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桜咲く頃に

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4、桜咲く頃に

 2006年4月、都築あさみは地元の高校に入学した。入学から1週間が過ぎ、新しい生活にも慣れてきたあさみは、既に身支度を整えてダイニングキッチンのテーブルについている。あさみは小さく折りたたんだ新聞を読みながら、朝食ができるのを待っていた。
 ぺたぺたとスリッパの音をさせて、姉の遼子もダイニングキッチンに入ってきた。あさみとは対照的にぼさぼさの頭でパジャマのままという格好をしている。

「おはよう」
「おあよー」

 遼子は間の抜けた返事をすると、あさみの向かいに座り、テーブルに突っ伏した。あさみは遼子に向けていた視線を新聞に戻した。
 ジャーッ! という音とともに、それまでダイニングキッチンに漂っていたトマトソースの香りに変わって、じゃがいもを塩こしょうで炒めるよい匂いがしてきた。誰にも言っていないが、あさみはトマトが苦手なため、今朝は気持ちが重かった。
 母は料理が冷めるのを嫌うので、食事ができる前にテーブルにつくのが都築家のルールになっている。朝に弱い遼子が寝ぼけまなこで起きてきているのもそのためだった。
 遼子は何気なしに顔を上げると、あさみの読んでいる新聞の裏側に目を向けた。

「ねー、前から思ってたんだけど、なんで新聞折りたたんで読むの?」
「え? 広げて読むとおじさんみたいだから」

 遼子の問い掛けにあさみが答えると、遼子は小馬鹿にしたような目をして軽く笑った。

「新聞読んでる時点でおっさんじゃん」
「そうかな?」
「だいたい新聞なんて面白いの?」

 答えるまでに少しの間があいた。あさみも面白いと思って新聞を読んでいる訳ではなかったからだ。

「うーん、普通」
「朝から新聞読む女子高生って変じゃない?」

 今朝はやけに絡んでくるな、と思いながらもあさみは笑顔を崩さなかった。

「前から読んでるし」
「中学生は背伸びしたい年頃だからいいの。高校生になったら新聞なんてつまんないって気づきなさい」
「たまにはお姉ちゃんも読んだら?」
「時間のムダ。そんな暇あったら寝ていたい」

 そう言って、遼子はまたテーブルに突っ伏してしまった。あさみは心の中でほっとため息をつく。あさみはこの朝食を待つ数分間が嫌いだった。今でこそ多少はましになったが、この家に来てすぐの頃は、遼子と向かい合ってお互いに話題を探す気まずい時間が憂鬱でたまらなかった。
 そんな時に思いついたのが新聞を読むことだった。新聞を読んでいればあさみの方から話しかけなくても不自然ではない。あさみにとって新聞はエレベーターの階数表示と同じで、視線のやり場でしかなかった。
 今でもあさみは新聞に興味はない。読めない漢字がなくなっただけで、一面を飾る事故現場の写真や政治家の顔に気が惹かれることはなかった。。

「おかーさーん! ごはんまだー? 今日、遅いよー」

 遼子がキッチンの母に向かって声を上げた。

「そんな大きな声出さなくても、いま持ってくわよ」

 母は大きなトレイに朝食を載せてテーブルに運んでくるところだった。あさみは慌てて読んでいた新聞をマガジンラックにしまう。そんなあさみを母はやや曇った表情で見た。
 テーブルにはカリカリに焼いたベーコンとハッシュドポテト、ポーチドエッグの乗ったコールスローサラダが並べられる。キッチンに1度戻り、母はトマトソースのリゾットを運んできた。

「わ、何これ。新作?」
「そう、この前吉田さんに教えてもらったの」
「へー、おいしそう」

 遼子は自分の前に置かれたリゾットに手をつけた。

「うん、おいしい。いけるよ、これ」
「そう? よかった。ほら、あさみも食べて食べて」

 あさみもリゾットを口に入れた。甘いトマトの香りが口いっぱいに広がり、あさみは軽い吐き気をもよおした。母の料理はどれもやさしい味がして大好きだったが、トマトだけは駄目らしかった。

「どう、美味しい?」
「うん、こういうの好き」

 あさみは笑顔で母に答えた。母は嬉しそうな顔をしてキッチンに戻ると、用の済んだ調理器具を洗い始めた。そんな母の様子から食器を洗って怒られた時の記憶が蘇える。いつまでたってもその記憶はあさみの中で小さな傷として残っていた。
 あさみは朝食を終えると、使った食器をカウンターに運んだ。

「ごちそうさまでした。行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。そこにお弁当置いてあるから」
「うん、ありがとう」

 あさみはカウンターの端にある弁当を袋に入れ、テーブルの脇に置いておいた鞄を持ってダイニングキッチンを出た。遼子はまだ2杯目のリゾットを食べているところだった。

「ちょっと、遼子。そんなにのんびりしてていいの?」
「あの子が早すぎるんだって。まだ1時間以上あるよ」
「そうなの? じゃあ、どうしてあさみはあんなに早く出てくの?」
「さあ? あたしらと顔合わせてたくないんじゃない」

 母の食器を洗う手が止まった。遼子はしまった、という顔をしてリゾットを食べ続ける。しばらくして、母は押し黙ったまま再び食器を洗い始めた。あさみが置いていった食器はまだカウンターに載ったままになっていた。


 家を出たあさみは、自転車で通ってもいいほどの距離がある通学路をのんびりと歩いていた。時間帯が早いために人通りは少なく、同じ高校に通う生徒、特にクラスメートと鉢合わせる心配もない。他人といると心が休まらないあさみにとって、通学時間は1人になれる大切な時間だった。
 空は薄い灰色の雲で覆われている。それを見て、あさみはもやもやとした気持ちになった。雨を降らせるでもなく、ただ青い空を隠しているだけの雲は中途半端で意味のない存在に思え、あさみに昔の自分を思い出させた。
 都築家に来た頃のあさみは新しい環境に戸惑いながらも、周りに認めてもらうため、努めて明るくふるまっていた。しかし母との一件があり、表面では笑顔で接している人も、本心では何を考えているのか分からないと思うようになった。あさみは周りの人間に対して次第に心を閉ざすようになっていった。
 そんなある日、登校したあさみがランドセルから教科書を出していると、4、5人の男子が教室の一角に固まって何かを話しているのが聞こえてきた。

「ええ、嘘だろ?」
「ほんとだって。俺、かーちゃんが話してるの聞いたもん」
「そんなの証拠になんねーよ」
「そうだよ、証拠見せろよ、証拠」
「ぜってー、ほんとなんだって。命かけるって、まじで」
「じゃあ、本人に聞いてこいよ。ほんとだったらできるだろ」
「よーし、わかったよ。そんかわり、ほんとだったら、おまえチンコ出して廊下走れよ」

 話していた男子の中の1人がその輪を抜けてあさみに近づいてきた。席に座っていたあさみは、自分の横で立ち止まった男子を緊張した面持ちで見上げた。その男子はそわそわと落ち着かない様子で、何度か視線をそらしながら、あさみの顔を見ていた。

「あのさあ・・・・・・」

 その男子は先程の会話の時とは比べ物にならないくらいの小さな声を出した。

「・・・・・・なに?」

 あさみは眉をひそめた。しばらく間が空いてから、その男子はさらに小さな声であさみに言った。

「お前ってアイジンの子なの?」

 あさみは全身から血の気が引いた。愛人の子。その言葉が意味するところは理解していたが、この時まであさみは自分の状況とその言葉を結びつけたことはなかった。
 あさみは俯いて机に手を置いた。その手はカタカタと小さく震えていた。あさみの脇に立った男子はそんなあさみを見て、困ったように立ち尽くしていた。

「おい、どうだったんだよ」

 しびれを切らしたのか、2人の様子を見ていた他の男子たちがあさみを囲うように集まってきた。

「・・・・・・」
「なんだ、やっぱ、嘘かよ」
「嘘じゃねえよ!」
「ええ? まじで?」
「都築ってほんとにアイジンの子なんだ!」

 アイジン、という言葉の響きにクラス中の視線が集まる。アイジンの子? そうなの? といった囁き声が断片的にあさみの耳へ入ってきた。あさみは事実を理解したショックと恥ずかしさで、堪え切れずに泣き出してしまった。
 教室にやってきた担任はそれまでのいきさつを知り、あさみを保健室に連れていった。担任は養護教諭に事情を話すと、あさみを保健室に残して教室に戻っていった。養護教諭はあさみをベッドに促すと、シャッという音を立ててカーテンを閉めた。四方を薄いカーテンで囲われた狭い空間は、外の世界と区切られているようで心地がよかった。
 次第に落ち着きを取り戻していったあさみは、本当の母親のことや、前の学校の友達のことを思い出していた。半年も経っていないのに、それは随分と昔のことに思えた。
 もう、あの時は戻ってこない。
 そう思うと、あさみは世界でたったひとりになったような気がした。そして、自分はひとりなんだと思うと、不思議に心が落ち着いていくのを感じた。

(そうか、私はひとりなんだ)

 あさみは全てのことに納得がいった気がした。

(仕方がないんだ。私はひとりで生きていくしかないんだ)

 母の死、新しい家での暮らし、そして今日のこと。急激な環境の変化に巻き込まれたあさみが最終的にたどり着いたのは、周りと距離を置き、分かり合うことを諦めることだった。
 1時間目が終わると、あさみを囃し立てた男子たちが担任に連れられて保健室にやってきた。男子たちは横一列に並び、あさみに謝った。直接、あさみに愛人の子かと聞いた男子はぼろぼろと涙を流しながら謝っていた。
 その男子たちの姿はあさみに何の感情も与えなかった。怒られたから謝っておく、ただそれだけのことだろうと思った。

「都築さん、あなたは何にも悪いことしてないんだから、胸をはって教室に戻りましょうね」

 担任があさみを元気付けるように言った。まだ若い女性教師の笑顔が、あさみにはとても気持ちの悪いものに思えた。

(・・・・・・仕方がないんだ)

 あさみは担任に向かって、引きつった笑顔を浮かべた。担任が嬉しそうな顔をしたのが分かった。こんなに簡単なものなんだとあさみは思った。



(あの後、『心配させちゃうといけないから、今日のことはお父さんやお母さんには秘密にしておこうね』って先生が言ってたっけ。素直にそうだなあって思った私、バカみたい)

 あさみは自嘲的な笑みを浮かべた。はたと我に返ったあさみは、気の重くなる思考を止めようと、あたりに人影がないのを確認してから深呼吸をした。すると、口の中に残っていたトマトの風味が飛んでいったような気がして、ほんの少し気持ちが軽くなった。
 あさみは桜並木の通りに差し掛かった。2、3日前まで満開だった桜は先を争うように、はらはらと散り始めている。散る花びらにぼんやり目をやっていると、あさみの心に1人の男子生徒の顔が思い浮かんだ。あさみは悪いことをしてしまったかのように、思わずあたりを見回した。
 入学式の朝に初めて出会ったその男子のことをあさみは何も知らない。それなのに、なぜこんなにもはっきりと彼の顔を思い出せるのかとあさみは不思議に思った。

 1週間前の入学式の朝は雨が降っていた。あさみは母の買ってくれたピンクの傘をさして家を出た。学校に着いた時、新入生はまだ誰も来ていなかった。あさみは正門を抜けて、昇降口前に備え付けられている掲示板の前に立った。掲示板は木製で、紙に印刷された新入生のクラス一覧が貼り付けられている。掲示板に庇は付いていたが、湿気を吸ってしまった紙はあちこちに皺ができていた。
 あさみは5組に自分の名前を見つけた。このまま校舎に入ろうかとも思ったが、あまりに早く着きすぎてしまったので、知った名前を探すことにした。縦に並んだ名前の一覧は、いちばん下まで読むと最初に読んだ名前を忘れてしまう。同じクラスで3年間を過ごした後、私は何人の名前を覚えていられるのだろうかとあさみは思った。
 あたりに人の気配はなく、サーッという雨の音だけがあさみを優しく包んでいる。現実から切り離された世界にいるような錯覚を覚え、あさみはそっと正門を振り返った。灰色に染まった風景の中に、たった1本だけ植えられた桜の木がぽつんと佇んでいる。そぼ降る雨の中で満開の花を咲かせている桜は霞んで消えてしまいそうに思えた。あさみはその桜を魅入られたように見つめていた。
 正門を抜ける男子生徒の姿があった。長身の逞しい身体は手にした黒い小さな傘には収まりきらずに、その広い肩を雨に濡らしている。小島将範はぬかるむ足元から顔を上げた時、消え入りそうな姿で佇んでいるあさみに気付いた。将範には、かすかに上を向いて桜を見つめているあさみが幻のように思えた。近づけば消えてしまいそうで、将範はその場を動くことができなかった。。
 あさみは人の気配を感じて、そちらにゆっくりと顔を向けた。そこにはあさみをを見つめる将範の姿があった。あさみは桜を見るように将範を見つめた。
 2人は静かにお互いを見つめあった。まるで時が止まったかのようだった。

 どれほどの間、そうしていたのだろうか。あさみは楽しげに話す2人組の女子生徒が正門を抜けてくるのに気付いた。将範から目を離した瞬間、あさみは夢から覚めたように現実感が戻ってくるのを感じた。あさみは慌てて掲示板に向き直ると、取り繕うようにして既に読み終えた名前の羅列へと目をやった。
 取り残されたように立ち尽くしていた将範は、脇を通り抜ける女子生徒の訝しげな視線に気付いて、ようやく我に返った。こちらに背を向けたあさみは大きなピンクの傘に隠れているように見える。
 将範は何事もなかったような顔をして掲示板へと向かった。あさみに一歩近づくごとに、将範の鼓動は早くなっていった。
 あさみと将範は掲示板の前で隣り合った。近くもなく、遠くもない距離。2人はお互いの気配を感じながらも、再び視線を合わせることはなかった。

「2組か」

 将範はぽつりと呟くと昇降口へと歩いていった。あさみは将範の気配がなくなるまで、繰り返しクラスメートの名前を眺めていた。



 あの時のことを思い出すたび、あさみは胸が苦しくなる。静かな雨の中で見つめ合っていたひととき。隣り合ったわずかな時間。それは1週間が過ぎた今でも、鮮明な記憶としてあさみの心に残っていた。

(彼は、あの時何を思っていたんだろう・・・?)

 あさみが他人の心に思いを巡らすのは随分と久しぶりのことだった。人が何を考えているかなど分かるはずもない。人が何を考えていようと関係ない。誰かと分かり合うことを諦めたあの日から、あさみはずっとそう思ってきた。
 桜並木を抜けると高校が目の前に見えてくる。あさみは正門を通って昇降口へと向かい、もう何も貼られていない掲示板の前で、いま入ってきた正門を振り返った。桜はだいぶ散ってしまい、所々に緑の葉をのぞかせている。あの時は刻一刻と消え去りつつあるのだとあさみは思った。
6, 5

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