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「愛してる」

ちょっと洒落た、都会のビジネスホテルの一室。そこに、私達はいた。
窓から見える夜景は綺麗で、私の心は弾んだ。
そして夜景も霞む程の喜びを与えてくれるのは、彼が隣にいて、私に愛の言葉をくれる事。

「うん…私も、愛してるよ」

もう何度も交わされたやりとり。
最初の内ははずかしくて仕方なかったこの言葉も、今では習慣の様になっている。
強化ガラスにうっすらと映る、重なった人影。制服を着た女子高生と、一人の男性。
この二人が一緒に歩くのを見ても、恋人同士だと思う人はまずいないだろう。
親子か、もしくは時代錯誤な援助交際か…
なぜなら、男は45を過ぎ、頭の薄くなった、どこにでもいる様な”オヤジ”なのだから。

  ***

私と彼が出会ったのは、七ヶ月ほど前の話になる。
特に予定もなかったので、一人で駅をぶらぶらしていたら、突然の大雨にあった。
しばらく雨宿りをしていたものの、一向に止む気配が無いので、駅構内にあるコンビニでビニール傘を買いに向かうと、
時既に遅し、ビニール傘は目の前で最後の一本が売れてしまった。

「あー…ちっくしょう」

思わず声を出して落胆する私に、最後の一本の傘を買った人物が近づいてきた。
雨に濡れたスーツに禿げ上がった頭、薄くて短い眉に少したっぷりとした腹。
どこからどう見てもその辺にいるおっちゃん。私は彼に敵意を抱いていた。
大した理由は無い。けれど、女子高生にとってオヤジとはそれだけで軽蔑するに値する対象なのだ。
オヤジと言う言葉で連想するものなんて、援交にセクハラ、痴漢に変質者、そんなものばかりだった。
それにコイツは目の前で私が買う筈だった最後の一本の傘を買っていったのだ、これで敵意を持たない訳がない!

「あの」
「なんですか?」

オヤジの言葉を遮る様に、刺々しい声で目も合わせずにそう答える。サッサとどっか行けバーカ。

「良かったら、これ、どうぞ」

そう言ってオヤジは買ったばかりの傘を差しだした。想定の範囲内。

「結構です。」
「でも、もう傘残ってないでしょ」
「結構です。」
「いや、俺はタクシーで帰るから…」

しつこい。
どうせ恩を売って女子高生と親しくなろうって魂胆なんだろ。バレバレだっつーの。
以前にも、似た様な出来事があった。
私がうっかりバッグの中身をぶちまけてしまった時、助けてくれたオヤジがいた。
私は親切で助けてくれたんだとばかり思って、笑顔でお礼を言ったら、返ってきた言葉は、
「5万でどう?」だった。私はそのオヤジの右頬をひっぱたき、無言で走り去った。

その時の事を思いだし、言いようのない不快感が込み上げてきた。目の前のオヤジに対しても、
もしかしたら本当に親切心でやってるだけかもしれないけど、それは私の怒りを加速させる事にしかならなかった。

「この雨、当分止まないと思うし…」
「結構です、っつってんでしょ!?
あのね、親切も行き過ぎると迷惑にしかならないっての知ってますか!?
こっちが断ってんのにいつまでも食い下がって…
私はどこの誰だかも知らないオヤジが触った傘使うなんてまっぴらなんです、
そんな事するくらいなら濡れて帰ります、えぇそうしますよ。はい、さようなら。」

さすがにこれは言い過ぎたかな…と思ったけど、これくらい言わないと諦めてくれそうにない。
大体、お互い名前も住所も知らない他人同士なんだし、
もう会う事もないだろうから、これでいいだろう。
言った分には引き下がれない。
私はオヤジに背を向けてどしゃぶりの雨の中に飛び出していった。
この雨じゃ買ったばかりのピンクの鞄は当分使えなくなるだろう。
ちくしょう、何もかもあのオヤジのせいだ。

駅からわずかばかり遠ざかった所で、ふと、あのオヤジはどうしただろう…なんて思って、
後ろを振り返って、私は心臓が飛び出そうになった。
そこにいたのは、まぎれもなくあの、オヤジ。
傘もささずに、ずぶぬれになりながらきょとんとした目で、こっちを見ている。

「な…なんでついてきてるんですか…」
「いやーあのね」
「けっ警察呼びますよ!?ほんとに本気ですからっ!」

私は内心かなりビビっていた。本気でやばい人だったらどうしよう、さっきあんな暴言はいちゃったし、
私今この場で刺されるかもしれない、どうしようどうしよう。
しかし、彼は、そんな私の不安を馬鹿馬鹿しくさせる一言を放った。

「警察かー。それもいいねぇ。二人ともパトカーに乗れたら、濡れずに済むもんね。」
「は…?」

彼の冗談とも本気ともつかないその一言で、空気がガラリといっぺんした。
私のさっきまでの恐怖やイライラはスーッと溶けてしまった。
呑気な彼に呆れる反面、あんなひどい事を言った自分が、なんだか申し訳なくなってきた。

「あの、なんで、ささないんですか。」
「え、刺す?何を?」
「いや…そうじゃなくて…傘…」
「あぁ、傘ね」
「ずぶぬれじゃないですか。」
「それは君も同じだろう。」
「私はいいんですよ、傘持ってないから。貴方は持ってるじゃないですか。」
「いや、でも…」
「でも?」
「自分より若いそれも女の子がずぶぬれになって歩いて帰ってるのに、
俺みたいなおっさんが傘さしたりタクシーで帰ったりしたら、
なんかこう情けないじゃないか。」
「はぁ…?」

空いた口がふさがらない。何を大まじめに言ってるんだ、この人は。

「は、はぁ。それは結構な心掛けで…でも、じゃあどうしてついてくるんですか?」
「いや、ついてきてるっていうか…俺の家もこっちの方向なんだよね。」
「え?嘘はつかないで下さいよ。じゃあどこに住んでるんですか?」
「みどり町。」
「え」

この頃には、私の警戒心も和らいでいた。
さっきの非礼を詫びる意味もあって、普通に接しようという気持ちになっていた。
だからか、気づけば私は、さっきまでの自分からは考えられない一言を言っていた。

「じゃあ、私と方向一緒ですね。…途中まで、ご一緒しますか?」
「え?あぁ、うん。でも、こんなおじさんと一緒に歩くの嫌じゃないのかい?」
「嫌でした。さっきまでは。でもなんだか貴方面白いので。」
「はぁ…、君、変わってるね。」
「貴方もです。ってか、貴方なんて名前ですか?いつまでも貴方って呼びにくいので。」
「俺?鈴木秀夫。」
「そうですか。私は飯塚ミコって言います。よろしく…って言っても、会うのは今日限りでしょうけど。」

こうして、私達は知り合った。

私の予想は外れて、彼とはその日以来、駅でちょくちょく会い、世間話をする様になった。
雨の日はよく一緒に帰った。彼のどこかボケた、いや、穏和な人柄が、
一緒にいると心地良く感じられる様になるのに、そう時間はかからなかった。

彼はいつも笑っている。
不機嫌な私が八つ当たりしようと、通りすがりの男達にいちゃもんつけられようと、
いつも笑って奇妙な空気で相手の気持ちを落ち着かせてしまう、不思議な男だった。
普通の人が聞いたら馬鹿馬鹿しい、と笑う様な事を、彼は大真面目に話したり、
それで馬鹿にされると嬉しそうに笑ったりする。
喜んじゃ駄目だよ、馬鹿にされてるんだよ、と私が教えても、
それもいいねなんて言ってころころ笑っている。
悩みを打ち明けたり、一緒に笑ったり、一方的に怒って喧嘩したりする内に、
彼はいつしか、私にとって必要な存在になっていた。

彼と知り合って3ヶ月がたとうという時、私は彼に告白した。

「あの、鈴木さん、ちょっといいですか」
「ん、どうしたの。かしこまって。」
「鈴木さんって、独身…?」
「………うん。奥さんはいたけどね、2年前に死別しちゃった。」
「…そうだったんですか…、ごめんなさい、なんか、無神経に聞いて」
「いや、気にしないで、気にされちゃうと俺が辛いから」

そう言って笑う彼は、いつもより少し寂しげだった。
その横顔を見た瞬間、私の中の抑えていた感情が爆発した。
彼が、欲しい。

「好きです」
「え」
「好きです」
「え、ごめん、何」
「好きなんです、私。鈴木さんの事が。」

結果から言うと、私の告白は見事に玉砕した。
彼は、ミコちゃんはお父さんいないって言ってたよね、
それで俺に父親を重ねてるんじゃないかな、
とか、こんなおじさんと一時の気の迷いで付き合ったら、絶対後悔するよ、
とか、そんな台詞を並べ立て、決して私の告白に頷いてくれなかった。

それでも私は諦めなかった。

こんなにも誰かを求めた事は、初めてだった。
いままで、適当に付き合い、適当に別れてを繰り返して、恋愛なんてこんなものだ、と
17にして恋を悟ったつもりでいた、馬鹿な自分。
そんな自分がここまで捨て身になって、誰かを欲した事自体、自分自身驚きだった。
私は一ヶ月、彼に会う度に好きです、と言い続けた。

「ミコちゃん、久しぶり」
「久しぶりですね、鈴木さん、好きです、付き合って下さい」
「ミコちゃん、それは…」
「好きです」
「だからね…俺なんかと」
「好きです」
「ミコちゃん、」
「好きです。好きなんです。私、好きなんです、鈴木さんの事。本当に好きなんです。」

そうした期間を通して、私が告白してから丁度一ヶ月目、彼はようやくOKをくれた。
根負けしたのか、本気が伝わったのか、そんなのもうどっちでも良かった。
私の心の中は既に彼で埋め尽くされ、
彼以外なにもいらない、なんて昼ドラみたいな台詞でも、易々と言える様になっていたのだから。

***

「愛してる」

彼は、私といる時いつもこの台詞を言う。

「うん、私も愛してるよ。」

だから私も、いつもどおりこうして返す。
二人の間でいつのまにか決まった事。それでも、その一つ一つに、愛しさを感じずにいられない。
彼といると、いつも苦しい。幸せが胸の上の方まで込み上げてきて、息が出来ない様な苦しさを覚える。
けどその苦しみはいつも幸せに繋がっていて、幸せすぎて怖い、とか、幸せで眩暈がしそう、
なんてありがちな台詞に、私は狂おしい程共感してしまうのだった。

目が覚める。静かな朝の空気。
視界に違和感。あぁ、そうだ…昨日、このビジネスホテルに泊まったんだった。

彼とのデートは、ビジネスホテルが多い。理由は、お互い言わずとも理解っていた。
人目につく様な、普通のカップルだったら堂々とデートできる様な場所には、私達はいられない。
親子のフリでもすれば話は別だけど、どうして恋人同士でそんな真似をしなくてはならないのか。
好きで、お互い想い合って付き合っているのに、周りは決してそうは見てくれないだろう。
彼は、同じ学校の子にデートを目撃されて、私に変な噂がたたないかどうかをとても気にしている。
だから私達は、二人っきりでいられて、何者にも邪魔されず、
周りの視線を気にする心配もないビジネスホテルでデートする。

一回、私がラブホテルに誘った事もあった。
けそ、彼は決してラブホテルへは行かない。
というか、彼は決して私を抱かない。
愛しい人から求められる事は、私にとっては全然嫌じゃない。むしろ私自身、そう望んでいる節もある。
けど、いくらそう言っても、彼は決して私を抱かなかった。
私の事好きじゃないの!?なんて、男と女が逆になった様なやりとりをした事もあった。それでも、だ。
泣きじゃくる私に、彼はいつまでもいつまでも、愛してる、とだけ呟き続けた。
泣き疲れて眠った私を、彼はずっと見守っていてくれた。
本当は抱きしめていて貰いたかったけど、彼なりに我慢というか、信念があるのだろう。そう、納得した。
私は子供で、彼の私を見つめる優しい眼差しに気づかなかった。
求め合う行為なんてなくとも、充分に気持ちは通じていたのに。

隣のベッドで眠る彼を見る。
どうお世辞を言おうと、格好良くはないし、普通のサラリーマンだ、お金だって無い。
けれどこれ以上ないくらい、私にとってはかけがえのない男性だ。

「愛してる、うん、愛してるよ」

眠る彼を横目に、そう、呟いた。

***

今日は月曜日。
いつもどおり支度をし、学校へ向かう。
昨日のお泊まりデートの事を思い出すと、自然と頬がゆるむ。
大した事はしてない、くだらない世間話をして、会話のタネがつきたら、お互い愛してると言い合っていただけだ。
それでも、その時の一挙一動を思い出すたびに、私の心は震えて、足は自然にリズムを刻む。
まだ月曜日だ、次会えるのはいつだろう、今日の夜、電話してみようかな。
そんな事を考えながら、意気揚々と教室の扉を開けた。

「―――」

…何、これ。

水を打った様に静まりかえる教室、級友達の、困惑した様な軽蔑した様な私を見る目。
私と目が合うと、皆すぐに視線を逸らす。異様な雰囲気に、汗がつーっと流れた。

「…おはよう」

仲良しグループの3人に挨拶する。
3人は、お互いに目配せして、それから無理な作り笑顔で小さくおはよ、と返した。
違和感。違和感。違和感。
とまらない汗、さぁっと引いていく血の気。
私が皆に知られて困る事なんてひとつしかない。

そう、―彼の存在。

***

予感は的中し、私は職員室に呼び出された。

「見た奴がいるんだよ。中年の男とホテルから出てきた所。」
「飯塚さんは、少し派手だけど良い娘だと思ってたのに…」
「どうしてそんな事をしたんだ、話してみろ、話せばきっと過ちだったってわかる。」
「今時なぁ、援助交際なんて…いいか、わかってるのか、これは犯罪なんだぞ?」

何を言っても、理解して貰えなかった。
私と彼は愛し合ってるという事、私は彼から現金なんて勿論、プレゼントさえ受け取っていなかった。
やましい事なんて何もない。

「好きなんです。彼が。どうしてなんですか、いけない事なんですか?」

涙が、流れた。
一度流れるととまらなくて、どんどん流れた。
先生達の視線は、汚い物を見る目。私の事を、ひどく軽蔑していた。

教室に戻ると、男子のヤジが聞こえてきた。

「すっげーな、援助とか、実際にやる奴初めて見た。」
「ってか、キモくないのかね?いくら金貰えるったって、オヤジだろ相手。」
「いくら貰ったんだろ、ちょっと聞いてみるか?」

そんな声を無視して、黙って席につくと、今度は仲良しグループの3人が駆けつけてきた。

「ねぇミコ、本当なの?」
「ミコ、何かの間違いだよね?ってか、信じない、ミコがそんな事する訳ない。」

3人の内2人は、そんな事を言いながらうっすら涙を浮かべていた。
ひどく、心が痛んだ。
私、そんな、悪い事したの…?

「私は、彼が好きで一緒にいたの。…それだけ。何も悪い事してない…」

そう、遺言の様に呟いた。
その場が静まりかえる。困惑しながら、泣き始める2人。
そして、もう一人の友達が口を開いた。

「ミコ、私は、理解ってるからね。」

私は、その一言に顔を上げた。
理解してくれてる人がいる、そうだ、私は何も恥ずかしい事はしていない。
感激に、涙が込み上げてくる。その子は私と一番仲の良かった子だった。
あぁ、やっぱり、この子なら私の事を、まぎれもなく恋だった事を認めてくれる。

「ミコ、お父さんいないでしょ。重ねちゃったんだよね、その人に、お父さんを。
 それを錯覚しちゃったんだよ。恋だって。
 ね、一緒に先生に謝ろ?私もついてくから。」

………。

すぅっと、気持ちが冷めていった。
感激の涙も、どこかへいった。
そう、これが現実。
私達の恋を見る周りの目の、現実。
ねぇ、私達は何なの?
汚いものの様に見られて、軽蔑されて、泣かれて、馬鹿にされて。
恋してただけ。ただ、恋してただけなのに。
どうしてこんなに、私達は疎外されなきゃいけないの?

***

彼は、会社をクビになった。
正確には、地方の支社へ”転勤”する事になった。
私と同学年の子の親が、彼と同じ会社で働いていて、上司の耳に入ったらしい。
私は電話で、何度も泣いて謝った。
彼の会社に直談判する、とも言った。
けど彼はあの寂しい笑い声で、ミコが気に病む事は何もない、仕方なかったんだ、
としか言わなかった。そして、決して私と会ってはくれなかった。

電話じゃ納得できない、ちゃんと会って話したい。
私は何度もそう言った。だけど彼は、
会えない、もう会っちゃいけない、と、そう答えた。
私は泣きながら物に八つ当たりし、好きなのに、好きなのに、どうして、と、
そんな事ばかり喚き散らした。彼は、一言も口を挟まず、黙って聞いてくれていた。

会えない内に、想いは募るばかりで、私はずっと学校を休んだ。
携帯が鳴る度に、彼からじゃないかと思い、落胆する。
耐えきれなくなって夜に彼に電話をかける、会いたいまでに駅でずっと待っていた事もある。
それでも現状は何も変わらなかった。

妹に「エンコー女。」となじられた。
親に「もう貴方は信じられない」と泣かれた。
それでも私の心は彼の事しか考えられなかった。
彼に逢いたい、逢って抱きしめて貰いたい、またあの安っぽいビジネスホテルで、コーヒーを飲みながら、
夜景を見ながら、愛してるよ、って。ねぇ、そう言ってよ。

***

そうして何日が過ぎただろう。
携帯に彼から、一件の伝言があった。
「今日、5時の新幹線で地方に発ちます。今までありがとう。本当にありがとう。」
私は家を飛び出していた。
寝起きで、髪の毛もボサボサで、トレーナーにジーンズというあまりにラフな格好。
それでもそんな事気にしていられなかった。
間に合って、お願いだから間に合って。

新幹線のホーム。
そこに、彼はいた。
真っ黒なコートを着て、前会った時より少しだけ白髪の増えた頭で。

「…逢いたかった」

私はそう呟いた。言いたい事は山程あったのに。
引きとめなくちゃ、謝らなくちゃ、泣きわめいてでも行かないで、って言わなくちゃ、
そう、しなくちゃいけないのに、何も言葉にならなかった。
代わりに涙だけが涙腺が壊れたかの様に流れた。
気づくと、彼も泣いていた。
いつも笑っている彼が泣いていた。
7ヶ月の間、彼と一緒にいて、泣いている彼を見たのは初めてだった。

「鈴木さん」

「好きです」

私は泣いた。
彼も泣いた。

「鈴木さん、愛してます」

そう、必死に呟いた。
声が震えていた。付き合っている間、毎日の様に言っていた言葉だったのに。
こんなに重く、苦しいのは初めてだった。

「ミコ」

名前を呼ばれる。あぁ、愛しい、この人の声。
もっと呼んで。
一生でもいい。私の事をずっと呼び続けて。ねぇ、離れないでいてよ。

「僕は…」

「愛してない。」

―――。

私の涙が止まった。
いつも、いつも、貴方の「愛してる」から始まって、私の「愛してる」で終わる、二人の約束が初めて破られた。
彼は、私を、愛してない。
そう、言ったのだ。

「鈴木さん…?」
「もう一度言う。ミコ、俺は君を愛してない。」

それでも私は愛しています。貴方を。

「そうですか、鈴木さん、やっぱり私も貴方の事、愛してないです。」

そう言って私は笑って彼を見た。頬の筋肉がひきつっているのがわかった。
彼を目に捉えた瞬間、とまっていた涙が再びあふれ出すのがわかった。
それでも必死に笑って、そう言った。

ホームに響くアナウンス。ほどなくして新幹線が到着した。
彼はその瞬間、両手をだして、私を抱き寄せようとした。
けど、その手は、私の目の前、何もない空中でとまり、そして彼は、静かに両腕を下ろした。

「さようなら、飯塚さん。最後に会えてよかった。」
「こっちこそです」

―――。
彼は何か言葉を発した。けどそれは周りの喧騒にかき消されて音にならなかった。
けれど、私には、幸せになってほしい、そう、聞こえた。

「ごめんね」

彼はそう言って、新幹線に乗り込もうとした。
私は泣きながら、彼の後ろ姿を見た。愛しい人の後ろ姿を。

「なんで謝るんですか」
「ごめん」
「私は幸せでした、鈴木さんはそうじゃなかったんですか」
「ごめん…」
「私達のした事、間違ってたんですか」
「…」
「ねぇ。これは、私達は、」
プルルルルル。
「恋だったんですか…」

最後の言葉が、彼に聞こえたかはわからない。
でも、彼は最後の瞬間、わずかに振り返った。
ドアが閉まる。新幹線は無情に遠ざかっていった。
ねぇ、これは恋だったんですか?


新幹線は、もう見えない。
涙は、とまらない。
彼の笑顔、彼の優しい眼差し、彼の信念、彼の口ずさむ歌、彼の言葉、彼の発する”愛してる”…
全てに置き去りにされた私は、これからどう生きていけばいい?

ねぇ、誰か教えて。
これは、恋だったんですか?
愛だったんですか?
それとも、皆が言う様に、
勘違いだった?
錯覚だった?
過ちだった?
悪い事だった?

あぁ…そうか…

愛って、罪だ。

ホームに取り残された私。
座り込むと、地面がひんやりと冷たい。
伝う涙が、地面に模様を作った。

(END)







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