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Scars(1) 20080408

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もしも、生きてきたことに意味があるのならば
ぼくは、死ぬときに感謝できるだろう
もしも、誰かに心から愛されることがあるならば
ぼくは、死ぬときに涙するだろう

誰よりきみの傷の深さを知るオレが、それを抉ってしまうことなんて出来ない。
でも、オレは誰よりきみを愛しています。
愛しています。


* * *

 小さな頃から、一緒に居た。負けん気の強い女の子と。自分はどちらかというと控えめな方で、何時も彼女に引っ張られていたような気がする。それも心地良かったと思う。
自主的に何かをするのは得意ではなかったから。
そして、彼女が好きだったから。
 好きだと言っても、友人としてだった。幼い頃だから当たり前だけど、綺麗な綺麗な感情で、彼女の傍に居たいと思っていた。
 大きくなってからは汚い感情を知った。
でも、しばらく彼女がその対象になることはなかった。

 あの日、事件が起こってから、全ては狂い出した。自我の中にやって来た、あいつと同じ位汚い感情。汚されたきみを見て、オレは、オレは穢れた。本質を得ただけなのかもしれないけれど。


* * *


「溝口ィ!おきろよー!」
「うー……藤崎……?もう朝?」

開きたくない、と嫌がる目をこじ開けると、開け放たれたカーテンが遮れなかった光で眩く歪む視界の中、寝惚けた脳が見慣れた人物を捕捉した。
彼女は藤崎真琴、幼馴染みだ。
色素の薄い白い肌に、アッシュブロンドみたいな栗色の短めボブの彼女はフランス人形みたいな容姿をしているが、勿体無いことに表情を歪ませている。
どうやらご立腹のようだ。

「朝?って、もう8時だぞ!さっさと用意しろ!!オレをいつまで待たす気だ!」

そう言って蒲団を引っぺがした。オレはうつ伏せのまま枕にしがみついている
そんなオレの背中に、藤崎がどん、と乗ってくる。結構重い。

「ぐえっ」
「歯ぁ磨いて顔洗って制服着て眼鏡かけて!!学校行くぞ!」

 今年18歳になる女子高生であるはずの藤崎は、所謂「オレ女」だった。一人称が「オレ」であるだけじゃなく、言葉遣い全般において、男子のようだった。
否、言葉遣いだけではない。
立ち居振る舞い、一挙手一投足。それらすべてから意識的に「女性性」を排除しているかのようだった。
それは彼女を襲った「事件」からのものではなく、幼いころからのものだ。
彼女は別に「性同一性障害」であるとか、そういうものでもない。彼女は自身が女性であることを知っている。その上で、女性である自分を嫌っていた。

「飯はー?」
「そんなもん食ってる暇はなーい!」
「はぁ……。わかったから、下りて藤崎。重い」
「おお、ワリ」

背中から藤崎の重みが抜ける。ようやく起きあがったオレに、藤崎がYシャツを差し出していた。オレはのろのろとパジャマを脱いで、彼女の手からシャツを受け取って羽織る。

「早く着替えろよ!」

藤崎は着替え続けるオレを残し、少し慌てた様子で部屋を後にした。

 オレの背中には、大きな傷痕が残っている。
右から左にかけて袈裟懸けに、ナイフで切られてついた傷だ。
藤崎は、それを見たくないのだと思う。いやな出来事の産物を。

 藤崎にも、傷痕が残っている。外に見えることの無い、大きな傷跡。
他人には絶対に見せることの無い傷痕。オレだけが知るもの。
そして、それはオレの背中のそれより遥かに大きくて深くて、
藤崎は一生それを忘れることは無いだろう。

「遅い!!」

しかめっ面をした藤崎は手を腰に当ててふんぞり返っていた。

「ごめんごめん。先に行ってても良かったのに」
「せっかくオレが待ってやってたのに、何て言い草だ!この幼馴染み不幸者め」
「いやに長い名詞だな」

思ったままのツッコミを入れると、藤崎の笑いのツボに入ったのか、彼女は一瞬だけその整った顔を破顔させた。
彼女のその笑顔は紛れもなく女性になりかけている少女のもので、その綺麗な表情に目を奪われてしまう。
彼女はそれに気がついたのか、笑顔を一瞬で引っ込め、右手でオレの背中をたたいて準備を促した。

「いいから早く顔洗え!」
「ヘイ、親分」

こんな会話も日常茶飯事だ。二人で漫才のような会話を交わしていると、母親がキッチンから顔を出した。

「ごめんなさいね、マコちゃん。いっつも透の世話させちゃって」
「馴れてますから」

藤崎がおどけた調子で右手を振りながら母に返す。世話と来たかと思いながらオレは歯を磨いている。歯磨き粉がもうすぐ切れそうだと母に言いたいものの、雑談を続けている二人の間に割り込むこともできず、少ない研磨剤で口の中に泡を作ろうとがんばっていた。

 確かに昔からオレと藤崎は一緒に居た。幼稚園時代くらいからの付き合いになる。
藤崎の家はオレの家の隣の隣にある。まさしくご近所、紛うことなき幼馴染みだ。
小さい頃は藤崎の方が背が高く、オレは痩せ細った小さなガキだった。苛められやすそうな子どもだったと思うが、オレは苛められることは無かった。
藤崎が居たからだ。
 藤崎は幼い頃からガキ大将で、人の反感を買いそうな子供だったが、その笑顔は無敵で、ひとたびそれを向けられると、従わせてしまう強さがあった。
我が侭な子供だったと思うが、控えめ(笑)なオレと一緒に居ることでそれが少しは緩和されていたのかもしれない。
 いつのまにかオレは「女子」の藤崎の背を軽く抜かし、今は20㎝ほども差が開いてしまった。藤崎もそれほど小さくはない。168cmほどある彼女は、女性としては十分長身だろうが、オレはその上の世界に住んでいる。
188cmあれば、スポーツ選手としては申し分無い背丈だ。中学時代は藤崎同様バスケをしていたが、自分に背丈以上のものを感じないために辞めた。
 その後、藤崎もバスケを辞めていた。女子の集団行動に耐え切れなくなったと彼女は言った。本当かどうか聞いたことは無いし、聞く必要も無いと思っていた。

「おい溝口、まだか?」
「先行ってていいって」
「ダメ!!」

相変わらず押しの強い藤崎に、押しの弱いオレ。情けないことこの上ない。


『とおる、お前のオモチャとオレの、交換しよ?』
『えー?やだよ。まことのヤツ壊れてるじゃん』

『いーじゃんお前一杯持ってるんだから。いいよな?』
『……もう。一個だけだからな』

 こんな記憶ばっかりだ。割に憎めない。藤崎の境遇を知っていたし、藤崎の笑顔が好きだった。
 藤崎の家には父親がいない。
藤崎の母親はクラブを経営していて、男をとっかえひっかえ家に連れて来ていたらしい。だから、藤崎はよくオレの家にいた。
そして、藤崎の母親の存在は、藤崎が自身の女性性を否定する一端を担っていることはほぼ間違いないだろう。
オレの境遇は遥かに恵まれていて、藤崎は何時もオレが羨ましかったのだろう。
幼い頃でも少々の我が侭は聞けた。というか、承諾した記憶しか無い。
藤崎も限度はわかっていたのかもしれない。
愛されない子供だったから、大したことの無い我が侭しか知らなかったのだろう。
藤崎は、何時もは傍若無人に振舞ってはいるが、心の底では嫌われることを嫌がっているのだ。
……まあ、嫌われても痛くない人間には全く容赦が無いが。
 藤崎の母親は藤崎を放ったらかしにしていた。
オレは、よくわかってはいなかったが藤崎の母親は苦手だった。何時だったか藤崎の母の藤崎に対するあまりに杜撰な態度を見て、オレは藤崎のそばにいようと決めた。
絶対にオレは藤崎を見捨てないと。ませたガキだ。

「お待たせ」
「よっし、行くぞ!」
「おう」

オレの返事に、藤崎は笑んだ。それは、隠し切れない、愛らしい微笑み。彼女が自身をどう思おうと、今ある彼女全てを否定することはできない。
 高校までは徒歩で20分弱。お互い最初はチャリだったのが、オレのチャリが盗まれ、次に藤崎のチャリが盗まれた。二回ほど盗まれたところで懲りたオレたちは、それから学校までを徒歩で通っている。
 小学校の近くを、低学年の子と思しき二人が走っていく。たいしたことでもないのだろうに、二人は楽しそうに大きな声で笑っていた。
ふと思い出したように藤崎が言う。

「そーいやさー、昔お前のこと透って呼んでたよな」
「オレは真琴って呼んでたな」

小さいころは、お互いのことを名前で呼び合っていた。それはもう染み付くくらい何度も何度も名前で呼んだし、呼ばれていた。
それが、高校生の今、呼ぶ声のトーンは変わらないのに、呼び方は変わっていた。

「……何時から苗字呼びになったっけ」
「中学くらいかな。皆周りが苗字で呼んでて、オレたちだけ名前呼びじゃ恥ずかしいなって」

きっかけは往々にして些細なことだ。だけど、中学生くらいの年頃は、皆からはみ出してしまうことを異常に恐れてしまう。

「そんなこともあったなー。
 どーでもいいようなことだけど、子供の頃って気になるんだよな」
「そうだな」

 人間ってのは本当に、下らないことで苛めたり出来る。それは無邪気からのこともあるし、悪意があることだって勿論ある。
悪意というものを人にぶつけてみたくなるのだろう。
傷ついた人を見てどういう反応を起こすかが問題なのだ。
人を傷つけることに悦が入ってしまうともうどうしようもない。人の痛みなんて言葉を聞かせたって無意味だ。
その人の立場になって、とかそんなことを言っても、そんなもん、なれるわけないんだから。
人の中にある道徳や倫理が、皆同じモノで出来ているとは限らない。

「透」

ふっと藤崎が呼ぶ。藤崎を向いた俺に、彼女は少し苦い表情をした。

「馴れないなー。ずっとこうやって呼んでたはずなのに」

 懐かしい音、藤崎は覚えていないかもしれない。あのときも、藤崎はオレのことを「透」と呼んでいた。
すっかり呼び方が苗字に変わっていたはずなのに、あのとき藤崎はオレのことをしきりに「透」と呼んでいた。
 覚えていないかもしれない。それでも、引っ掛かる何かに、なっているのかもしれない。

「オレは、絶対にお前を裏切らない」

藤崎に聞こえないように呟いた。
少しずつオレを蝕んでいく狂気に、藤崎はまだ気付かない。


きみが穢れていると知ったあの日から、オレはどんどん堕ちていきます。
底の見えない深遠へと。
真っ暗闇の深淵へと。

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