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act.2「Goodbye my...」

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 蛇口を捻ると、そこから痛覚を刺激する程の冷たさの水があふれ出る。僕はその冷えきった水を手で掬い、顔にばしゃりとかけてみる。ぼんやりとした意識が吹き飛び、僕の中に居座るもやもやとした煙のような何かが一斉に退去して行った。
「くくく……」
 ぼんやりとした意識が消えると同時に、何故かあふれ出るような笑いが僕を包み込んだ。腹部に痛みが走るほど、目に涙が浮かぶくらい、呼吸が出来なくなるほどの笑い。
 あいつが予想したとおりだ、と僕は必死で笑いを堪えながら自分の両手に目を向ける。錯覚だということは分かっている。けれども、今僕の目に映る両手はそこら中が血で赤く染まっていた。
「ははは……はは……」
 次から次へと留まることの無い笑いが襲う中、僕は視線を鏡に向けてみる。
――あぁ……これか……。
 笑うことを止められない僕の瞳は、水島のように深く黒かった。
 もしかしたら彼女も人を殺したことがあるのかもしれない、と不意に考える。だがそれは流れるように感情の激流に消えていく。ものすごい速さで、奥へ、奥へ。
「くくく……くぁはははは……あはははは……」
 狂ったように笑い続ける僕を、鏡の中の僕は冷たい瞳でじっと、見続けていた。

act.2「Good bye my...」

「なぁ、人を殺すってさ、どんななのかな」
 何気ない問いかけのつもりだったのだが、その呟きを耳にした全ての人間の動きがカチリと止まった。まるで秒針がストライキを起こし、それ以上時間が進まなくなったかのように。
「い、いや別に皆止まらなくても……」
 周囲からの裁縫針のような微妙に痛い視線に慌てつつも作業続行を促してみる。
 どうやら秒針のストライキは穏便に済んだようだ。
「それにしても、何だその質問は?」
「何気ない一言で言う言葉ではないよね」
 僕の一言に、須賀と結城だけが乗ってくる。親友、とまではいかないが腐れ縁ではある二人なので、多少なりとも相談には乗ってくれるだろう。トンカチで釘を打つ作業を再開する。
「いやぁ、よく人を殺した奴ってさ、目つきが変わるとか言うじゃないか」
「あれは、例え話か何かじゃないの?」
 結城の返事に須賀も頷く。
「色々と人間の身体に変化が起きるとか噂聞くけどさ、どれも胡散臭くないか? 白髪になるとかもさ」
「あれは実際になった人いるよ。ほら、去年の未解決の変な事件」
 確かにあった。この学校のすぐ傍の住居から、白髪になった男性の死体が発見された事件だ。かなりのニュース番組でしつこく取り扱われていたから良く覚えている。
 その時、先住者が引越し済み。誰もいない住宅を取り壊す予定の場所だったのだが、解体作業の始まる一日前に「変な臭いがする」と訴えが来た為、工員数名がその家に足を踏み入れた。
 すると、見覚えの無い鉄製の分厚い鉄板扉が家の隅に取り付けられていた。明らかにフローリングの廊下とは合わないであろう堅牢な扉だ。工員達は気味悪く思いつつもその扉を開けに入る。がどれだけの工具を使ってもその鉄の扉が貫通しない。永遠に続くその鉄扉に苛立ちを覚えた工員は外側から小型のハンマーで少しづつ壁を叩き壊してみた。
 するとあれだけ頑固だった鉄扉とは間逆に、がしゃりという音と共に壁はぽっかりと丸い穴を開けた。一体何がしたいのだろうかこの家の人間はと思いつつも中に侵入すると、訴えの来ていた強烈な腐敗臭が工員達を襲った。
 中では、腐りかけの白髪の男性が、扉にしがみつく様にして死んでいたのだ。あれだけ工具で傷を付けるのもやっとであった鉄扉に爪痕を幾つも付けて。
 部屋の中に入った工員を驚かせたのはその死体だけではなかった。その部屋中に敷き詰められた鏡、鏡、鏡。鉄扉以外の壁、天井、床全てに一枚の大型の鏡が貼り付けられ、申し訳程度に付けられた電球が部屋の上部でぶらりとぶら下がっていた。この死体は餓死するまでの間、自分以外何も見ることが出来ない状態で、結果発狂し髪は白髪、鉄扉を爪で抉るほどの外への執念と共に一生を終わらせたのであった。
「あれは気持ち悪いよな……」
「でさ、この事件の続き、知ってる?」
 得意げに笑みを浮かべる結城を見て、こういう人の知らない情報を話す時偉そうになる癖はやっぱり子供だと思いつつ、須賀と一緒に首を振る。
「この事件の変なところはさ、部屋に穴を空ける直前まで鏡は一枚も割れて無かったってことなんだよね」
「どういうことだ?」
「昔同じような拷問方法があったらしいんだけれど、そういう場合、鏡を叩き割ろうとするんだって。あの事件の変死体は多く見積もっても半年近く閉じ込められてたって言われてたでしょ? そうすると、鏡の一枚でも割って見れなくしたいと思わない?」
 確かに、そうかもしれない。少しでも違う風景が見たいなら、鏡を割ってしまえば良い。少なくとも割る前とは違う風景になる(これは僕の個人的な考えだが……)。それに、もし鏡を割っておけば、扉以外の壁が非常にもろく出来ていることに気づいて脱出出来た可能性もある。
「なるほどねぇ」
 須賀は聞き耳を立ててはいるが、どちらかといえば作業の方に集中しているようだ。どうやら暫くして考えるのをやめたようだ。
「結局、この事件って犯人でっ!?」
 余所見でトンカチなんて打つべきではなかった。狙いは二撃目から既にハズレ、木材に丸い跡を残しつつ僕の抑える指へと徐行移動し、最終的には交通事故を起こしていた。足にトンカチを喰らって、指にもトンカチを喰らう。今日はどうやらトンカチと相性が悪いらしい。
 良く見ろと突っ込まれればそれで終わりかもしれない、だが僕はあえてそこで今日の占いで気をつけるべきアイテムに「トンカチ」が出ていたのだろうと強く願ってみる。
「馬鹿、良く見て打たないからだ」
 須賀の笑いを堪えた声が、僕の浅はかな願いを見事に打ち砕いた。
「……で、犯人って結局先住者だったのか?」
 僕の問いかけに結城は困った表情を浮かべたまま首を横に振った。
「引っ越した家族はそのまま一家で車ごと入水自殺しちゃって、近所とかその家族の親類を当たってみたけれども大した証拠も出てないみたい。今じゃもうマスコミに見捨てられちゃってネットでちらりと情報が出る程度」
「へぇ、そういや一番肝心な犯人の身元は? 行方不明のまますっかり出なくなったし……」
「ない」
 須賀の作業を進める手が止まった。僕のトンカチも空を切る。
 どういうことだろうと結城を見てみるのだが、結城は真剣な眼差しで「何も出てこなかった」と一言放つ。
「身元を特定できなかったってこと?」
「警察は他の人間による理由のない殺人じゃないかって」
「悲しいな、なんか……」
 生きているという事実から突然死を予告される。それはどれだけの苦しみだろうか。
「ほらぁ、さっさと仕事してよ! トンカチで釘以外の場所打たないで!」
「御陵かよ……なんだよ、全然女子残らないのに威張られても説得力無いぜ?」
 須賀の言葉に御陵遼はムッとした表情を浮かべる。かなり図星を突かれた様である。現在残っているクラスメイト十二人のうち八人が男子、四人が女子となっている。去年のクラスがクラスだけに、男子が残っていることが不思議でならない。何故うちの女子はやる気が無いのだろうかと思ってしまう。
「しょうがないのよ、皆水島さんに皆押し付けて帰ってしまったのよ」
「全く、まだ苛めやってんのか? もう一ヶ月だぜ?」
 御陵は何も分かっていないとでも言うかの如く左右に首を振り、赤茶のセミロングを揺らす。同時に小ぶりな何かも揺れている気がしてならないが、それは気にしないで置こうと胸に誓う。
「女の子の苛めはグループでやってるから粘っこいの。今日帰ったうちの八割は雪野さんのグループよ」
「……」
「雪野さんのグループは周りがウザいのよねぇ」
「まぁ良いじゃん、仕事始めようぜ」
 御陵の表情に熱が篭ってきた事に危険を感じ、僕はこの話題を真っ二つにぶった切ってみる。効果はテキメンで、御陵はじゃあちゃんとやってねと言い残すと、自らのグループの仕事に戻っていった。
 雪野のグループはそこまで嫌われていたのか、と今更になって始めて知った。確かに苛めの発端は大体雪野にくっついている人間の仕業だった。まぁグループというより、金魚の糞だったが、それでも女子側からすればグループなのだろう。多分彼氏であった僕に配慮して御陵は「雪野さんのグループ」と言ったのだろうが、破局している時点で正直どうでも良い。実際雪野の性格の悪さは大体感じ取っていたし、僕の前ではいつも仮面を付けていたのだって知っている。
「まぁ御陵も行ったことだし、話題を最初のに戻していいかな?」
「おう」
 とにかく僕は解決しておきたい話題に戻すことにする。
「人を殺すと目つきが変わるじゃん? じゃあ、今もしかしたら前よりも目つきが変わってるやつがいるかもしれないと思うんだよな」
 結城と須賀が首を傾げる。
「どういうことかな?」
 この事実については言っておかなくてはならない。単なる可能性であるが、正直話すのにも苦しいものがある。
「殺されたんだよ。雪野はね」
 予想よりすらりと言えた自分に何故か怖気がした。そこまでスッキリと諦められていることに吃驚だ。
 結城と須賀の表情が凍りついた。じっと僕を見据えたまま止まっている。まあ驚かれるだろうとは思っていた。だが、少しづつ、予想に過ぎない「結果」が、現実のものへと近づいていることが、鈍感な僕にでも分かった。
「なぁ、須賀?」
 僕の振った一言に、須賀の瞳がぎょろりと動いた。
「なんで俺に振るんだ?」
「別に、目に入ったのが須賀ってだけさ」
「須賀どうしたの? なんか妙に怖いけど……」
「別に」
 完全にボロが出たのだろう。きっと、彼は僕が帰るまで残る筈だ。きっと。


 「じゃあ後片付けはよろしくね」
 帰り支度を済ませた僕と須賀を覗くクラスメイトは出て行った。
「結城は?」
「知らなかったのか? 御陵と付き合ってるの」
 嘘だろう。僕は思わず彼らの出て行った戸を開いて廊下を覗き込む。
 確かに御陵の隣にちょこんと彼はいる。僕らに見せるような子供っぽい笑みを浮かべて談笑し、そっと躊躇いがちに手を伸ばす。どちらもすっと、触れるか触れないか位の距離を行ったり来たりを繰り返している。
 そのまま結んでしまえ、ガッチリと。ほら、結城、お前だってそれくらいできるだろう?
 気づけば僕は心の中で結城に語りかけていた。戸に当てた手はぎゅっと汗ばみ、もう片方の手は握りこぶしを作っている。
 さぁ、行ってしまえ。さぁ。
 結城と御陵が見えなくなる寸前、二人が顔を見合わせ、恥ずかしそうに笑い合っていた。きっと握れたのだろう。僕の中にも安堵という言葉が現れ、同時にため息が外へと出て行った。
「初々しいじゃないか」
「まぁ、結城は女子には消極的な奴だからな。あれがいいんだろう」
 僕よりも須賀の方が結城を知っている状況に、少しだけ悔しさを感じた。いつも三人一緒にいた筈なのに、僕は結城の事情も、須賀の事情も知ることができなくなっていた。
 これが高校生というものなのだろうか。いつも共有していたはずの時間が、ゆっくりと離れていくのが、ほんの少し感じ取れた。
「へぇ、あのまま上手くいって欲しいな……」
「だな……」
 須賀の表情が綻ぶ。たった二人の寂しい空間に僅かな緩みが生まれた気がした。
「さて…と、始めようか」
 この微妙な緊張の糸を切り落としたのは、僕の方だ。先制攻撃のほうが良い。その方が割に合っている。いつだって攻撃の立場だったのだ。別れのときでも、寄りを戻そうと言われたときも、傷つきながらもそれを隠して生きていく。
 ならば今回もそうやって自分の生き方を貫こうと思った。
「屋上から雪野を突き落としたのは、お前だよな?」
 須賀の表情が硬直し、そして次の瞬間には嘲笑に近い笑みを浮かべた表情に変化する。
「はははは……は」
「……」
 彼の瞳が、とてつもなく深く黒いものへと変貌していく。単なる想像上の変化で、実際は変わっているわけは無いだろう。けれども、僕にはそう見える。
「水島にさ、言われたことがあるんだ」
 須賀が満面の笑みを浮かべ、僕に対して言葉を吐き出した。そしてふぅ、と一息入れるとブレザーの胸ポケットに手を差し込んだ。
 ナイフか何かが出てくるのかもしれない。親友の行動が全て危険につながる行動に思えてならない。
「構えるなよ」
 須賀が取り出したのは、煙草の箱だった。煙草の知識なんて全く無い僕に、彼の今持っている煙草の銘柄が分かるはずも無い。が、手馴れた手つきで煙草を取り出す姿を見ていれば、相当前から吸っている事位は分かった。
「……煙草、いつから吸ってたんだ?」
「高校入ってから。先輩に進められて、そのまま中毒さ」
高校の頃から吸っていて、何故臭いに気が付かなかったのだろうか。その頃から彼は自分の裏側を仮面の中にしまい込んで、僕らに接していたのだろうか。そう思うと、ほんの少し裏切られたような気分になった。
「で、俺が雪野を殺したかどうかだったよな?」
 僕が頷くと、彼は微笑みながら一度、深く頷いた。
「あぁ、殺ったよ。けれど何故分かった?」
 あっさりと認めたことに違和感を感じながらも、僕は一枚の紙を取り出す。
「単なる勘だよ。俺が見つけたのは、証拠と呼ぶにはほど遠いものだけだし……」
「もの?」
「クラス内ミスコンの投票。俺は山下さんに入れたって、お前言ったよな?」
「あぁ」
「うちの投票は記名制なんて変なものにしてるし、開票後に選管の奈良部が保管していたから残っていたよ」
 実は水島と保健室に行き、雪野が殺されたことを聞いた後に僕は選挙管理委員の奈良部の所に寄っていた。本来選挙管理委員は生徒会等の仕事をこなすだけのものなのだが、どうせ投票をするなら管理するべき者が必要だという話になった時、丁度良いや奈良部にしちまえと誰かが言った結果、彼が選ばれてしまったのだ。
 彼自身も乗り気であったので問題にはなっていないが。
「なるほどな。で、俺の票にはなんて?」
「しっかりと書いてあったよ。雪野早苗とね」
 須賀はうんうんと頷くと「で?」と一言呟いた。彼が妙に熱の篭った瞳で僕を見据えている。怒りを込めたような、それでも冷静さは秘めているかのような説明の付かない瞳に、僕は二歩ほど後ずさりした。
「それだけなのか?」
「証拠とは程遠いと言っただろう? 他のクラスの奴らかもしれないし、もしくは教師かもしれない。そんな膨大な人数探せないっての。だから投票を誤魔化していたお前に声をかけてみただけだ」
「他にもあるだろう?」
 妙に流暢な口調に疑問を感じたのか、須賀はにやりと笑うと僕の両肩をガッシリ掴む。
「……瞳だよ」
 誤魔化しきれないと分かった僕はため息と共に吐き出した。
 『勘』が『確信』に変わったのは、先刻の会話の時であった。
「瞳?」
 須賀が訝しげに首をかしげた。
「お前の目がさ……なんか、吸い込まれるように黒く見えたんだ」
 そう、丁度水島のような瞳だ。黒くて深い、映った僕が吸い込まれて消え去りそうな瞳。
 須賀はそんな瞳で僕をじっと見詰めた後、また何かに納得するかのように一度頷く。
「……水島だろう?」
「……!?」
 やっぱりか、とでも言うかのように須賀はこちらを見つめている。
「文化祭の放送の入った日に言われたんだ。あなた、人殺しの目をしているのねってね……」
 やはり僕が気づく前に彼女は分かっていた。彼が、須賀が雪野を殺していたことを。
 そしてそれを聞いたときの須賀の反応を見て楽しんでいたのだろう。彼女の確実に悪意を込めた笑みが目に見える。暗がりから見た彼女の妖しげな微笑みが、僕の中にずんと立ちふさがっていた。
「……お前が振った二日後の夜な、告白したんだよ」
 丁度、彼女が飛び降りた日だ。
 彼の煙草の煙が、天高く舞い上がっていく。
「その時、チャンスだと思ったんだよ。あいつは丁度振られて傷ついてるはずだって。そこに付け入ることが出来れば、彼女の心をつかめるだろうと思って……」
「あいつは全く……」
 水島から聞いて知ったことをあたかも僕は分かっているかのように言おうとした。が、その言葉を須賀はさえぎった。
「全く以ってその通りだ。傷ついているなんて思った俺が馬鹿だったよ。あいつ、俺が呼び出したときすげぇ面倒臭そうでさ」
 僕が見たことも無いような彼女の姿が彼の口から出るたびに、縛り付けられていたはずの鎖が一つ、また一つと千切れていった気がした。僕の目の前で見せていた彼女の笑顔も、仕草も、全てが仮面だったとしたら、そう考えてしまう毎に僕の中で雪野の姿が醜く変貌していく。
「俺が告白した時、なんていったと思う?」
 煙草の吸殻を制服のポケットから取り出した携帯灰皿に突っ込み、けらけらと笑いながら僕に問いかける。
「なんて?」
「『じゃあいいよ』だってさ。貢いでくれる相手なら誰でもいいって。多分気が無いって言いたかったんだろうな。好意を寄せられている相手には嫌われた方が良いとでも思ったんだろう……」
 貢いでくれる相手なら誰でも良い。
 そんな言葉を彼女が言ったという事に、ただただ呆気に取られた。
 どんな時でも物を乞われた事も無い、僕が物をプレゼントする事なんて誕生日とクリスマスくらいで、それも五、六千くらいの物で、それを貰って彼女はうれしいと笑顔を見せていた。
 別れた時の原因はそれだと分かった。どこかの女性雑誌に乗っているかのような性格の美少女は、プレゼントが無い=愛がないという謎に満ちた考えに満たされ、僕をいとも容易く切り捨てただけ。
 ならば、寄りを戻したいという彼女の言葉は、一体何だったのだろうか。
「それで、殺したのか」
「あぁ、カっとなってな。軽く押しただけだった。なのにあいつの身体はさ、手すりをくるんと回って俺の前から消えたんだ」
 彼女が死ぬ前に見せた表情が未だに忘れられないでいるよ。
 須賀は黒い瞳で窓の外の暗がりを見つめながら、そう呟いた。
「どさって音がした時さ。なんか俺の中に高揚感みたいな何かがあったんだよ。あぁ、俺はこの手で、命を奪ってしまったのかって」
「……そうか」
「で、どうするんだ?」
「え?」
 須賀は笑みを浮かべて僕の首に手を回す。
「俺を、訴えるのか?」
「よしてくれよ」
 俺は彼の力ない手を首から引き剥がし、怒りを込めた言葉を吐き出す。
「この話を聞いた瞬間から、俺も共犯者だ。自殺として終わっているなら、それで良いじゃないか」
「どういうことだ?」
「俺は単に、雪野が殺されたのは何故かを知りたかっただけだ。別にそいつに復讐をしたいとも、警察に突き出してやるつもりも無い。言っただろう? 証拠なんて杜撰な投票カード一枚だ。お前が否定すればそれで終了するものを、どうして訴えられる?」
「……杉原」
「もう帰ろうぜ。俺はこの話をお前以外に言うつもりもないから。親友を売る程馬鹿じゃない」
 そう、とてつもなく性格の悪かった彼女一人のせいで、この関係を崩したくは無い。
 子供の頃から馬鹿をやった友人を売る事が、とてつもない裏切りに思えた。
「悪いな……。杉原……」
「いいって。それより、文化祭頑張ろうぜ? もう日も残り少ないんだから」
 項垂れる彼の肩を叩き、僕は教室の電気を消した。廊下を彼を引っ張りながら歩く事が、なんだかとてつもなく凛々しい行為に思えた。
 水島の言っていた意味が、やっと分かった気がした。
 僕も殺人者となったのだ。須賀が現実で彼女を殺し、僕が真相を殺す。彼女を完全に消し去るという意味での『殺害』。


 ただ、一つ気になっていることがあった。
 彼女と彼が何故学校に忍び込めたかについてだ。この学校は古いながらにもセキュリティにはしっかりと入っている。勿論入れたということは誰もいない筈の学校に彼と彼女以外に『教師』がいた筈なのだ。
 ならば彼女が突き落とされた瞬間を見ていてもおかしくはないし、宿直等なら明かりがついている筈だから彼らが気づいてもおかしくは無い。
 では、一体誰がいたのだろうか。ここで、暗闇に潜んで一体何をしていたのだろうか。
 僕は、そんな疑問をじっと、家に帰るまで心に留めていた。

「もう来なくてもいいですよ」
 突然呟かれた言葉に、僕の心がどくんと大きく鼓動した気がした。
「え……」
「あなたはあなたの生き方があるのだから、この子に縛られちゃいけないわ」
 そういうつもりではない。彼女に好意は無い。
 そう言おうと身構えたけれども、その言葉をゴクリと喉を鳴らして呑み込む。
 苦い味がした。感覚的なものだというのは分かっている。
 けれども、とてつもなく苦い味がした。
――じゃあ、僕は何故毎週欠かさず雪野家に来ている?
 心からの問いかけはきまってそれだ。毎週ここに来るたびに「僕」は「僕」に問いかけている。
 何故? どうして? 何の為に?
「……また来ます」
「……ありがとうね」
 自身の問いかけに決着が着かない。多分僕は来週もまた来るだろう。そしてその日も母親は同じ言葉を言うのだ。
 僕が来ることを雪野の母はどう思っているのだろうか。まだ僕と雪野が数日前に分かれたということは知らない筈だ。彼氏もいて幸せに囲まれていた娘が何故死んだのだろうか。彼はなんのケアもしてやらなかったのか。
 僕にはっきりとした悪意を向けてくれれば気が晴れたかもしれない。やつれた彼女が娘の自殺の原因を考え抜いた結果、それは必ず僕にあるという考えに至る筈だ。お前は娘が何故こうなる前に助けなかったのか、お前は娘を何故満たしてやらなかったのか。
 シューズを履き、玄関で覇気の無い姿の彼女は拙い笑顔を向けながら僕に手を振る。
 何かが僕の中でギシギシと音を立てている。荷物を入れすぎたトランクのように今にも弾け飛びそうだ。
 一度お辞儀をしてから、きんと冷えた玄関戸のノブを握り締める。この冷たさがなければ、僕は醒めることなく、ずっとこのままの感情でいる事になっただろう。
 ふと、僕を何かが包み込んだ。
「……もう来ないでください」
「……雪野さん?」
「これ以上、私に娘を思い出させないで……」
「……ごめんなさい」
 僕は一体、何に対して謝っているのだろうか。
 彼女は果たして、僕に恨みを持っていたのだろうか。
 悪いのは、僕なのだろうか…。
 やせ細り、力さえ入っていないその腕が、ずっと、僕の身体を強く締め付けていた。

     act.2-2

「……よぉ」
「うす」
 須賀のぎこちない笑顔が、少し痛々しい。数日前の事をまだ引きずっているのだろうか。僕が人に言うかもしれないと疑心暗鬼に陥っているのだろうか。
 小さくなっている彼を見て少し心が和らいだ。
「なにやってるんだよ。今日は学園祭だぜ? はりきろうぜ」
「……そうだよな、ああ。そうだな」
 叩いた肩が一瞬震えた事に気づいたが、僕はそれを流して須賀に笑顔を見せてみた。須賀の中で絡みついた糸を解きほぐしてやらなければ、彼は確実に自分で自分を追い詰めてしまう。そう思ったからだ。
 こちらに敵意は無い。安心しろよ。俺は俺のままだ。心の中で小さな小さなテレパシーを彼に送ってみる。届く筈は無い。が、それでも何かが伝わる筈だ。
「今日は張り切ろうぜ」
「ああ!!」
 ぎこちない笑顔は、するりと解けていった。
「なにしてんのさ二人とも」
「やぁやぁ彼女持ちの結城君」
「彼女さんをおいてきぼりでいいのかな?」
 軽口を叩いてはいるが、正直結城が来てくれたのは好都合だ。須賀の気を先日の話し合いから逸らす事も出来る。
「な、何言ってるんだよう」
「ちょっと杉原と須賀、遅刻しておいて堂々出勤とはやってくれるじゃない!」
「るっせぇ彼氏持ち」
「これで彼氏いない暦17年が須賀だけになっちまったじゃないか!!」
 御陵の顔と須賀の顔。どちらがより真っ赤になったのだろうか。
「何の話よ」
「俺だって……俺だってなぁ!!」
 見たところ御陵の圧勝のようだ。

「よぉ」
 使い込まれた机の上で本を広げる彼女の視線が僕に向いた。そしてじっと見つめた後、視線を本に戻してしまう。
「水島、クラスに溶け込むっていう考えは無いのか?」
「ない」
 彼女の小さな口が僕の前に鋼鉄の壁を打ち建てる。どうやら僕にさえ心を開くつもりは無いらしい。
 文庫本に没頭する彼女を見つめていると、なんだか不思議な気分になってくる。凍りついた窓から乱れて入り込んでくる日の光が彼女を照らし、艶やかな黒髪がそれを受けてさらに艶やかに咲いている。白い肌も同様に光を受けて輝いて、真紅に染まる唇が潤んで見えてくる。
「何?」
「いや、別に」
 彼女と少しだけ距離を縮められたと思うのは、僕だけなのだろうか。この先も、この距離を保ち続けるのだろうか。
「……まぁ、人殺しだもんな」
「だからさっきから何?」
 いい加減鬱陶しくなってきたのか、文庫本にしおりを差し込み乱暴に閉じると彼女は僕に研ぎ澄まされたナイフのような瞳を見せた。
「なんでもないよ」
「いい加減にしてよ……」
 水島はそう一言呟くとはぁとため息を一つ吐き出し文庫本の黙読に戻る。まぁこの距離まで行けただけいいのだろうか。話さえしてもらえない状況よりは幾分マシだ。
「水島さんと話できるなんて……」
 どうやら御陵にとっても結城にとっても、水島が喋っているのは驚きらしい。彼女は一体どれだけ他人と関わるのを拒否しているのだろうか。彼女には心を開ける人間はいるのだろうか。
「そんなにすごいことなのか?」
「だって、私達が声を掛けても無反応なのに、見ているだけで向こうから声をかけられるなんて…」
「へぇ」
 僕はクラス内でそれなりにレアな人物になったようだ。よく見ると雪野の派閥の女子から妙に冷たい目を向けられているようだ。雪野と別れて、水島と交友関係を作っていれば(向こうはそうは思ってはいないだろうが)当たり前のように嫌われるだろう。とりあえずクラスの大半の女子を敵に回したと言っても過言ではないだろう。
「……まぁいいか。それより今日はどういう予定?」
「あと十分で開店。したらば杉原と須賀は午前中はやぱぱしてていいよ」
 結城の言うやぱぱの意味がよく分からないが、とりあえず結城は午後から御陵と行動するつもりらしい。多分僕は一人でうろついているだけになるだろう。須賀は必死で女の子を探してナンパを続けるだろうし、そんな馬鹿には流石に付き合えない。
「じゃあ俺達は行くな。交代の時に電話入れてくれ」
「分かった」
「おい杉原、どうせなら俺と一緒に……」
「却下」
 須賀の誘いを断りつつ、僕はささっと教室を出る。このままいれば須賀がしつこく言い寄ってくるだろうし、そんな事に時間を費やすことだけは遠慮したい。
 廊下を見渡すと、準備を終えてうずうずとした生徒達でごった煮返しになっている。まぁこういう盛り上がりが学園祭なのだろう。最近じゃあ学園祭という催しの意味が分からないが、それでも楽しめればいいだろうというような若者だらけだ。まぁ僕自身もその若者の一人なのだが。
「ちょっと付き合って」
 不意に誰かが僕の右腕を抱え込むとそのまま僕を引きずっていく。
「水島?」
「別に誘ってるんじゃないから」
「じゃあ何?」
「ネクロフィリアって知ってる?」
「は?」
 水島の表情が強張る。
「気をつけて、多分また誰かが死ぬよ」
「まさか」
 僕は驚いてみせる。水島はぐっと顔を僕に近づけると、人差し指を突きつける。
「いい? この学園祭中、ネクロフィリアと須賀君に気をつけて」
 そう呟くと、人ごみの中に消えていった。
 ネクロフィリア、須賀、この二つに一体何の関連性があるのだろうか。人ごみに消えていった彼女を目で必死に追いながらも、身体は置いてけぼりになっていいた。
「チョコバナナいらない? チョコバナナ」
「あ、あぁ一つ」
 突然かけられた声に驚きながらも僕は声の方に顔を向けた。
 刹那、僕の口をチョコをたっぷりとかけられたバナナが貫く。むぐ、と格好悪い声を出しながら割り箸棒を掴んで口から引き抜く。
「何するんだ」
「水島さん、今日は積極的なのね」
 そこには、幼げな風貌の山下が立っていた。左手にはもう一つのチョコバナナが握り締められ、もしもそのバナナを彼女がほお張ったらどんな表情になるのだろうか、と自分でも気持ちが悪くなるような妄想を浮かべてみる。
「山下さん、何?」
「いやぁ、彼氏に逃げられちったのよ。ひどいもんよねぇ。いきなしよいきなし!!」
 何故僕に突然こんな話をするのか全く分からないが、とにかく相槌を打ちながらチョコバナナをほお張る。チョコの強い甘みとバナナのほのかな甘みが見事にマッチしていて、ほどよい旨みを引き出している。
「恋愛なんてそんなもんじゃないかな? 俺だって雪野に振られたし」
「全くよねぇ。良い人だと思ったのになぁ……」
 不意に気になった事があった。
「山下さんの言う良い人って、どういう人?」
「ん? 何を突然……」
「いや、女の子って、どういう人が好みなんだろうなと……」
 山下の表情がにやりとした悪戯な笑みに変わった。人差し指と親指を顎の辺りに構えながら、ふふんと笑ってみせる。
「狙ってるのかな? 杉原君」
「いや、違う違う」
「冗談よ。でも、そうだなぁ……」
 山下さんがううんと考え込む。
「私は話が面白い人とか、妙に何かについて詳しかったりする人が好きかな? 性格とか良い人はやっぱり良いよね」
「なるほど……」
「まぁ、カッコいい男子には目が行っちゃうけどね。これは男子も女子も一緒で本能よね」
 けらけらと山下が笑う。雪野と違って、少し活発なイメージ。いつも女子と話しているときよりも素が出ているのかもしれない。彼女はチョコバナナを口にするとまたにやりと笑顔を見せる。
「水島さんの心、開いてあげてね」
「え?」
「だって今話せるの杉原君だけみたいだし、いつかは私も話してみたいもの」
 それじゃあ。
 山下は満面の笑みを浮かべるとそのまま僕から離れていった。彼氏に振られたことを誰かに言いたかっただけなのかもしれない。そう考えると、僕ばかり質問してしまった事に少し後悔を覚えた。今頃、彼女は涙でも流しているのだろうか。それともすっぱりと諦めているのだろうか。
 男の僕には、女性の心は本当に海のようなものだ。どうしようもない。
 水島のこと、水島に言われたこと。
 この二つが、僕の中でぐるぐるとコーヒーのミルクのようにかき混ぜられ続けていた。
7, 6

  


 陽が落ち、電灯に頼る時間帯になった辺りで、僕はぼんやりと腕時計に眼をやる。
「もう六時か……」
「杉原君これ八番席ね」
「はいはい……」
 制服にフリルの付いたかわいらしいエプロンをつけたクラスメイト、安西由希子から手渡されたプレートを手にし、かったるいという気持ちを未だ居座る客にぶつけたいという衝動に駆られながらも、僕はメニューを運びに往復を繰り返している。
 僕が戻ってきた時、既にクラス自慢の擬似喫茶店「center cecond Illness」は満員に近い状態(お昼時であるということもあるのだが)であり、入ってすぐさまウェイターの仕事を任された。仕事時の為に用意していた服もあったのだが、あまりの盛況っぷりで着替えている暇が無く、ウェイター役は全員そのままの服装で仕事をこなす羽目になっていた。勿論僕もその一人であり、しかも運悪くブレザーに珈琲を思い切りかけられてしまい、制服と呼んで良いモノかすら分からない。
 だが僕が仕事を受持つのは三時までだった。元々雪野と別れる前に分担を決めていて、僕と雪野は三時に待ち合わせるという手筈になっていた。しかし雪野とは破局し、しかも彼女は死亡してしまった。
 別に暇を持て余すくらいなら仕事を受け持っているほうが充実感はあるのだ。僕が何故かったるくなっているかというと、僕が働いている間中サボり続けている人物がいるからである。
 須賀だ。
「あいつ本当にどこいったんだよ……」
「タコのびっくりムースは十番、ボイルしただけのイカは三番ね」
「了解」
 このスガポンタンめ、さっさと帰ってきて代わりにやっている俺と仕事代われ。いやあえて下手に出てやるから代わりやがってください。とか馬鹿馬鹿しい独り言を寂しく呟きながら僕は再びテーブルに走る。慣れが生じてくると同時に芽生える倦怠感が足取りを重いものにさせているが、馬鹿野郎邪魔するなとそんな気持ちを蹴り飛ばして再び走る。
「タコのびっくりムースになります」
「ボイルしただけのイカお待ち!!」
 走る。
「似非シャーベットをどうぞ」
 走る。
「パチモントリュフです」
 走り続ける。
「次は……」
 安西はメニューを差し出そうとした瞬間、僕の状況を見て苦笑する。
「もう駄目……七時間連続勤務は死にます……」
「流石にお疲れ様、最後の二品だけ出してきてくれる? 七番テーブルね」
「はい……」
 盆にラストオーダーであるストロベリーとチョコのアイスを載せ、のっそのっそと七番テーブルに向かう。周囲で気楽にお茶や珈琲を飲んで和んでいる者達を磨り潰してやりたいと歯を食いしばりながら思う。こいつらはきっと数時間の自分の分担を終えて遊び呆けているのだろう。
「水島!?」
 文庫本に視線を落としていた水島が顔を上げ、据わりきった目つきでこちらを一瞥する。僕はその黒くて深い瞳に気圧されながらも、どん、どんと二種類の器を置いた。
「以上ですか?」
「ええ」
 彼女の妙に上に立った言い方に心が燃え立ちそうになるのを必死で堪えつつそうですか、と笑顔の仮面を被る。今の状況で営業サービスを素ですることなんて無理に等しい。
「何を怒っているの?」
 仮面は身に着けたと同時に一瞬にして砕け散った。
「そりゃあ後続が来なくて七時間仕事しっぱなしなんだ。怒らない方がどうかしてるよ」
「へぇ」
「さりげなく楽しみにしていた軽音のライブだっておじゃんだぜ?」
「へぇ」
「まぁ水島に持ってきた二つのアイスで仕事終わり。屋上辺りでラストにやる終了祭を見て一息つくことにするよ」
「へぇ」
 僕の訴えに二文字の返事しか返さない彼女を見て首を傾げながら、窓の外を覗く。どうやら終了祭の準備をしているらしい。
 見れなかった軽音のバンドも数組出るし、学年人気投票もやる。とりあえず終了祭を見届けてある程度の話題を手にしたらクラスの男子とその話題で熱烈に盛り上がりながらカラオケにでも洒落込もう。そうだ、それが一番だ。僕は一人でうんうんと頷く。
「……ねぇ」
「うん?」
 ずず。と水島はチョコレートアイスの盛られた器をこちらに押し始め、僕の前まで運ぶとストロベリーの方に手を付け始める。
「何? これ」
「……私、チョコ駄目なの」
「じゃあ何で頼んだんだ?」
「……勿体無いから食べちゃって」
 全くどれだけ彼女は気まぐれなのだろうか。食べられない物に挑戦でもしようと思っていたのか、真意は分からないが、食べる前に怖気づいてしまい、丁度ここに座った人間に押し付けて自分は好物を食べる。どうしようもないな。と僕は心の中で悪態をつきつつアイスを口にする。
「以外に甘いな」
「チョコだから」
「ビターも駄目なのか?」
 水島は無表情のまま頷いた。
「そんだけ駄目なら注文するな。しかもそれを人に押し付けるな」
「誰だって挑戦したい時はあるでしょう?」
「なら一口くらい食ってみろって」
 僕は小さなスプーンに人掬い乗せるとぐい、と水島の口に突っ込んだ。その瞬間、自分が何をしているのかに気づいた。
 周囲の時間が何故か、少し止まった。
 僕のスプーンを咥え、ストロベリーアイスの乗ったスプーンを手に呆然とした水島の表情がほんの少し赤らんでいるのが分かった。
「あ、えっと……」
「やっぱり甘すぎる」
 彼女は頭を引いて僕のスプーンを口から出すと、一言そう呟いた。
「ええと、まぁ、チョコだからな」
「本当に激甘……本当に……」
 僕はそのスプーンをどうするべきなのか分からず、器にスプーンを置きどこに視線を持っていこうかと、焦りで塗りつぶされた思考で必死に考え、最終的に瞬時に窓の外の景色へと辿り着く。
「……」
「……」
 水島は静かにストロベリーを口にしている。
 僕は窓の外の終了祭の準備の様子を見ている。
 何か話さなくてはいけないと思った。けれども、そう考えれば考えるほどに脳は緩んだフィルムのようにガラガラと音を立てて絡まっていく。
「そうだ」
 今話すべき話題ではない。けれども、この妙な沈黙を破壊するにはもってこいのネタがあった。多分この妙に生暖かい雰囲気はぶち壊しになるだろう。けれども、今どうしても聞いておかなければならない。
「水島に、妹とか……いる?」
 水島の表情が強張ったのに、一瞬で気づいた。

   act.2-4

 死に際に見せたあの表情。
 その表情を作った自らの手。
 恐怖と歓喜とが煮込まれ互いに混ざり合う感覚。
「あの感覚をもう一度……体験することになる」
 俺は握り締められた携帯を見つめる。こんな小さくて軽い存在さえ握り壊すことすらできないこの手で、俺は人を殺した。力も何も入れなかった。ただ押しただけ。
 何故かあの時、えもいえぬ快感に襲われた自身の姿があった。命という『モノ』を容易く押しつぶしたその手に残る感触が、とてつもなく俺の中の何かを変えた。
 堕ちるのならどこまでも堕ちてみよう。この感覚の底を知ろう。
 握り締めた手を開き、携帯の電話帳を見つめる。
「す、す、す、す、す、す、す……」
 あった。
 俺は迷わずそのプロフィールに打ち込まれた存在に向けて死の電波を発信させる。
「あぁ、杉原か? あのさ、終了祭前に会えないか? いや、ナンパじゃねぇよ。ちょっと屋上で話したいことがあるんだ」
 彼は了解、と気軽な返事を返してきた。彼の仮面はどこまで深く、粘着しているのだろうか。
 電源を切ると同時に、震えている身を必死で制す。
――もう一度殺す感覚を感じよう。
 俺は不適な笑みと共に、雪野の死に様を思い出す。呆然としたまま落ちていく彼女は、夜だというのにとても白く、輝いて見えた。一滴の雫のように闇を突き破り、奥深くへとめり込んでいった。
「あははは……ははは……はは……」
 階段を上る。終了祭まで後十分。
 
 全てを裏切った男に、粛清を。

   ※
 
「なんだったの?」
「いや、須賀から。」
 電話がかかってきてくれた事に救いを感じたのは言うまでもない。妹の存在の有無を口に出した瞬間の彼女は、とてつもなく恐ろしかった。まるで首を刈り取らんとする死神の鎌の如く瞳が威光を発していた。
「なんか屋上に来てくれってさ」
「入れないんじゃ……ないの?」
 まぁそこらへんは彼の超絶裏技が腕を振るっているわけで。
「色々と裏があるんだ」
「……言ったことを忘れないでね」
 水島はストロベリーアイスを人掬い口に押し込み、そして唇をぺろりと一周嘗め回した後そう呟いた。彼女の言った中に確かに須賀の名前が入っている。それにしても、その忠告はあの夜の『違和感』の正体がこちらに何かしらの行動を行ってくるという意味なのだろうか。全てを語らない彼女の真意は相変わらず分からないが、それでも忠告を聞いておくべきではある。
「分かった。いつどこからなにされても対応できるように身構えておくよ」
「……それならいいのだけれど」
「文化祭中にそんな場かなことが起こるかよ」
 何気ない一言を彼女に吐き出して、擬似喫茶店を出た。チョコレートアイスはまだ残っていたが、正直食べていられる空気ではなかったので置いていくことにする。どうしても眼の端でちらちらとこちらを見つめている安西の姿が気になって仕方なかった。
「さて、行きますか……」
 須賀が何故僕を呼んでいるのかは分からないが、それでもあれだけの重い口調にはそれなりの事情なのだろう。正直僕が相談に乗れるかわからない。
 彼は人を殺している。その衝撃は精神を歪ますことくらい平気でやってのけるだろう。
 だからこそ僕は、親友だからこそ、彼のリカバリーをしてやらなくてはいけない。
「同じ共犯者なんだから……な」
 冷たい空気の流れる廊下をゆっくりと、一歩づつ踏み締め屋上を目指す。もうすぐ終了祭が始まる時間だ。校舎内に生徒が誰一人としていない状態となる。
 思い切り会話をするには持って来いだ。

 ※

「よっ」
「おう杉原、待ってた」
 冷たい風と共に友の声が僕の身を打つ。思わず冷え切った風に身を震わせるが、へへへ、と照れ隠しに笑いながら須賀へと歩み寄る。
 ふっと、須賀が一歩下がる。
「?」
「いや、それより、ちょっと話してもいいか?」
 須賀の一歩がほんの少し疑問に残るが、とりあえず神妙な面持ちの須賀を見て、今はそれを気にしている場合ではないと考え、すぐに須賀に向かって頷いた。
 須賀は手すりに両手を置くと寄りかかり、終了祭の様子を眺めている。ステージでは轟々と燃え盛る炎を背に劇や校内人気投票を行っているようだ。少しばかり惜しいことをしただろうかと後悔が生まれるのが感じ取れた。
「やっぱさ、人を殺したって事実はどうしても変わらないことなんだよな…」
 須賀が突然口を開いた。
「……まあそうだな」
「殺したときの顔も、感触も、その後の後味の悪さも、きっと汚れとして落ちずにこのまま生きてくことになるってことに気づいたんだ」
「……自首するつもりか?」
「いいや」
「じゃあどうして突然?」
「殺人鬼ってさ、こういう感触をどう思ってると思う? 吐き気がするほどの胸ヤケをどう感じると思う?」
 須賀の言っていることが良く分からない。彼は何を言いたいんだろうか。僕は背中から吹き出る冷たい汗にほんの少しの恐怖が混じっていることに気づく。
「須賀……」
「殺人鬼はさ、目の前にある命をこの手で断ち切る事を快感と思ってる。だから人を殺し続けられる」
「やめろよ」
「この苦痛を、快感だと思えるから苦しまずに済んでる人間が、この世界には沢山いるんだぜ? なぁ杉原」
「……何が言いたいんだ」
「もう一度、あの感触を味あわせてくれよ。裏切り者」
 僕の両肩を須賀が掴んだと同時に、足が宙に浮いた。
「死ね……死ねよ!!」
「ちょ……須賀止めろ……」
 両腕で抱え込んだ手すりに助けられてはいるものの、足がついていない状態と押され続けている状態では分が悪い。どうにか逃亡方法を考えないと本当に落とされてしまう。
 けれども、そんなことを考えるよりもまず「何故僕を殺そうとしているのか」という疑問が頭の中をぐるりぐるりと駆け巡る。
「俺が何した!?」
「共犯者とか言いながら強請が目的だったんだろう!? あんな電話までしてきて……。信じていたのに……」
 ほんの少し須賀の手が緩む。この瞬間を見逃せば殺されてしまう。僕は柵に足を絡め両腕で須賀の右腕を思い切り引っ張る。
 僕と須賀の目が、少しだけ合った。そしてそのまま須賀は左へと流れ、柵へと打ち付けられた。
――だけで済めば良かった。須賀は手すりに背中を打ちつけ、そのまま勢いでぐるんと一回転し、柵の外へと飛び出していく。
「須賀ぁ!!」
 頭が真っ白になり、精一杯伸ばした手は須賀の指をかすった。
 呆然とした表情のまま須賀が落ちてゆく。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 そして、僕が覗き込んでいる中、須賀の身体は地面と接触し、ゴムまりのように一度弾むと土埃を立ててもう一度地面にたたきつけられ、時を完全に止めた。
 赤い液体を土が呑み込み、周囲がにごった赤に染まっていく。
「嘘だろ……」
「嘘じゃない」
 頭を抱えながら座り込んだ僕を、誰かが抱え込んだ。
「言ったでしょう? 須賀君に気をつけろって…」
「ちょっと待てよ。ど、どういう……?」
 刹那、胃の中がぐるりと口元まで競りあがってきた。僕はその異常に耐えられず思い切り胃酸にまみれた吐瀉物を吐き出し、息を荒げる。
「だって、俺は何も……何も……」
「彼は裏切ったと言ったのでしょう?」
「そんな……」
「あなたはまだ事件を解決できたと思っているの?」
「どういうことだよ!? 須賀と共犯者になって、それで……」
 水島がふふんと僕を冷めた眼で笑った。
「『彼女の真実を殺す』事で僕も人を殺した。そう言いたいの?」
「……」
 返す言葉が無かった。あの時僕はそう確信していた。僕がこの事件の結末を隠す事で全て一件落着だと。
 娘を忘れたい母親。
 全てを隠して今までどおりの生活を送る親友。
 それが最善の策だと、僕は思い続けていた。
「……警察に通報しましょう。私が一部始終見てたから。その代わりあなたの知っていることを全て吐き出しなさい。全て」
「……そんな、それじゃあ須賀を本当に」
「須賀君須賀君うるさい。あなたにはまだ解決しなくちゃ…殺さなくてはいけない人間がいるのだから」
 僕は耳を疑った。僕が、解決しなくてはいけない事件? そして、まだ僕は人を殺すことになる? 彼女から吐き出された言葉は僕に一発一発強烈なビンタを両頬に打ち付ける。
「雪野早苗の事件を皮切りに、色々な『事』が芋づるのように浮き出てくる……どれだけ待ったことか……」
 水島は両の手を組み合わせると笑みを浮かべる。
 それは、とてつもなく凶悪で、そして儚げな笑みに見えた。
 人殺しを見分ける不思議な彼女は一体、僕に何を求めているのだろうか。

 この事象に関わってしまった僕の行き着く先は、一体どこなのだろうか…。

act.2 END
next→act.3「ネクロフィリア」

 陽が落ち、電灯に頼る時間帯になった辺りで、僕はぼんやりと腕時計に眼をやる。
「もう六時か……」
「杉原君これ八番席ね」
「はいはい……」
 制服にフリルの付いたかわいらしいエプロンをつけたクラスメイト、安西由希子から手渡されたプレートを手にし、かったるいという気持ちを未だ居座る客にぶつけたいという衝動に駆られながらも、僕はメニューを運びに往復を繰り返している。
 僕が戻ってきた時、既にクラス自慢の擬似喫茶店「center cecond Illness」は満員に近い状態(お昼時であるということもあるのだが)であり、入ってすぐさまウェイターの仕事を任された。仕事時の為に用意していた服もあったのだが、あまりの盛況っぷりで着替えている暇が無く、ウェイター役は全員そのままの服装で仕事をこなす羽目になっていた。勿論僕もその一人であり、しかも運悪くブレザーに珈琲を思い切りかけられてしまい、制服と呼んで良いモノかすら分からない。
 だが僕が仕事を受持つのは三時までだった。元々雪野と別れる前に分担を決めていて、僕と雪野は三時に待ち合わせるという手筈になっていた。しかし雪野とは破局し、しかも彼女は死亡してしまった。
 別に暇を持て余すくらいなら仕事を受け持っているほうが充実感はあるのだ。僕が何故かったるくなっているかというと、僕が働いている間中サボり続けている人物がいるからである。
 須賀だ。
「あいつ本当にどこいったんだよ……」
「タコのびっくりムースは十番、ボイルしただけのイカは三番ね」
「了解」
 このスガポンタンめ、さっさと帰ってきて代わりにやっている俺と仕事代われ。いやあえて下手に出てやるから代わりやがってください。とか馬鹿馬鹿しい独り言を寂しく呟きながら僕は再びテーブルに走る。慣れが生じてくると同時に芽生える倦怠感が足取りを重いものにさせているが、馬鹿野郎邪魔するなとそんな気持ちを蹴り飛ばして再び走る。
「タコのびっくりムースになります」
「ボイルしただけのイカお待ち!!」
 走る。
「似非シャーベットをどうぞ」
 走る。
「パチモントリュフです」
 走り続ける。
「次は……」
 安西はメニューを差し出そうとした瞬間、僕の状況を見て苦笑する。
「もう駄目……七時間連続勤務は死にます……」
「流石にお疲れ様、最後の二品だけ出してきてくれる? 七番テーブルね」
「はい……」
 盆にラストオーダーであるストロベリーとチョコのアイスを載せ、のっそのっそと七番テーブルに向かう。周囲で気楽にお茶や珈琲を飲んで和んでいる者達を磨り潰してやりたいと歯を食いしばりながら思う。こいつらはきっと数時間の自分の分担を終えて遊び呆けているのだろう。
「水島!?」
 文庫本に視線を落としていた水島が顔を上げ、据わりきった目つきでこちらを一瞥する。僕はその黒くて深い瞳に気圧されながらも、どん、どんと二種類の器を置いた。
「以上ですか?」
「ええ」
 彼女の妙に上に立った言い方に心が燃え立ちそうになるのを必死で堪えつつそうですか、と笑顔の仮面を被る。今の状況で営業サービスを素ですることなんて無理に等しい。
「何を怒っているの?」
 仮面は身に着けたと同時に一瞬にして砕け散った。
「そりゃあ後続が来なくて七時間仕事しっぱなしなんだ。怒らない方がどうかしてるよ」
「へぇ」
「さりげなく楽しみにしていた軽音のライブだっておじゃんだぜ?」
「へぇ」
「まぁ水島に持ってきた二つのアイスで仕事終わり。屋上辺りでラストにやる終了祭を見て一息つくことにするよ」
「へぇ」
 僕の訴えに二文字の返事しか返さない彼女を見て首を傾げながら、窓の外を覗く。どうやら終了祭の準備をしているらしい。
 見れなかった軽音のバンドも数組出るし、学年人気投票もやる。とりあえず終了祭を見届けてある程度の話題を手にしたらクラスの男子とその話題で熱烈に盛り上がりながらカラオケにでも洒落込もう。そうだ、それが一番だ。僕は一人でうんうんと頷く。
「……ねぇ」
「うん?」
 ずず。と水島はチョコレートアイスの盛られた器をこちらに押し始め、僕の前まで運ぶとストロベリーの方に手を付け始める。
「何? これ」
「……私、チョコ駄目なの」
「じゃあ何で頼んだんだ?」
「……勿体無いから食べちゃって」
 全くどれだけ彼女は気まぐれなのだろうか。食べられない物に挑戦でもしようと思っていたのか、真意は分からないが、食べる前に怖気づいてしまい、丁度ここに座った人間に押し付けて自分は好物を食べる。どうしようもないな。と僕は心の中で悪態をつきつつアイスを口にする。
「以外に甘いな」
「チョコだから」
「ビターも駄目なのか?」
 水島は無表情のまま頷いた。
「そんだけ駄目なら注文するな。しかもそれを人に押し付けるな」
「誰だって挑戦したい時はあるでしょう?」
「なら一口くらい食ってみろって」
 僕は小さなスプーンに人掬い乗せるとぐい、と水島の口に突っ込んだ。その瞬間、自分が何をしているのかに気づいた。
 周囲の時間が何故か、少し止まった。
 僕のスプーンを咥え、ストロベリーアイスの乗ったスプーンを手に呆然とした水島の表情がほんの少し赤らんでいるのが分かった。
「あ、えっと……」
「やっぱり甘すぎる」
 彼女は頭を引いて僕のスプーンを口から出すと、一言そう呟いた。
「ええと、まぁ、チョコだからな」
「本当に激甘……本当に……」
 僕はそのスプーンをどうするべきなのか分からず、器にスプーンを置きどこに視線を持っていこうかと、焦りで塗りつぶされた思考で必死に考え、最終的に瞬時に窓の外の景色へと辿り着く。
「……」
「……」
 水島は静かにストロベリーを口にしている。
 僕は窓の外の終了祭の準備の様子を見ている。
 何か話さなくてはいけないと思った。けれども、そう考えれば考えるほどに脳は緩んだフィルムのようにガラガラと音を立てて絡まっていく。
「そうだ」
 今話すべき話題ではない。けれども、この妙な沈黙を破壊するにはもってこいのネタがあった。多分この妙に生暖かい雰囲気はぶち壊しになるだろう。けれども、今どうしても聞いておかなければならない。
「水島に、妹とか……いる?」
 水島の表情が強張ったのに、一瞬で気づいた。

   act.2-4

 死に際に見せたあの表情。
 その表情を作った自らの手。
 恐怖と歓喜とが煮込まれ互いに混ざり合う感覚。
「あの感覚をもう一度……体験することになる」
 俺は握り締められた携帯を見つめる。こんな小さくて軽い存在さえ握り壊すことすらできないこの手で、俺は人を殺した。力も何も入れなかった。ただ押しただけ。
 何故かあの時、えもいえぬ快感に襲われた自身の姿があった。命という『モノ』を容易く押しつぶしたその手に残る感触が、とてつもなく俺の中の何かを変えた。
 堕ちるのならどこまでも堕ちてみよう。この感覚の底を知ろう。
 握り締めた手を開き、携帯の電話帳を見つめる。
「す、す、す、す、す、す、す……」
 あった。
 俺は迷わずそのプロフィールに打ち込まれた存在に向けて死の電波を発信させる。
「あぁ、杉原か? あのさ、終了祭前に会えないか? いや、ナンパじゃねぇよ。ちょっと屋上で話したいことがあるんだ」
 彼は了解、と気軽な返事を返してきた。彼の仮面はどこまで深く、粘着しているのだろうか。
 電源を切ると同時に、震えている身を必死で制す。
――もう一度殺す感覚を感じよう。
 俺は不適な笑みと共に、雪野の死に様を思い出す。呆然としたまま落ちていく彼女は、夜だというのにとても白く、輝いて見えた。一滴の雫のように闇を突き破り、奥深くへとめり込んでいった。
「あははは……ははは……はは……」
 階段を上る。終了祭まで後十分。
 
 全てを裏切った男に、粛清を。

   ※
 
「なんだったの?」
「いや、須賀から。」
 電話がかかってきてくれた事に救いを感じたのは言うまでもない。妹の存在の有無を口に出した瞬間の彼女は、とてつもなく恐ろしかった。まるで首を刈り取らんとする死神の鎌の如く瞳が威光を発していた。
「なんか屋上に来てくれってさ」
「入れないんじゃ……ないの?」
 まぁそこらへんは彼の超絶裏技が腕を振るっているわけで。
「色々と裏があるんだ」
「……言ったことを忘れないでね」
 水島はストロベリーアイスを人掬い口に押し込み、そして唇をぺろりと一周嘗め回した後そう呟いた。彼女の言った中に確かに須賀の名前が入っている。それにしても、その忠告はあの夜の『違和感』の正体がこちらに何かしらの行動を行ってくるという意味なのだろうか。全てを語らない彼女の真意は相変わらず分からないが、それでも忠告を聞いておくべきではある。
「分かった。いつどこからなにされても対応できるように身構えておくよ」
「……それならいいのだけれど」
「文化祭中にそんな場かなことが起こるかよ」
 何気ない一言を彼女に吐き出して、擬似喫茶店を出た。チョコレートアイスはまだ残っていたが、正直食べていられる空気ではなかったので置いていくことにする。どうしても眼の端でちらちらとこちらを見つめている安西の姿が気になって仕方なかった。
「さて、行きますか……」
 須賀が何故僕を呼んでいるのかは分からないが、それでもあれだけの重い口調にはそれなりの事情なのだろう。正直僕が相談に乗れるかわからない。
 彼は人を殺している。その衝撃は精神を歪ますことくらい平気でやってのけるだろう。
 だからこそ僕は、親友だからこそ、彼のリカバリーをしてやらなくてはいけない。
「同じ共犯者なんだから……な」
 冷たい空気の流れる廊下をゆっくりと、一歩づつ踏み締め屋上を目指す。もうすぐ終了祭が始まる時間だ。校舎内に生徒が誰一人としていない状態となる。
 思い切り会話をするには持って来いだ。

 ※

「よっ」
「おう杉原、待ってた」
 冷たい風と共に友の声が僕の身を打つ。思わず冷え切った風に身を震わせるが、へへへ、と照れ隠しに笑いながら須賀へと歩み寄る。
 ふっと、須賀が一歩下がる。
「?」
「いや、それより、ちょっと話してもいいか?」
 須賀の一歩がほんの少し疑問に残るが、とりあえず神妙な面持ちの須賀を見て、今はそれを気にしている場合ではないと考え、すぐに須賀に向かって頷いた。
 須賀は手すりに両手を置くと寄りかかり、終了祭の様子を眺めている。ステージでは轟々と燃え盛る炎を背に劇や校内人気投票を行っているようだ。少しばかり惜しいことをしただろうかと後悔が生まれるのが感じ取れた。
「やっぱさ、人を殺したって事実はどうしても変わらないことなんだよな…」
 須賀が突然口を開いた。
「……まあそうだな」
「殺したときの顔も、感触も、その後の後味の悪さも、きっと汚れとして落ちずにこのまま生きてくことになるってことに気づいたんだ」
「……自首するつもりか?」
「いいや」
「じゃあどうして突然?」
「殺人鬼ってさ、こういう感触をどう思ってると思う? 吐き気がするほどの胸ヤケをどう感じると思う?」
 須賀の言っていることが良く分からない。彼は何を言いたいんだろうか。僕は背中から吹き出る冷たい汗にほんの少しの恐怖が混じっていることに気づく。
「須賀……」
「殺人鬼はさ、目の前にある命をこの手で断ち切る事を快感と思ってる。だから人を殺し続けられる」
「やめろよ」
「この苦痛を、快感だと思えるから苦しまずに済んでる人間が、この世界には沢山いるんだぜ? なぁ杉原」
「……何が言いたいんだ」
「もう一度、あの感触を味あわせてくれよ。裏切り者」
 僕の両肩を須賀が掴んだと同時に、足が宙に浮いた。
「死ね……死ねよ!!」
「ちょ……須賀止めろ……」
 両腕で抱え込んだ手すりに助けられてはいるものの、足がついていない状態と押され続けている状態では分が悪い。どうにか逃亡方法を考えないと本当に落とされてしまう。
 けれども、そんなことを考えるよりもまず「何故僕を殺そうとしているのか」という疑問が頭の中をぐるりぐるりと駆け巡る。
「俺が何した!?」
「共犯者とか言いながら強請が目的だったんだろう!? あんな電話までしてきて……。信じていたのに……」
 ほんの少し須賀の手が緩む。この瞬間を見逃せば殺されてしまう。僕は柵に足を絡め両腕で須賀の右腕を思い切り引っ張る。
 僕と須賀の目が、少しだけ合った。そしてそのまま須賀は左へと流れ、柵へと打ち付けられた。
――だけで済めば良かった。須賀は手すりに背中を打ちつけ、そのまま勢いでぐるんと一回転し、柵の外へと飛び出していく。
「須賀ぁ!!」
 頭が真っ白になり、精一杯伸ばした手は須賀の指をかすった。
 呆然とした表情のまま須賀が落ちてゆく。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 そして、僕が覗き込んでいる中、須賀の身体は地面と接触し、ゴムまりのように一度弾むと土埃を立ててもう一度地面にたたきつけられ、時を完全に止めた。
 赤い液体を土が呑み込み、周囲がにごった赤に染まっていく。
「嘘だろ……」
「嘘じゃない」
 頭を抱えながら座り込んだ僕を、誰かが抱え込んだ。
「言ったでしょう? 須賀君に気をつけろって…」
「ちょっと待てよ。ど、どういう……?」
 刹那、胃の中がぐるりと口元まで競りあがってきた。僕はその異常に耐えられず思い切り胃酸にまみれた吐瀉物を吐き出し、息を荒げる。
「だって、俺は何も……何も……」
「彼は裏切ったと言ったのでしょう?」
「そんな……」
「あなたはまだ事件を解決できたと思っているの?」
「どういうことだよ!? 須賀と共犯者になって、それで……」
 水島がふふんと僕を冷めた眼で笑った。
「『彼女の真実を殺す』事で僕も人を殺した。そう言いたいの?」
「……」
 返す言葉が無かった。あの時僕はそう確信していた。僕がこの事件の結末を隠す事で全て一件落着だと。
 娘を忘れたい母親。
 全てを隠して今までどおりの生活を送る親友。
 それが最善の策だと、僕は思い続けていた。
「……警察に通報しましょう。私が一部始終見てたから。その代わりあなたの知っていることを全て吐き出しなさい。全て」
「……そんな、それじゃあ須賀を本当に」
「須賀君須賀君うるさい。あなたにはまだ解決しなくちゃ…殺さなくてはいけない人間がいるのだから」
 僕は耳を疑った。僕が、解決しなくてはいけない事件? そして、まだ僕は人を殺すことになる? 彼女から吐き出された言葉は僕に一発一発強烈なビンタを両頬に打ち付ける。
「雪野早苗の事件を皮切りに、色々な『事』が芋づるのように浮き出てくる……どれだけ待ったことか……」
 水島は両の手を組み合わせると笑みを浮かべる。
 それは、とてつもなく凶悪で、そして儚げな笑みに見えた。
 人殺しを見分ける不思議な彼女は一体、僕に何を求めているのだろうか。

 この事象に関わってしまった僕の行き着く先は、一体どこなのだろうか…。

act.2 END
next→act.3「ネクロフィリア」
9, 8

硬質アルマイト 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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