも感じていなかった。今ここにある幸せが、ずっと続くと思っていた。
 ずっと……ずっと……。

 蛍光灯のみが照らす廊下に、カツン、カツンと無機質な音が二人分響いてゆく。その足音の一人である僕は、この妙に辛気臭い世界に眉を顰めながら、それでも目の前を歩く水島の後をついて行く。
「なぁ、まだ協定を組むなんて言ってすらいない俺をこんなところまで入れて本当に大丈夫なのか?」
 不安というわけではないのだが、これで面倒臭い出来事に巻き込まれたくはない。今のうちにそれだけはハッキリさせておきたいと思うのだ。
 僕のその何度繰り返されたか分からない問いかけに彼は嘲笑で返す。
「いい加減信じてはくれてもいいと思うのだが」
「はいそうですかとすぐに言える人間ならここまで捻くれはしなかったよ」
 それもそうか、と納得したように頷く水島。僕はその姿を眺めつつ、ポケットに手を突っ込む。
暫く歩き続けると通路が突き当たり、そこには扉が一つ寂しげに設置されている。
「さて、それでは改めて言わせてもらおう」
 彼はその手をノブにかける。
「ようこそ、狂った男の研究室へ――」
その言葉と同時に、彼は目の前の扉を開く。
――よくあるオカルトを取り扱った映画に出てくる研究施設。例えば錬金術だったり、人造人間を造り出したりする場面を撮影する際に使用されていたスタジオ。例えるとすればそんなところだ。
今からすれば幾分古さを感じる研究所が、確かにそこには存在していた。

   act.7-4
   ―杉原のはなし②―

 理科室、とでも言えばいいのだろうか。何か本当に特殊な機材が置いてあるかと言えばそうでもないこの研究所で僕はもの珍しさとどこか懐かしさを感じていた。洗浄されて乾かされているビーカーやフラスコ、色彩豊かな液体を詰められてキャップをされた試験管。
「実験室としては本当に古いように見える施設だ」
 周囲を見回していると水島はもう一人赤い瞳をした僕よりも少し幼い少年を連れてきた。
「彼は?」
「ここで初めて完成した実験の成功例だ」
 成功例、つまり彼が裏で実験を続ける事が可能となり、また上の者が欲する程の成果を秘めた初めての改造人間。液体を操る事が可能な少女の前に生まれた彼は一体どんな能力を有しているのか、僕の心を擽る。
「彼はどんな能力を?」
「こいつは“ケルピー”よりも出来のいい改造体でね」
 水島は鼻を鳴らし、興奮気味にそう言うと赤眼の少年の肩に手を置く。ケルピーというのは、予測するに先ほどの少女の事なのだろう。
 ケルピーといえば確か北欧に存在するという水の精だった筈だ。馬の姿を有しており、その背に乗った物は湖の最も深いところまで引きずり込まれ溺死されると聞いた覚えがある。水の精霊という部分から取った名前なのだろうが、実際問題この名と少女の能力に関係性があるかどうかと言われれば無いとしか言いようがない。
 まあ彼がその名で満足しているのならばそれで良いだろう。
「さあ、見せてやりなさい“インフェルノ”……君の力を」
――地獄。
そう呼ばれた少年は無言のまま一度だけ頷くと、水島に手渡されたマッチを擦り、燐を着火させた。赤々とした火が棒の上でゆらりと揺らめく。僕はその矮小な火をじいと見つめ続ける。
「……爆ぜろ」
 まるで呪文でも唱えるかのように呟かれたその言葉に、棒の上を揺らめく火が強風にでも吹かれたかのように左右に揺れて反応する。
 刹那、紅蓮が目の前の風景を焼き尽くし、圧倒的な熱量が周囲に広がっていく。そしてインフェルノと呼ばれた少年はうっとりとした視線でその轟々と紅蓮を巡らす巨大な炎を見つめていた。
「――インフェルノ」
 その言葉に赤眼の少年は少し物惜しそうな視線を送ってから、ゆっくりとのその炎を鎮火させた。
「パイロキネシス……?」
「ほう、知っているのか」
「どこかで聞いたことがあるんだよ。炎を自在に操り生み出す能力だとかなんとか……」
 水島は満足そうにうんうんと頷く。
「彼は自ら火を生み出す事はできないが、小さな火を業火に変えたりその火種を好きな所で発火させる事が可能な能力でね」
「火を生み出せたら完璧だったんだな」
 その言葉に彼は少し呻く様な反応を示す。僕はそんな彼の態度に首をかしげる。
「生み出せるには生み出せるんだが、自らが放った炎をコントロールできないようで火だるまになってしまう。しかも彼の成長は常人よりも非常に速くなってるみたいでね、多分一年位すれば君よりも上の年齢になるだろう」
 なるほど、と僕は頷きインフェルノを見る。
 光を映さない濁った紅の瞳が、僕をじっと見つめ返してくる。彼が何を考え、そして何を思っているのかよく分からない。分からないが、彼のその瞳から経った一つだけ感じ取ることのできる感情が在った。
「……果たして造った者に対してか、それとも――」
「何か言ったかい?」
 いいや、何もと首を振る。
「これで少しは僕に対して信頼感を持ってくれたかい?」
 インフェルノと目を合わせつつ、僕はああ、と一言返す。
「とっても興味深いね」
 その返答に水島はだいぶご機嫌なようだった。
「なら、この計画もきっと気に入ってくれるはずさ」
 そう言うと彼はアタッシュケースを持ち出し、部屋の中央に設置された大型のテーブルに置いた。そこで僕はやっとインフェルノから目を離しそのアタッシュケースへと目を向ける。
 何の変哲もないその箱が、一体どれだけの危険を詰め込んだパンドラボックスなのか。異常な研究成果をこの目で見る事が出来た今、この中身に対する興味は極限まで高まっていた。
 彼は丁寧にケースを開く。何故だか分からないがその箱の中から強烈な“畏怖”が流れ出てきているような感覚を覚える。僕は身を乗り出し、その箱の中身を覗き込んだ。
「……黒い玉?」
 目の前に現れたのは、三つの鈍い輝きを放つ玉。先ほど流れ出てきた畏怖の元凶とは思えない程にそれは小さく、そして矮小に見えた。
「これが、その二人を凌ぐほどの研究成果なのだよ……」
 この玉が一体どんな効力を秘めているのだろうか。しかし、ここまで小さくなってしまうとインフェルノやケルピーのようなその存在に対する恐怖をあまり感じなくなってしまう。
 多少期待外れといった印象をぬぐい切れないながらも、僕はそれに対し失せかけている興味を向けた。
「その小さな玉が、一体何を?」
「これにはそれぞれ特異な能力が仕込まれているんだよ」
「へぇ」
 彼は一つ目をつまみ出す。
「一つは“見る”力、一つは“造る”力、そしてもう一つは……」
 彼はそこで一度言葉を留め、息を思い切り吸い込んでから改めて口を開く。
「――“奪い、放つ”力」
 興味が消え失せうずくまっていた僕の中の黒が、再びカチリと火を付けその熱量を直接僕の心へと叩き込み始める。
「……ほう」
 僕は興奮状態を隠し、落着きを払って水島に対しそう漏らす。
「どうだい、気に入ってはくれたかな?」
 これだけの材料を目の前に出されて、食いつかない人間はいない筈だ。僕は頬の両端を釣り上げ笑みを作り、そして一度だけゆっくりと頷く。
「気に入ってくれたか。それは良かった」
 水島は腕を組んで満足そうにそう言うと僕の目の前に右手を伸ばす。その姿に僕は怪訝そうな顔をして対応する。その表情に気が付いた水島は少し残念そうにして手を引っ込めた。
「なんだ、気に行ってもまだ組んでくれる気にはならないわけだ」
「一番重要な部分を教えてもらっていないのに、了承できるわけがない」
 両の手をポケットに突っ込みながら彼をじっと見つめる。
 この道具を使用した作戦なのだ。よほど大きな内容の計画である事は間違いない。そう、失敗してしまえば「杉原修也」という一人の人物の一生が終わりへと叩き落とされてしまうような、そんな世界が待っているのだろう。
 そんな期待感を胸に、僕は水島の返答をひたすらに待つ。
 僕の問いかけに対し彼はふむ、と口に手を充てて考え込む。
「まずは、都心の人間をこれで消し去ってみるというのは、どうだろう?」
 その言葉がザクリと、僕の心を貫いた。

   ―――――

缶コーヒーを片手に僕はベンチで空を仰ぐ。星が散りばめられ本来光輝いている筈の空は何故だか僕にはとても薄暗く見えた。あの星は何故輝いているのか。こんなくだらない地を照らして何が楽しいのだろうか。そんなことを考えながらコーヒーをあおる。
「綺麗ですね」
「そうだね」
 二人の男女がそんな言葉を互いに交わしながら空を見上げている。あれがきっと本来の人の思考なのだろうとか妄想じみたことを考えてみる。多分、いややはりこういった考えをしている時点でやはり僕は歪んでいるのだろう。
 缶コーヒーを再びあおってみるのだが、先程飲んだのが最後だったようで、一滴二滴が口内へと落ちてきたのみであった。
「さて、行くかな」
 人目を憚らずに自分たちの世界を作り始めた男女達を尻目に僕は立ち上がり、白い息を吐き出しながらその場を離れて行く。
――しかしこの中で最も重要となる“複製”の玉だけ未完成なのだよ……。
 未完成なそれを作り上げるのに大分時間がかかるという事を更に挙げており、その間の空白の時間を使用して殺人犯を探して欲しいという発言をしていた。
「事を起こすのならば、まずは小さいことから……」
 彼が言った言葉を自分で繰り返す。そうすると不思議と気持ちが引き締まり、心が躍った。
 これから僕が行う事は多分この世界では『悪』に分類されるものだろう。だが、僕にとってその行動や出来事に対して正義感じみた考えは起きない。その殺人者達の思考に共感を得るつもりも毛頭ない。
 ただの暇つぶし。
 それが事を起こしたいと思った理由なのだ。それ以外に何も無い。
 僕は思う。最も恐ろしいのは「理由が無い」事だと。それと言って理由がないけれども悪さをしたくなる。そんな人間の起こした暇つぶしの何気ない「悪事」が誰かの人生や境遇を変えてしまう事こそ、気が狂いそうなほどの恐怖だと思うのだ。
 例えばこうやって闇夜を歩いている中に突然犯罪者が現れて僕を殺害し、そのまま闇夜へと放置して逃げ去っていったとする。ばったりと出くわし「丁度良い」と思ったからその犯罪者は僕を殺した。そこに理由も何もない。そして何気ない出会いが僕の人生を断ち、生から死へと突き落してしまった。この突然の逃げようのない突然の死を目の当たりにした人間に残るのはきっと「恐怖」だろう。
 生への渇望。
 死への畏怖。
 狂気の混じった意識。
 痛みが支配する世界。
 挙げて行けばまだまだあるだろう。
「人一人殺したことのない僕の単なる妄想……」
 ぼそりと呟いてみる。周囲に誰かいれば嫌悪を込めた視線を僕に向けてくるだろう気の狂った言葉。
「――インフェルノ君、いるかい?」
「いるよ」
 僕の言葉に対し彼は三文字で返事を返す。後方へと視線を巡らせると、確かにそこに闇の中でも目立つ赤い瞳の少年が立っていた。
「対峙は君に任せるよ。俺は電話越しにやるから」
「なんで自分で会おうとしないんだ?」
 彼は不思議そうにそう尋ねてくる。僕は微笑み、そして皮肉気に彼に言った。
「俺は君と違って普通の人間だからだよ」
 そう、心にもない事を一言。

―――――

 確か彼はそれを持っているだけで良いと言っていた筈だ。この黒い玉を手にしているだけでその人間に色を付けてそれぞれの区別をすると言っていた気がする。
「無色」は人を殺したことのない人間。
 「赤」は人を殺したことのある人間。その濃さによってその者がどれだけの人を殺害したのかが変わるらしい。
 「黄色」は犯罪者予備軍。つまりは何か犯罪を計画している人間に対してのもの。
 「緑」は、命を落とす事になる人間。
 また、殺人を犯した人間でも、何か計画をしている者がいる場合その色は黄色になっているらしい。
「全く、警察の手に渡ったら犯罪者が全て駆除されてしまう代物じゃないか……」
 僕はこの特殊な瞳を使用できる黒い玉を見ながらそう言葉を吐き出した。これを奪われることは本当に阻止しなくてはいけないようだ。その為の「仮初の組織」なのだろう。小さな事件を起こしていくことでその裏に潜む本来の計画の姿を隠し、そうしてゆっくりと、じっくりと僕らの最大の猟奇殺人への階段を昇って行くのだ。
 黒い玉を見つめながらそんなことを考えていると、インフェルノが僕の肩を掴み、凄まじい形相で睨んでくる。
「それを“使用”した場合、あんたを殺す事になっている事を忘れるなよ」
 そんなこと分かっている。彼が付いた時から交渉以外の何かがあるとは思っていたし、黒い玉をそう簡単に使われてしまったらどうしようもない。
「安心しろよ。そんな馬鹿なことをして計画に支障をきたすようなことはしないさ」
 目の前で緑色の光で輪郭をなぞられた彼を見つめながら、僕はそう返し不気味に笑う。僕が自分でも気持ち悪いと思えるのだから、きっと相当ぎこちなくて気味の悪い笑みなのだろう。
 この黒い玉を自らの指でも何でもいいから傷をつける事でその傷つけた人間に永久的にこの能力を使わせる事が出来る。今はまだ試作段階だからどうやらこの瞳と創造の玉は一回限りとなっているようなのだ。
「さて、行こうか、一人目に会いにさ」
 そう言いつつ僕は目の前に存在する校舎を見つめる。僕が現在通っている高校。ここに一人、強烈な赤色を放つ人間がいるのを僕は今さっき確認したのだ。
「どんな殺人鬼なのか楽しみだ……」
 恍惚とした感覚を覚えながら僕を静かにそう言葉を漏らした。

   ―――――

 突然の出来事に、私、山木保は混乱していた。
「なんだ……お前……」
今日の目当てであった“玩具”が目の前で丸焦げにされた事で私の心が熱くなっていく。
そこで上から見下すような視線をこちらに向けて挑発的な笑みを浮かべている赤眼の男をじっと見る。私が殺意を込めた視線を送っても彼はぴくりとも反応を見せない。
「あんたを待ってたんだよ」
 赤眼の男は一言そう言うと右手を差し出す。
「……なんの真似だ? 私の犯行現場を抑えに来たのではないのか?」
 彼は首を横に振る。
「山木保、お前はどんな“殺し”が好きなんだ?」
 その言葉に私の背筋がざわめく。冷たい感覚が周囲を支配し、まるで突然冷凍庫の中にでも放り投げられたかのような感覚を覚えた。
――こいつは何かヤバい。私は彼と視線を外さずに、そのままの姿勢で後退していく。背を見せれば多分私も彼のタネの分からない異質な“トリック”によって今日の“玩具”同様に灼熱に焼かれてしまうだろう。
 しかし、彼はただ笑っているだけでこちらに危害を加えようとする気配が全くない。後退していた足を止め、私は呆けた顔のまま彼をじっと見つめる。
 すると赤眼はその長髪的な笑みを浮かべたままゆっくりと両の手を挙げた。
「安心してくれ。あんたを殺すつもりも、捕らえるつもりもこちらには全くない」
「……じゃ、じゃあ何がしたいんだ?」
 その問いかけに対し彼が答えた言葉は、私の予想を遥かに超えたものであった。
「――とある組織を作ろうとしているんだ」
 そう言うと彼はカツン、カツンと足音を響かせこちらへ歩み寄ってくる。本来なら警戒するべきであるその状況に、何故か私は足を止め、彼の次の言葉をじっと待ち続けている。これは、何か悪い夢なのだろうか。
「殺人鬼を集めて祭りをしたいんだ」
「まつ……り……?」
 そう。赤眼は頷く。
「俺達でこの先出てくるだろう殺人者の為の“道”を作るんだ」
「道?」
「全てを蹂躙し、命を脅かし、心を恐怖で染め上げるんだよ」
 その魅力的な言葉に、ゆっくりと私の心が傾いてゆく。先ほどまで私の中を埋め尽くしていた疑惑や困惑、そして恐怖が一瞬にして拭い取られる。
 その私の中身を読み取ったのか、彼はふふ、と先程とは違った笑みを浮かべながら手を前に差し出す。
「俺の所属する組織“way:”に興味はないかい?」
 気付けば私はその手を迷いなく取り、ふつふつと沸き立つ自らの狂気に身を委ねた。

   ―――――

「なんだよ“way:”って。少し恰好悪くはないか?」
 交渉を終えたインフェルノは僕に対しそんな文句を吐き出す。まあ確かに惹きつけられるものが何一つない組織名であるが、これだけシンプルだからこそ今後の目立ち方で人々の脳内に強く焼きつけられる文字となる。
「良いだろう。誰でもすぐに“覚えられる”言葉さ」
 その言葉にインフェルノはああ、と納得の色の乗った声を漏らす。
「それにしても、随分と出来の良い説得をしていたじゃないか」
「あれだけインパクトのある説得をすれば、誰だって着いていきたくなるだろう?」
 インフェルノが笑う。確かに、大きな組織の中で身の安全を確保しつつ欲を満たす事のできる場所があると知れば、スリルではなく“殺す事”を楽しんでいるタイプの殺人鬼は利用したいと考えるだろう。そこに付け込むことができたのはやはり、インフェルノもまた彼らと同類である“殺人者”だからなのだろう。
 彼が今後死ぬ、つまりは“処分”される存在だと思うと、なんだか惜しい気もする。彼自身は知らないのだろうが、水島はインフェルノの存在を何故か抹消したがっている。僕の言葉でなんとか留めてはいるが、何故彼がそこまでインフェルノを処分したいと思っているのか、とても不思議でならない。これだけ優秀な研究成果であるのに……。
「それで、その玉を利用してみた感想は?」
 物思いに耽っていると突然インフェルノがそう僕に問いかけてきた。僕は手元の黒い玉を手のひらでコロコロと転がしながら、一言「最高だ」と答えを返した。
「あとは生命を奪う玉を作り上げることができれば、素晴らしいイベントが開催できる」
「今はそのための下ごしらえだけどな」
「分かっているさ」
 ああ分かっている。僕らがしようとしている事は未だかつてない、一瞬にして都市全ての人間の生命を強奪するというものなのだから、その為の隠れ蓑として使用する組織は完璧に仕上げなくてはならない。
 一生に一度の大博打に想いを震わせながら、その緊張感を噛みしめ、僕は笑った。

   ―――――

 同時刻、その場にもう一人客人が招かれていたという事を、彼ら二人は知らない。
「……」
 物影で必死に自らが発する音を消し、インフェルノと杉原の会話に耳を欹てている客人は、彼らの会話を聞いて顔を青くしている。
――生命を奪う……玉?
 それは、あの少年が何もないところから炎を出した事と何か関係があるのだろうか。客人、もとい水島沙希は自分なりに情報を整理し、自らの考えを組み立ててゆく。
――止めなくちゃ……
 彼女は震える身体を抑えて、どこかへと向かう二人の後をつける。それで何ができるかなんてわからないが、とにかく彼らの組織の場所を知っておかなくてはならない。水島沙希はそう感じたのだ。

 運命が巡る。舞台はゆっくりと、それでいて着実に幕を上げ始めていた。
46, 45

  


 とある情報屋に、その女性はいた。
「この間の依頼、どうなりましたか?」
 女性はその店員に対し無に近い表情で問いかける。店員は残念そうに首を横に振り、そして申し訳ないと一言添える。
「そうですか、ありがとうございます」
「ああ、でも一つだけ……」
「なんです?」
 店を出ようと上着を着て傘を差そうとした時、店員が思い出したかのような口調で彼女を引きとめる。
「ここ最近、有名な連続殺人犯達が裏で集まってるらしい」
「それが、何か私の依頼と関係が?」
 店員は気まずそうな顔をしながら、ここからは私のひとり言なのだが、と何かでよく使われていそうな台詞を吐く。
「非合法を良く知るのは非合法な奴らだけだ。危険だが、その裏で作られ始めている組織に混ざり込むことができれば……」
 なるほど、と女性は頷く。確かに私の依頼は非合法そのものだ。人殺しに関連している可能性だってある。
 彼女は店員のカウンターに金を思い切り叩きつけてから、先程の無表情さからは予想もできないような形相で店員を睨みつける。
「その話、乗ります」
 女性の言葉と共に、店員は口の端を釣り上げて笑い、そうしてから静かに一言つぶやいた。
「ようこそ、異常者の世界へ――」

   act.7-5
   ―水島沙希のはなし―

 私は一体何故あんな行動に出てしまったのだろうか。
昨夜の夜でも目立つ赤目と黒髪の二人の不穏な話を聞いてしまい、そして彼らの組織のアジトのようなところまで後を付けてしまった。そしてあろうことか、そこで彼ら二人を待ち構えていたのは……。
「おはよう、沙希」
 今、目の前で何事も無かったかのように朝食のジャムをたっぷり塗りつけたトーストを齧っている父であったということ。
 いつもどおりの気楽そうな顔でトーストを齧り、新聞につらつらと目を通しているこの人の事を見ていると、昨夜のあの悪魔のような笑みが嘘で、昨日の出来事も全て夢だったのではないかと思ってしまう。
「……ん? どうした、沙希?」
「え? ううん、なんでもないよ」
 疑わしい視線を送り続けていた事に気が付いた私はすぐに父から視線を外し、そうしてから自らのトーストに齧りついた。サクリ、と香ばしい音が響き、トースト自体の温度によって適度に解けたマーガリンが香ばしさを引き立てている。
「そういえば母さん。今日は遅くなりそうだから、そのつもりで」
「ええ、頑張ってきてくださいね」
 父の言葉に対し母は微笑みながらそう言った。その返答に満足げにああ、と声を漏らし頷いている辺り、やはり昨夜の父の姿が当て嵌まらない。
「そういえば、沙希は塾の方はどうなんだ?」
「え!? あ、私!?」
 突然声をかけられたという事もあって、私は裏返った声で父に返答を返してしまう。どうした、今日はなんだか変だな、と父は苦笑しながらこちらを見ている。私はその言葉に首元を擦りながら笑って誤魔化し、再びトーストにかじりつく。
「で、どうなんだ?」
「別に至って普通よ。行きたい所には届きそうだから」
「そうか、お前は俺に似て理系が得意だからな」
 父は腕を組んでから、ふんと鼻を鳴らした。
「そこまでではないよ。でも、進路はちゃんと安定したところにするから安心して」
「安定した生活は大事だからな」
 この場合、父と私の言う安定、という意味が微妙に違っている気がしないでもないが、まあ完全に間違っているわけでもないのでここは黙っておくとしよう。いつまでも隠し続けているなんてことはできないのだが、十七歳の少女が告白するには幾分大き過ぎるものがある。
「さて、そろそろ時間か」
「お父さん、今日は遅かったり……する?」
 何気ない問いかけに対し父は訝る。
「……今日は、何かあるのか?」
 その言葉の重さに、私の脳が危険信号を出す。しまった。と言ってから気が付いてしまった。
「別に、最近なんだか帰りが遅いなぁと思って」
 咄嗟に捻りだした言葉だったが、父の帰りを聞く理由としてはおかしくはないだろう。
「いつもと同じ位だとは思うんだが」
「い、いや私の勘違いだったらいいの」
 何故だかむしろ危険な方向へと話が向かっているような気がしてならない。こちらを見る父の目もなんだかとても濁っていて、違和感の様なものを感じる。
「なぁに? 早く帰ってきてほしいの?」
 母がその会話に割り込むようにして介入してくる。母の言葉がかなりの助けになった。この母の言葉を活用する以外に道はもうないし、なんとか乗り切るしかない。
 私はトーストを一口齧ってから、苦笑いする。
「違うの、えっと……ほら、最近ここら辺って事件がよく起きるじゃない? 隣町の学校の付近とかも怖いし」
 そうか心配してくれていたのか、と父は柔らかな微笑みを浮かべる。この表情の変化の仕方に得もいえぬ恐怖のようなものを感じるが、とにかく今は気のせいという事にしておく。
「隣町の学校の方は行かないから安心しなさい」
「それなら良いわ……。良かった良かった」
 私はそう言ってトーストの最後の一切れを口に放り込んでから、時計を見る。そろそろ向かわなくてはならない時間帯。これでどうにかこの父の違和感のある空気から離れられそうだと心の中で安堵する。
「いけない、もうこんな時間」
 少し演技がかった台詞だと自分でも感じたがそんな事を気にしている暇はない。急いでいる素振りを見せてとにかく――
「父さんもそろそろ出るつもりだ。どうせなら乗っていくかい?」
 私の心臓がドクンと一度高鳴り、そしてそれを合図に全身が凍り付いた。

 いってらっしゃい、と母はにっこりと笑みを浮かべながら手を振る。そんな母に私は窓越しに手を振り、作り笑いを浮かべる。
 私と父を乗せた車が、ゆっくりと発進した。
 後ろへと飛んで行く風景を眺めながら、私は話題を必死に探し続ける。これだけ無言の空間だと、余計に昨日の出来事を思い浮かべてしまう。父の威圧感にも似たそれを回避できなくなった今、何か会話をすることで気を紛らわせなくては。
「……有紀は?」
 必死に絞りだした話題を私は父に提示する。
妹は昨日から風邪気味で寝込んでいたが、今日はどうするのだろうかという問いかけを父に言ってみる。
「ああ、有紀は具合が良くなったら午後から出るそうだよ」
「そっか、良かった。あれだけぐったりしてるってのも珍しいからね」
「お前の方がいつも活発的だろう。昔から目を離すとすぐにうろちょろと動き回っていたもんだ」
 父のちょっとした突っ込みに対し、私は笑みを浮かべる。確かに妹は比較的おとなしくてそんなに動き回る子じゃあない。
「そんな活発的じゃないよ。普段はおしとやかですから」
 赤信号だ。私がそれに気づくと同時に、父もブレーキペダルを踏んだ。
「昨日だって塾帰りに人をつけ回すなんてことをしていたじゃないか」
「それは――」
 全身の血が凝固する。瞳孔が開く。開いた口が塞がらない。
 今、父は一体何と言っただろうか。
「……え?」
 思わず私は言葉を漏らす。今の発言は多分聞き間違いだと、そう思いたかった。私はゆっくりと首を右に捻り、運転席に座る父に視線を向ける。
父の眼は既に親としてのものではなくなっていた。
「どこまで知った?」
「いろんな人と何かを話してるところを見てたけど、遠くからだったから声は……」
「そうか」
 青信号。
 再び車は走り出す。父の繰り出した三文字に“信用”という文字は確実に含まれていないだろう。私が父の計画、そして玉の存在を知っているという事を多分父は把握している。
 普段滅多にかかない汗が噴き出る。握りしめた両手が汗で湿る。早く学校に着かないだろうかと懇願するように、普段信じもしない神様にひたすらに祈り続ける。
 不意に、車が止まった。ブレーキによる反動でさえも、今の私には恐怖の対象となっていた。
「沙希」
「は、はい……?」
 できるだけ平静を保って言ってみるが、それでも多分声は震えていただろう。
 彼は私の父で、私は彼の娘なのだ。流石に口止めとして殺す事は、いやその可能性だってないとは言い切れない。だって、父は都心で無差別殺人を起こそうとしている人物なのだから……。
「あれはお前の友達か?」
 その言葉に私は俯いていた顔を上げる。窓の外で私の友人が手を振っていた。
「うん」
「お友達と一緒に行く方が良いだろう。ここで降りるか?」
 私は迷わずに縦に一度頷いた。

   ―――――

 車を降りて逃げるように車から離れて行く娘を見送ってから僕は合図を出して再びアクセルを踏み、車線に戻る。あの様子からして多分娘は僕の計画の全容を聞いてしまっている。さて、どうしたものか。
「まぁ、殺すか」
 どうせならば僕自身も死んだこととして、顔を変えて活動するのも良いかもしれない。上の野次馬な存在も私が捕まる事でどうなるかを知っているだろうから手を貸すだろう。そうして「水島潤」をこの世から抹消すればこの様々な足枷も消えるだろう。
 妻や娘を殺害するのは少し惜しいと思うが、そのうちの一人に知られてしまったのだ。仕方のないことだろう。いや、むしろ自分を殺すという案を思いつかせてもらったのだ。僕は沙希を褒めるべきなのかもしれない。
「さて、創造の玉のテストも兼ねて“死ぬ”のもいいかもしれないな」
 私は新たに思いついた案を頭に浮かべて、胸をときめかせながら、アクセルを更に踏み込んだ。

   ―――――

 さて、これからどうしようか。もしも友人を見つけられなかったら、もしかしたら私はここに来れなかった可能性だってあった。奇跡的にもなんとか退路を見つける事ができたのだから、逃亡を図るべきか。
「どうしたの? 朝から変だけど」
「ううん、何でもない。ちょっと考え事してただけ」
 心配の色を浮かべている友人にそう言ってから私はこれからの事を考え続ける。
 知らないふりを決め込むのはいけないと分かっている。今この事実を知っているのは私だけなのだから。だれかに助けを求めるべきだろうか。
 そこで、一人の男性が脳内を掠める。
「……みよこちゃん私ちょっと早退するね」
「え、ちょ、ちょっと!?」
 着いたばかりの教室を出て、私は玄関口へと駆け出す。その間にポケットから携帯を取り出し、一人の人物へと電話をかける。
 電話は、すぐに繋がり、いつも聴いている彼の声が聞こえてくる。
『――もしもし、沙希?』
「要せんせ、お願いしたい事があるの!!」
 階段を飛び降りて下駄箱へと転がり込み、靴を履き替える。
 今の時間、父は仕事場の筈だから、あの場所にはいない筈。やるなら今しかない。その為には私一人じゃどうしようもない。だから、お願いするしかない。
「信じてもらえないかもしれないけど、信じてくれる?」
『落ち着いてよ、何をそんなに――』
「お父さんがテロを企ててる。都心の人間を一気に殺そうとしてるの」
 信じてもらえないと分かっていても、伝えるしかない。今信じられるのは彼しかいないから。
 受話器から彼の声が聞こえてこない。突然の発言に多分彼は戸惑っているのだろう。当たり前と言えばあたりまえだ。もしも信じてもらえないようならば自分が単独で潜入するしかない。
『あ、あのさ……』
 要先生の声が受話器から聞こえてくる。
『どこに行けばいい?』
 心なしか強張っていた感情と焦りが和らいだ気がした。

   ―――――

「なぁ、俺達、最終的にどうなるんだろうな」
 不意に頭に浮かんだ疑問をケルピーにぶつけてみる。多分答えはいつも質問をした時と同じものなのだろうけれど。
「知らない」
 やはり予想通りの返答か。
 俺はきっと最後は自爆して終わるのだろう。それだけは分かっている。成長の促進のほかにある、この植え付けられた特異な能力の唯一の弱点なのだから。だが、無駄に生き残ってこのままずっと人体実験をされ続けるのならその方がマシだ。
 ケルピーは自らの欠損した点をちゃんと把握しているのだろうか。
「なぁ……」
「何?」
 とてつもない殺気を放ちながら彼女はこちらを見据える。この様子だとこれ以上無駄口を叩けば殺しにかかってくる可能性もある。ここは黙って置く事にしよう。俺は肩を竦め、ベッドに寝転がる。
 研究所を護衛しろという命令は受けてない。ここは静かに眠っているに限る。
「お前、何があっても馬鹿な真似だけはするなよな」
「……」
 返事はなしか。まぁいい。とにかく自分に迷惑がかからなければそれでいいさ。
 俺は彼女を一瞥してから、ゆっくりと瞼を閉じた。

   ―――――

「沙希!」
「要せんせ!」
 集合場所、つまりは例の集団の集まっていた隠れ家の前で私と要先生は合流した。
「沙希、本当だと信じていいんだね?」
 息を整えながら要先生は私にそう問いかける。簡単に信じられるものではないが、もしも信じてもらえず、私自身もここでの潜入に失敗してしまったら取り返しのつかない事になってしまう。だからこそ、機転の利く要先生を呼んだ。
「確実にとは言えない」
 けど、私はスカートの裾をぎゅっと握り締め、地面を見つめる。
「……ここでもしも立ち止まったら、取り返しがつかないことになる気がするの」
「……」
 黙ったまま私を見ている要先生。信じて付いてきてほしい。誰かを巻き込むのは悪い事だと思っているが、私一人では多分何もできずに終わる気がするのだ。
「お願い、信じて」
「……」
 要先生は眼を硬く瞑り、私から視線を逸らす。
 私はそんな要先生の姿をじっと見つめながら、返答を待つ。
 静寂が周囲を取り囲む。私はそんな中、無言でひたすらに待ち続ける。

「僕は……」
 ゆっくりと吐き出された言葉。それはこの静けさを断ち、そして同時に何か柔らかな空気を私に感じさせた。
「信じるよ。君の言っている事だ」
「要せんせ……」
 それに、要先生は続ける。
「何かを救う為なら、僕はいつだって全力で協力するから」
そう言って彼はゆっくりと微笑み、私の裾を掴む手を剥がし、握り締める。
「……あり、がとう」
 彼はその言葉を聞いてにこりともう一度笑い私を思い切り抱きしめる。広い胸が、私よりも太くて暖かな腕が、とても心地よく感じる。
「さぁ、行こうか」
 そう言って彼は入口を指さす。私はその場所を見て、次に父の姿を思い浮かべた後、一度深く頷き、そして彼と手を繋いだ状態で歩き出す。
 要先生はその扉に手をかけて、ゆっくりと横に引く。
 ガラリ。

 その音が、私達の別離を告げることとなる音だとは、この時は予想もしていなかった……。

 鈍い色をしたアタッシュケースを脇に抱えて私と要先生は一目散に入口へと向かう。中に黒い玉が二つあったことをしっかりと確認してから持ってきたので間違いはない筈だ。
 父の計画の中で最も重要な、命を奪い取ることのできる玉が多分この二つのうちの一つなのだろう。ならばもう一つは一体どういったものなのだろうか。とにかくこの場を離れてから何かしらの確認をしてみるべきだろう。
 刹那、私の頬を液体がするりと掠める。
「――!?」
「侵入者は死ね」
 黒髪の少女は殺気を放ちながら私達に向けてそう言う。同時に頬からどろりと生暖かい液体が流れ始める。先ほど掠めた液体に何か仕込みでもあったのだろうか。私は横にぱっくりと切れた頬を抑えながら、目の前に立ちはだかる若い声の主を見た。
「沙希」
「大丈夫、心配しないで」
 心配してくれている要先生にそう言ってからじくじくと痛む頬から流れ出る血をぐいと拭いとってから制服にごしごしと擦りつけ、そうしてからこの後の行動について必死に考える。
 私はただの平凡な女子高生の一人にしか過ぎない。ここであの少女に立ち向かったとしても、今の不可解な攻撃を受けて返り討ちにあうだけだろう。
「それをこっちに渡して」
 暫く思考を巡らせていると、黒髪の少女は右手をこちらに差し出してそう言う。指は多分この私の抱えているアタッシュケースを差している。
「……これを渡せば、無事に返してくれるの?」
 そう問いかけてみると、少女はふふと見下すような笑みを浮かべてから私を指さす。
「渡さないならいたぶってから殺す。渡すなら痛くないように殺してあげる」
「結局殺されるのね」
「ここに入って来た時点であなた達は死ぬ以外道はなくなったのよ」
 そう言うと彼女は指をさしていた右手を開いて掌をこちらに向けた。
――来る。先刻と同じような特異な攻撃を少女は放つつもりだ。
 しかし何故少女は二人ともを狙おうとしないのだろうか。
「……要せんせ、あの子が襲ってきた瞬間に、あの子に体当たりをして」
 私がささやく程度の声量で隣で身構える彼に向けて呟く、その囁きに要先生は驚愕の色を浮かべている。が冗談ではない。冗談でこんな言葉を吐き出すことなの出来ない。
「僕はともかく、君は……」
「大丈夫だから、お願い」
 少女から目を離さずに私は要先生に向けて強く言う。納得はしていないようだったが私の真剣さをくみ取ってくれたのか、要先生はそれ以上何も言わず一度頷く。
「……液体が浮いてる」
 身構えつつも、目の前の異常ともいえる光景に私は思わず目を奪われた。半透明の液体がゆらりと宙を浮遊し、その場でゆらりと形状の変化を繰り返している。あの液体がどうやって私の頬を切り裂く様な鋭利なものとなったのだろう。液体が刃と成り得る状態といえば一つしかないが、そんな事があんなゆらりと蠢く液体を使用してできるものなのかと、傷を負う以前ならばそう考えてしまっていたと思う。
 信じるしかない。そしてこの異常な空間から抜け出さなくてはならない。
「ばいばい――」
 少女の言葉に宙に浮いていた液体が即座に反応を見せ、細長く形状を変えたそれは私に向けて一直線に伸びてくる。
「要せんせ!!」
 同時に私は要先生へと言葉を放つと、瞬時にその一直線に伸びてくるソレを間一髪で回避した。要先生は私の言葉の通りに少女との距離を詰めにかかり、そしてそれを少女は防ごうとしない。
 予想は当たりだ。二人同時に狙ってこないのではない、狙えないのだ。
 どれだけ特異で防ぎようのない攻撃だとしても、たった一つ弱点さえ見つける事ができればなんてことはない。あとはその弱点を駆使できるような動きをすればいいだけだ。
「――!?」
 刹那、脇に衝撃が走る。そのあまりの痛みに私はぐうと唸り、そして床に転がった。
「――この!」
 激痛によってあふれ出てくる涙。歪む世界。
その中で彼は少女に体毎ぶつかっていき、そして壁へと叩きつけた。
「要……せん……せ……」
 私は捻り出すようにそう呟く。多分あの刃物と化した水を少女が横へ薙いだのだろう。自分の思考が勝利を宣言してしまった結果の失態だ。
 真っ二つにならなかっただけまだマシではあるが、この怪我はきっと最終的に私の命を奪う事になりそうだ。身体がそう訴えているのだから、間違いないだろう。
「沙希っ」
 痛みで飛びそうな意識を必死に保っていると、要先生がこちらへと駆けつけてくる。視界がぼやけていて良く見えないが、多分彼はとても青白くなっているようだ。私は首を横に捩じって、私を見下ろす要先生に向けて微笑む。
 先生は自らの上着を切り裂くと私の傷口にそれを充て、ぎゅうと縛る。
「どうにか、なりそうだね」
「ああ、だから早く治療のできそうな場所に行こう……」
 ふわりと、浮遊感。一瞬私は死んで、幽霊にでもなってしまったのかと思ってしまったが、そうではなかった。
「要、せんせ……?」
「待っていろ、すぐに連れて行ってやるからな!!」
 童話でよく見る抱き方で彼は走り出す。私に振動を与えないように気遣ってくれているのか走り方にぎこちなさがある。
「えへへ、お姫様だっこされちゃった……」
「してほしいなら何度でもしてあげるさ、その傷を治療してからな」
 そう言って要先生は私に微笑みかけてくる。私は両手でアタッシュケースをぎゅうと強く抱え込み、意識を保ちながら彼に笑みで返答を返す。
 もう彼も分かっている筈だ。
 浅黒い出血。つまりはこれが内臓にまで届いているという事――

 もう、助かる可能性が極端に低いということを……。

   act.7-6
   ―越戸要のはなし②―

 多分もう助からない。そんなこと傷を見た瞬間に理解してしまった。
 ぱっくりと脇腹からへその付近まで綺麗に切れた服と、それを濡らしていくどす黒い液体。裂けているところまであの水の刃が到達しているとすれば既に幾つかの内臓はやられているだろう。
 けれども、信じたくない。あと数分と経たずに彼女の生命が消えてしまうなど思いたくもない。
「安心しろよ、絶対に助かるから!!」
 そう声をかけても彼女はただ微笑むだけで、一言もしゃべろうとしない。それだけ衰弱しているのだろう。一応応急処置として中身が出ないように布で抑えてはしてみたものの、血が止まる気配は全く以てない。
病院に連絡という考えは、脳内から既に消えていた。呼んだとしても来るまで間に合わない。それに、少しでもあの場所から遠ざかっておかないといけなかった。
「――!?」
「うわっ!?」
 刹那、誰かと身体が衝突した。その衝撃でアタッシュケースが落ち、黒い玉が二つ、地面に散乱する。同時に僕と衝突した少年も尻もちをつく。
「ごめんなさい!」
 僕はしゃがみ込み、落ちた玉を二つ拾い上げ、アタッシュケースを投げ捨てると少年を尻目に走り始める。後方で何か叫んでいるような気もするが、言葉に耳を傾けている暇はない。僕は更に走る。
 ふと、僕の服を彼女がぎゅうと掴む。衰弱しているにもかかわらず、彼女は必至の形相で手を動かしている。
「……降ろして」
 語気を強めてのその言葉に、僕は何故だか従ってしまった。沙希を道路の隅にあった階段にそっと寝かせる。よく見ると胸から下着にかけて真っ赤に染まっている。同時に僕の服にも夥しい程の量の血が服に付いて、紺色の服が真っ赤に塗れている。
 はっとして見ると、今まで来た道に点々と血痕が残っている。何故こんな簡単な事に気付かなかったのだろうか。
 さてどうしようか、確実に手負いを背負った僕の方が移動のスピードは遅いし、血痕があるために隠れる事もできない。かといって彼女を一人置いて行くことなんて以ての外だ。
「……要せんせ、今考えてること、当ててあげようか」
 沙希はそう呟くと数回咳き込み、そして最後に一度血を吐き出した。
「沙希!?」
「もう駄目みたい……」
 慌てての手を握り、額を撫でる。体温が低くなっていて非常に冷たい。既に彼女の体は生きている人間が持っているものとは程遠い温度となっていた。
 つまり、彼女はもうすぐ命の灯が消える。その事実が僕の心にずしりとのしかかる。
「そういえばさ……あの命を奪う道具、あるよね?」
 ああ、と僕は握りしめていた二つの玉を取り出す。彼女はそのうちの一つを手に取って少し眺めてから、こっちじゃないと一言呟いた。
「こっちじゃない。多分そっちの玉が、命を吸い取る方だと思う……」
「じゃあ、これを……」
「それで私の命を、吸い取ってくれないかな?」
 どくんと心臓が一度強く脈動する。一体彼女は何を言っているのだろうか。僕は眼を見開きながら、じいと今にも消えてしまいそうなほど衰弱している彼女の顔を見つめる。
「死んであなたと離れたくないの……。だから……」
「けれども、これを誰も使わないようにする事が――」
 彼女は状態を起こすと、僕の体に抱きつく。
「お願い」
「……」
 沙希を見てから、次に手の中にある黒い玉を見つめる。
「それが、君にとっての“救い”だというなら……」
 死にゆく彼女の願いを、叶えてやろう。例えそれがしてはいけないことだったとしても……。
「ありがとう」
 目に涙を浮かべながら彼女は、にっこりとほほ笑んだ。

 そして、彼女の肉体は完全に冷たくなった。

   ―――――

「まさかごっそり持ってかれるとはな」
「僕も驚いた。それも身内の犯行だということにね」
 瞳以外の玉の入っていたアタッシュケースの消えた研究所で、彼は青ざめそして周囲をうろうろと忙しなく動いている。
「瞳の玉は俺が持ってるからいいとして……」
 僕はそう呟いてから黒い玉を手のひらでころりころりと弄る。
「いや、むしろこうなってしまうと瞳は必要性を失ってい……いや、これは――!?」
 水島は手のひらで転がる玉を見て驚愕の色を見せる。
「これを、どこで……?」
 彼は一体何を言っているのだろうか。計画が崩れ去った衝撃で記憶が飛んでしまったのではないだろうか。
「どこでって、あんたから受け取った……」
「これは創造の玉だ!! 瞳の方ではない!!」
 声を荒げて彼はそう言い放った。いつ入れ替わったのだろうか。僕は記憶を巡らせてみる。
「そういえば、ここに来る途中、人とぶつかって、その時に玉を落としたな」
「それだ」
 それが玉を奪った犯人だったのだと彼は手を何度も叩いて喜んでいる。入れ替わったとしても結局重要な玉は盗られたまま。どうしてそこまで喜ぶ事が出来るのかと僕は目を細めて彼を睨んだ。
「ああ、説明をした方が良かったな。私がしようとしていた計画で、何故創造の玉が必要なのか分かるか?」
「瞳はこの計画のカモフラージュの組織を作る為だとして……なんだ?」
「あの玉は副作用があってな、致死レベルまで相手の生命を奪う度に身体が侵されていくんだよ」
「へぇ」
「テロとして私や君が自ら行動を起こして死んでも困るだろう?」
 ここまで言えば分かるだろう、と水島は気味の悪い笑みをこちらに向けている。
「創造の能力を使って生命を奪う玉のレプリカを増やすとかか?」
「レプリカの場合本物以上の効力は出ないが、それでも周囲の人間を巻き込む程度の威力はある。つまりそれを各場所に設置して、能力を発動――まあ起爆させるといったところか」
「仮に本元が使用済みであっても、それをその玉さえあればレプリカの量産は可能だ」
 つまりは今現在所持している人物から玉さえ奪い取る事ができれば計画は無事に行う事ができるわけだ。それなら問題はなさそうだ。このまま計画が頓挫するならここからの逃走も考えていたが、その心配もなさそうだ。
「それで、創造は確か未完成だったな?」
「ああ、玉のレプリカを作っても、能力までは再現できないだろう」
「じゃあ、人のレプリカはどうなんだ? できるか?」
 その問いかけに対し、水島は少し驚きの色を浮かべた後に、深く頷いた。
「俺という存在が自由に動ける環境を作りたい。その玉、貸してくれ」
 我ながら良い案だと、不敵な笑みを浮かべながらそう思った。

   ―――――

 腹部に走る肉が裂けていくような激痛。僕はその苦痛に顔を歪めながらシャツを捲る。
――水。
――水島。
――水島沙。
――水島沙希。
 ゆっくりと、じわりじわりと裂けていく僕の腹部の肉が、最終的に彼女の名をこの身に刻んだ。
「なんだ、これ……」
 激痛が引いていくと共に裂けてできたその名前はいつの間にか浅黒い痣となって残る。
 僕はその痣をゆっくりと撫で、そして目を硬く瞑る。彼女が望んだとおりに今、僕の中に沙希がいる。目の前で横たわる彼女の前で僕は跪くと、その抜け殻に向けて静かに祈る。
「君とはもう絶対に離れないから――」
 彼女の手から黒い玉を取ってからポケットに入れると、僕はその場から離れるべく立ち上がり、踵を返して地を蹴った。
 この黒い玉を捨て去る為に、彼女が必死であの異様な空間で必死に計画を破たんさせようとしたことに応える為に、僕は彼女の志を背負い、責任を持って最後まで処理をしなければならない。
――沙希……。
 僕は溢れ出る涙をぐいと一度拭いとると、拳を強く握りしめ更に地を蹴った。
48, 47

  

 何故、このような状況となってしまったのだろうか。私は地面に座り込み、現状を飲み込もうと必死に思考を巡らせる。
「なんで、こんなことになっているの?」
 レッカー車がゆっくりと、ゆっくりと大破した車を引き上げてゆく。
その車を私はよく知っている。知っているも何も、ソレは遂先日まで私の家にあったものなのだから。
 ここに突っ込んだ三人の家族。娘、父、母は即死だったと聞いた。娘に至っては強い衝撃を受け、引き上げられた時にはもう外見で判断が出来ない状態だったという。
 私が寝込んでいるうちに、何故そんな出来事が起きてしまったのか。
「……そうだ、あの手紙は」
私は涙も枯れ果てた眼で、ポストに投函されていた封筒を懐から取り出し、封を切って逆さまにした。
 あらかじめ下に用意していた掌の上に、コロン、と黒い玉が乗った。
「……?」
 私はそのビーダマ程の大きさのそれを暫く手の中で弄ぶ。これは、一体何に使用するものなのだろうか。何かこれを私宛に送ってきた理由が書かれたものは無いのだろうかと封筒を覗き込む。
 あった。
 一枚、何かを千切って適当に突っ込まれたかのような紙が二つ折りにされて入っている。私はその紙を掴み、一枚に広げ、その紙を覗いた。
――それを大事に隠し持っていてください。お姉さんとの約束を果たした後にあなたの下へ伺います。
 そこに書かれていたのはこの玉を隠し持っていてほしい、という一文だけであった。私は黒い玉を見つめた後、次にレッカーに引き上げられた車を見つめる。ふたつを交互に何度も見つめた後に、一つの結果に辿り着く。
「お姉ちゃんは、事故で死んだんじゃ……ない?」
 約束を果たした後に。そして、これを隠し持っていろという一文。つまり、姉と“誰か”は逃亡せざるを得ない状況となっていたのではないか。そしてそのうちの姉の方は捕まり、事故死に見せかけて殺されたのでは……。
 探さなくては、この状況を作り出したその“追跡者”を。
 私は立ち上がり、そして黒い玉をぎゅっと強く握りしめる。
――真実を、真実を知らなくては。
 より手っ取り早く真実を知るならどうするべきだろうか。その追跡者を探すのでは、埒が明かない。ならば……。
「……お姉ちゃん、借りるよ」
 “私”が追われる側となればいい。
「水島さんですね? ええと、私は刑事の御陵と申します。ええと……」
「……そうです」
 私は自らを偽った。
「水島沙希です。妹と……父と母が死んだというのは、本当なのですか?」
 涙も枯れ果てたその瞳に、執念という光を込め、その警官をじっと見つめた。

   act.7-7
   ―水島有紀のはなし―

「家族を失ったことは本当に悲しいが……挫けるなよ」
 担任はまっすぐな視線で私を強く見つめる。何故だか、その瞳に向き合える気がしなくて、私は眼を逸らしてしまった。
「……すみません。でも、今はできるだけ何もかも忘れてしまいたいので……」
 私は誤魔化すようにそう呟いてから担任の横をするりと抜けて廊下へと出て行く。未練とかそういったものはなかった。というか、姉のクラスメイト等あまり把握等していないので、声をかけられると非常に困った。家族を失った手前なんて声をかけていいのか分からないといったことが多いようで、幸い数人に軽く声をかけられるだけに収まった。
「では、今までありがとうございました」
 だから私は、転校を決意した。私を知る人物と会わないようにする為に……。
私は担任に背を向けたままそう言うとその場を後にする。

 最後に振りかえり、校舎の全体を見上げた。姉が通い続けた学校……。
 私は首を左右に振ると前を向いて歩き始めた。
「やあ」
 不意に赤い髪をした青年に声をかけられた。私は視線を一瞬だけ向けてからすぐに逸らし、彼の前を横切っていこうとする。
 刹那、私の目の前で小さな光がバチリと点滅し、微かだがチリ、とした熱さを感じ私は思わず後方へと飛び退いた。
「無視は酷いんじゃないかな? 水島有紀さん」
 ドキリ、と胸が高鳴った。
「……何を言っているのかしら?」
 平静を装いながら私は顔を背けて彼にそう返答を送る。
「あの家族の中で生き残ったのは水島沙希ではなく有紀だ」
「……」
「こういったことを言ってくる人物が来る事を予測してあんたは姉の名を騙っているのではないのかい?」
 赤髪の青年は不敵な笑みを浮かべている。
その通りであるが、まさかこれほど早くその“人物”が現れるとは思っていなかったので流石に私も動揺を覚えてしまった。だが、こうやってチャンスができたのならば活用しない手はないだろう。
「私を……殺しに来たの?」
 訝しげな表情を浮かべながら赤髪の青年をじっと見つめる。青年は相も変わらず不敵な笑みを浮かべて壁に寄り掛かっている。一体彼は何を思ってここに来たのだろうか。もしかして私を殺害するつもりなのだろうか。
 四人のうちのたった一人が生き残っている状況を考えれば、もしもの時の事を考えて残りの一人を消し去ろうとするのは当り前だろう(そういったことを考えて私はあえて自らを偽っているのだから)
「その前に教えてほしいの」
 私はゴクリと生唾を飲み込むと、覚悟を決めて口を開いた。
「父と母と……姉さんは、本当に事故で死んだの?」
 その問いを聞いた彼は、ゆっくりと顔を上げ、紅色に染まる瞳をこちらに向けた。あの瞳はカラーコンタクトでも入れているのだろうか。とにかく髪といい妙に人間離れをしたその色に目がいってしまう。
「――だよ」
「え?」
「なんだ、聞こえなかったのか?」
 彼の外見に注意がいっていたせいで、彼の言葉を思わず聴き逃してしまった。何をやっているんだ私は、と多少冷や汗をかきつつも聞き返してしまう。
 赤髪の彼は一度ため息を吐き出す。
「もう一度言おうか」
 私は頷く。
「率直に言おう。キミの家族の死因は事故じゃない」
 私の脳にずん、と衝撃が走る。
「やっぱり……」
 未確証であった出来事が明らかとなった瞬間、ある種“安堵”にも近い感覚が心を包み、そして同時に内に籠められていた黒い塊のようなものがその安堵による心の緩みによって噴出され始める。
 私はその噴出され始めた感情に身を委ね、ただひたすらに身を揺らす。
「やっぱり……誰かが皆を殺したんだ……どっかの誰かが……」
 自らの身体を抱きしめ、俯き、何故か笑みを浮かべながら、私はそう呟く。この感情の矛先をぶつける事の出来る相手がいるということが、たまらなくうれしかったのだ。
「キミの家族を奪った奴らに、復讐するつもりはないかい?」
 その言葉に私は頭を上げ、赤髪の青年に目を向ける。彼の紅に染まる瞳は私を映し、口基はにやり、と奇妙な笑みを浮かべている。
――ああ、彼も何か企んでいるのだな。と何か確信にも似たその思考を抱きつつも、私は“笑み”という仮面をかぶり、彼に反応を示した。
「あなたの望みは一体何?」
 その言葉に彼は即座に返答した。
「――復讐だよ。俺をこんなにした奴らに対しての、な……」
 彼は人差し指を目の前で立てると、他の指でぱちん、と指を鳴らした。
 刹那、人差し指の上でゆらりと青色の炎が生まれた。
「手品じゃないのね、それ」
 彼は頷く。
手品ではなく、もっと現実味のない“何か”であるとでも考えなければ、先程私を足止めする為に彼が出したであろうあの炎の説明がつかないのだ。
「俺はモルモットの一人だからな。キミの持っているその“黒い玉”を作り出す為のね……」
 彼の言葉で、封筒に詰められていたあの黒い玉の存在を思い出し懐から取り出した。
「この黒い玉、そんなに価値のあるモノだというの?」
「ああ、それを奪ったが為に水島家は崩壊したと言ってもいい。それほど重要な存在さ」
 これにそれほどの価値があるとは――
 黒い玉を覗き込むのだが、別段おかしなところはないようにも見えるのだが……。
「それはキミにとても素敵な贈り物をしてくれるよ。そう、例えば――」
 彼はそこで言葉を止め、にやりと微笑んだ。
「“人殺しが見える”とかね……」
 その言葉が耳に入った瞬間、私の体を電気が走りぬけていった。
「人殺しが……!?」
「それに傷をつけることで、傷を付けた本人にその特異な能力を付与する効果を持っているんだよ。君の持っているソレは死ぬ人間、人を殺した人間、殺意を抱く人間を判別できるんだ」
「……そんなことが」
 できるわけない――
 その言葉よりも早く彼は動くと、私に迫り、笑う。
「できるんだよ……コレを見た時点でキミはもう理解している筈だ」
 ゆらりとゆらめく青色の炎を見つめながら、私はごくりと生唾を飲んだ。
 確かに既に私の中でその“異常”は受け入れられつつある。だが、私自身もその異常へと足を踏み入れたくないという思いが、心の隅でがっしりとしがみ付いているのだ。
「別に事実を知れただけで満足なら、それでも良い」
「それは……」
 私が返答に困っていると、彼は更に畳みかけるように言葉を吐き出す。
「もしもここで終わるのなら、その玉を渡してくれればそれでいい。君は一生水島沙希として――」
「……やる!!」
 彼の言葉を遮るようにして、私はそのしがみついていた最後の“迷い”を摘まみだし、そして意思と声にした。
 姉の名前を使おうとしたのは一体何故か。それはこの異様な事件の裏を探って、家族の仇を取る為だ。今更何を後悔する必要がある? いや、ないだろう。
「ならば、俺はキミに力を貸そう」
 彼は不敵な笑みを浮かべ、そうしてからこちらに手を差し出した。いとも容易く炎を生むことのできる手に、触れても平気なのだろうかと若干不安要素はあったが、これも多分彼からの試練なのだろうと割り切り、覚悟をきめ、その手を握った。
「俺の名前は……“インフェルノ”だ」
「随分と変な名前なのね。まあ真っ赤な瞳といい髪といい変なのは名前だけでないのは確かだけど……」
 言ってくれる。インフェルノと名乗った赤髪の男は気味の悪い笑い声を洩らした。

   ―――――

「――と、ここが今日からキミが過ごす事となる教室だ。緊張とかは平気か?」
 何色にも属さない教師が、面倒臭そうな表情を浮かべながら私に声をかける。私は無言のまま一度だけ頷く。
 この学校を選んだのは、ここ一年間の間に異様な事件が起きているからという理由が大きかった。
 あれから一年間、この“瞳”の使い方、そしてある程度の下準備を叔父と叔母の家でさせてもらい、一年遅らせての編入となった。
 その間にどうやら殺人集団「way:」は完全に組み立てられ、行動を開始し始めていたが、なんの準備も備わっていない時に突っ込んでいったって犬死にするだけである。その為、この一年間、ある程度の犠牲者については眼を瞑らざるを得なかった。
 だが、これからは違う。まずはこの学校で短いうちに死ぬ事となるであろう人物を見つけ(未完成であるからなのか極少数に対してしか反応しないのが非常に面倒であるが)、その者を利用して組織に攻撃を仕掛ける。その協力者が目立てば目立つほどに私とインフェルノは自由に行動ができるというわけだ。
「……さて、この瞳は誰を映すだろう」
「何か言ったか?」
「いえ、なんでもないです……」
 できるだけ大人しくて無口な(といっても普段から無口である事は確かなのだが)人物を演じ、なるべく他人と関わらないようにしよう。利用する人物に情が芽生えてしまったら非常に面倒なことになる。まあ情が映るほど今の私には余裕は無い。そういったことを考えると、そんなイレギュラーが生じる可能性は無きに等しい。
 がらり、と教師は戸を開けた。
「ええ、皆おはよう」
 先ほどよりも非常に穏やかな表情で彼は教卓の前に立ち、周囲を見渡している。
 胸ポケットから小さなきんちゃく袋を取り出すと、その中に入っている罅の入った黒い玉を見つめる。
――お母さん、お父さん……お姉ちゃん、私、やってみせるから。
 ぎゅっと強く握りしめ、胸元でそれを抱きしめ、祈るように眼を瞑る。
 やっと、ここから――
 復讐が、始まる……。
「えぇ、今日は大事な連絡があるので、皆さんお静かに」
 そう言うと彼は私に向けて手招きをした。
 玉を袋に詰め、胸ポケットに押し込んだ後、私は一度大きく深呼吸をしてから、その教室に、足を踏み入れた。

   ―――――

 私はどこで間違えてしまったのだろうか。
 多分、最初の時に思わず出た言葉の時点で、私は彼の協力を拒むべきだったのだと思うのだ。
――もしもあなたが死ぬ時は、私も死んであげるわ。
 利用するだけして、彼の死期が来たら次の人物に乗り換えるつもりだった。なのに、私は最後まで彼に頼り続け、そして今、こうやって彼の死に様を見る事となってしまった。
 こんな筈じゃなかったのに……。
 彼から渡された“真実”をこの瞳で見たことによって私と、由佳は全てを知ってしまった。彼が偽物であるということも。本物と、そして死んだはずであった家族のうちの“一人”が私の仇であったこと。
「……」
「……水島さん」
 不意に、由佳は私を呼んだ。
「何?」
「私、杉原君にずっと助けられてばかりだった……」
「うん」
 何も飾るつもりはない。私はただ二文字を、彼女に返した。
「だからね……」
 そこで、彼女は振り返り、私を見つめる。片方にだけ現れた吸い込まれそうなほどに黒い瞳が、私を映している。
「このお返しは、ちゃんとしなくちゃって思うの」
「それは――」
 それはもしかしたら死ぬかもしれないぞ、という言葉は喉元でつかえ、吐き出す事ができなかった。今後死ぬであろう人物に付く色が、彼女には着いていない。特異な力を持つ人物でも反応はしていたことから、この瞳の反応は正しいのだろう。
「いいの?」
 彼女は静かに、うなづいた。
「このまま終わったら、杉原君も浮かばれないと思うから」
 その言葉を聞いて、なぜか私は笑みを浮かべてしまう。
「私も止まるつもりはないから……やっと、やっと仇の正体が分かったのだから」
 由佳はそれを聞いて、一度深く頷いた。
「それで、この瞳について聴きたいことがあるの」
 由佳の問い掛けは、大体予想がついていた。
「沙……有紀ちゃんに色がついているのは、何故?」
 その問いかけに、私は微笑みだけをただ返した。

――その時が来たら、私も行くから……。

 心の中で、私は彼にそう告げた。
「あんた、驟雨って言うのか。催眠術って結構面白いことできるんだな」
 私は無言のまま頷くと、ジャケットの内を開き、ずらりと並ぶ薬瓶を見せた。赤い髪を揺らし、くりりとしたその赤い瞳を興味深そうに見つめながら、彼は笑った。
「人を殺した事がないってのも面白いところだな」
「……」
 そう言うと彼は煙草一本分もない距離まで顔を近づけ、指先に炎を揺らめかせてみせる。私はその炎を見て一歩後退するが彼は空いている手を私の腰に回すと、にやりと微笑んだ。
「……お前、何が目的で入って来た?」
 ああ、まさか一瞬でこの組織の目的と私の目的が違う事を見破られてしまった。
「言えない」
 けれども、言うつもりは断じてなかった。
「ここで焼き殺されたとしてもか?」
 頷く。
「話す位なら死んだ方が良いのか。なんだか良く分からない奴だな」
 はにかむ彼に、私はにこりと笑みを見せた。
 話せないのは当たり前だ。彼に関連している出来事なのだから……。
「目的は、もう達成しているの」
「は?」
「だから、やることがないのよ。貴方が私の未来、決めてくれない?」
 それでもしも私が彼の盾となって死ぬのなら、それでも良い。私にとってはむしろ本望な出来事だ。
「なんだか不思議な奴だなぁ……」
 彼はどうも納得がいかないといった視線をこちらに向けて後頭部を掻いている。そして一言「あぁそうだ」と呟くと、彼はもう一度にやりと微笑み、そして私に右手を出して見せた。
「とびっきりの計画があるんだ。撹乱してくれる奴がいると助かる」
 彼が言った言葉は「手を貸せ」というものであった。
 私はその手をゆっくりと握り締めると、まるで彼が救世主でもあるかのように見上げ、そして泣いた。
 突然泣き出した私に彼は戸惑いの色を見せ始めるが、それでも私は気にせずに涙を流した。
――捨てた筈の手を、また手に取る事ができるなんて……。
 私はこの“子”にこの先命を捧げ続けるのだ。
それが私の願い、いや宿命ともいえるかもしれない。
「おいおい、新しい目的ができたことがそんなにうれしいのか?」
 困ったようにこちらを眺めている彼に私は頷いた。
――こんなに大きくなったんだね、緋色。

   act.7
   ―start line―

 組織が完全に崩壊したとは思えない。何故なら僕が手にした玉は殺人鬼を見る瞳と、今僕が身に付けている命を奪い、放出できる玉であったからだ。もう一つが一体何なのかは分からないが、テロを起こす時点で最も必要という話を彼女はしていたような気がする。
 ならばどうするべきか。
 答えは、一つだ。
 僕は息を深く吐き出すと、眼下で席に着く生徒達を眺め拳を固めた。
「君達に一つお願いがある」
 この時から僕は、悪となる。
 だがそれは、全てを救う為の悪だ。
「僕に命を……預けてくれないか?」
 ざわめく周囲を見て、ああ、と僕は予想していた光景に微笑んだ。
「あの、どういうことですか……?」
「信じてもらえるとは思わないが――」
 ゆっくりとあの時の出来事を。
 そして、沙希がもういないということ、彼女が命を張ってまでしてもきっとテロは起きてしまうだろうということ……。
 一部始終を話し終えてから僕は一息つく。生徒達を見てみると、皆呆けた表情を浮かべて視線をこちらに向けて固定している。
「これが、つい先日起こった出来事なんだ」
 重苦しい空気が取り巻く中で僕はぼんやりと虚空を見つめる。
「そして僕は、そのテロをこの力で阻止したいと思ってる……」
「何を……するのですか?」
 一息呑んでから、僕は眼を見開いた。

「――テロと同日に、僕の命を降らして死者を出させないようにする」

 それはとても冷たくて、どこか暖かいという非常に矛盾した空気だった。言い切った僕は何か一つの壁をやり過ごしたような感覚を覚えたが、すぐさまにそれが慢心であると自身を叱る。
「それで私達の命もその計画阻止に使おうと……そういうことですか?」
 僕は無言のまま頷く。
「先生は……私達に“死ね”と言っているのですか?」
「それは――」
 その通りなのだが、これには流石に頷く事が出来ない。それなりの覚悟をしてきた筈なのにもかかわらず、所詮それは“それなり”にしか過ぎないようだ。僕は両の拳を握り締めながら、それでもやらねばならないと、沙希の姿を脳裏に浮かべながら歯を食いしばる。
「――私で良かったら、協力します」

 一瞬だけ、本当に二秒か三秒程度の一瞬に一つの静寂が横切る。僕はその一言に顔を上げ、黙ったままその少女―山下由佳―を見つめる。
「先生には沢山救ってもらったから、私の命なんかでいいなら……それで大勢が救えるのなら」
 山下の一言と同時に、周囲もゆっくりと手を挙げ始める。僕はその異様な光景に目をはり、震える唇を動かす。
「いや、僕は君達の命を……犠牲に……」
「先生と一緒なら大丈夫です」
 山下はそう言うと笑った。
「……ありがとう、すまない。本当にすまない……」
 笑みを浮かべる彼女達を見回しているうちにほろりと目から流れ出た涙を、右の指でゆっくりと掬うと、僕はそれを空いている方の手で握りしめた。
 僕のやってきた事は間違いじゃなかった。いや、その結果最後の最後に彼女らを犠牲にすることになってしまった。
だがもうやるしかない。僕はもう一度挙手をする少女たちを見つめ、先程とは違った意味で、ぎゅうと唇と噛みしめた。

   ―――――

まるでどこかの宗教だな。中島悟は扉越しにその光景を覗き見ながらそう呟く。
彼は以前から越戸のやり方を良くは思っていなかったし、なによりも面倒臭い女子生徒ばかりが集まってしまったこの塾の状況に苛立ちさえ覚えていた。
何が人を救いたい、だ。憂鬱になりやすい年頃の女子生徒がただ集まっているだけのこの状況に満足しているだけの男が。
 流石に今回の出来事は、中島にとっては最早吐き気さえ覚えるようなものであった。流石にいけない。これ以上彼の独断での行動を許してはいけない。中島はどうにかして彼をこの塾から追い出す手はないものかと腕を組む。
――しかし奴が建てた塾だ。何か訴えても反対されればそれでお終いだ。
 とりあえずどうにか彼をここから追い出す方法を考えよう。中島はその宗教じみた光景に背を向けると出入り口へと向かっていく。外に出て気分転換でもすれば何か良い考えが浮かぶかもしれない。
 ジャケットを羽織り、自動式のドアから一歩踏み出す。
――刹那、右半身だけが粘度の高い液体に包まれたような感覚に陥り、同時に殺意を感じ取る。
「……!?」
 言葉が出ない。中島は必死にその場から離れようとするのだが、その粘度の高い液体に包まれたような異様な感覚のある右半身が全く動こうとしない。
「貴方が越戸要さん、ですか?」
 その殺意の塊は、丁寧な口調で中島にそう問いかける。中島は全力で首を横に一度振った。殺意の塊はそうですか、と少々しょんぼりとしながらその中島の右半身の違和感を剥ぎ取り、同時に殺意も引っ込めてしまった。
「あ、あんたは……?」
 息を切らし、激しく高鳴る胸に手を充てつつ中島は目の前に立つそれに声をかける。問いかける位なら殺されはしないだろうという根拠のない理由から思わず吐き出してしまった言葉だった。
 彼はにっこりと微笑みながら中島を見た。
「ただの警官ですよ」

   ―――――

 携帯という物は便利な物だ。何時どこでも用があればすぐに連絡を伝えられるし受ける事が出来る。
ただ、いつも職場で顔を合わせている筈の中島からその電話が来た事には多少の違和感を感じざるを得なかった。それに突然『~~に来てほしい』等と要件一言残して一方的に切るなんてこと、今まで彼はしたことがあっただろうか。
「少し、寒いな……」
 マフラーを首にしっかりと巻きつけ、はぁと白い息を吐き出す。
「越戸さん」
 声のした方へ視線を巡らせると、満面の笑みを浮かべた中島がそこに立っていた。
「中島、いきなりどうしたんだ?」
 ぬぐい切れない違和感を必死に奥に押し込み僕は平静を保ち、彼を見た。
「別に大した用ではないんです。ただ――」
 中島は笑みを崩さずにゆっくりとポケットに入れていた手を出し、鈍く光るそれを一度振った。
「死んでくれれば、それでいいんですよ」
 それは咄嗟に脳が判断したのか、気が付いた時には僕は地面に転がっていた。そして先程まで僕の頭のあった空間を中島の持つ鈍色のそれが通過していった。
「い、いきなり何を!?」
「何を、ですか? 全部あなたのせいなんですよ」
 地面に転がっている僕に対しその鈍色の金属器が振り下ろされる。僕はそれ―刃渡りは大体五、六センチといったところだろうか―を横に転がる事で避けると片膝をついてなんとか体勢を立て直す。
「あなたの吐き気がする使命感のせいで塾の生徒は頭のイカれた女だけになっちまった。この状況に誰もが賛同しているとでも思っていたのか?」
「――!?」
 ああそうか、確かに彼は以前から僕の行う事に対しずっと反対の意を示していた。
「それで、殺そうと思ったのか」
 彼は頷いた。
「幸い死んだ後のあんたを引き取ってくれる人がいたんでね。俺はあんたを殺しても何の罪もなく生きていけるのさ」
 僕はその醜く歪んだ彼の笑みを見つめ、そして思う。
――僕の道の逸れている正義も、突き通して行ったらああなってしまうのだろうか、と。
「だからさぁ……」
 中島はそれを腰の辺りに構えると片膝をついている僕目がけて地面を蹴った。
「死ねよ!」
 その言葉を聞いた瞬間に、僕の中で何か、得もいえぬ感覚が生まれる。
 嫌だ。という言葉が僕の全身を埋め尽くしてゆき、そして右手をゴキリと一度鳴らしたかと思うと、いつのまにかそれをこちらに向かってくる中島へと向けていた。

 ナイフは、頬を掠めて通り過ぎていった。
 同時に僕の手は、中島の顔をがっちりと捉え、離すまいと更に力を込めていた。
「中島悟、すまない。僕にはやらなくてはならないことがあるんだ……」

 ぬるま湯のような何かが右腕を通して僕の体に流れ込んでくるのを確かに感じた。

 ―――――

「今日は皆に一つ、言わなくてはならない事がある」
 僕の言葉にざわつく生徒達。
「今日でこの塾を閉めなくてはならなくなった。そして僕は身を隠さなくてはならない」
 この意味が分かるか、という一言は必要がなかった。先日全てを話し、全てを知っている生徒達は大体の事情を把握したようだった。よく見ると数名青くなっている者も見える。
「僕が話した事は、絶対に言わないでほしい。僕はまた君達一人一人に必ず会いに行くから、それまで絶対に心の中に閉じ込めておいてくれ」
 彼女達は頷いた。良い子だと呟いて微笑んだ後僕は、一言大きな声で彼女たちに向けて吐き出した。
「解散!!」
 その瞬間、僕はれっきとした“犯罪者”となり彼女達はただの高校生へと戻った。

   ―――――

「やあ、何か昔を思い出していたのかい?」
 その言葉に僕はハッとし夜でも目立つ赤い髪を見つけ、安堵感を覚えた。
「インフェルノ、か……」
「やあミスタースイサイド、いや越戸要」
 インフェルノはにやにやと笑みを浮かべながら僕へ手を向けた。僕はその手にぱちんと一度自らの手を重ねた。
「施し屋って名前も気に入ってはいるんだが……」
「連続殺人犯には似合わんよ」
 思い切り言われてしまったか、と僕は苦笑する。
 腰かけていたベンチの感触に多少未練を感じながら僕は立ち上がると一度大きく背伸びをする。ぽきん、ぽきん、と身体のどこかが鳴った。
「さて、昔を懐かしむ作業はもうしなくてもいいのかい?」
「十分だ。もう未練も何もないよ」
 言葉の通り、ここまで来たのだからもう未練は全くない。失敗はできないのだ。約束を守り続けてくれていた彼女たちの為でもあり、そして生きたいと願った山下由佳の為でもある。
「杉原と水島の計画まで時間がない。さっさと行こうか」
 頷き、そしてインフェルノを先頭に僕らは歩き出す。

 全てを終わらすために……。
50, 49

  

 水島という名の私は死んだ。
 杉原修也に名は最早なくなった。
「さて、これで自由に動ける……」
「だな、俺もこれからどんな行動をしようとも“ダミー”のおかげで主犯とは思われないだろう」
 二人は腹を抱えながら馬鹿笑いを始める。うひゃひゃひゃ、と気味の悪い笑い声を上げる。
「君の家族はどうするんだい?」
「ああ、もう始末してあるよ。ダミーには家族がいるように“見えて”いるけどな」
「流石は創造の持ち主であり組織の長、全て順調というわけか」
「あたりまえだ。あわよくば瞳も持ってきてほしいと思ってるが……どうなるもんかな」
 ああ、それで。と名のない彼はふと思い出したように言葉を吐き出す。
「あんたはこれから何するんだっけ?」
「ああ、折角顔を変えたことだし、下っぱの警官を演じながら計画まで“表”を見ているさ」
 警官か、それは面白そうだ。彼はふひひとまたしても気味の悪い笑みを漏らす。
「それじゃあ、決めてある日にまた会おう」
「ああ、じゃあな……」

 そして二人は暗闇に消えた。

   ―――――

「先輩、これからよろしくお願いします」
「おう、さくさく働いてさっさと腕の立つ人間になってもらうからそのつもりでな」
 木下は眼を輝かせて御陵を見上げる。御陵はさて、と呟くと目の前の惨状を見つめる。
「まずはこの事件だ……」
 鏡合わせの密室に閉じ込められていた男の身元割り出し。
 それが木下がここに配属されて初めての仕事となった。

   ―――――

「あなたは人を一人殺す事になる」
 その水島の一言に杉原は驚愕の表情を浮かべていた。当たり前である。未来で人を殺す事となる等と予言されれば誰でも驚く。
「俺が、人を……殺す?」
 この一言が、全ての物語の引き金を引いた――

Act.7 END
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硬質アルマイト 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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