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第四章

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 僕が泣き止むまで無言のままで待って、彼女は一つ溜め息を吐いた。瞬間に、彼女の雰囲気が一変する。感じたことのない空気を彼女から感じて、我知らず背筋を冷たいものが這い上がる。彼女に会えた喜びが、急速に冷めていくのを感じた。
彼女は、僕が鼻をすするだけになったのを確かめると、くるりときびすを返す。
「さて、まだ意識がある人達にお願いしたいことがあります」
 まるで講義でもするように正面にむかって投げられたその声は、彼女に背を向けられていることもあってかやけに冷たく聞こえた。
 返事はなかなかなくて、それを待ちながら、彼女は簡易鎧の脇についていたスイッチを押す。プシューと空気が抜けるような音がして、鎧は彼女からはがれるとどんどん縮み、折り紙のように小さく、薄っぺらになっていく。そうしていつものパーカー姿になった彼女はそれを拾ってポケットに入れると、ガキッと空気砲も外してポケットに直した。
「何だ?」
 ロープに縛られ、転がされているのであろう透明な誰かさんが尋ねる。
 スゥっと息を吸い込む音が聞こえた。そして、
「必ず説得して戻ります。探さないでください」
 彼女にも彼の姿は見えないのだろうが、声のしたほうを見据えて、はっきりとした口調でそう告げる。普段のやわらかい口調とはあまりに違うその堅い響きに、僕の知らない彼女の一面があることを見せ付けられたようで悲しくなった。
 返事は、ない。
 そんなこと一兵隊でしかない彼にできるわけがない。
 無言で見守る僕に背を向けたままで、彼女はもう一つ溜め息を吐くと、
「まぁ、とりあえずいいです。動けないとは思いますけど、追わないでください」
 言いながらポケットに手を突っ込み、どこでもドアを取り出した。
「のび太くん、行くよ」
 首だけで振り返って彼女が言う。別にきつい口調というわけでもないのに、有無を言わせぬ迫力を持ったそのあまりに彼女らしくない物言いに、僕はうなずくしかなかった。
――カチャリ。
 彼女がドアを開く。
 その枠で四角く切り取られた空間は別のどこかにつながり、半透明なフィルターをかぶせたような朧げな像を結ぶ。
 色の変化に乏しいその景色がどこかはよくわからなかったけど、どうやら灯りはあるところらしく、夜の帳が下りた空き地の只中で、そこだけが明るいという異様な光景だった。
「二人っきりで話をしよう」
 前を向き、今度は振り返りもせずに彼女は言って、そのままドアをくぐる。
 僕は、一瞬だけ考えた。
 彼女は僕を説得すると言った。
 それならば僕は逃げたほうがいいのではなかろうか。
 今なら、作戦通りに行っているなら、僕の家は無防備になっているはずなのだ。
 ドアの向こうに、彼女のぼやけた後姿があった。
 彼女は会話を望んでいる。僕を説得しようとしている。
 つまりは僕の行動は彼女の意にそぐわないということだ。
 考えるまでもない。
 僕は意を決するように目を閉じて、ドアをくぐった。
――パタン。
 僕の背後で、ドアが閉まる音がした。
 ゆっくりと目を開ける。そして、
「へ?」
 見えた景色に僕はまぬけな声を出した。
 そこは僕の部屋だった。
 否、僕の部屋にそっくりな何処かだった。
 棚もたたみも本棚も、机も窓も押入れも、僕の部屋と同じ場所にあって、そして、空っぽだった。漫画でいっぱいのはずの本棚には一冊の本もなくて、机の上に積んでたはずの参考書もなくて、ダンボールにつめた野球道具なんかもなくて、なんだか、学校帰りにカーテンを外された窓から見えた空き部屋を連想した。ものもなければ生活感もない、ガランとした部屋。
 そして何より、窓の向こうが壁だった。何かの冗談みたいに、窓の向こうはコンクリートか何かのざらざらした灰色の壁で、外の景色なんてかけらも見えやしない。
 なら襖はどうなるのだろうか。なんとなく考えて、本来ならこの部屋の入り口になる襖のほうを見ると、
「そっちも壁だよ。ここは閉じた空間だからね。どこでもドア以外に入り口はない」
 ドラえもんが言った。
 彼女は混乱する僕を置いてすたすたと押入れに近づくと、がらりとそれをスライドさせ、その二階によじ登り、そこに腰掛ける。
「君も座りなよ。短い話では終わらないだろうし」
 まるで感情のない声、どこかをうろんげに眺めていて僕の目を見ない青い瞳。胸の中に言い様のない悲しみが広がっていく。僕は小さく唇を噛み、無言のままで勉強机の椅子を引き、そこにかけた。
「……」
 彼女はやっぱり僕を見ていない。目は僕を視界に捉えているのだろうけど、まっすぐには僕を見ていない。部屋に物がないせいか、そのうろんげな彼女まで空っぽに見えた。ひどく無機質で、機械そのもののようだった。
 そんな印象を彼女に抱いたことを自覚したとき、僕は猛烈に彼女から視線を外したくなったけど、なんとか我慢した。彼女が僕を見てくれないのなら、なおさら僕は目を逸らしてはいけない。そう思った。
 と、
「なんでこんな馬鹿なこと、したの?」
 怒るでもなく、嘆くでもなく、ただ淡々と、彼女が尋ねた。
 僕は言葉を飲み、その質問を脳内で咀嚼して、
「未来をかえるために」
 そう答えた。それを彼女は鼻で笑う。
「未来? 君が変えようとしているのは過去じゃないか」
「ちがう――」
 僕はそれに答えようとするのだが、
「いいや、違わない。君がやっているのは未来を覗き見て、過去を変える行為だ。手探りの中現実と戦って未来を変えようとするものではない。いってみれば未来を“選ぶ”ということ。
 君は――、神様にでもなったつもりかい?」
 それを遮って質問されてしまう。
 初めて僕の方を見た彼女の目が、キッと僕を、睨んでいた。
 いつのまにか『未来を覗きに行く』というのが普通のことになっていた僕には最初、彼女の言葉の意味がうまく理解できなかった。それで、しどろもどろになりながら否定する。
「そんなことは……ないよ」
 それを聞いて彼女は大きく溜め息を吐くのだった。
「未来に都合の悪いことがあって、それに辻褄を合わせるために過去を変えるのは、絶対に間違ってる。そんなことはないというなら、君はなぜこんなことをしたんだい?」
「だからっ、都合が悪いとかじゃなくて、こんなのおかしいとおもったから……」
 うまく説明できなくて、なんとか言葉を選ぼうとして口ごもる僕を、彼女は笑う。
「それを選ぶというんだよ」
 僕は完全に沈黙してしまった。胸が震えて、涙が溢れそうになるけど、泣いたら負けだと必死で奥歯をかんでそれを我慢する。そして、
「君が、望んで未来に帰ったんだったら受け入れるつもりでいたよ」
 吐き出すように言って、
「だけどっ、あんなの見せられて許せるわけないだろっ!!」
 僕は吠えた。
 ドラえもんは俯くだけでそれに答えてはくれず、部屋の無音が耳にキーンと響いて痛かった。しばらくあって、
「君は、」
 うつむいたままで彼女がか細い声を出した。
「僕が壊されるところを見たんだってね」
 無言で、ゆっくりとそれにうなずく。
 そこで顔を上げた彼女は皮肉げな笑顔を浮かべていて、
「それで? “たかがそれだけのこと”で君は犯罪者になろうとしてたわけ?」
 こちらをバカにしたような口調で言ってのけた。僕にはその言葉が、信じられなかった。
 驚きすぎて言葉を返せない僕に彼女は続ける。
「何を勘違いしていたのか知らないけどね、のび太くん。僕はただの道具なんだよ。使い終われば捨てる、壊す。なにも不思議じゃない。
 僕の役目は終わったんだ。君には僕はもう“必要ない”んだよ」
 おねがい、やめて。
 心の中で叫ぶ。彼女の言葉にちょっとしたパニック状態に陥ってしまった僕の体は硬直してしまい、耳を塞ぐこともできない。
「僕は君がまともになるためにそばにいた“だけ”なんだよ。それが“仕事”だからこの時代にいただけなんだ。別に――、」
 その先は聞きたくない。
「望んでこんな時代にいたわけじゃない」
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 瞬間、思い切り殴られたかのような衝撃があって、僕は体の平衡を失った。上体がぐわんとかしぎ、椅子から転んでしまいそうになるのをなんとかこらえる。
――彼女は何と言った?
 なんだか酸素が薄く感じる。僕はそれを求めて深く息を吸おうとするのだが体がそれを許さず、ひたすらに浅い呼吸を繰り返すばかりだ。
――彼女は何と言った?
 過呼吸を起こしかけた体はさらに安定を失っていく。僕は椅子に背を預け、落ち着くのをまった。まずは落ちつかなくては。考えるのはそれからでいい。
 明らかに変調をきたした僕を、ドラえもんは静かに見下ろしていた。
 いつものように手を差し伸べてくれるでもなく、ただ淡々と押入れに腰掛けている。注意力を失った僕は、その手が押入れを仕切る板を強く握り締めているのに気付かなかった。
 出口のない部屋に加速した僕の呼吸音だけがやけに響く。
 煩いうるさい五月蝿いウルサイ。頼むから止まって。脳内に飽和した酸素を吐き出させて。フラフラする。怖いよ。助けて助けて助けて……いつもならば安心をくれる彼女、僕にとっての絶対の肯定者の彼女に頼ることが出来ない。その葛藤が僕から安定をどんどん奪っていく。
 と、追い討ちをかけるように彼女。
「つまりは君がやっていたことは全部君の自己満足だったわけだ。僕は助けなんて望んじゃいなかったわけだからね。満足したかい?」
 僕には答えられない。
 答えられるわけもない。
 ただ、必死に呼吸を整えようと大きく息を吐こうとするだけだ。しかし、それは叶わず切れ切れに浅い呼吸を繰り返す。
「諦めなよ。君にそこまでする理由はないはずだろ? 戦おうとするからそんなに苦しいんだ。受け入れれば楽になる。それにこんなことを聞かされたらもう――、」
 苦しい、きつい、頭がぼんやりする。ぐにゃぐにゃと揺れる視界に続いて音すらも近づいたり遠ざかったりして僕はもはや彼女の言っていることを理解するのも困難になりつつあった。しかし何故だろう。

「君にだって僕はもう必要ないはずだろ?」

 自嘲するように吐き出されたその言葉は鋭くとがったナイフのようにまっすぐに脳内に入り込んできた。
 そして考えるより早く、口が動いていた。

「そんなこと……あるわけ、ないだろう?」

 音が、やんでいた。僕の呼吸も、彼女の返事もなく、そこに沈黙だけがあった。
 気がつけばめまいは引いていて頭痛もない。きっとあるにはあるのだろうけど一瞬のうちに意識外に消し飛んでいた。あまりに感情が動きすぎて逆に冷めていくような、そんな奇妙な感覚の中、僕はきょとんとした顔で僕を見返す彼女をじっと睨みつけていた。
「そんなこと、あるわけないだろう」
 自分の中でその言葉を噛み砕き、確かめるように繰り返す。感覚が中途半端に麻痺したようなぼんやりとしたしゃべりにくさはあったけど、さっきよりもすらすらと言葉が出てきた。
「そんな簡単に割り切れるわけないだろう!」
 続けて吠える。
 そこでハッとしたようにドラえもんが無表情に戻った。一切の情を持ち合わせていないかのようなその表情、しかし一瞬、かすかに一瞬ではあるが彼女は確かに驚いていた。
 僕はその高く堅い壁の向こうに僕の信じる彼女がいると信じて言葉の槌を振り下ろす。
「だって、ずっと一緒にいたんだ」
 彼女は答えない。
「一番そばで見ててくれたんだ」
 表情の変化すらない。その絶望から僕の言葉は少しずつ勢いを失っていったけど、それでもとぎれることはなかった。
「君がいたから僕はがんばれたんだ。だからッ、だから――、」
 そのまま俯いて、前髪で表情が覗けないほどに下を向いてしまった彼女に、あの時言えなかった言葉を届けた。
「君がいてくれなきゃ僕はダメなんだ」
 瞬間、ドラえもんの細い肩が微かに震えた。しかし、彼女は何も答えず、そんな彼女にかける言葉を僕は見つけられず、それ以外に変化のないまま、時間だけが過ぎていく。
 いつの間にか呼吸は落ち着いていて、頭痛も消えていた。そのことに気付いたころ、
「そんなの君の勝手な自己満じゃないか」
 細くくぐもった声で、ドラえもんが言った。相変わらず頭を下げたままなので表情は読めない。
「そうだね」
 僕はうなずく。確かにそうだ。こんなの完全に僕の側の理由であって彼女の事情も無視していれば僕の行動を正当化するものでもない。それはわかっている。
「僕の行動が罪なのならその罰はうけるつもりだよ。だけど、何もしちゃいない君をためらいなく撃つような人間たちの作った罰になんて死んでも従うもんか」
 それを聞いたドラえもんが俯いたままで小さく吹き出す。
「自分勝手。そういう自分にしか通じない理論を使って自分を正当化する癖、まだ直ってなかったんだ」
「別に正当化してるつもりは――」
「してるよ。確かに彼らが全て正しいかって言われるとわからないけどね。だけど、わからない以上、罪は罪だよ」
 正当化しているつもりなんてなかったのにそういわれ、僕は思わず黙ってしまう。そうなのかなぁ、などと頭を捻っていると、不意に、
「けど、なんで?」
 まだ顔を上げない彼女が尋ねた。ほかの事を考えていた僕はそれを聞き逃し、
「え? 何?」
 聞きなおす。それに対してため息を吐いた彼女が、
「どうして、ここまでして……」
 そこで言葉を区切り、答えを待つ。
 僕は大きく息を吸い込みながら目を閉じた。
 まぶたの裏に思い描いたのは桜吹雪を背に、机に腰掛けて手を差し伸べる彼女。
 そう、僕はあの頃から――、
「君が好きだから」
「へ?」
 言いながらゆっくりと顔を上げた彼女はきょとんとした表情で僕を見返した。大きく見開かれた両目からは涙の筋が流れている。
 顔が熱くなるのを感じて視線をそらすと、
――ヒック。
 思い出したように彼女は小さく一つしゃくりあげた。
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「嘘……でしょ?」
 顔は逸らしたまま目だけで彼女を見ると彼女は相変わらず目を大きく見開いたまま僕を見つめている。そこにはさっきまでの無表情はかけらものこっていない。
「嘘じゃないよ」
 なんとなくばつが悪くて、僕はもごもごと口の中だけで答える。対して、
「だって……だってだって、ボクはロボットだよ」
 早口にまくし立てる彼女に僕は一つため息を吐く。
「そんなの関係ないよ。少なくとも僕には人間にしか見えないし、君には感情だってあるじゃないか」
「見た目だって作られたものだし、感情だって、ボクが自分で考えてると思ってることも本当はプログラムされたもので、作り物かもしれないんだよ?」
 なぜだか一生懸命にしゃべる彼女に僕は小さく笑ってしまった。それからゆっくりと彼女の方を向いて、少し考えて答える。
「それは僕たちだって一緒だよ。本当に自分で考えてるかどうかなんて誰にもわかりやしないんだ。仮に誰かにインプットされた感情でもそれならそれでかまわない。
 僕はこれからもみんなと笑っていたいし、ずっと君と一緒にいたい」
 一瞬の沈黙があって、スイッチが入ったかのようにドラえもんが泣き始めた。両手で顔を覆い、溢れてくる声を押さえることもしなかった。
 僕は立ち上がり、本当に女の子にしか見えない彼女のそばに近づき、震えるその肩を抱きしめた。
「何でそんなこと言うの?」
震える声で、ドラえもんが尋ねる。
「卑怯だよ。そんなのせこいもん」
「ごめん」
 小さく謝ると、唐突に彼女も僕の背中に手を回し、力いっぱい抱きしめ返してくれた。
「謝らないでよ。嬉しいんだから。ボクだってずっと一緒にいたいんだから」
 あまりにも不意打ちなその言葉に僕が体を離し、その意味を尋ねようとした瞬間だった。
「だけど、」
 彼女が強く強く僕を抱きしめ、
「だからこそ、君のことが大好きだからこそ君を犯罪者には出来ないよ」
 そう言った。

 瞬間、背骨に電気をながされたかのような衝撃があって、全身の筋肉が弛緩した。
 体重を支えきれなくなった膝がポキリと折れるように曲がり、彼女の細い腕に抱き止められる形でかろうじて僕は立っている。彼女の背に回していた腕も力を失いだらんとたれ下がっている。
 力が入らない。
 まぶたが重い。
 だんだんと暗くなっていく視界の中、かろうじて動く目でもって彼女を見ようとしたけれど、体がちかくにありすぎてそれも叶わない。なんとか体を動かそうとしたけど、かすかに腕が持ち上がっただけだった。
 ゆっくりと、押し入れの仕切りから下りたドラえもんが僕を畳の上に座らせる。
「あ……ぅ。な、んで」
 唇を震わせながら尋ねると、ドラえもんは僕を抱く手に力を込めた。
「このままのび太くんを引き渡せば君の罪は不問にしてくれる、そういう約束だから」
 彼女は片手をポケットに入れ、どこでもドアを取り出すと、僕を抱いて立ち上がる。連れていく気だ。ドアを横目にそれを察した僕が必死で肩を揺すって抵抗しようとすると、彼女は僕を抱く腕に力を込めた。
「ボクだってずっと一緒にいられたらって思ってた。
 キミたちといるのがあまりに楽しすぎてついつい離れられなくなってしまった。
 さっきはごめんね。
 本当はすごく楽しかった。すごく幸せだった。
 キミといられて良かった」
「か……こ、けいは……やだ、よ」
 力が入らない。
 声が震える。
 溢れる涙をこらえることもできない。
「もう少ししたら、いかなきゃだもん。もう少しだけ、もう少しだけ……」
 まるで言い訳するように彼女が繰り返すのが悲しかった。しばし、無言のまま時間が過ぎた。
「ねぇ、のび太くん」
 ささやくような小さな声。
「キミはボクと会えて良かったかい?」
「あた……り、まえ、でしょ?」
 切々になんとかそう返すと、不意に彼女の体が離れた。なんとか薄く目を開くと、涙で滲んだ視界に、肩を両手でつかむ彼女がいた。 彼女は悲しそうに微笑むと、
「両想いだからいいよね。最後だからいいよね」
 すがるような声で言って、彼女は、微かに唇を触れ合わせた。
 離れた時には感触も残らないような一瞬の口付け。
「ふふ、のび太くん、初めてだよね」
 照れたように、嬉しそうに笑う彼女が僕の胸を締め付けた。何も出来ない僕をもう一度強く抱き、彼女は呟く。
「じゃあそろそろ行こうか。キミは日常に帰るんだ。キミなら大丈夫。大丈夫だから」
 自分に言い聞かせるようなその言葉のあと、彼女はドアを開いた。
――イヤだ!!
 僕の心の中の叫びは声にすらならず、微かな呼気になり、ドアから吹き込んできた外気の中、白い湯気になってたゆたった。

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 外は雪が強くなっていた。
 必死の抵抗むなしく彼女の背に乗せられ、引きずられるようにしてドアをくぐらせられて、僕は再び空き地にいた。ドラえもんはゆっくりと僕を運び、土管に背をあずけるようにして座らせる。
 さっきまでいたタイムパトロールたちはみんな撤退したのか、そこには倒れていた人も人の気配もなかった。
 そして、僕らの間に会話もなかった。
 なにやら通信機のようなものを取り出したドラえもんが
「はい、無事に確保しました。約束は、守ってもらえますね?」
 などとしゃべっているだけだ。
「ではランデブーポイントで」そう言ってピッと終話ボタンを押し、通信機をポケットに直すと彼女も完全に押し黙ってしまう。沈黙のなか、音もなく雪だけが降り下りて行き、時間が確かに経過していることを僕に教えてくれた。
 どれだけ時間が過ぎたろうか。
 僕も彼女も言葉を発することなく、ただ待っていた。
 僕は彼女が僕を再びここに連れてきた理由を、彼女はきっと誰かを。
 僕は彼女のことを諦めきれてなんかいなかったけど、もはやかける言葉を見つけられなかった。
 彼女は自分が殺されるのを知っていて、そして僕の気持ちも知った上で、それでもこうやって僕を突き出すことを選んだのだ。どれだけ言葉を並べても、彼女の考えは変えられないだろう。彼女が意地っ張りなのはよく知っているのだ。
 だから僕は、考えるのをやめて、ただ待つことにした。
 彼女を守ることが出来なかったことも、そこまでして彼女が何を守ろうとしたのかも、彼女がいなくなってどうなるかも、考えたくない。考えられなかった。
 すると不意に、そして唐突に、何もなかった空間にドアが現れた。
――カチャリ。
 ノブが回り、ゆっくりとこちらに向かって開いたドアの向こうから現れたのは、あの時彼女を殺すように命じた男、タイムパトロール所長だった。
「待たせたね」
後ろ手にドアをしめながら、尊大な口調で彼が言う。
閉じられた瞬間にドアは一瞬にして溶けるように消えた。つまりは彼の所有するドアではなく、あちら側にそれを片付けたものがいるのだろう。
「いえ」
神妙な口調でドラえもんが答え、続けて何かを言おうとしたが、その前に、僕は動いていた。
許せない。許せるわけがない。
彼の顔を見た瞬間にこみあげた怒りにまかせ、限界を超えた力でもって全身を軋ませながら腰をあげ、吠えながら前進する。
無表情にそれを見下ろす所長とは対照的に、
「のび太くんっ!!」
ドラえもんが鋭く僕を呼び、瞬間に再び僕の体から力が抜かれた。
勢いのまま膝から崩れ落ちて、全身を強く打ちながらごろごろと転がる。受け身なんか取れるわけもなくて、全身に生まれた痛みを押さえることもうめくこともでききないまま、僕は倒れ込んだ。
「どういうことだ?」
 とぼけた声で所長が尋ねる。
「すいません。まさかまだ動けるとは思わなくて。だけどもう強制脱力域を最大限まで広げましたから、絶対に動けませんから」
 すがるような声でドラえもんが答えた。
 なるほど、よくはわからないけど僕の自由をうばっている道具の出力を最大にしたらしい。どおりで口を開くこともできなければ、目もあけられないはずだ。
「絶対、絶対に、ね。いい言葉だ。それは未来を保証するものだからな」
「はい」
「まぁ、ともあれ任務ご苦労だったなDR02。君は見事に任務を完遂した」
 そうして完全に自由を奪われた僕には、二人の声だけが聞こえた。
「僕は……廃棄されるんですか?」
 確かめるようにドラえもんが尋ねる。少しだけ声が震えている。
 僕は耳を塞いで叫びたかったけどそれは叶わない。所長が淡々とそれに答える。
「あぁ。これで実験は終了だからね。君は期待されていた結果をもたらした。感謝しているよ、DR02。」
「そう……ですか」
 俯いたのだろうか、彼女の声がくぐもって聞こえた。
「君は試作機だったからね。ヒューマニズムサーキットに問題があったんだよ。君は人に近付きすぎたんだ。だからセワシ氏のハウスキーパーとしてではなく、過去改ざん実験の検体として選ばれ、その役目を終えたわけだ」
「……はい」
「そして見事彼は未来を変えようとしたんだ」
 え?
「え?」
 僕の脳内の声とドラえもんの声が綺麗にハモる。僕の――、ではなく僕は――、だと?
「ん?」
 所長は彼女を馬鹿にしたようにとぼけてみせる。それに対して、おずおずといった調子でドラえもんが尋ねた。
「僕の使命は彼の意識を向上させ立派な大人にすることじゃ……」
 しばしの沈黙があって、所長が吹き出す声が聞こえた。
 それにこらえきれずに漏れたような笑い声が続く。
「くっくっくっく……ふふっ、はぁっはっはっは……ひぃひぃ、ははっ」
 始めは押し殺したものだった笑い声はしだいに大きくなり、狂気じみた哄笑に変わる。彼はひとしきり笑って苦しそうに呼吸すると、
「そんなのは建前だよ、DR02。君の目的は人と同じように思考し自律行動するDRシリーズの危険性を探るために、過去においてもっとも不確定要素の大きかった『変数』たる野比のび太と行動させ、時空間犯罪を起こさせることだったのだよ。
 それによってDRシリーズは犯罪者を生み出すという危険性を世間に知らしめ、機械の自律思考などというイカれた思想を打ち砕くことにあったのだよ。しかしまぁ、君にそれを話すわけにはいかないだろう? 『ネズミ』に君のトランシーバーを破壊させこの時代に孤立させたのもそのためだ」
「そんな……」
 突然の話に、彼女も言葉を失ったようだった。所長は気持ちよさそうに続ける。
「すばらしい計画だったよ。これでついでにずっと目の上のたんこぶだった変数の方にも制限を設けられるのだからな」
「そんな! のび太君には何もしないって!!」
 ハッとしたように大きな声を出すドラえもん。
「あぁ、何もしないよ。何もさせないがね。さて、それではそろそろ帰ろうか、DR02。それとも彼の前で惨めな姿を晒すかい? いや、違うな。もう晒したからこんなことを起こしたのか。まぁ、君のような機械に羞恥心があるかはしらんがね」
 呆然としたように押し黙ってしまったドラえもんをなじるように、馬鹿にするように彼が言う。僕は動かない口を必死で動し、血を吐くようにして言葉を吐き出す。
「ドラ、えもんを……そん……な名前で呼ぶ、な」
「クックック。まだしゃべれたのか、この犯罪者が」
 瞬間、頭に激痛が走った。靴で踏まれているのだろう。
 それでもなにもできない自分が、これ以上ないほど悔しかった。
「君にもずいぶんと苦労をかけられたよ、野比君。確かに人の行動にはある程度の幅が存在するものだが君の行動はちくいち場当たり的で突発的で、我々の存在を脅かす。過去など未来の奴隷でいればいいものを」
 じりじりと、こめかみの辺りを何度も踏みにじられる。
「やめてください」
 無表情な声で、ドラえもんが呟くまでそれは続いた。
 ゆっくりと僕の頭から足を離した彼はよほど興奮していたのか大きく片で息をしながら言葉を続ける。
「全く、馬鹿な男だ。こんな機械を救うために罪を犯した挙句に『みんなと一緒にいたかった』だ? 君も男なら聞き分けたまえ。そんなくだらない理由で他人に迷惑をかけてはならんのだよ」
 しばし沈黙があって、彼の荒い息だけが聞こえた。そして、小さな声でドラえもんがつぶやく。
「……な」
 それはあまりに小さすぎて、僕には彼女が何を言ったのかよくわからなかった。所長もそれは同じだったようで、神経質そうな声で、
「何か言ったか?」
 尋ねる。すぅ――と大きく息を吸い込む音が聞こえた。
 そして、

「のび太くんを、この時代の人達を馬鹿にするなっ!!!!」

 ドラえもんが叫んだ。

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 僕の頭がその意味を理解するよりも早く状況は動いていた。
「ヒッ――!!」
 彼女が叫んだ直後に所長が間抜けに引きつった声を上げ、すぐに鼻で笑う。
「貴様、何をするつもりだ!? そんなものを私に向けて。貴様はロボットだろう? 人間を撃てるはずがない。人間に危害を加えることができないように作られているんだ!」
 言葉から察するにドラえもんが彼に銃を向けているらしい。僕は何とか目を開けようとしたけど、かすんだ映像が微かに見えただけで、まぶたはすぐにふさがってしまった。
「冗談はやめろ! 撃てるはずが――」
 焦ったような所長の言葉の途中で、
――パァンッ! パアンッ!
 空気銃のものではない、そして映画よりもずっとずっとちゃちで乾いた銃声が響いた。それにドサリとい何かが倒れこむような音が続く。
「所長、未来はね、運命に縛られるようなものであっちゃいけないんですよ。今の人間が最善を尽くして切り開いていくものだ。今ある未来に辻褄を合わせるために作るものじゃない」
 凪いだ海を連想させる落ち着いた声でドラえもんが言って、すぐそこから、老人のうめき声が聞こえた。
 どうやら殺しはしなかったらしい。所長のことは殺してやりたいほど憎らしかったけど、ドラえもんに人殺しになってほしかったのも事実だ。
 うめく所長に彼女が解説を続ける。
「自分がね、人に近づいてることならとっくの前に知ってました。僕はさっきだって空気砲でとはいえ人を撃っている。そんなの本来の僕にはできないことだ。でも、よかった。のび太君の未来を守ることができた」
 と、不意に、僕の頬にぬくもりが触れた。
「ごめんね」
 返事ができない僕は痺れる体を無理に動かし首を振ろうとした。
「のび太君。君に会えてよかったよ」
――ピッ。
 機械音と同時に全身にあった脱力感が消えた。ハッと顔を上げ、動こうとするが、まだ痺れのような感覚があってうまく動けない。
 ただ、目を開くことは出来た。
 目の前には見慣れたドラえもんの顔。
 大きなたぬきじみた目をした愛らしい顔。
 涙が溢れそうになって、胸がつまって、伝えたい言葉がありすぎて、結局僕には何も出来なかった。
「それ、重犯罪者用だから、しばらくは動けないよ」
 言って、ドラえもんが笑う。
 あの晩押入れで見せたのと同じ、悲しそうな、残念そうな、そんな笑みだ。
「さよなら」
 彼女は僕を起こして微かに抱きしめると、僕をその場に残して立ち上がり、そしてきびすを返した。
 呼び止めることも、つかんで止めることもできず、僕はただただ呻き、そして無理に動いたせいで体勢を崩して再び地面にうつぶせになる。
 その音でドラえもんは足を止め、こちらを振り返って困ったような顔をして見せたけど、もう何も言わなかった。
 彼女の進む先に視線をやると両腕から血を流してうめく所長の姿があった。彼は何らかの道具を使っているようで口早に部下に指示を出していたが、どうやらそれもうまくいっていないようだった。
「都合の悪い話をしたかったから自分でここらへんを不可侵空間にしたんでしょ? 貴方自身が解除コードを使わなければ外からは誰も入ってこれませんよ。まぁ、優秀な貴方の部下なら数分で空間にハッキングをかけてロックを外してしまうでしょうけど」
 落ち着いたドラえもんの声に対して、
「この不良品が!!」
 吠える老人は完全に安定を失っていた。
「えぇ、よく知っています」
 楽しそうな声でドラえもん。
 彼女は呻き続ける所長に近づくと、彼の懐に無造作に手を入れ、首から掛けられていた、中に機械仕掛けの時計が入った大きな宝石のような特殊道具『タイムキーパー』を取り出た。ブチリ、とそれを固定していた鎖を千切る。
「そろそろ僕らの時間に帰りましょう」
 呟くように言って彼女はそれを宙空に放ると、素早く打ち抜いた。
 僕にはその射撃が間違いなく正確なのがわかった。
『タイムキーパー』
 タイムパトロール所の所長だけが持つ、唯一無二の不思議な道具で、タイムマシンシステムの根幹をなす特殊な道具。ドラえもんは言っていた。偶発的に出来たそれがあるから過去、現在、未来は干渉しあえるのだと。そして、その破壊はすぐに全時空間のタイムキーパーに連鎖し、世界同士の擬似並列化を無意味化し、それ以降の時間旅行の不可能を意味する。
 この時間の住人ならざる僕も、この世界から追われるのだろう。
「さよなら、のび太くん」
 最後に、ドラえもんの呟きが聞こえた。
 まるでテレビの映像に少しずつノイズが入っていくかのように、世界がかすんでいく。
 僕は、――
40

くるり 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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