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静良のいる日々(仮)-9

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「不思議な男だ」
 静良がぽつりとそう漏らしたのは、僕が箸先でトンカツを弄んでいた時である。ちなみにそれまでは、味噌汁をかき混ぜようが、千切りキャベツを口に運ぼうが、醤油差しの醤油が切れた事に気付こうが、響くのは箸と食器の摩擦音だけだった。
 夕食時、である。
「豪流院が、か?」
「うん」
 コップに注がれた麦茶を咽喉に当てると、静良が目だけを横に背ける。
「一言で言えば、おかしい男だ」
「そんなの、見れば解るだろう」
 もしも豪流院と対峙して、「彼は正常だ」と評する者がいたとしたら、「正常だ」と判断を下したその者そのものの正常を疑う。
「あれは、演じているのか?」
「演じてるよ」
「えっ……」
 弄んでいたトンカツを口で千切りながら、何とも無しに僕が回答を提示すると、静良の瞳が再び僕を写した。
「何だよ。何でそんなに驚く? 予想通りだったんだろう?」
「それは、そうだが……そう飄々と肯定されるとは思わなかった」
「変な奴」と言って、僕は同様に麦茶を咽喉に当てた。
 そりゃ、そうだろう。誰だって、最初はそれを疑う。「コイツのこの挙動は、自然体なのか?」と。
 そしてその疑いは、疑うに相応しい結果を導き出す。
 ──あれが、自然体の筈が無い。
「知りたい?」
 僕がそう問うと、静良は、やはり瞳を横に泳がせた。僅か数日の間ではあったが、共に過ごす時間の中で、ある程度の癖は掴めて来る。静良が瞳を横に泳がせる時は、思案をしている時である。
「何を?」と、問うまでも無い。
 何故豪流院は、あのような人間を演ずるのか? だ。
 僕は、その回答を知っている。そしてその回答を知っているという事は、それと同時に「豪流院修一」という一人の男の、根本が解っていない事に直結する。
「遠慮、しておこう」
 瞳を横に背けたまま、静良は呟いた。
「きっと、彼はそれを望まない。彼は、自分の情報が漏洩する事を嫌うのではないか?」

 ──。
 へぇ。
 大したもんだ。
 良く、解ってるじゃないか。

「私が滞在していた施設に、似たような者が居た。無論、程度の差はあるけれども」
「誰だって、知られたくない恥部は持ってるものだろう。豪流院の場合、それがちょっとばかし大きいだけだ。だからあんな風に、自分を暈す必要がある」
 そう。
 暈しているのだ。自分という人間の本質を。
「何故?」は、解らない。聞かされていない。聞こうとも思わない。今も、これからも。
 聞いたところで、それに対する返答が帰って来るとは考え難いし、必要以上に人の領域に踏み込もうとも思わないからだ。
「そういう事実がある」ということだけを知っていれば良い。「他人」が「個」に侵入する事が許されるテリトリーは、それくらいが適当だろう。

「コーヒー、飲むか?」
 箸を置き、席を立ちながらそう言った僕に、ランドルト環を睨みつけるかのような視線を静良が向けて来た。
「米がベースの食事の後に、コーヒーを飲むのか、君は?」
「何言ってるんだ? コーヒーを飲むのに、米もパンも無いだろう?」
 おかしな事を言う娘だ。
「……まぁ、いい。統也は座っていてくれ、私が淹れよう。砂糖とミルクは?」
「入れない」
 そんなものを入れたら、それはもう「コーヒー」じゃない。「コーヒーの味がする飲み物」だ。
「解った。私は欲しいな、どこにある?」
「……邪道だ」
「邪道でいい。場所を教えるんだ」
「上の戸棚の右端」
 解った、と言葉を残し、静良がキッチンへ引っ込んでいった。……邪教信者め。あの美しい琥珀色と透くような苦味を、何故わざわざ打ち消す必要がある?
「ミルクと砂糖、か」
 首を仰け反れば、掛ける椅子が軋みを上げた。そのまま、天井にぶら下がる照明をぼんやりと見つめる。
 最後に、砂糖とミルクを使ったのは、いつだったろうか?
 実の所、全く記憶に無い。コーヒーを振舞うような来客など無かったし、僕自身も使わないからだ。
 そもそも、別に僕が買ってきたわけではない。部屋の備品として、備えられていたのだ。それを発見した頃の僕はまだ、コーヒーというものを飲める年ではなかったし、見つけたところで、「上の戸棚の右端」は、当時の僕には高過ぎる位置だった。
 ──そっか。
 使う人間が、現れたんだなぁ。
「……賞味期限、大丈夫かな?」
「大丈夫じゃなかったな」
 照明に照準を合わせていた目を元の位置に戻すと、盆を持った静良が、かちゃかちゃと音を立ててカップをテーブルの上に乗せていた。
「砂糖は大丈夫だと思うが、ミルクはデッドラインを大きく逸脱していた。一体、どれくらい放置していたんだ?」
「んー。そうだな、七年と……って、おい、ちょっと待て。この薫り」
 ガタッ、と音を立てて、カップの中に入った琥珀色の液体を凝視した。

 ……。
 思わず、溜息が出そうになる。
 美しい。
 この、ほんの僅かな豆油が螺旋を描く琥珀色。
 そこの見えない、暗く、しかし決して濁りの無い、透き通った奈落。
 コーヒーとは、芸術である。
 まず、ミール或いはドリップする音を「耳」で味わい、琥珀を「目」で味わい、苦味を「舌」で味わい、透く風味を「咽喉」で味わう。そして最後に、コーヒーと向かい合っている時間そのものを「体」で味わう。
 つまり、五感すべてで味わうのだ。それは「美味い」や「不味い」の類ではなく、「感じる」という直結的な思想に基づく。そこまで行けば、それはもう「飲み物」ではなく、「芸術」に昇華する。

 など、と。
 悦に浸っている場合じゃ、ねーのである。

「お前、どの豆を使った?」
「名前が読めなかった」
「お前のその目が飾りに過ぎないのはよーく解った。聞き方を変えよう。どこにあった豆を使った?」
「上の戸棚の右端」
「この馬鹿、コピ・ルアクじゃないか!」
 話すと長くなってしまうので詳細な説明は割愛するが、その値段、五十グラム三千円。
 ブルーマウンテンの約八倍也。
 ──とっておき、だったのに……。
「許さんぞ、砂糖など。貴重な豆だ、そのものの味を楽しめ」
「そうは言うが、砂糖を入れないと飲めないんだ」
「ええい、この下郎! 貸せ、僕が飲む! 静良には過ぎた代……もの……」
 豆に対する敬意がまるで無い暴虐非道な静良の振る舞いに、遂に堪忍袋の緒が切れた僕は、静良の前に置かれたカップに手を伸ばして、

 そして、その手を止めた。

「どうしたんだ、統也?」
 豆の貴重さを知った時は、まだ飄々としていた静良も、流石に異変を察知したのか、戸惑いながら僕の様子を伺って来た。
 そうなってしまうような顔を、僕はしていた。
 他ならぬ、僕自身も戸惑っているのだ。
 ──だって、それは予期せぬ「不意打ち」だった。
「このカップ」
 視線をカップに固定させたまま、僕はボソリと呟く。
「どこから、持って来た?」
「いや、その」
 しどろもどろになりながら、静良は答えを濁す。聞かなくても、解っていた。
 ……『上の戸棚の右端』だろ?
「丁度良いサイズだったから、使ってしまったんだ。……すまない、使ってはいけないカップだっただろうか?」
「いや」
 再び自分の椅子に腰を下ろして、コーヒーを啜った。せっかくの豆なのに、味がよく解らない。
 静良の態度は、真っ当なものだ。この場合、おかしい態度を取っているのは、僕である。
 名前も解らない、紫色の一輪の花のイラストがプリントされているデザインのカップだった。コーヒーを入れるよりも、コーンポタージュや野菜スープを注ぐのに適した、マグカップである。
 それだけだ。
 第三者がそのカップを説明するなら、それだけの言葉で事足りる。
 ──ただ。
『僕』がそのカップを説明する場合、それは少しばかり、意味合いが違って来る。
「使いたいなら、使ってくれ。使わないと、カビが生えちまうからな。ただ」
「ただ?」
「決して、割らないでくれ」
 静良の顔から、目に見えて血の気が引いていくのが解った。
 多分、このカップが何なのかが解ったのだろう。
『誰が使っていた』もので、何故上の戸棚の右端……『使わないものや大事なものをしまう場所』にあったのかが、解ったのだろう。
「別に、特別な意味を持たせてるわけじゃないんだぞ」
 目に見えて動揺している静良を落ち着かせる意味で、また自分自身も落ち着かせる意味も含めて、僕は淡々と語る。
「当時の僕には、サイズが大き過ぎたんだ。それに、コーヒーなんて飲む年でもなかったしな。だから、戸棚に手が届くようになった頃に、そこに保管したってだけの話」
「すまない」
 ぼそりと、静良が呟いた。
「気が緩んでしまっていたのかもしれない。もう少し気を利かせるべきだった」
「いいさ。静良は何も悪い事はしてない。言ってなかった僕に、非はある。さっきも言ったけど、使いたいなら使ってくれ。そもそも、使ってなんぼだろうしな」
「使わないよ。……使えない」
 辟易した。この娘は、気を使っているのだろう。ここまではまだ短い期間ではあるものの、そういった気遣いが出来る娘である事は、把握していた。
「駄目だ。貴重な豆だぞ? 全部飲め、残すことは許さん」
 片眉を上げて、伺うような視線を僕に向けて来る。
 確かに、大事なカップではある。割ってしまう危険があるのなら、出来れば使って欲しくはない。
 だが、このケースに関しては、『注がれているもの』にもまた、価値の概念が発生するのだ。
 ……再度断っておくが、五十gで三千円である。
「特例だ。砂糖の使用を許可しよう。その代わり、残さず全部飲むんだ。一滴も余さずだぞ」
 気が緩んでしまっていた、と静良は言った。
 何てことは無い。良い事ではないか。
 それは、気を緩めるほどこの場所に馴染んできたという事だ。この部屋の住人になってきたという事だ。
 それを謝る筋など、これっぽっちも無い。家族になるのだから、家族の前でも気を張る必要なんか、これっぽっちも無い。
 静良は、僕を見ていた。困惑している事だけは伝わってきたのだが、何を考えてるのかは、解らない。
 そのまま、瞬きが三回出来る程度の時間が経過して、静良はカップに口をつけた。飴細工のような光沢が栄える琥珀の液体が、静良の唇を湿らす。
「……お世辞にも、美味いとは言えないな」
「貸せ、僕が飲む」
 伸ばした僕の手からカップを逃がして、
 ぎこちなかった。
 それは、確かにぎこちなくはあった。
 だが、確かに笑った。
静良は、湿った唇で逆三日月を模って、確かに笑った。

 コピ・ルアクとは。
 その身につけられた高額にそぐわず、レギュラーに指定されているコーヒーである。
 つまり、その値にそぐう身分ではないのだ。原産地では、「雑種」とも揶揄されている。

 その日、静良と交わしたカップが酷く苦い気がしたのは、きっとそのせいに違いないのさ。
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