No.14/泥と雨/あう
木が私をよけている。
一瞬そう思ったが、泥の中へ足がぐちゃりぐちゃりと何度も行き来しているのを見て、自分が走っているということに気付いた。
同時に、体が重いと思った。自分の着ている白シャツが馬鹿みたいに濡れそぼって、素肌が透けていた。足は素足で、絡み付いてくる泥がなお体を重くしていた。だのに、私は走っていた。
森を走るにはセンスがいる――とか何とか、誰が言ったか知らないがともかく、私は森を走るどころか歩くことも経験がない。
けれど私は、走っていた。森を斬るように。
私にこんな運動能力があったなんて。万年文芸部だったから、分からなかったわ。
そう自分の隠れた才能に自惚れかけたとき、足に限界がきた。
足がもつれて。
腕を付いて。
泥の中へダイブ。
ずぷっ。泥の不快な柔らかさに体を預ける。
もう少し無心で、走っていることにすら気付かないくらい無心で走っていられたなら、まだ走れたかも。
電波がなかった携帯電話をもう一度見てみようとポケットを探るけど、どこかに落としてきたらしく、見つからなかった。
絶望は感じない。
あと少しで、逃げ切れ、たのに。
いいや、と思った。逃げ切れるはずなんかなかった。いつだってそうだ。あいつは私を捕まえる。あいつから逃れられるはずがない。
分かっていたことだった。
ぐちゃりと後ろで泥を踏む音。
「もう鬼ごっこはおしまいか」
あいつの声。私はびくりと跳ねた。
好きな人がいるのよ。そう私は言った。
けれど本当は、好きな人なんかいない。兎に角、こいつから逃れたい一心でそう言った。
酸素がない金魚みたいに、くちをパクパクしてるみたいな。
息苦しさに耐えられなくて。
さながらすぐに死んでしまう夏祭りの屋台のかわいそうな金魚。
生まれたときから運命は決まっている。飼われる運命。
対抗して逃げてはみても――こいつは追ってきた。
どこまで私が走ろうと。
「追いがいがない犬だなあ」
「なん…で追う…のよ」
「なに言ってる。お前が逃げるからだろう?」
ひたり、そんな冷たい音が頬を軽く叩いた。
ナイフだった。
「好きだよ未央子…俺の可愛い妹」
兄の爛々とした瞳に目をひん剥いた自分がうつっていた。
その私の目からは、何かが止めどなく流れ落ちていた。
先程からやんわりと降り続く、雨かもしれない。雨だと、いいと思った。
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終幕