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静良のいる日々(仮)-2

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 入学式当日。

 春休みを挟んですっかり寝坊癖のついてしまった僕の都合など知ったことかとばかりに目覚まし時計が僕を叩き起こし、僕は高等学校一年生として初めての朝を迎えた。
 春とはいえ、まだまだ朝方は冷え込むものである。どうしても毛布のその温もりと重みの誘惑は抗いにくいものではあるが、僕はその誘惑を振り切り、壁に目をやった。
 新しい制服がかけられている。
 スカイブルーの生地に、白の枠取りの成されたマゼンタ色の帯。
 心臓部には、貴族の紋章のような模りの校章。
 中等学校の簡易型のものとは一線を画す、ウィンザーノット推奨の、これまたマゼンタ色のネクタイ。
 スラリと細長い、シックな色合いのスラックス。
 制服というよりは、カジュアルなスーツと言った感じだ。流石というか何というか、やはりその名に恥じない出で立ちをしろ、ということなのだろうか?
 今日から、あれを身に纏うことになる。
 今日から僕はあれを身に纏い、一ヶ月前とは違う場所へ毎朝通い、一ヶ月前とは違った学問を修練し、一ヶ月前とは違う帰り道を歩き、一ヶ月前と同じ場所で休息を取るのだ。
 ──「場所」は、同じだろう。「中身」が違うが。

 先ほどから、気になっていることがあった。今日という日の朝は、昨日という日の朝とは少しばかり違うような気がする。
 違和感があるのだ。
 それは、視覚から伝達される情報ではない。僕の目の前に広がっている光景は、いつも通り、寝起きで胡乱な視覚で捉えた、いつもと同じ僕の部屋だ。
「統也、起きているか?」
 自室の扉がノックされた。小気味良い、木と骨が断続的に小競り合う音が鼓膜を刺激する。
「ああ、起きてる」
「そうか。まだ早いとは思ったが、万が一遅刻してしまってはいけない。ひと段落したら支度をするんだぞ」
「解ってる、そのつもりだ」
 伸びをすれば、背の骨が音を立てた。脳とは不思議なもので、体中の関節、特に背の骨を伸ばすだけで、目覚まし時計なんかよりも優しく、はっきりと覚醒することが出来る。
 静良が僕の部屋の扉をノックするのは、初めてのことだ。
 自分の部屋に篭りっきりになる機会があまり多くないため、ノックするまでもなくリビングで鉢合わせになることも理由の一つなのだろうが、とにもかくにもその感覚は、僕にとって新鮮なものだった。
 ──思っていたよりも、心地良いものではない。
「僕の家に僕以外の人間がいる、か」
 何だか、無意識に警戒をしている自分がいる。意識しているわけではなく、深い、本当に深い、本能に近いような場所で、警戒の念を抱いているのかもしれない。
 意識していない場所だから厄介だ、自力で取り除くことが出来ない。手の届かない場所がかぶれて、痒みにもんどり打っている気分だ。
「慣れるしかないな」
 一人ごち、自室の扉を開けた。今から準備すれば、朝の血液型占いに一喜一憂しながら学校へ歩を進めても間に合うだろう。尤も占いなど信じてはいないが。

 匂いが充満していた。

「──何だ、この匂い?」
 それは、いつもとは違う匂いだった。朝特有の空気に冷やされたフローリングが、太陽の熱で暖められる際に発する、あの酸味の混じる独特の匂いではない。
 食欲をそそる匂いだ。
 匂いだけではない。
 音だ。耳をすませば、換気扇が回る音に、鉄が油を弾く音も聞こえてくる。
「少し待っててくれ、今支度をしている所だ。先に洗顔でもしてくるといい」
 静良のものであろうその声は、台所から聞こえてきた。
 流石の僕も、ここまでヒントを並べられれば、静良が、台所で、食欲を刺激する匂いをたてて、何をしているのかくらいは想像がつく。
 朝から感じていた違和感の正体。
 朝食を作っているのだ。
「静良、今料理はどれくらい進んでいる?」
 僕は、台所に届くくらいの音量を持って声を放った。
「今は目玉焼きを焼いているところだ」
「何人分作ったんだ?」
「もうすぐ一人分が仕上がる」
 安堵した。
 僕がこれからすることは、事後の報告では無礼極まるものだったからだ。
 ──先に、言っておいた方が良かったのかもしれない。ライフスタイルは人によって様々であり、それは静良も僕も例外ではない。
 だから当然、「ズレ」も生じる。
「静良。その目玉焼きが出来上がったら、そこで料理は終了だ」
「むっ……だがしかし、生活費には私の分も含まれているはずだ。私とて朝食を取る権利はあるはずだぞ」
「いや、そうじゃないんだ」
 不機嫌が混じった静良の声に、僕は否定の声を上げた。
 正に、「そうじゃない」のだ。

「僕の分はいい。静良は静良で好きに朝食を取ってくれたらいい」

 言いながら、僕は洗面所へ向かった。
 朝は、食べない。もうかれこれ六年ほど続けた習慣だった。
 歯を磨いている間、静良が台所で何かを言っていたが、気にしなかった。多分、「朝はしっかり食べろ」とか、そういうことを言っていたんだと思う。
 聞く義理は無かった。僕には僕のライフスタイルがある。


                    ・


 やっぱり違うもんだと、誰に聞かせるわけでもなく僕は一人ごちた。
 鏡に映る、真新しい制服に身を包んだ僕は、何だか僕ではないように見える。
 やはり、若干サイズが大きい。成長を考えて誂えたものであるため、それは仕方の無いことなのだが、やはり少しばかり居佇まいに困る。
 それでもなお、凛々しかった。
 自分で言うのも難だが、鏡に映った自分は、つい数ヶ月ほど前まで中等学校支給の制服を身に着けていた自分と比べると、随分と大人びて見えた。身に着けるものが違うだけで、これほど差が出るものなのか。
 気分が引き締まった。これほど凛とした佇まいをしているのだ、中身が伴わないというのも格好が悪い。
「七時、か」
 今から学校へ向かえば、入学式開始の一時間前には到着するだろう。言うまでもなく、早い。
 だがしかし、歩きたかった。
 この制服を身に着けて、外を闊歩したかったのだ。これまでとは違う道を、これまでとは違う制服を身につけて、これまでとは違う目的地へと向かう気分を、一刻も早く味わいたかった。
 鞄の取っ手に手を入れる。中身が入っていないとはいえ、存外軽い。今は軽くても、時期に真新しい教科書や雑具が詰め込まれて、それはそれは大層な重量を持つのだろう。
 部屋の扉を開けた。

「──ほう、驚いた。随分と凛々しくなったな」
 リビングでは、静良がソファでトーストに齧り付いていた。食パンの茶色の焦げ目から、香ばしい匂いが沸き立っている。
「身に着けるものが違うだけで、随分と印象が変わるものなのだな。ああすまん、別に悪意があるわけじゃない」
「解ってるさ、似合っていないと両断されなかっただけでもマシだ」
 言いながらテーブルに目を落とし、おや、と思った。
「──僕の分はいいと言ったじゃないか」
「そうは言うがな、いくら何でも統也を差し置いて私だけ頬を腹を膨らますわけにも行かないだろう。それくらいの節度はあるつもりだ」
 テーブルの上には、二人分の食事があった。
 一人分は、今正に静良が形の良い唇を動かして咀嚼している最中。
 もう一人分の行方は?
 考えるまでも無い。ここに在住しているのは、静良を除けば該当する人物など一人だけだ。
「作るな、とは言わないけどな。だが僕は食べないぞ」
「そう冷たいことを言わなくてもいいじゃないか。朝食を取るのは大事なことだ」
「お前にとっては大事かもしれない。でも僕はもうずっと前から朝食を食べない生活を続けてるんだ。今になってリズムを崩せば、逆にそっちの方が体調を崩しそうだ」
 その言葉を最後に、誰の胃に収まるのかも解らない食事から目を離して、まっすぐ玄関に向かって歩を進める。
「おい、もう行くのか?」
「距離と時間を計りたいからな、ある程度余裕を持って出る」
「まだ七時だぞ? 早く着き過ぎてしまう。朝食を取る時間くらいあるだろう」
「しつこいぞ静良、僕は食べないと言った」
「おい、待てと言うに──」
 静良の言葉が終わる前に、バタンと扉を閉めた。


                    ・


 吐く息が白い。自室からエレベーターまでの外路を歩くだけで、鼻先が朱色に染まってしまった。春の、門出の日だと言うのに、相変わらず風は冷気ではなく痛みを運び、桜達は寝坊の限りを尽くしている。
 エレベーターは、一階で待機していた。このマンションには社会人も在住しているため、彼らがこのエレベーターを使って出社したのだろう。「↓」ボタンを押下し、九階までエレベーターを呼び寄せる。

 ああいった行動は、勘弁して欲しかった。

 結局、静良が用意した朝食には手を付けずに出てきてしまった。
 静良は気分を害しただろうか? それとも落ち込んでいるのだろうか? あんな風に表情を表に出さない人間ほど心は繊細なものだ、案外後者の可能性の方が高いのかもしれない。
 しかし、僕は「いらない」と始めに言っておいた。「いらない」と言っておいたのだから、それを無視して僕の分を作った静良にも問題はあるはずだ。
 ──それでも。
「有難うくらい、言うべきだったかな」
 僕しかいないエレベーター内部で、嘯いた。

 こういうことを、考えてしまうから。
 せっかくの門出の日を、こんな風に出てきてしまうから。
 自分の家なのに、自分以外の意思が存在するから。
「だから、嫌なんだよなぁ」
 もう一度、溜息にも似た声で、僕は嘯いた。

 思っていたより、良いものではないのかもしれない。
11

六月十七日 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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