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第六章 『ライアー・ゲーム』

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フスマの敷居を挟んで対峙する二人。
熱にうかされ覚束ない視線のサカキ・マナミと、鋭く突き刺すような眼差しの増田翔子。
のちに終生のライバルといわれる二人の出会いであった・・。

・・などとスラムダンク風のナレーションでお茶を濁したいが、両人とも見つめあったまま口を開かない。実測すればほんの数秒のことだったに違いない。だが、僕には永遠にも思える重苦しい沈黙だった。もしこの瞬間が永劫回帰でもしようものなら、ニーチェよろしく発狂しかねない。

恐る恐る増田翔子の顔を覗き込むと、もはや僕の存在など眼中にはなく、サカキ・マナミに対して無言の威嚇射撃を行なっている。「あなたは誰?今までそこで何やってたの?誰の許しを得てここにいるの?」とでも詰問するような眼差しだ。

僕から言わせれば、どちらかといえば増田翔子の方が不法侵入者なのだが、それをこの場で言明する勇気など、僕は持ち合わせていない。ゆえに三つどもえの沈黙であった。ヘビがカエルを睨み、カエルはナメクジを睨み、ナメクジはヘビを睨む。この三すくみなら、僕は断然ナメクジでありたい。誰かに塩を振りかけてもらって、この場から消えて無くなりたいと切に願った。

胃がキリキリ痛むようなこの難局は、しかし長くは続かなかった。異様な沈黙を払いのけたのは、思いがけずもサカキ・マナミであった。彼女は増田翔子の威嚇に気圧されることなく、ニコリと微笑んで言った。

「・・こんにちは。お兄ちゃんのお知り合いの方ですか?」

その問い掛けに、増田翔子のこわばった頬が、緊張の糸を途切らせたのが分かった。吊り上がっていた口角がゆるみ、攻撃的な光を宿していた瞳孔も、ゆるやかに収縮する。

戦闘を終えたスーパーサイヤ人が金髪碧眼モードを解除したような、劇的な変化であった。狼牙風々拳ぐらいしか使えない僕としては、諸手を挙げてバンザイしたい気分だった。とはいえ、スーパーサイヤ人でなくなっても、もともとサイヤ人では手も足も出ないのだが。

「妹さん・・?そう・・。はじめまして、お兄さんの会社で経理をやっています、増田です」
「どうも、はじめまして」

二人はにこやかに初対面の挨拶を交わした。

その傍らで、僕はこの状況を次にどうするべきか、猛烈に頭を働かせていた。一時は死亡フラグを覚悟した事態も、サカキ・マナミの機転によって、事なきを得た・・ように見える。正直、サカキ・マナミが僕の妹を装うなど思ってもみなかったが、彼女なりにこの状況を把握した上で、事態打開の一撃を繰り出してみたのだろう。

若く頼りなげに見える彼女だが、秘密警察から逃れるための修羅場を何度も経験してきたに違いなく、僕なんぞよりよほど肝がすわっている。もしくは、女というのは修羅場に強い生き物なのかも知れない。もしくは、僕が単にヘタレなだけという可能性もある。

少なくとも、部屋に乗り込んできた増田翔子が秘密警察の手先ではないことや、僕とは顔見知りであること、しかしそれほど親しい間柄でもないこと、などを一瞬で判断した上での「妹」宣言だろう。平日の昼間に独身男性の一人住まいで布団にくるまっていても不自然でなく、反社会的でもない男女の間柄、という点も考慮されているに違いない。社会的規範すらパズルの一ピースとして瞬時に利用してしまう明晰な頭脳・・。

その頭の回転の速さは、賞賛すべきものだ。実際、彼女のおかげで、僕が直面しかけた危うい事態は回避されつつある。サカキ・マナミにとっても、自分の素性を疑われてはコトだから、己が身を守るための「妹」宣言でもあっただろう。僕とサカキ・マナミは、同床異夢の共犯者になりおおせたのかも知れない。

だが同時に、彼女の明晰さが、社会的規範すらパズルの断片と見なすものであるなら、一抹の不安を抱かずにはいられない。社会的規範がただのパズルなら、「なぜ殺人はいけないの?」という疑問に対し、どんな答えがありうるだろうか?こんな疑問は子供の放つ極論でしかない、という意見もあるだろう。だが、今目の前にいるサカキ・マナミという女の子は、まさにその「殺人」を実行するために、この時代へやって来たのだ。36年後の未来に日本の皇帝となる人物を暗殺するために・・。

僕はサカキ・マナミの手を汚させたくはない。どんなに頭脳明晰で、どんなに切実な理由があろうと、まだ二十歳そこそこの女の子なのだ。もっと華やかな人生を送る権利が彼女にはあるはずだ。・・だがもし、彼女の考え方が、社会規範すら相対化するものであるなら、どうやって彼女を説得すればいいのか。

僕は目の前の状況をよそに、一人で沈思黙考に耽っていた。なんだか妙な空気に気づいて顔を上げると、増田翔子とサカキ・マナミの二人が、じっと僕の事を見ている。

「あ、えっと、なに?・・」
「なに?じゃないわよ。何をぼーっとしてるのよ。事情はね、妹さんから全部聞いたわよ」

増田翔子が、先ほどまでとは打って変わって、リラックスした表情で僕に話しかけた。何があったのだ。何を聞いたというのだ。ゴクリ。

「田舎から遊びに来てた妹さんが、風邪をひいて寝込んじゃったんでしょ?だから看病するために今日は仕事を休んだわけね?だったら、最初からそう言えばいいじゃない。自分が風邪をひいたみたいなこと言うから、絶対、仮病だと思ったわ」
「ああ、うん、実はそ・・」
「それにしてもカワイイ妹さんよね。全然あなたに似てないし」
「ああ、うん、よくそ・・」
「同じ親から生まれたとは思えないほどの光と影よね」

僕とサカキ・マナミのどっちが光でどっちが影かは、この際、問わないことにする。僕が返事をしようとするたびに、無視して話を進めるのも、まあいい。よくないけど。

それよりも僕が気になったのは、増田翔子は、サカキ・マナミの「妹」宣言を疑っているのではないか・・という一点だ。今の「似てない」発言は、わざとカマをかけたのではあるまいか。権謀術数に長けた彼女のこと、相手を安心させつつ背後から心臓を一突きするなど、お手の物であろう。僕は危険信号を感じて、取り繕った苦笑いを浮かべ、増田翔子の物言いを黙って受け流すのであった。

すると今度は、サカキ・マナミが言った。
「ゴメンね、お兄ちゃん。増田さんが来るなんて知らなくて、勝手に遊びに来ちゃって。風邪が治ったらすぐに帰るから。なんだかすごくお邪魔虫でゴメンなさい」
「ああ、うん、それはい・・」
「いいえ、全然そんなことないのよ。マナミちゃんはゆっくりしていってね。早く風邪を治さないと。でも、お兄さんが頼りないから、治るものもなかなか治らないわよね」

明らかに余計な一言を付け加えつつ、増田翔子は笑顔で答えた。初対面なのに、まるで昔から顔なじみと挨拶を交わすかのごとき振舞いは、コミュニケーション不全症の僕に言わせれば、神の領域である。

「増田さん、優しい言葉、ありがとうございます。お兄ちゃんも、こんな素敵な恋人さんがいるなんて、もっと早く教えてくれればいいのに。もうお付き合いして3年になるんでしょう?」

サカキ・マナミの口から出たとんでもない発言に、僕は顔面を硬直させた。あわてて増田翔子を振り返ると、楽しそうに微笑んでいるだけで、一切否定しない。逆に、僕を一瞥し、促すような合図を目で送ってきた。お前も肯定しろ、という意図が明々白々だった。

僕が一人で考え事をしている最中、二人の間でどんな会話が交わされたというのか。サカキ・マナミの「妹」宣言に対抗したのか知らないが、増田翔子は勝手に「恋人」宣言したらしい。女の会話は、空恐ろしい。十中八九、この場で相手より優位を得るためのポジション争いとしか思えない。しかも中身は真っ赤な嘘である。その上、僕にまで嘘を強要する豪腕っぷり。糸山英太郎先生もビックリである。

だが当然、ヘタレな僕としては、「ああ、うん・・」と気弱な返事を返すしかなかった。サカキ・マナミには、増田翔子が帰った後で、ちゃんと説明しよう。・・いや、別に誤解されたままでも困りはしないが、なんというか、彼女にだけは嘘を吐きたくないのだ。本当にそれだけであり、サカキ・マナミに対して特別な気持ちを抱いているとか、そういうことではない。・・ないんだからねっ!

僕が渋々「恋人」宣言を認めると、サカキ・マナミは微笑を浮かべたまま、僕の顔をじっと見つめた。何か言いたそうな雰囲気ではあったが、一向に口を開かない。ただ僕の顔を、まじまじと見つめているだけだ。その表情は、微笑が張り付いているものの、どこか寂しげでもあった。

そして・・張り付いていた微笑が不意にかき消えた。
「クシュン」とクシャミを一つ洩らし、続けてゴホゴホと咳き込み始める。
息つく間もなく何十回と咳き込み、今まで以上に顔が赤く火照った。

増田翔子があわててサカキ・マナミに寄り添った。額に手をあてて、神妙な顔つきになる。僕のことをジロリと見た。

「妹さんの熱、すごいわ。体温計はどこ?もしかして無いの?」
僕は黙ってうなづいた。
「熱も測らずにただ寝かせておいたわけ?もしかして、病院にも連れて行ってないの?」
僕はまたうなづく。
「風邪薬も飲ませてないのね?」
僕はさらにうなづく。

「あきれた。全然、看病してないじゃない」
「でも、玉子酒を作って飲ませたよ」
「それは栄養補給であって、薬じゃないでしょ。なにを偉そうに言ってるのよ。ほんとトンチンカンね。あと、服が汗でビッショリだけど、着替えさせたの?」
「いや・・それはちょっと・・」
「なに照れてるのよ。妹さんなんだから着替えさせるぐらい別にいいでしょ?」

僕は返答に窮しマゴマゴしたが、咳の収まったサカキ・マナミがすかさず顔を上げ、
「ゴメンなさい。私の方が恥ずかしくて、自分で着替えるからいいよって、兄に言ったんです」
とダメ兄貴に代わって適切なフォローを入れるのだった。

増田翔子は「そっか」とあっさり納得し、
「じゃあ私が手伝うから、今から着替えちゃおうか?」
とサカキ・マナミに促した。

それから数分の間に、長袖のシャツやらズボンやら、毛糸のセーターやら大きめのタオルやら靴下やら、部屋中の衣類を総動員して、まともに着られそうなものを、僕はなんとか揃え上げたのだった。

その一式を残らず増田翔子に手渡すと、彼女はサカキ・マナミを伴って、布団が敷きっぱなしの6畳間へと移動していった。そして、
「覗かないように」
と、すげない一言を残し、フスマはピシャリと閉じられた。

僕は一人取り残された6畳間で、足を投げ出し、だらしなく座り込んだ。どっと疲れが出た気分だった。一時はどうなることかと危ぶんだが、災い転じて福となす、といったところか。少なくとも僕よりは増田翔子の方が、女の子を看病する術に長けているだろうし、この展開もまずは良しとするか・・。

緊張がとけた反動であろうか、僕の胃腸が、食物を求める収縮音をキュルキュルと鳴り響かせた。
昨日の夕飯の残り物があったっけ・・と台所を振り返ると、置時計が目に入った。
時刻は間もなく、午後1時を回ろうとしていた。
若鶏のマカロニグラタン。
ミニロールキャベツ。
イワシのタタキ身あえ豆腐ハンバーグ。
トマトと玉ねぎの野菜サラダ。
タコとエビと帆立のシーフードピザ。
アスパラベーコン巻き。
大粒コーンのポタージュスープ。
ライ麦パン。
新潟県魚沼産コシヒカリの中ライス。
オロシ山菜ソバ。

狭いテーブルを圧迫してこれでもかと並べられた料理を、僕はアンニュイな気持ちで見つめていた。

もしこれが一人分の昼食メニューだとしたら、胃弱の僕にとっては、少なからぬ拷問である。大体、油モノが数品並んでいるだけでも、僕の胃袋はキリキリとした痛みを発する。「私、そんな食べ物は絶対に消化できませんから!」と訴えかける胃袋は、潔癖すぎて融通のきかない委員長タイプである。フラグの立て方が難しい。

僕は、自分が注文したオロシ山菜ソバをちゅるちゅると啜った。不安定に揺れるソバの末端がツユを跳ねてシャツに染みを作ったが、それは気に留めず、テーブルの対面席をこっそりとうかがった。

そこには、黙々とマカロニグラタンを口に運ぶ、増田翔子の姿があった。背筋をピンと伸ばし、先割れスプーンの運び方も洗練されている。食事行為が一つの文化たりうるのは、躾の行き届いた挙措動作のたまものである。猫背でソバをすする僕など、餌付け中の動物と大差ない気がする。

僕がオロシ山菜ソバしか注文していないのに、それ以外の9品を遠慮なく注文した増田翔子は、テーブルに並んだ品々を、少し自分の側に引き寄せている。手を出すな、という無言の合図である。思い起こせば悠久の昔、地面に線を引いて「ここから先は俺の土地な?」と勝手に言い出した輩こそ、この世の悪の元凶だということが、今の僕にはハッキリ分かる。そんな油モノ、頼まれたって誰が手を出すものか。

時刻は午後1時30分を過ぎていた。二人掛けのテーブル席についた僕と増田翔子のほかには、ぽつぽつと人影が点在するだけのファミリーレストラン。

平日の真昼間、普段着姿で遅めの昼食をとっている僕たちは、傍から見れば大学生のカップルといったところだろうか。もしくは、デート商法に引っ掛かってこれから勧誘を受ける哀れな男子学生に見えるかも知れない。その男子学生のあまりの優柔不断ぶりに「あなた全然モテないでしょ?人生楽しい?」とか勧誘員が説教を始めるパターンだ。まあ、現実の状況も似たり寄ったりだが。

増田翔子はマカロニグラタンを早々にさらえて、豆腐ハンバーグにナイフを入れ始めた。旺盛な食欲は性欲とつながっている、という生理学説を思い出し、セクハラめいた妄想がムラムラと浮かんだ。だが、情け容赦なくナイフで切り刻まれる豆腐ハンバーグを見るにつけ、交尾後にオスを食べるメスのカマキリが思い出され、下品な妄想は急速に萎んでいくのであった。

しかし、こうしてゆっくりと食事をとっていられるのも、増田翔子のお陰ではある。今日の昼頃、突如としてやってきたこの闖入者は、寝汗をかいたサカキ・マナミを手際よく着替えさえ、布団に寝かしつけた。

汗で汚れた衣類を洗濯機に放り込み、「勝手に洗濯機を開けないこと、見ないこと、触れないこと」と三カ条の厳命を僕にくだし、そそくさと台所に移動した。一合の米を手早く砥いで電子ジャーに放り込み、お粥モードにセット。次いで、ヤカンで沸かした白湯を湯飲みに注ぎ、「喉が渇いたら、これ飲んでね」とサカキ・マナミの枕元へメモ書きと一緒に添えた。

「さて、と」
6畳間のフスマを静かに閉め切り、増田翔子は僕の方へ向き直った。
「お粥が炊けるまで30分ぐらいね?」
「ええと・・そのぐらい・・かな?」
「私が質問してるのに、なんで訊き返すのよ。空前絶後に頼りないわね。こんな兄弟を持った妹さんがとっても不憫。きっと彼女、お友達には『兄弟はいません』って言ってるわね。結婚式に呼んでもらえなくても気にしちゃダメよ」
「・・ああ・・」
「それはそれとして、風邪薬と解熱剤ぐらいは飲ませた方がいいから、薬局に買いに行きましょう。熱が下がれば多少、具合も良くなると思う。近所に薬局ぐらいあるでしょ?あ、そうだ、その前に、どこかでお昼ご飯食べたいな。お腹減ったでしょ?」
「・・そうだね・・」

かくして僕と増田翔子は、6畳間に熟睡するサカキ・マナミを残して、束の間の外出に繰り出した。自宅アパートから歩いて15分、駅前の中途半端な繁華街でファミリーレストランを見つけて、遅い昼食にありついたという訳だ。

そんな経緯を思い出しながら、僕はファミレスの大きなガラス張りの窓を眺めていた。気温は低いが、いい天気だ。ソバをまた一啜りした。

「妹さんのことが気になる?」
と増田翔子が口を開いた。彼女の手元を見ると、豆腐ハンバーグはキレイにたいらげられており、アスパラベーコン巻きを箸で摘んでいるところだった。

「まあ、多少は。でもだいぶ落ち着いたみたいだし、薬を飲ませて寝かせてれば、二三日で良くなると思う・・」
「頼りないけど、案外、妹さん思いなんだ」
少し微笑みながら、増田翔子はアスパラベーコン巻きを口にした。
「いや、まあ・・」
「でも兄妹なのに、全然、似てないね」

その言葉にギクリとして、箸で摘んでいたソバの数本を、汁の中に落とした。ジャプンと飛沫が上がった。増田翔子はその飛沫を気にする様子もなく、アスパラベーコン巻きを冷静に咀嚼している。今の言葉に、他意は無かったのだろうか。

「ええと・・僕が父親似で、妹は母親似なんだ。だから兄妹でも似てないっていうか・・」
「へえ。普通、男の子は母親に似て、女の子は父親に似るって言うけどね」
「・・ああ・・逆だった、ゴホン、ゲフン」
「しかも、少ししか話してないけど、とっても頭が良さそう。まだ学生さんなの?」
「多分。・・いや、そう、学生だよ。理系なんだ。詳しいことは僕も知らないけど、物理学を研究してるらしくて・・」

実際、サカキ・マナミは、時間制御装置や重力制御装置を作るだけの科学知識を持っている。この説明は大筋で間違っていないはずだ。・・現代の物理学より二三歩、先んじている事を除けば。いずれにせよ、特筆すべき頭脳は折り紙つきである。

「やっぱり頭いいのね、妹さん。ちなみに、あなたは文系よね?」
「うん、そう。・・えっと、なんで?」
「いかにもそんな感じだから」

そう言って、彼女はポタージュスープを口に運んだ。「そんな感じ」とはどんな感じだろう、と僕は考えたが、答えが出そうにないので、それ以上は考えない事にした。・・多分、こういう部分が「そんな感じ」なのではあった。

少しだけ間が空いたので、僕はソバ汁を一口啜った。このまま「妹」話を続けていると、どこかでボロが出る気がしてならない。サカキ・マナミが論理的思考力に秀でているように、増田翔子は計算ずくのズル賢さ・・もとい、戦略的な駆け引きに長じている。地雷を踏まされる前に、非武装地帯へ退避するべきだ。

それで僕は、少しだけ話題を変えることにした。先だっての「妹」話は、僕とサカキ・マナミの関係を誤魔化すための嘘であるが、もう一つ、増田翔子の口から飛び出した別の嘘がある。そのことを、僕は遠慮がちに口にした。

「さっき、妹の前で、増田さんと僕が付き合ってる、みたいな事を言ってたような気がするんだけど・・」
「ええ。言ったわよ」
「それって・・」
真っ赤な嘘じゃん、と僕は続けようとした。「じゃん」よりも「ですよね」が適切だったかも知れない。だが、どちらであっても、僕はその台詞を言い終える事は出来なかった。

というのは、ふいに増田翔子が居住まいを正し、じっと僕の目を覗き込んだのだ。僕が何を言おうとするのか、興味深く、耳を傾けるように。その眼差しには如何ほどか、真剣な色が浮かんでいた気がする。結果として、僕はその微妙で危険な空気を感じ取り、言葉を飲み込んでしまった。

僕が言いよどんだのが分かると、今度は彼女の口元が動いた。声に出ない言葉。唇の動きは明らかだった。僕と彼女は顔を見合わせたまま、時間を停止させた。しばらく後、増田翔子の方から沈黙を破った。

「もちろん、付き合ってるなんて嘘だけど、妹さんの手前、いい歳した兄が会社をズル休みした挙句に家庭訪問受けてるだなんて、みっともないでしょう?どうせなら恋人もいるし、社会人として立派にやってる所を見せて、安心させてあげた方がいいんじゃないかな?と思ったわけ」
増田翔子は一息に言って、もう一度ポタージュスープで喉を潤し、ミニロールキャベツに箸を伸ばした。

「・・そっか・・ありがと・・」
僕はシドロモドロな調子で答え、うつむいてソバを啜った。伸び気味のソバをモゴモゴと咀嚼しながら、先ほどの数秒の空白を考えていた。

彼女の唇が無音で呟いたのは、多分、5文字の言葉だった。いわく「いくじなし」。昨日の昼間、増田翔子の隣で弁当を食べ終えて、逃げ出すようにその場を立ち去った時と、同じ言葉が投げつけられたのだった。歴史は繰り返す。一度目も二度目も、寒々しい喜劇。その上、毎日繰り返してれば世話は無い。ランチタイムは魔の時間帯だ。

だが、意気地があったとして、何を言えばいいのか。思ったことをそのまま口にすれば、それが彼女の望むことなのか。・・いや、彼女が望むか望まないか、それは多分、問題ではない。明言を避けるということ自体が、ただそれだけが悪なのだと、彼女は言おうとしている。たとえその一言が決定的に間違っていて、相手の望みに沿わないとしても、ハッキリ口にすべきだということ。・・しかし、僕はまたしても逃げてしまった。つまり、そういう事だ。

このいたたまれない状況に、僕はひたすらオロシ山菜ソバを胃袋に掻き込み続けた。「そんなに一度に消化できません!」という胃袋からの文句もあえて聞き流す。増田翔子もまた、黙ってミニロールキャベツを賞味しているようであった。この後、二人で薬局に寄って、風邪薬と解熱剤を購入するわけだが、その前途を思うと頭痛がしてくる。

・・こうして二人掛けのテーブル席が、めっぽう澱んだ空気に侵されようとしていた時である。不審な人影が近づいて来ることに、僕は気づいた。ソバを掻き込む箸を休め、ゆっくりと僕は顔を上げた。
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僕の目が最初に捉えたのは、まばゆいブロンドの髪だった。

繊細そうな長い髪が、尖った耳に隔てられて、二方向へと枝分かれしている。一方はうなじから背中へ、他方は頬伝いに胸元へと落ちかかっていた。渓流に浮かぶ砂金のような髪の輝き。街中で見かける着色料の金髪とは一線を画し、落ち着いた光沢を浮かべている。これが天然のブロンドヘアというものであろうか。

僕はあらためて、目の前に現れた異形の相手を見つめた。顔立ちは彫刻作品のように整っている。その瞳は青く澄んで、高価な芸術作品にはめこまれたサファイアの装飾を思わせた。白いシャツに黒のパンツスタイルは、ビジネスパーソン風のフォーマルな出で立ちだ。その上に羽織っている薄手のコートも、薄墨色の地味なデザインである。年齢は多分、20代後半。性別は女性で、ファッションモデルと見紛える美人である。

僕はドキドキしながら彼女の背後をチラ見したが、他に人影は見当たらなかった。一人でこの場に居合わせている模様。恐る恐る目を合わせると、彼女の青い瞳も僕を見つめ返した。

このシチュエーションは僕にとって、四重苦を予感させた。第一に、僕は初対面の相手とまともに会話を交わせた試しがない。「こんにちは」「こんにちは・・」「いい天気ですね」「そうですね・・」。頑張っても二往復が限度である。そして第二に、相手が女性だった場合、僕は手がつけられないほど挙動不審になる。陸の上で溺れるごとき、傍目には不条理な症状を示すことになる。

第三に、不幸にもその女性が美人だったりすると、要介護の老人みたいに手足が震え、頭痛と眩暈と吐き気に襲われる。中国製ギョウザを食べなくとも、これぐらいの惨状は朝飯前である。さらに第四、常人であっても意思疎通の難しい異国人が相手では、もはや為す術が無い。コミュニケーションとかそういう問題をはるかに超越している。

この恐るべき四重苦を前にして、僕は即刻、自力救済の道を諦めた。自分でこの苦境を切り開くのは、はっきり言って、ムリ。・・わが邦に仏教が伝来して1500年あまりを数える今日、小乗仏教がいくら自力救済を唱えても、ダメ人間が選ぶのはいつだって大乗仏教に決まっているのだ。つまり、この苦境を切り開くには、他力本願しかない。

僕の視線は浮遊霊のごとく宙をさまよい、テーブルの対面で黙々とミニロールキャベツを賞味する増田翔子の姿にロックオンした。僕がいま握っている危ういバトンを、増田翔子に渡してしまえばいい。僕が対処できなくても、増田翔子なら何とか出来そうな気がする。彼女、英会話とか習ってそうだし。「女に頼る男って最低」とかいう価値観は、犬にでも喰わせればいい。そもそも現代社会のルールは、レディーファーストが基本なのだ。

僕の脳内で理論構築が完了し、「増田さん、ちょっといいかな?」と口を開きかけた時、増田翔子がチラリと僕を一瞥した。その目には、僕がまだ何も言い出してもいないのに、侮蔑の色が浮かんでいた。彼女はまた目を伏せ、食事を続けた。

僕は口を半開きにしたまま、固まった。気のせいでなければ、明らかに牽制の意思表示である。・・気のせいではないだろう。そもそも、不審な異国人がすぐそばに居るのに、脇目もふらず食事に没頭する増田翔子は、あえて「我、関せず」を装っている。単に食事に夢中なだけという可能性も捨て難いが・・そうでなければ、要するに、彼女は僕を「わざと」放置している・・。

「意気地なし」という言葉が、また脳裏に浮かんだ。僕の思考回路などすべてお見通しで、僕が逃げようとするたびに崖から突き落とす彼女。見放されているのか、試されているのか。獅子は千尋の谷に子を突き落とし、僕は三十路間近にして人格の再教育を施されている・・事実としてはそれだけだ。前門には不審な異国人、後門には厳罰主義の鬼軍曹。逃げ場なし。そういうことか。

僕は、ヨタヨタと泳ぐ視線を、ふたたび異国人へ向けなおした。卑屈な目つきで「へへ、すいませんね・・戻って来ちゃいました」という言い訳を表明しつつ。僕は口を開いた。

「・・ハ、ハ、ハロー?」
「日本語で大丈夫よ」

青い目に微笑をたたえつつ、彼女は流暢な日本語で呟いた。発せられた言葉と、それに連なる表情の動きには、1ミリのズレも感じられなかった。まるで母国語を話すような、明瞭なイントネーションだった。ズレているのは、その言葉が、金髪碧眼のファッションモデルみたいな美女から発せられたという一点だけである。

「日本語オッケー?ユー、スピーク、ジャパニーズ?」
「ええ、本当に大丈夫よ。ハーフだから、見た目はガイジンっぽいけどね」

彼女はそう言って苦笑を浮かべた。完全に日本人的な反応であった。僕の眼前に立ち塞がっていた異文化問題の厚い壁は、彼女の一言であっさりと取り払われた。九死に一生を得るとはこのことだ。僕は、ベルリンの壁崩壊に立ち会うドイツ人みたいに、言葉に言い表せない安堵を胸中に浮かべるのだった。

「よかった・・日本人なんだ?僕は英語が話せないからどうしようかと思って・・」
「そんな身構えなくてもいいのに。それにガイジンが英語を話すとは限らないじゃない?もし私がフランス人だったら、あなたが英語を話せてもアウトでしょ?」
「あ、なるほど・・。色々と勘違いばっかりで、申し訳ない」
「まあ、この顔だし、ガイジンに間違われることは気にしてないけど」
「うん・・外国のファッションモデルみたいだと思った」
「あらやだ。でも、そんな風に言われたら、悪い気はしないかな。フフ」

一つの壁が取り払われると、他の壁もそれなりに乗り越えやすくなるのかも知れない。見ず知らずの相手と、まがりなりにも会話らしい会話を交わしている自分を、僕は驚きをもって見つめていた。

風通しの良い会話とは、斜面を転がる雪玉みたいなものだ。どこへ向かって転がるかは気にせずに、木の葉でも砂利でもゴミクズでも巻き込んでいけば、おのずから大きく膨らんでいくのだ。

「転がることに何の意味があるの?」なんて哲学めかした問いは、その実、上手く転がれない自分を庇い立てするための防御反応だと、僕はよく知っている。「転がる事こそが意味なんだぜ」と爽やかに宣言するのも、それはそれで悪くない。

このささやかな洞察を得た喜びを、何に喩えよう?・・東西冷戦の雪解け、ペレストロイカ。壁の崩壊によって再会を果たす、東西ドイツ国民たち。壁の向こう側に見える自由の国、自由の空気。・・そんな風に、現代史のターニングポイントに思いを馳せながら、僕は一人でハッピーな気分に浸っていた。

だが間もなく、この祝典に水を差す咳払いが一つ。

「ゴホン」

振り向くと、国境守備隊を従えた白髪のホーネッカー議長が銃口をこちらに向けて・・ではなく、ロールキャベツをフォークで弄ぶ増田翔子が、こちらを見ていた。なんだか苦々しげな表情だ。彼女の気に障ることを、僕はまた、やらかしてしまったらしい。浮かれてる場合じゃなかった。

増田翔子は、僕を冷たい目で一瞥してから、金髪碧眼の異国人にニッコリと微笑みかけた。完全な営業スマイルであった。おもむろに口を開く。

「どういったご用件ですか?」

顔は笑っているが、「早く用事を済ませて帰れ」と言わんばかりのキッパリとした口調だった。どうやら、僕が無駄話を続けていたのが気に喰わなかったらしい。

すると、異国人の方も、さきほどまでとは打って変わって真剣な表情を浮かべた。何か言い出そうとして口ごもる、といった仕草を何度か繰り返す。彫刻のような顔立ちに、若干の懊悩を浮かべているのが見て取れた。やがて彼女は、意を決したように言った。

「実は・・そのピザ」

と、テーブル上のシーフードピザを指差した。8ピースに区切られた状態で、まだ一切れも手が付いていない。載っているのはタコとエビと帆立である。このピザが一体どうしたというのか。僕と増田翔子は、同時にピザを見つめ、また同時に異国人へ向き直った。

「このピザがなにか・・?」
「いえ、ピザじゃなくてもいいの。パンでもライスでも。まだ手付かずで、食べきれないものがもしあったら・・私に譲ってもらえないかな?」

その申し出の奇妙さにもかかわらず、異国人は真剣な眼差しを崩さなかった。
僕と増田翔子はキョトンとして、お互いに顔を見合わせた。
「まだ手付かずで、食べきれないものがもしあったら・・私に譲ってもらえないかな?」

彼女は、青い瞳に真剣な色を浮かべて、そのように申し出た。額にかかるブロンドの髪を指先で払いのけ、マジマジと僕たちの方を見つめる。

突然の申し出に、僕は「え?」と呟くにとどまった。食べ残しがあれば譲って欲しい、と彼女は言った。額面どおり受け取れば、誤解の余地はない言葉である。しかし一体、どういう意図で?

可能性その一。たまたま僕らのテーブルにとても美味しそうな料理が並んでいたので、ついつい食べたくなった?・・それなら自分で同じ料理を注文すれば済む話である。これはない。可能性その二。彼女は貧しくて、料理を注文するお金が無いため、余りモノを欲している?・・お金が無いのにファミレスに入店する時点で、これもやはり変な話ではある。でももしそうなら、余りモノを差し出すぐらいは親切の範囲内という気がする。ただし問題なのは、これらの料理がすべて増田翔子の注文品であり、僕がどうこう言える立場でないという点だが・・。

不決断にかけては他者に一頭地を抜く僕であるから、こうすべし、という結論は当然出ない。それを見越した増田翔子が、横から一言呟いた。

「どうぞ」

思いがけない柔和なトーン。青い瞳を輝かせた異国人は、手近な椅子を持ち寄って、僕たちのテーブルに横付けした。増田翔子は食事の手を止めて、残りモノの皿を手際よく異国人の側へと寄せていく。

なんだかんだ言いながら、困っている人を助けるには、やぶさかでないという事か。僕は増田翔子の善良さに敬意を払いつつ、なぜそれが僕には向かないのかを心底いぶかしむのであった。「汝の隣人を愛せよ」というキリストの定言命令は、21世紀を迎えた今日も忘却されっぱなしである。

・・さて、それから20分以上は経っただろうか。ランチタイムはとうに過ぎ、まばらにテーブルを占拠していた客たちはタイミングを見計らったように、前後して勘定を済ませていった。彼らが店を引き払った後、客足がパッタリと止まった。

僕はその時分、残り少ないコップの水でたまに喉を湿らせ、閑暇をやり過ごしていた。増田翔子の方は、食後のデザートと称して巨大なチョコレートパフェを追加注文し、いましがた格闘を始めたところであった。柄の長いスプーンを操る彼女の姿は、如意棒を振るって悪さを重ねる花果山の妖猿とどこか似ていなくもない。僕としては、お釈迦様の降臨を待ち望まずにはいられない。

それはそれとして、二人掛けテーブルに横付けされた第三の椅子では、金髪碧眼の異国人が猛烈な勢いで、<タコとエビと帆立のシーフードピザ><新潟県魚沼産コシヒカリの中ライス><ライ麦パン>の三品を、脇目もふらず口に放り込んでいた。品のない言い方をすれば、食い物に「がっついて」いる。

ピザソースで口の周りはベトベトだし、指先も油まみれだが、まるで気にしていない様子である。汚れた手を拭いもせずにフォークを掴み、ライスを口に掻き込み、たまに水も飲み、またピザを頬張る。嵐のような回転速度で、食事を平らげていく。この光景を目の当たりにしては、美しい容貌が醸し出す神秘性も、台無しであった。

「仲間と旅行してたんだけど、途中ではぐれちゃったの。仲間というのは、要するに、ボーイフレンド。きっと近くにはいると思うの。でも連絡手段が無くて、探しようがないんだ」
「・・携帯電話は持ってないの?」
「私の携帯も彼の携帯も、両方とも壊れちゃってるのよ。旅行の途中でちょっとした事故があってね。でもとりあえずお腹が減ってたから、何か食べようと思ってファミレスに入ったわけ。はぐれた彼を探す前に、まずは腹ごしらえという事で」
「・・つまり、この店に入ったと」

フランクな彼女の口調に引き込まれて、僕も相槌を打つ。

「そうそう。それでね、メニューを決める前に予算だけ確認しようと思って、お財布を探したのよ。そしたら・・お財布がどこにも無くて」
「ふむふむ」
「どこにお財布を落としたかなんて全然憶えてないし・・さっき触れた『ちょっとした事故』の時に、ドサクサで落としたか可能性はあるんだけど。それはともかく、お金は無いし、でもお腹は減ってるしで、大弱りしてたんだ」
「そこで僕らのテーブルに目をつけたと」
「あら、なんだか嫌味っぽいわね・・。まあ立場上、言い返せないけど。でも、こんなにたくさん料理を注文してるのは、このテーブルだけだったのよ?しかも座ってるのは、あなたと彼女の二人だけ。食べ残しが出る可能性は高いし、食べ残さなくても、お裾分けぐらいしてくれるんじゃないかな・・と踏んだわけ」

彼女は早口で事情を説明しながら、フォークに盛ったライスを口に放り込んだ。食べて喋って食べて喋って・・寸暇を惜しんで、手と口をフル稼働させる。美しい容姿の神秘性とは裏腹に、その一挙手一投足には、ざっくばらんな性格が横溢していた。つくづく思う、第一印象なんてあてにならないものだ、と。

そもそも他人の印象なんて「自分が感じた限りでの印象」でしかないから、自分の感じ方が変われば、相手に抱く印象も変わる。他人について語ることは、自分について語ることに等しい。

僕は、パフェをつつく増田翔子をチラっと見た。彼女に対する印象はどうだろう?近寄り難くて刺々しくて、無遠慮かつ強引で、普段何を考えているのだか分からない女性・・この印象は多分、初対面の時から少しも変化していない気がする。

ずっと印象が変わらないのは、それが増田翔子の本質だから?・・例えば彼女が、近寄り難くもなく、刺々しくもなかったら、僕と彼女の関係は何が変わるだろうか?もし彼女が辛辣な言葉を吐かなければ、僕の胃は痛まず、一喜一憂する必要もなくなる。なるほど、これはこれで万々歳だ。

けれどもそうなれば、僕と彼女の接点は無くなるだろう。気の利いた世間話と笑顔を織り混ぜたコミュニケーションなど、僕には不可能事である。もし増田翔子がそのようなコミュニケーション手段を用いるなら、僕は関わるヨスガも見つけ出せず、敵前逃亡するだろう。ズケズケ物を言う増田翔子だからこそ、僕は否応なしに関わらざるを得ないのだ。

見方を変えればこうも言える。僕が逃避的なスタンスでいる限り、増田翔子が僕と関わるためには、無遠慮で辛辣な関わり方をせざるを得ない、ということ。詰まるところ、彼女の印象が変わらないのは、僕の方に原因があるのでは・・?

「なに難しい顔してるの?」

物思いに耽っていた僕に、異国人が問い掛けた。

我に返ると、女性陣二人が揃って僕の方を見つめていた。増田翔子のパフェも、異国人のがっついていた料理も、奇麗さっぱり片付いている。

「いや、別に・・もう食べ終わったんだ?」
「うん。ご馳走様!お腹いっぱい、感謝感謝。これでやっと、動き回るためのエネルギーが補充できたわ」
「そっか、よかった・・。ところで、確かさっき、仲間とはぐれたって言ってたよね?」
「ええ。ボーイフレンドとね。彼の名前はケビンっていうんだけど・・あ、ごめんなさい、そういえば私の名前も伝えてなかったわね?お腹が減ってると、注意力散漫になるのよね・・。私の名前はジュリア。よろしくね」

ケビンとジュリア。僕は二つのカタカナ名を脳裏で反復した。外国人の名前はどれも似たり寄ったりで、正直さっぱり覚えられない。途中で忘れたら、適当に「マイク」とか「メアリー」とか呼んでお茶を濁すことに決めた。

「でね、ケビンもこの近くにいるとは思うのよ。彼もハーフだから目立つと思うし、1時間ぐらい聞き込みして歩けば、すぐに見つかるとは思うんだけど・・」

ジュリアはそこで言葉を切った。それほど確信がある訳でもなさそうだ。実際、旅先で仲間とはぐれて一人ぼっちになれば、不安でない方がおかしい。さりとて、僕が絶妙な解決策を思いつくはずもなく、ジュリアの沈黙に付き合うのが精一杯だった。

ずっと黙っていた増田翔子が、沈黙を破った。
「まずは交番に行くのが良いんじゃないかしら?人の目撃情報が集まるのも交番だし、ケビンさん自身が困って交番に駆け込んでるかも知れないわ。ジュリアさん、どうかな?私と彼はこれから用事があって、薬局に行くつもりなの。薬局の近くに交番があるから、そこまで一緒に行ってみましょう?」

そうだった。僕と増田翔子は、ファミレスで昼食を採ることが目的ではなく、薬局で解熱剤や風邪薬を買って帰ることが一番の目的なのだ。アパートでは、今もサカキ・マナミが熱にうなされて眠っているだろう。

ジュリアの人探しに付き合ってあげたい反面、早いところ薬を買って帰宅したいのも確かだ。増田翔子の出した助け舟が、ジュリアにとっても僕らにとっても、一番妥当な選択だった。

「そっか・・それが一番いいのかも。了解!」
ジュリアはそう呟き、椅子から立ち上がった。僕と増田翔子も、少し遅れて椅子から立ち上がった。

長い昼餉はようやく終わりを迎えたのである。
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