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#2 コスモスの鍵

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 例えるなら、この世界は黒い濁流。
そこに生きる人々の、色とりどりの情念を飲み込んで、いつしか黒く濁った濁流。
そこに飲まれたくないのなら、白になれ。
だが後になって気付くはずだ―――楽なのは、黒でいることだと。

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 とはいえ、俺の方にも委員長に正義を語る資格などない。
自分ができた人間ではない、とかそんな類の言い分は論点じゃない。
理由は、もっと、根深い。
俺だって、一人の、小さな、無能な人間だ。
いや、そうありたい、というべきか。

朝登校すると、異変に気付いた。
「俺の席は」
そこに掛けてある荷物から判断できた。
「教卓の目の前かよ・・・」
成程―――。俺はクジを引くのを忘れていた。
俺は皆の座席に捧げられたスケープゴートか・・。
いじめられているのは俺のほうなんじゃないかと錯覚するが、反証可能性は十分。
今日は朝から始まっている。

バン!

「だから!」
雪村に怒号を吐きつけているのは、昨日と同様に彼女をいじめている女子、相川。
いつものことだが、そのヒステリックな叫びは、心臓に悪いので遠慮してほしい。
そんな俺の願いはあっけない。
「バレようが、あたしには関係ないっつってんじゃん!つくづく頭わるいわね!」
「で・・でも」
「先公にバレないようにだよ!答案見せるぐらい簡単でしょ!」
どうやら争点は、一時間目の英語の小テストらしい。
しかし相川。オマエは自分が頭が悪いと呼ぶ奴の答案を見せてもらうのか。
俺にとっては、オマエも雪村も五十歩百歩だ。
どちらも俺の世界にとっては、「ノイズ」なんだよ。

「入谷君」
脇目を逸らせば、委員長がいた。
「昨日は・・・ごめんね」
「・・・・」
蒸し返すような謝罪は、気休めにすら程遠い。
また律儀に姉さんのことを思い出させてくれるんだな。
「いや、俺も悪いことをいった」
「ううん」
彼女はまた俺から目を逸らしている。
「あたしは・・・無能だよ」
視線の先に雪村を据えて。
彼女の無能さを何より雄弁に物語るのは、この事態そのものだと言わんばかりに。

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 この学校の屋上から飛び降りて。

俺の姉は死んだ。
だから俺の姉の死を知る者は少なくなかった。
姉の自殺。
その事実は、今となっても俺に馴染まない。
そこにあったものがない。当然あるはずのものが、当然のごとく無い。
死とは、必ずしも一つの生体の機能停止を指すわけではない。
死が連れ去っていったのは、姉さんだけじゃない。
日常を失う恐怖は、克明に刻銘された。
俺は、一人の、小さな、無能な人間で、生ける屍だ。

廊下に出ながら、制服のポケットを探る。
今当然のごとくあるもの。それは姉さんの唯一の形見。
右手に当たる金属質の感触。
「鍵」
小さく声に出す。その存在を確かめるように。
「コスモスの鍵」
姉さんの残滓をなぞるように。
「どこを開けるのかわからない、無能な鍵」
姉さんから死ぬ前日にもらったのは、コスモスをかたどったキーホルダーのついた
鍵だった。それが鍵であるということ以上の説明を、姉さんはくれなかった。
それが形見であるという説明も。

「おっと」
向こうから歩いてきた女子とぶつかってしまった。
「すまない」
だが彼女は俺を見ていない。
見ているのは、俺がたった今床に落としてしまった、コスモスの鍵。
「すまない」
何に対して謝っているのかも自覚せずにそう告げて、鍵を拾った。
彼女の視線はゆっくりと俺に向かった。くわえていた飴玉を口から出して。
「・・・・・」
往々にして、女子に見つめられるのは、悪い気がしないことだと思っていたのだが
「・・・・・」
コイツの場合は少々状況が違うようだ。
「・・・・・」
彼女には前方から見つめられているはずなのに、嫌悪感は後ろからやってくる。
ああ、そうだ。こういうのは確か「背筋が凍る」と・・。
そしてもう一つ気付く。
「ねえ」
往々にして
「ちょっとそこ、どいてくれない?」
女子のほうが傍若無人であると。

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 屋上は風が涼しい。
姉が死んだばかりのころは、ここに足を運ぶのは気が進まなかった。
だが今となっては、一つの憩いの場所となっている。
さっきすれ違った彼女は、確か同じクラスの黒峰。
「確か」という表現は、今がまだクラス替えしたばかりの五月だということを
考慮すれば、仕方の無いこと。
黒峰もまた、他と群れるのを好まない人物だったと記憶している。
ひょっとしたら俺と似た思想を持つ奴かもしれない。
いや、群れを嫌っているというよりは、浮いた存在と形容したほうが正鵠を得ている。
さっきもそうだったが、終日飴玉をくわえているのが、彼女の特徴。
何度注意してもやめないので、教師も注意するのをやめていた。

一陣の風が吹いて、俺の髪を揺らした。
「一時間目から授業をサボるなんて」
小さくつぶやく。
「相川より素行が悪いかもな」
誰に対してでもなく、とそう意識していたが、わかっているのだ。
わかっている。屋上に来る回数が増えている理由も。
そっと鍵を取り出す。
「俺の世界には」
世界の濁流よ。
「あんたが必要なんだよ、姉さん」
俺を、黒く、染め上げてくれ。

後になって、その着色を買って出る存在が、黒峰であるということを、
一度穿たれた日常は、脆く瓦解するということを、
俺はまだ知らなかった。
運命の日はそう遠くない。それだけは、なんとなく知っていた。
2

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