No.04/腐った林檎は飴にもならない/石曳七子
鈍い痛みと、体の震えで目が覚めた。窓は遠く、カーテンから漏れる日の光は届かない。
青白くなった顔をあげると、鉄の棒の隙間から高い天井が見える。
「これは何だ……?」
檻の中にいることは明白だというのに、御堂は気分を落ち着かせようと煙草を探す。――ポケットがない。裸だった。首を絞めつけられているような違和感に手をやると、滑らかな皮の感触があった。首輪を繋ぐ鎖は、檻の外にまで続いている。
「目が覚めたんですね」
聞き覚えのある声と共に足音が近づいてくる。
「どうです? 犬になった気分は」
細い銀縁フレームの眼鏡の奥で、冷たい目が光っていた。目の前にいるこの人物を御堂はよく知っていた。
「マ…コト……?」
記憶に残っていた名前を呼ぶと、その人物は唇を歪めるようにして笑い、檻の鍵を開けた。
「嬉しいな。私のことを覚えていてくれたんですね」
マコトは鎖を乱暴に引き、御堂を檻の中から強引に引き摺り出した。
マコトは以前、御堂の同僚だった。
人事異動で同じ課になり一目見た瞬間から、人形のように静謐な横顔が昼も夜も頭から離れなくなった。それが、向こうから夕食に誘われた時は夢かと思った。御堂は妻子がありながらもマコトと不倫していた。不倫もはじめのうちこそ楽しかったが、次第に狂気を帯びるマコトの愛情表現に恐怖を感じるようになった。30分毎にメールが届き、妻と友達になったマコトは家にまでやってくる。仕事にも支障が出るようになった。
何より、マコトの行動が加虐的になっていくのが恐ろしかった。
“御堂さんを私の犬にしたいな。そうすれば、いつも一緒に居られる。御堂さんをもう家に帰さなくても良いんだ”
ある日、マコトが社員食堂で言った台詞に御堂は戦慄した。
“悪い冗談はやめろ……。それに、声が大きいぞ”
近くには数人の新入社員達が固まって雑談していたので、気が気でなかった。
“私は誰に聞かれても構いませんよ。御堂さんが私の物だって、皆にも知って貰いたいし…”
背筋が凍る思いがした。こいつは危険だ。いずれ、家庭も社会的立場も滅茶苦茶にされるだろう。そうなってからでは後の祭りだ――。御堂は逃げるように退職し、引っ越した。
それが3年前のことだった。
「興信所に頼んで、ようやく見つけましたよ。それにしても、3年は長かった……」
マコトは、まるで犬にするように、御堂の喉をするりと撫でた。
「何でもする。許してくれ」
御堂の声は掠れていた。マコトは首から手を離し、額にかかる前髪を神経質そうに掃う。端正な顔は先ほどから無表情で、一切感情が読めない。
「良いことを考えました。今から奥さんに電話してもらいましょう。御堂さんは私のものだということをハッキリさせてください」
マコトは言うなり部屋を出た。数分後、戻ってくると手には御堂の携帯電話があった。
留守であってくれという願いも空しく、数コールの後に妻の不安げな声が聞こえた。
『あなた……?どうしたの、連絡もよこさないで外泊なんて』
タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、……
「言ってください。『僕は立花マコトを愛しています。だからもう家には帰らない』、と」
耳孔に舌が潜り込んでくる。御堂の背中には先程から冷たいものが押しつけられていた。皮膚が切れたのか、じりじりと痛んだ。
御堂は観念した。ナイフの前で愛など無力だった。
「……僕は、立花マコトさんを愛しています。家にはもう帰れません」
薄暗い部屋の中、啜り泣きが響いた。電話口の向こうから聞こえる妻の声に、動揺が走る。
『……何を言ってるのあなた…、だって、
だって、立花さんは、男よ……?』