冬を駆ける
襖を開けると、雪がしとしと降っていた。
部屋の隅では、金色の猫がにゃあにゃあ言っている。彼に彼女(ニャン子と言ったら、安易すぎるか・・・)
は居るのだろうか。僕は炬燵に入った上にどてらを着て、完全武装の風体で饅頭を食らっていた。
働き過ぎで体を壊したのが一週間前。その時のことは今でもよく思い出せない。
多分、気を失った程度だったと思うのだが、人の良い工場長はおろおろ、僕の体を心配し、
休暇を設けてくれ、実家まで送り届けてくれた。
そしてなぜさっきから饅頭ばっか食ってるのかというと、どうやら両親は病気というものを
栄養さえ摂ってれば治るという妄信にとりつかれているらしく、お中元で山積みになったそれを
ここぞとばかりに寄越した。当の本人達は、奥の部屋でお笑いを観てけたけた笑っている。
猫に饅頭をやろうと思ったが彼は一口もつけようとせん。お前は、貴族か。
しかしこのように床に寝転んでいるばかりでは、尻から根が生えてきてしまうだろう。
ついに暇度が臨界点に達したので、ビデオ屋に行くことにした。
外は光るほどに白く、白の絵の具が情景を撒き散らし、一面、白に染め上げんとしてるがの如くであった。
ずっと前かかってきた、崎山さんからの電話も、「へへへ」と曖昧に笑って切ってしまった。
ともすると、あれにより、運の貯蓄箱をごっそり使ってしまったのかもしれない。
僕が女の子に告白されるなど、そうそうないことだろう。この先、もう賭博に手は染められまい。
ビデオ屋で僕は、アクションもの、それもとびきりB級の映画を探していた。
今の僕に必要なのは、即効性のある栄養剤のような映画であった。
僕はジョン・ウーの「ザ・ワン」という、ダメ臭ぷんぷん漂う映画を借りることにした。
カウンタに入り財布をごそごそしていると、店員がじろじろこっちを見てきた。
そしていきなり笑い出したのでさすがの僕も不快になりじろりと睨みかえすと、
「きみ、中学校の時同級生だった人だよね?」
まっ金金の、イケイケガールであった。こんな髪の子を、僕は知らん。
知らんかったが、一応笑っておいた。
「もう少しで仕事上がるから、この後、外で話そうよ。いろいろ聞きたいことあるし」
外で彼女の顔を頭の中でくるくる回してみたが、どうにも思い出せない。
しばらく考えに耽っていると、裏口から「おまたせ」と言って
ブーツからファーまで、もろにイケイケの彼女が出てきた。彼女は行きつけの喫茶店へと僕を誘ったのだが、
明らかに不釣合いな二人であった。
着いたのは明らかにファミレスであった。これも喫茶店っていうのだろうか?
それはどうでもいいとして、一番奥の席に座り、メニューを開いたのであった。
「ねぇ、緑山さんどうなったか知ってる?あの人、京都大学に行ったんですってねぇ!
前から人と違う感じはあったけど・・・すごいと思わない?」
その大学は、僕が落ちたところである。僕は結局三流大学の文学部へ進んだのだ。
内心かなりヘコみながら、すごいね、と切り返した。
「鮎は結局、高校やめちゃったけど・・・でもね、春からデザインの専門学校行って、また
やり直そうって思ってるんだ!」
鮎?鮎・・・そうか、ようやく思い出したぞ。彼女は、三年で同じクラスだった、鮎川である。
その頃、彼女の位置は教室ヒエラルキーで一番下、それもかなり地味な所に属する
ものであったと思うのだが。黒髪に眼鏡・・・いかにも、鋳型に嵌ったような地味な女の娘だ。
思い出し内心驚いているのを気取られないようにしながら、僕は恐る恐る
ジンジャーエールを注文した。彼女はパフェを頼んだ。
それからトークした話は、9割方、猫の餌にもならない内容だった。しかも携帯が鳴る度「ちょっと待ってね」
と話の腰を折るので、僕にとってはナンジャラホイであった。
僕は窓を見ながら、雪が降っているな、真里もこの雪を見ているのだろうか、なんて、
騙された女の人だというのに、まだ未練がましく思いを残していた。
会計を済ませ、鮎川が「ちょっと歩こう」と言うので、
雪紙ひらひら舞う通りを、二人でことこと歩いた。
二人肩を並べた姿は不釣合いで、誠に滑稽であった。
坂を上りきり、町を見渡せる丘へ出た。町全体を雪の層が包み込んでいて、光が差すのを許さなかった。
一瞬、時間が止まったと思った。車の通りもなく、残像としていつまでも僕の網膜に焼きついた。
彼女はそっと僕の手に触れ、ぎゅっと握ってきた。
「行かなくちゃ」
僕は彼女の手を解き放ち、「ごめん!」と言って雪で溢れる坂を猛烈な勢いで駆け下りていった。
結局、いつまでも、僕の頭には真里しかなかったのだ。
真里の許へ、真里の許へ!
その夜僕は夜行列車に飛び乗り、夜の果てに消えていった。